経済危機のルーツ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか
野口 悠紀雄【著】
東洋経済新報社 (2010/04/22 出版)
序章 なぜ歴史を振り返るのか
第1章 現代世界経済の枠組みが1970年代に作られた
第2章 経済思想と経済体制が1980年代に大転換した
第3章 ITと金融が1990年代に世界を変えた
第4章 1990年代はアメリカとイギリスの大繁栄時代
第5章 未曾有のバブルとその崩壊:2000年代
終章 日本が停滞を打破するためになすべきこと
もっと良いタイトルがあったのではないかという気がする。
内容は極めて示唆に富むし、1970年代以降の経済の変遷のエッセンスをわかりやすく整理したもので、子どもに勧めたほど。
面白い記述を見つけた。
「とにかくすごい秀才が現れたので米国留学のための奨学金を出すことに決めた」
などという経緯があり、著者は日本地域開発センターの奨学金をもらって米国に留学した由。
それはさておき、
ああ、また本質をズバリと。
"小泉改革とは、自民党内部の権力闘争だった。
道路族と郵政族を追い落として、田中角栄の遺産の清算を図ることが目的だ。
小泉改革とは政治的なものであり、経済的なものではなかったことに注意が必要だ。
したがって、「改革」が叫ばれはしたものの、それは政治的なスローガンにすぎず、実際には古い経済体制が温存されたのである。"
「指桑罵槐」(しそうばかい)を思い出してしまった。
あたかも、経済的な改革を目指しましょうと呼びかけているように思わせて、じつは政治闘争そのもの。
ふむ、本家の中国はそんなこと百も承知なので、「あんたの本質はわかってるよ」と言われてしまう、かも。
なので、会って突っ込んだ話をする場面になるべくならないよう、相手が会いたくないように仕向けた(!)。
これが靖国参拝にこだわった背景…なんてね(笑)。
ロナルド・レーガンのユーモアについて。
Reagan Assassination Attempt
なんと、30年前か!
退院後の議会演説なども (医師団との会話のくだり40秒頃)
ラリー・キングに語る
Ronald Reagan speaking about assassination attempt
モンデールとのテレビ討論
Reagan-Mondale debate: the age issue
南面堂のミーハー的じまんシリーズ:モンデール元副大統領と握手をしたことがある件。
なに、ミネソタ選出のモンデール氏が駐日大使時代に、さる小規模な会合に客寄せパンダとしてご登場になり、参加者(南面堂は代理だったのだがw)全員と握手・・・というだけのこと。
ちなみに、著者の野口教授は、修士課程のUCLAの卒業証書の「レーガン州知事」のサインや、ゴルバチョフが2007年来日の折にパネルディスカッションで討論した際にもらったサイン(ミスター野口の宛名入り)などを著書に織り込む茶目っけを見せているな。
オクトーバーサプライズ(October surprise)
本質には関係ないが、編集者がもう少ししっかりチェックして差し上げるべきだろうと思う、つまらない勘違い(に違いないと思われる個所)が・・。
(現在売られている版は修正済み?なのかもしれない)
大先生の玉稿を疑うなんてめっそうもない…とチェックを放棄すべきではない。
週刊誌の掲載時に見逃したとしても、単行本にまとめる際には修正すべきだろう。
1)著者が1968年に初めて渡米したときからの、旅客機の変遷と寄航地の記述(ハワイ経由が、次は直行便になる等)~それ自体は航空交通の進歩を体現していて興味深く、説得力があるのだが。
著者よりも少し前に渡米した人たちはプロペラ機の旅だったので、グアム、サイパン、ハワイ等々と何度も寄航した云々というくだりが変。
グアムとサイパンは近所なので、両方に順次寄航することはあり得ないし、大体、日米航路では方角が違わない?
ご本人が当該ルートで旅されたわけではないので、うろ覚えで書かれたものと推測されるが、正解はウェーク島(昔はウェーキ島といったような気もする)。
羽田~サンフランシスコ路線の寄航地JAL【 50年間の歩み 】より:
その後、1953年には政府の半額出資を受け、1954年2月には羽田からウェーク島・ホノルルを経由して、サンフランシスコに初の国際線を就航致しました。
羽田空港 ~ ホノルル空港(ハワイ)~ サンフランシスコ空港
"JALは1958年(昭和33年)2月から東京~サンフランシスコ線に就航させ、従来のDC-6Bのようにウェーク島での給油のための着陸が不要となり、太平洋横断の実飛行時間は冬19時間、夏21時間とおよそ4時間半短縮したそうです。
ただし、11月頃からの冬にかけては、東行きに限ってで、西行きについては偏西風の影響もあり、やはり、ウェーク島経由でのフライトスケジュールになっていました。"
そうですか。詳細にどうも。
ウェイポイントまで明記。さすが。
グアムに寄るのは、マニラ~SF路線ではないかしらん?
Pan Am Across the Pacific
(これは戦前の飛行艇時代だが)
San Francisco - Honolulu: 2,390 miles
Honolulu - Midway: 1,380 miles
Midway - Wake: 1,260 miles
Wake - Guam: 1,560 miles
Guam - Manila: 1,610 miles
そういえば、戦後早い時期(1949年=占領中)の空路渡米の話を読んだっけ。
PAA便で空路渡米された池田徳眞氏(戦争中、「日の丸アワー」放送の監督・運営)の場合、ある元俘虜が積極的に利敵行為に参加したとの嫌疑により訴追されたため、ニューヨークの法廷での証言を求められる。
DC-4で羽田~ウェーク島~ホノルル、ボーイングのストラトクルーザーに乗り換えてホノルル~サンフランシスコ~どこだっけ(タルサ?)~NYね。
世界各地から呼び出された元俘虜らと同窓会しちゃうミスターイケダ。
「日の丸アワー」その3止 戦後、訴追された元俘虜の裁判の証人として米国に召喚された著者は出演者と再会
ついでに前段。
『日の丸アワ- 対米謀略放送物語』 (池田徳真 1979年)「捕虜が毎日生放送」の大胆 その1
「日の丸アワー」その2 「協力を拒みたる者は、その生命は保証せず」と言ったのに出演拒否かよ!事件
後記:週刊誌掲載の湯川れい子女史の回顧談によると、1964年にハワイを訪問された際は、羽田―グアム―ウェーキ島経由だった由。
2)ゴルバチョフがソ連共産党書記長に54歳で就任したのは、クリントンを除く歴代アメリカ大統領のだれよりも若かったとの記載が奇妙。
ん?ケネディ(1917年5月29日生)を忘れてない?
大統領在任は、1961年1月20日 - 1963年11月22ね。
これは単純に、頭の中ではケネディと思っていて、手がクリントンと打ち込んでしまったものと推測。
クリントンは、当時は州知事の2期目。
3)リーマンショックを受けて与謝野馨経財相(当時)が、「日本経済への影響は、蚊に刺されたようなもの」と語ったとの記述が、記憶の窯変か。
蜂がいつのまにか蚊になっちゃうのか。
猛毒だった蜂の一刺し-後手に回った経済・雇用対策ー
南面堂は、「アナフィラキシーということもあるので、蜂だってやばいんだぞ」と騒いでいたのでね、蚊じゃない。
それにしても、哀れなチェルネンコ。
年表にも、アンドロポフ死去、ゴルバチョフ就任の記載があるが、間を繋いだチェルネンコは名前も記載してもらえない。
野口 悠紀雄【著】
東洋経済新報社 (2010/04/22 出版)
序章 なぜ歴史を振り返るのか
第1章 現代世界経済の枠組みが1970年代に作られた
第2章 経済思想と経済体制が1980年代に大転換した
第3章 ITと金融が1990年代に世界を変えた
第4章 1990年代はアメリカとイギリスの大繁栄時代
第5章 未曾有のバブルとその崩壊:2000年代
終章 日本が停滞を打破するためになすべきこと
もっと良いタイトルがあったのではないかという気がする。
内容は極めて示唆に富むし、1970年代以降の経済の変遷のエッセンスをわかりやすく整理したもので、子どもに勧めたほど。
面白い記述を見つけた。
「とにかくすごい秀才が現れたので米国留学のための奨学金を出すことに決めた」
などという経緯があり、著者は日本地域開発センターの奨学金をもらって米国に留学した由。
それはさておき、
ああ、また本質をズバリと。
"小泉改革とは、自民党内部の権力闘争だった。
道路族と郵政族を追い落として、田中角栄の遺産の清算を図ることが目的だ。
小泉改革とは政治的なものであり、経済的なものではなかったことに注意が必要だ。
したがって、「改革」が叫ばれはしたものの、それは政治的なスローガンにすぎず、実際には古い経済体制が温存されたのである。"
「指桑罵槐」(しそうばかい)を思い出してしまった。
あたかも、経済的な改革を目指しましょうと呼びかけているように思わせて、じつは政治闘争そのもの。
ふむ、本家の中国はそんなこと百も承知なので、「あんたの本質はわかってるよ」と言われてしまう、かも。
なので、会って突っ込んだ話をする場面になるべくならないよう、相手が会いたくないように仕向けた(!)。
これが靖国参拝にこだわった背景…なんてね(笑)。
ロナルド・レーガンのユーモアについて。
Reagan Assassination Attempt
なんと、30年前か!
退院後の議会演説なども (医師団との会話のくだり40秒頃)
ラリー・キングに語る
Ronald Reagan speaking about assassination attempt
モンデールとのテレビ討論
Reagan-Mondale debate: the age issue
南面堂のミーハー的じまんシリーズ:モンデール元副大統領と握手をしたことがある件。
なに、ミネソタ選出のモンデール氏が駐日大使時代に、さる小規模な会合に客寄せパンダとしてご登場になり、参加者(南面堂は代理だったのだがw)全員と握手・・・というだけのこと。
ちなみに、著者の野口教授は、修士課程のUCLAの卒業証書の「レーガン州知事」のサインや、ゴルバチョフが2007年来日の折にパネルディスカッションで討論した際にもらったサイン(ミスター野口の宛名入り)などを著書に織り込む茶目っけを見せているな。
オクトーバーサプライズ(October surprise)
本質には関係ないが、編集者がもう少ししっかりチェックして差し上げるべきだろうと思う、つまらない勘違い(に違いないと思われる個所)が・・。
(現在売られている版は修正済み?なのかもしれない)
大先生の玉稿を疑うなんてめっそうもない…とチェックを放棄すべきではない。
週刊誌の掲載時に見逃したとしても、単行本にまとめる際には修正すべきだろう。
1)著者が1968年に初めて渡米したときからの、旅客機の変遷と寄航地の記述(ハワイ経由が、次は直行便になる等)~それ自体は航空交通の進歩を体現していて興味深く、説得力があるのだが。
著者よりも少し前に渡米した人たちはプロペラ機の旅だったので、グアム、サイパン、ハワイ等々と何度も寄航した云々というくだりが変。
グアムとサイパンは近所なので、両方に順次寄航することはあり得ないし、大体、日米航路では方角が違わない?
ご本人が当該ルートで旅されたわけではないので、うろ覚えで書かれたものと推測されるが、正解はウェーク島(昔はウェーキ島といったような気もする)。
羽田~サンフランシスコ路線の寄航地JAL【 50年間の歩み 】より:
その後、1953年には政府の半額出資を受け、1954年2月には羽田からウェーク島・ホノルルを経由して、サンフランシスコに初の国際線を就航致しました。
羽田空港 ~ ホノルル空港(ハワイ)~ サンフランシスコ空港
"JALは1958年(昭和33年)2月から東京~サンフランシスコ線に就航させ、従来のDC-6Bのようにウェーク島での給油のための着陸が不要となり、太平洋横断の実飛行時間は冬19時間、夏21時間とおよそ4時間半短縮したそうです。
ただし、11月頃からの冬にかけては、東行きに限ってで、西行きについては偏西風の影響もあり、やはり、ウェーク島経由でのフライトスケジュールになっていました。"
そうですか。詳細にどうも。
ウェイポイントまで明記。さすが。
グアムに寄るのは、マニラ~SF路線ではないかしらん?
Pan Am Across the Pacific
(これは戦前の飛行艇時代だが)
San Francisco - Honolulu: 2,390 miles
Honolulu - Midway: 1,380 miles
Midway - Wake: 1,260 miles
Wake - Guam: 1,560 miles
Guam - Manila: 1,610 miles
そういえば、戦後早い時期(1949年=占領中)の空路渡米の話を読んだっけ。
PAA便で空路渡米された池田徳眞氏(戦争中、「日の丸アワー」放送の監督・運営)の場合、ある元俘虜が積極的に利敵行為に参加したとの嫌疑により訴追されたため、ニューヨークの法廷での証言を求められる。
DC-4で羽田~ウェーク島~ホノルル、ボーイングのストラトクルーザーに乗り換えてホノルル~サンフランシスコ~どこだっけ(タルサ?)~NYね。
世界各地から呼び出された元俘虜らと同窓会しちゃうミスターイケダ。
「日の丸アワー」その3止 戦後、訴追された元俘虜の裁判の証人として米国に召喚された著者は出演者と再会
ついでに前段。
『日の丸アワ- 対米謀略放送物語』 (池田徳真 1979年)「捕虜が毎日生放送」の大胆 その1
「日の丸アワー」その2 「協力を拒みたる者は、その生命は保証せず」と言ったのに出演拒否かよ!事件
後記:週刊誌掲載の湯川れい子女史の回顧談によると、1964年にハワイを訪問された際は、羽田―グアム―ウェーキ島経由だった由。
2)ゴルバチョフがソ連共産党書記長に54歳で就任したのは、クリントンを除く歴代アメリカ大統領のだれよりも若かったとの記載が奇妙。
ん?ケネディ(1917年5月29日生)を忘れてない?
大統領在任は、1961年1月20日 - 1963年11月22ね。
これは単純に、頭の中ではケネディと思っていて、手がクリントンと打ち込んでしまったものと推測。
クリントンは、当時は州知事の2期目。
3)リーマンショックを受けて与謝野馨経財相(当時)が、「日本経済への影響は、蚊に刺されたようなもの」と語ったとの記述が、記憶の窯変か。
蜂がいつのまにか蚊になっちゃうのか。
猛毒だった蜂の一刺し-後手に回った経済・雇用対策ー
南面堂は、「アナフィラキシーということもあるので、蜂だってやばいんだぞ」と騒いでいたのでね、蚊じゃない。
それにしても、哀れなチェルネンコ。
年表にも、アンドロポフ死去、ゴルバチョフ就任の記載があるが、間を繋いだチェルネンコは名前も記載してもらえない。