グー版・迷子の古事記

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秦氏③仲哀天皇

2013年10月06日 | 古事記
前回秦氏②「避」の最後で仲哀天皇とキーワード「虫」を提起しました。
ではまず仲哀天皇とはどの様な天皇だったのでしょう

  《仲哀天皇》

古事記の記述によると
「タラシナカツヒコノミコト(仲哀天皇)は、後の長門である穴門(アナド)の豊浦(下関長府豊浦町)に宮殿を造り、また筑紫の香椎である可志比に宮殿を作って、そこで天下を治めた。」

第13代成務天皇までは、関西一円にあった王都がいきなり本州の端下関そして九州北部筑紫の香椎に飛んでしまいます。
かなり怪しいですね

また名前のタラシナカツヒコは、「タラシ」「ヒコ」が尊称と考えられるため、名前の核心は「ナカツ」となりますが、「ナカツ」は抽象名詞であり固有名詞として考えられない。
上の様な事から仲哀天皇の存在を否定する考え方もあります。

仲哀天皇の宮殿があった筑紫の香椎に面する港は昔、那の津(ナノツ)と呼ばれ香椎の近くには中洲(ナカス)と言う地名もあります。
私は「ナカツ」は香椎周辺一帯の地名なのではないかと思います。
そしてこの一帯は魏志倭人伝で言う所の奴国(ナノクニ)なのです。

「ナカツ」が実際にあった地名だとしても、まだ怪しさは拭い去れません。
仲哀天皇の出自はどうなのでしょう?

      「は~めんどくさいですね」
      「神様の話題ではないし、もうやめたら?」
      「それがどうやら、スクナヒコナの正体が見えそうなんですよ」
      「じゃあ、勝手にすれば」
      「…」

面倒くさくなってきたので、ざっくりと説明してみます

この当時、九州北部を支配していた奴国(なのくに)の人達の一部は、敦賀から琵琶湖を経て山城周辺まで移住していたと考えられます。
そして山城を含む関西北部は、大和と奴国の人達が混在し同化が進み始めていました。

ヤマトタケル(倭建命)
 母…播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
 播磨の地は、スクナヒコナとツヌガアラヒトが播磨風土記に出てくることからも、
 朝鮮系や奴国の人達が多数居住していたと考えられる。
 秦河勝が政争を避けて逃げたところも播磨。
 熊襲征伐は、奴国の力を借りた事が考えられる。

仲哀天皇…ヤマトタケルの子。
 ∟母…布多遅能伊理毘売
  ∟父…垂仁天皇
   母…弟苅羽田刀弁。山城之大国之淵の娘。山城は奴国の人達の居住地。
     
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)…仲哀天皇の后。
 父…息長宿禰王 滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。米原は琵琶湖周辺。
     ∟母…丹波之遠津臣の女・高材比売(たかきひめ)、丹波は関西北部。
 母…天之日矛の後裔・葛城之高額比売。朝鮮系の姫。

后・息長帯比売命は、父母共に関西北部と縁があり、また母系は朝鮮系でもあります。
息長帯比売命が、奴国に行ったとしてもなんら不思議は無いのです。

そしてこの奴国の指導的立場にあったのが、殖産・海上交易を生業としていた秦氏です。
奴国の人達は、朝鮮南部から壱岐・津島・九州北部を主要活動範囲としていたことからも分かるように、当時最先端の移動手段である海上交通に長けていました。
関西と九州で距離はかなり離れているように感じますが、息長帯比売命が移動するのになんら問題は無いのです。

(メモ)
日撫神社…少彦名命 應神天皇 息長宿禰

熊襲(クマソ)…「ソ」は「服」を意味します。クマソはきっと熊の毛皮を着た人じゃないかな。
きっと熊の着ぐるみを着たおじさんです
荒ぶる神・熊を倒してその着ぐるみを着た恐ろしい人達を、ヤマトタケルが倒した。
古事記はここの所を、伝えたかったのだと思います。

うまく説明できず長々となってしまいました
疲れたので続きはまた今度