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[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、1

2017-01-09 00:33:05 | 遠藤周作批判
映画「沈黙」の公開が近いので、急遽、掲載します。これらの記事は半年前にカトリックグループに掲載されたものです。

フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆1、衛星テレビの「沈黙」

 平成元年一二月二一日午後一〇時からNHKの衛星テレビで、遠藤周作氏の「沈黙」の映画が放送されるという番組のお知らせがあった。その知らせをみて、わたしは悲しく思った。

 この問題作が出てから間もなく、昭和四七年(一九七二年)一月二日付の「カトリック新聞」第六面に、遠藤周作氏の「踏絵」という短かい記事が出た。いうまでもなく、「沈黙」の中の踏絵の場面を正当化するためだった。

 これに対して、ドン・ボスコ社の「カトリック生活」(当時バルバロ神父編集長)の中に、わたしもバルバロ神父も、これに対する抗議的な反論をのせたことがある。当時、多くの読者から、勇気をもってこの反論をのせたことに対して、感謝と賛成の手紙や電話をうけた。

 あれから六年後、一九七八年一二月二四日、クリスマスの特別番組として、一二チャンネルのテレビで、遠藤周作氏と井上洋治神父のインタビューがあった。そこには、キリストについての遠藤氏の考えかたがよく現われていた。かれがいうには、キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである。キリストは死後弟子たちによって神格化されたが、どうしてそうなったか、わたしにはわからない。キリストには、弟子たちの理解力をこえる何かがあった。そのためにこそかれらはキリストをうらぎったが、のちにこれを後悔して、キリストをすてたつらさと悲しさのあまりに、キリストを神格化して、はじめて認めるようになった。こうして少しずつイエズスは、キリスト、すなわちメシア、救い主となってきたのである」と。

 以上は、遠藤周作氏がのべた説であり、かれはこの説をその作品「キリスト伝」「キリストの誕生」、「沈黙」などで書いたと言っていた。しかし、これを書いたのは、「信仰宣言としてではなく、小説家としてである」と、かれは自己弁解した。あたかも小説家なら勝手に信仰をうらぎってもよいかのように!

 昭和五四年(一九七九年)四月八日、「カトリック新聞」は遠藤周作氏が、「芸術院賞」を受賞したことを大きく報道した。その記事によれば、遠藤氏を「キリスト教を広めた」ということでほめている。その記事は、「この遠藤さんの”無力"な神観に対して、カトリック界からも異議がないわけではない」と、いちおうことわっているにしても、カトリック新聞の記事では、かれ遠藤氏が”キリスト教文学とカトリック作家の市民権を獲得した"と高く評価している。

 当時として遠藤氏の「本が四〇万部もでるということは、その三倍ぐらいの人びとが少なくとも、キリスト教のその精神性に触れたことになる」と、その記事はむすんでいた。

 同年九月三〇日付の「カトリック新聞」にも、「遠藤氏の文学が布教に役立たないか」という問題を提供はするが、納得のできかねるあいまいなことしか述べていない。

 わたしの考えは、遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”を紹介したにすぎないのである。

 それで、平成元年末の衛星テレビで「沈黙」の映画が上映されると聞いたとき、わたしは非常に残念に思った。これほど進歩的な衛星テレビが"ゆがめられたキリスト教"を広めるために協力するとは! と。

 「沈黙」という小説を、カトリック者でも、残念なことに聖職者の中でさえ、今もなお高く評価するものがあるのを考えて、教会の正しい立場を紹介するために、一七年前の「カトリック生活」にのせた反論をふたたびここに出版することにした。

 ある人は、「古くさい!」というかもわからないが、”ゆがめられたキリスト教"を紹介する小説や映画をほり出すことをNHKは「古くさい!」と思わないのだから、わたしも”キリストの正しい姿"を守る反論をほり出すことを「古くさい!」と言ってもらいたくない。キリストの教えは決して古くさくならないし、その真理は永遠のものであって、小説家の説によって変わるようなものではないからである。


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