真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

「日の丸アワー」その2 「協力を拒みたる者は、その生命は保証せず」と言ったのに出演拒否かよ!事件

2010-02-17 | 読書-歴史
『日の丸アワ- 対米謀略放送物語』 (池田徳真 1979年)「捕虜が毎日生放送」の大胆 その1の続き

◆「ウィリアムズの放送拒否事件」は危機一髪だった:
駿河台まで連れてきた後に初めて任務の内容を俘虜に説明。拒否する場合は命の保証をしないが、やるか?という聞き方(!)

このくだりは重要。利敵行為だとして重罪(反逆罪)となる可能性があった事との関係で。
(ドイツから宣伝放送を行ったホーホー卿ことウィリアム・ジョイスは、戦後英国で死刑に)

「協力を拒みたる者は、その生命は保証せず」と言い渡したことで、「日本にあんなふうに言われたので、仕方なく協力したのです」との釈明が成り立つ。
ところが、マキン島に駐在していて俘虜になった、軍人でもない英植民地省の行政官が、「私はやらない」と予想外の拒否宣言。

一同、これにはびっくり。
せっかく、「協力する以外の選択肢はない」ようにしてやったのに、何を考えとるか!というわけ。

日本が戦争に負けた場合のことまで考えてのことではないと思われるが、結果としては、「しかたなく協力したのです」という言い訳を用意してやったことにもなった。
YESと言いやすくしてやったのに、調子が狂ってしまう。

「斬っちゃうか」とはやる恒石少佐をようやくなだめて、東京憲兵隊に引き渡す。
「(普通の収容所に戻した場合に、ぺらぺらしゃべったりして)秘密が漏れると困るので、死んでしまうようなところに送ってください」と言い添えた著者。(戦後35年たったので書けること)
この事件のおかげで、他の俘虜は、もうあっさり協力するしかないと覚悟を決めたようで、皆さんスムーズに。

戦後すぐに収容所に駆けつけた占領軍は、行方不明の俘虜を重点チェック。
ウィリアムズは、(著者は後年まで知らなかったが)天竜川中流域の鉱山で労働に従事していた。他の俘虜がほとんどいなかったので、周りの皆さんにとてもよくしてもらい(珍しかったので?)、不満はなかったという。金平牛蒡が好きになる。

これがもし、拒否宣言したその場で斬っていたり、転送先で死亡していたりした場合、著者へも責任追及があったかもしれず、あぶないところだったと考えられる。
占領軍は、俘虜の死亡者には、それぞれに対応して「必ず誰かの命で責任を取ってもらう」というようなスタンスがあったように感じられる。

著者が視察に行った九州の俘虜収容所の所長は、国内での戦犯絞首刑執行第1号となる。
(「なあに、どうしても言うことを聞かないやつは、ばっさりやっちゃうんですよ」などという本人の話を聞いて、いけ好かない人物だとは思っていたが・・・)
南方では、通訳なども処刑されたケースがあり、軍人に限らない?ので、本当に危ないところだったらしい。

本書で「植民地サービス」と記載されていた行政組織について、ちょっと確認:
British Colonial Service, properly called Her Majesty's Overseas Civil Service (HMOCS), responsible for all aspects of the administration and development of the colonies, under the former British Colonial Office.

ウィリアムズ氏は、ここの所属。
小さなマキン島(ブタリタリ)のガバナーをしていて、「日本軍が上陸した」との知らせをきいて、自転車で見回りに出たところ、捕捉された。
List of Overseas Territories
Gilbert & Ellice Islands(現 Kiribati/Tuvalu)

History of UK Government Departments with Responsibility for Foreign Affairs

ギルバート諸島(Gilbert Islands)
マキン島(ブタリタリ)は、後に米海兵隊が奪還する際に激戦。

Coast watchers captured in Gilbert Islands:Captured in the village of Butaritari: (Not a Coast Watcher)
8. Charles Fulford-Williams, Civil Administrator


善通寺俘虜収容所に収容され、ニュージーランド関係者の部屋は「キーウィーコーナー」と呼ばれた由。(日本側までそう呼んでいたかどうかは疑問かな?俘虜の間でそう呼んでいました、ということかも)
写真があった!

"KIWI Corner"
The space occupied by the New Zealand POWs and Coast Watchers in Zentsuji
2. Behind and next to window is Charles Fulford-Williams (UK)

(2)善通寺俘虜収容所

その3に続く

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『日の丸アワ- 対米謀略放... | トップ | 「日の丸アワー」その3止 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書-歴史」カテゴリの最新記事