グー版・迷子の古事記

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秦氏②「避」

2013年10月05日 | 古事記
      「古事記や神様の話からどんどん離れていくけど大丈夫かな?」
      「いいんじゃね、誰も読んでないし」
      「…」

秦氏を調べていると、彼らには世代を渡る一貫した信念と言うものがあるように感じられます。
「避」「虫」
彼らの行動は全て、この二つの文字に起因しているのではないだろうか。

自らの始祖とする秦の始皇帝は、野望に燃え一代で中国を統一しますが、その栄華は始皇帝の存命中のみでした。

始皇帝は不死の薬として水銀を飲み死期を早め行幸中に死亡します。
その死は側近の宦官趙高と丞相李斯によって秘され、始皇帝の血族者は次々と殺害されてしまいます。
不死の薬とされた水銀も、毒と知りながら側近が与えた物かもしれません。

ここに出てくる宦官の趙高は、平家物語で出てくることでも有名です。
平家物語では、天下を私した謀臣として真っ先にその名前が出てきます。

祇園舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね

この事に気がついて私は身震いを感じました
秦の国を奪い取った趙高の名前が、平家物語では悪臣の先頭に記されているのです。

私は元々国語が大嫌いだったのですが、平家物語の言葉の美しさに学生時代思わず暗記してしまいました。
こんな所で役に立つとは…

平家物語は作者不詳ですが、「もしかしたら秦氏の縁者が作成に関わっていたのかもしれない」と思いました

平家物語は盲目の僧侶たちによって語り継がれます。
そして僧侶と言えば、お寺に住んでいます。
京都には神社仏閣が腐る程ありますが、京都の地は元々秦氏の勢力圏で平安京遷都の際にも秦氏の財力が使われていました。
平安京の造営責任者・藤原種継の母親は秦氏だったのです。
京都にある神社仏閣のほとんどは秦氏の財力による物と言っても過言ではないかもしれません。

当時京都における仏教界の指導的立場であったであろう比叡山は、秦氏とその婿殿である賀茂氏により祭られていた大山咋神(オオヤマクイノカミ)の山なのです。
比叡山は京都の北東・鬼門にあり、王城鎮護の山と言われ中世には武装化していきます。
天皇も手出しできないアンタッチャブルとなっていく山門です。

ちなみに比叡山は京都の北東・鬼門の地ですが、京都の南西・裏鬼門にも大山咋神(オオヤマクイノカミ)はもう一つの姿・ホノイカヅチ(火雷神)として乙訓神社(現在は向日神社に合祀)で祭られています。

寺は元々、家督を相続できない皇族を含む良家の師弟の受け皿となっていたと思われます。
その寺を掌握していたであろう秦氏は、皇族や良家から人質を取っているようなものかもしれません。
そういう意識は無かったかもしれませんが、この事からも秦氏がどれ程影響力を持っていたか計り知る事が出来そうです。

そうそしてこの寺の僧侶達が、平家物語を語っていたのです。
平家物語の作者が秦氏の縁者ともし関係あるならば、秦氏の趙高への恨みがどれ程のものだったか、「心も詞(ことば)も及ばれね」です

始皇帝を祖と称する彼らは、その盛者必滅を身をもって体験し、頂点に上り栄華を極めるという事が如何に空しい物であるか実感し子々孫々に伝えてきたのではないでしょうか。
また趙高への恨みから政治の表舞台に立つ事にも抵抗を抱いていたのかもしれません。

頂点である天皇とその周辺で度々起こる政争に巻き込まれないよう、秦一族は身分が低くとも安全な所で一族の繁栄を図っていく。
それを象徴するのが「避」なのです。

前回秦氏(はたし)で少し紹介した大避神社とその由来をみても「避」の意味するところが、秦氏一族全体の総意なのでしょう。

そしてもう一つ秦氏が祭った「避」の社があります。

大酒神社(おおさけじんじゃ)…京都市左京区太秦

祭神 秦始皇帝 弓月王 秦酒公

由来
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六 年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝 の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。 これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
 后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(三 七二年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人 統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王 の孫酒公は、秦氏諸族を率てを養い、呉服漢織に依って 絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積し て山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で 酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。
(大酒神社案内板)

こちらの大酒神社は大避神社(播磨)よりも古く、仲哀天皇の御世に由来すると言う事です。
ここに出てくる仲哀天皇が「避」に次ぐもう一つのキーワード「虫」に関係してきます。

続くかも