真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『日の丸アワ- 対米謀略放送物語』 (池田徳真 1979年)「捕虜が毎日生放送」の大胆 その1

2010-02-16 | 読書-歴史
『プロパガンダ戦史』とあわせて、対外プロパガンダの理論と実践、になるな。
これは実践編。ずいぶんギリギリの線でドタバタしました、戦後35年たったので書けること(1979年刊)、という大変貴重な記録。

中公新書
『日の丸アワ- ― 対米謀略放送物語』
池田徳真
中央公論新社 (1979/07 出版)

東京ローズも日の丸アワーもごっちゃに理解している向きがあると思われるので、整理:
カズンスのニュース解説放送…昭和17年4月から19年6月ごろまで。
ゼロアワー放送……昭和18年3月から20年8月14日まで。
日の丸アワー……昭和18年12月から20年8月14日まで(途中、“ヒューマニティ・コールズ”と変名される)。

本書は、日の丸アワーの準備・企画・実行に携わった殿様の子孫による貴重な記録。
日の丸アワー

俘慮に番組の司会をさせ、放送原稿も俘慮に書かせる 「日の丸アワー」 当然、色々な問題も出てくるワケで……

本が古すぎて、web上に目次が見当たらないため、やむなく記録のために記載。
(珍しいこと。それだけ高く評価しているのです)

第1章 対敵謀略宣伝の秘密本部
 元捕虜ウィリアムズとの再会 俘虜による三つの謀略宣伝放送 俘虜を選ぶ 参謀本部駿河台分室 企画部の活動
第2章 俘虜による対米放送
 俘虜の収容 日の丸アワー放送 ウィリアムズの放送拒否事件 放送部の充実 俘虜たちの横顔 俘虜の生活
第3章 宣伝弾丸作成の苦心
 論法と事実の作成 反戦劇の放送 劇『旅路の終り』 劇『死者を葬れ』 放送事前監査室
第4章 俘虜収容所と戦犯裁判
 九州俘虜収容所旅行 駿河台分室にもどる 戦後の横浜戦犯裁判 由利中尉、福原大尉の絞首刑 その他の判決 GHQからの呼び出し
第5章 ニューヨークのプロボー裁判
 証人としてアメリカへ 囚人との秘密会話 FBI通い グランド・ジュリー フィリピン戦犯裁判 プロボーの第一審 無罪の結末
あとがき

某wikiの記載には誤りが多いぞ。
本書を読んでいない者の執筆によると思われる。

伝言ゲームの末端?
原典に当たれ、原点に。

"旧陸軍参謀本部駿河台分室(文化学院を接収)に収容のアメリカ軍捕虜による大本営発表やラジオ劇が放送された。後には大森捕虜収容所の捕虜も放送に参加した。"(wiki)

⇒(以下は、南面堂がこう読みとった、または、読んでこういう感想を持った、ということね。文字どおりそう書いてあるかどうか示してみろといわれても、リンダこまっちゃう…)

大本営発表を英訳したという記述は見られなかった。俘虜に指示して書かせた原稿は(対外プロパガンダ理論に沿って)注意深く慎重に事前チェックしたという趣旨の記述があった。

出演する俘虜の候補は、経歴等を吟味して全国の収容所から一旦東京俘虜収容所(大森にあった)に集められており(奴らはなぜ労働をしなくてよいのだろう?と不審に思う他の収容者もあり)、池田らが面接したうえで恒石参謀と「八百屋でナスかトマトでも選ぶように」さくさくと選抜決定し、駿河台分室に移動。

放送の際には内幸町のJOAKまで通う(NHKと称するのは昭和21年3月から)。
日本時間午後1時から30分間の生放送。

"放送の中で、アメリカ軍の兵士は時として符牒やヒントをおりまぜ、その結果として、捕虜施設のある御茶ノ水駅界隈が空襲を免れたりした。"(wiki)

⇒符牒などを織り交ぜたりすることを警戒し、放送中は実務責任者が常に副調整室で中止スイッチに手をかけていたとの記載あり。
チェック側のチェック力強化のために、池田氏らは暗号の講習も受ける。

一度、ニュース解説を読んでいた俘虜が、汪兆銘政権の南京政府=「南京ガバメント」と書いてあった原稿を、「南京ムーブメント」と読み間違えたことがあり、一瞬だったためにそのまま放送に出てしまう。
蒋介石の重慶政府に対抗するものとして日本が応援する南京政府を、「ムーブメント」でははなはだ都合が悪い。

誤読した俘虜は、罰として2食抜き。
「俘虜には平時のような人権などないのだから」と。

出演する俘虜が外部とメモ等をやり取りするのに特に注意するように言われ、注意しているとスタッフの中の日系二世の娘2名が特定の俘虜に紙きれを渡している!
~じつは若くて長身、美男子の俘虜にラブレターを渡していたのでした、というオチなのだが、「ラブレターを装った秘密メモ」ではなかった?考え過ぎ?

それと、だいたい、俘虜収容所の位置は、赤十字を通じて通告していた筈。特殊任務のための駿河台分室まで通知していたかどうかの記載はないが、米側にとっても日本の考えを知る貴重な窓口であり、日米共に保護する強い理由あり。
(周囲には技術研究所と称して内密に)

戦後、プロヴォ裁判の証人として召喚された著者は、日の丸アワーの全放送を大文字なしのベタうちでタイプしたトランスクリプトを見せられ、そのすべてに関して自分たちが放送したものかどうかの確認を求められる。

その場でバチバチ打っていける早業女史を揃えていたのね。
裁判の証拠として有効であるかどうか、1枚1枚確認しろというわけ。

米側は駿河台分室の存在を承知しており、爆撃の際に避けるよう航空地図に明示されていたとの記載。
終戦の際、俘虜が近隣住民から危害を加えられないかと懸念したものの、分室のおかげで空襲から免れたのだから、感謝こそすれ怨む筋合いないことに気付いたとの記載あり。町会の方に感謝された由。

ドラマになったのは知らなかった:月曜ドラマスペシャル 終戦50年特別企画 「こちら捕虜放送局」
1995/8/14 (月)21:00-22:54 TBS

見たかった/どうせがっかりさせるようなもの?
さてどっち?

軍側の責任者、恒石重嗣少佐(20年3月に中佐)
出典: 軍人データベース 『サクラタロウ DB (Purunus DB)』.


代りにこちらを:NPO法人インテリジェンス研究所 第11回諜報研究会(平成27年7月11日)
山本 武利(NPO法人インテリジェンス研究所理事長:一橋大学名誉教授 早稲田大学名誉教授)
       『陸軍中野学校の対外謀略ラジオ』(―<史資料解読連続講座(7)>
恒石重嗣は1940年陸軍大学を卒業し、在満第12師団参謀を経て、1941年11月から第8課の宣伝担当となった。終戦時まで参謀本部部員(宣伝担当主任)兼報道部員であった
「当日配布資料」参照

著書があった!
心理作戦の回想―大東亜戦争秘録 (1978年)(-). 著 恒石 重嗣

その他憲兵たちは、中野学校出身者。

~その2に続く

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