真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

向田邦子ベスト・エッセイ ~「3月の東京大空襲」で辛くも焼失を免れた話はホント?2/2

2021-11-28 | 読書-エッセイ/小説etc
(前日向田邦子ベスト・エッセイ ~「3月の東京大空襲」で辛くも焼失を免れた話はホント?1/2 -の続き)
向田邦子さんは、
8月に没後40年、11月28日に生誕92年~1929年(昭和4年)11月28日 - 1981年(昭和56年)8月22日。
●「3月10日の東京大空襲」では、中目黒か下目黒かはあるが、そのあたりは被災したのだったっけ?
●では、中目黒または下目黒は、いつの空襲で被災したのか?
を確認するところから。

東京都目黒区ホームページから
歴史を訪ねて 目黒の戦災
~「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集

「終戦までに空襲で3割を焼失した(なにしろ区内面積の約30パーセントが空襲の被害を受け、辺り一面、焼け野原)」ということなのだが、
「しかし当初は、目黒区は比較的被害が少なく、東京の約4割を灰燼に帰せしめた昭和20年3月10日の大空襲にも、ことなきを得ていた。だが、やがて4月15日以降、さらに数次の空襲により、ついに区内の一部に被害を受け、多くの家屋が焼失し、死者までも生ずるにいたった。」という。
「3月の空襲では区内に被害はなく、死者も出ていません。4月以降に死者を含むかなりの被害が出ました」という意味だろう。

4月15日夜から16日未明までのB29約200機の焼夷弾による波状攻撃で、唐ケ崎町・鷹番町・中目黒2から4丁目・上目黒5丁目・自由ケ丘・原町・洗足・月光町・碑文谷3丁目・緑ケ丘地区では、死傷者76名、全焼家屋2,348戸、罹災者1万1,000名という被害を受けた。」

「さらに、5月24日、B29約250機が、東京の西部方面に侵入、約2時間にわたり波状じゅうたん爆撃を行い、焼夷弾投下によって広範囲な火災が発生・・・このときの被災地区は、上目黒・中目黒・下目黒・清水町・鷹番町・三谷町・唐ケ崎町・向原町・月光町・東町であり、月光原・油面の国民学校は全焼、区役所の一部も焼失し、死傷者608名、全焼家屋9,200戸、罹災者3万4,600名であった。」

「ついで翌5月25日夜の空襲で残存していた東京市街の大部分が焼失。このときは、鷹番町・芳窪町・三谷町・柿ノ木坂・駒場町・上目黒・下目黒に被害を受け、死傷者539名、全焼家屋5,087戸に及んだ。」

ということであり、目黒区史の記述が正しければ、中目黒4丁目あたりは、「3月10日は被害なし(区内全域無被害)、4月15日夜から16日未明、または5月24日に被災した」。
下目黒だとすると、(4月の被災地域に町名が不記載であることから)5月24日または25日に被災の可能性が高いと考えられよう。

向田女史によると、3月10日、向田家の隣の外科医院には重症者も運び込まれており、死者も出ていた筈だという。
「すぐ目と鼻のそば屋が焼夷弾の直撃で、一瞬にして燃え上がった。」という。
もしそうだとしたら、区は、「(3月10日は)ことなきを得ていた」と目黒区史に書かないだろう。

※目黒区掲示の地図(目黒戦災焼失地域図(目黒区史より))は、最終的な被害地域全部ではなく、ある時点までのものである模様。
この図では「3割を焼失」に到底達していない。
むしろ、下記米軍調べ(1947年、パブリックドメイン)に目黒区の区域を重ねて表示したものを作ればわかりやすいと考えられる。

東京大空襲 - Wikipedia
2 空襲の経過
 2.4 その後の東京都への空襲
4 空襲の一覧
が参照に値する。

さてここで、米軍側の資料も(Wikipedia引用元):
Operation Meetinghouse Archives - This Day in Aviation
9–10 March 1945: Operation Meetinghouse
中ほどの地図参照:
Target Assessment Map, Tokyo Metropolis. The areas burned on the night of 9–10 March 1945 are shown in black.
(United States Strategic Bombing Survey)~←内田 百閒のエッセイ集のタイトルにもなってるヤツ、(戦略)爆撃調査団

3月9-10日の焼夷弾攻撃の被災地域は地図で黒塗り~山手線の東側(つまり下町)が目標。
一部、そうでない箇所への投弾もあるが、目黒区がある山手線の西側(山の手地域)への被害は記録されていない。
~爆撃隊は9日出発、10日午前零時過ぎに本隊の投弾開始(日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された)なので、日本では「3月10日」とされている。
Sky Giants over Japan: A Diary of a B-29 Combat Crew in WWII
を著したChester Marshall氏(同作戦では7千フィートでの超低空進入を指示された)によると、9日午後6時半(連隊への指示時刻なので、先頭の機かな)離陸、10日午前10時着陸だったそうな。

⇒目黒区史記述と米軍の記録(戦後の調査)から、
4月13-15日または5月23-25日で被災したのが向田家があったという中目黒(下目黒)~祐天寺界隈ではないか?

米側作成の被災地域の地図とて、必ずしも正確とは言い切れないかもしれないものの、指示された地域(先発した先導機が事前に焼夷弾で炎の壁を形成して目標区域を指示)の手前で(西側から進入)早まって投弾してしまったとみられるケースもきちんと表示してある。
ゆえに、「祐天寺近辺にも投弾したが、戦後の調査でもそれは伏せておく」べき事情はない。

向田邦子さんによると、向田家の近所の多くの家が焼けたように書かれており、もし3月10日の焼夷弾攻撃で被弾して火災が起きていたならば、事後の調査で漏れる規模ではないだろう。
「空襲の方も、ヤケッパチの最後の昼餐の次の日から、B29は東京よりも中小都市を狙いはじめ、危ないところで命拾いをした形になった。」(「ごはん」)を、3月10日の出来事だと主張することは、残されている公的資料の客観的記述と明らかに矛盾する。
4月または5月、特に5月25日あたりの出来事ではないか(その場合、「都内への空襲が一巡したので目標が中小都市に移行した」云々と整合)。

結局:
向田邦子さんが、
①「大空襲といえば3月10日」と思い込んでそのように書いてしまい、どこからも特に異議が出なかったために、以後、そのまま3月10日と各エッセイに書き続けた、
または
②放送作家は、話をドラマチックに仕立ててナンボの商売なので(偏見ですよ、ハイ)、
「実は4月か5月の空襲の時の話だったが、10万人の死者が出た有名な3月10日の出来事だと書いちゃった」
~妹さんの作文課題を先生受けするように巧みに勝手代筆していた少女時代のまま?
ご本人・ご家族が大変な目に遭われたイベントなので、日にちを間違えるなど考えられないと思うのが普通なのだが、諸資料との矛盾はどう解釈すればよいのだろ。
(②の可能性が高いと思うなど)
4月及び5月の複数の空襲の際の出来事を、「3月10日の晩」とひとまとめにしてインパクト強化を図った可能性もあるかな。

「ごはん」の初出は『銀座百点』昭和52年4月号(連載エッセイをまとめた『父の詫び状』に収録)だという。
その当時から、「3月10日東京大空襲」の名前は人口に膾炙し始めていたかもしれないが、「山の手空襲」はさほどでもなかったのではないか。
「3月10日東京大空襲」を扱った本は何百点、何千点あるものか詳らかでないが、「山の手空襲」を扱った本(あるの?)などとは比べ物にならないのは確かだろう。
ここはひとつ、3月の、より被害者数が大規模で凄惨な事件の方(だということ)にしよう、と作家が考えたとしても、非難すべきものではないのだろう。
今では妹さん(和子さん)までその補強に努めてくれているのだから。

弟さんのエッセイ集も昔出ているようなので、それも読んでみたい。
放送作家は、視聴者にチャンネルを変えられてしまってはオシマイなので、観る人々の関心を逸らさないように引き付けておくためには、多少の脚色潤色は普通だったのではないかいな。
向田邦子さんは、事実に囚われない柔軟な発想で数多くの印象的なエッセイを遺してくれていたのだった。

弟さんや妹さんたちも、もし長姉が事実とちょっと違うことを書いて人々にウケていると知った場合、わざわざそれを指摘してもメリットないし、黙って放っておくか、話を合わせてしまうのが最善との判断なのでは?
和子さんによる本書の編者あとがきにも、「それは昭和二十年三月十日、東京大空襲の一瞬の出来事。」だとして、空襲で避難する際に見た大八車上のお婆さんの背中が、戦争の記憶で最も印象深いと邦子姉と語り合った件の思い出が語られる。
=積極的に3月10日の出来事だと補強してるじゃん!

なお、「ミーティングハウス2号作戦」=下町大空襲は、日本では「3月10日の夜」と記載されることが多いが、「9日から10日にかけて行われたもので、投弾開始が午前零時過ぎなので(日本側から見れば)10日」である。

「三月十日。
 その日、私は昼間、蒲田に住んでいた級友に誘われて潮干狩りに行っている。」(「ごはん」)
などと書いてしまうと、邦子嬢が潮干狩りに行った(ちなみに1945/3/9の月齢は25かな)のが10日としか読めないが、それでは1日違ってしまう。
「それは、三月十日の東京大空襲の晩であった。」(「麗子の足」)も、「10日の晩」としか読み取れないが、じつは「9日の晩(10日未明)」なのだった。

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