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[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、3

2017-01-15 04:23:28 | 遠藤周作批判
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆3、弱い人々のために (バルバロ神父)

「正義のためにしいたげられた人は幸せ」

 先日、カトリック新聞にのった遠藤周作氏の一文に関して、デルコル神父の抗議的な反論が本号にのるが、私もそれについて一言書き加えたい。

 最近二、三ケ月の間に、カトリック雑誌あるいはカトリック新聞と称する紙面に、カトリック作家と称する人々の記事がのり、それに対して「カトリック生活」は今度で二度目の抗議をしてきている。それを私が喜んでしていると思われたら心外である。

 われわれは、「カトリック生活」だけが、カトリックの信仰の純正を守っているというつもりもないし、また、風車に向かったドン・キホーテの役も、われわれとしてはやりたくない。

 むしろ信仰の遺産を託され、キリストの民を牧する責任をもつ上にたつ人々が、われわれのこの小さい雑誌より先に、明確な方針をたてて声をきかせてくれてよいのではないか。そういう記事によって、迷わされ、苦しんでいる信者は数多いのである。私だけでなく、皆そのことをききもし、知りもしているだろう。

 われわれがうけた信仰は、キリストの苦しみの中でまかれ、幾多の殉教者の血で証明され、無数の宣教師の労苦のうちにやしなわれてきた。こうして、多くの信者の中で実を結ぶべき貴重なものであるから、いずれにしろこの問題に軽卒な態度でのぞむことは許されないのである。

 遠藤氏の場合、自分や肉親のいのちを救わんがために、踏絵に足をのせた人々に向かって、キりストだったら何を言うであろうかと、氏自身キリストに代わって答えたつもりであろう。遠藤氏は、自分の肩には重すぎる荷を、せおったのではあるまいか。その荷は、氏のみならず、誰にとっても重すぎるにちがいない。

 キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。

 キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心を持っていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。

 私がもし、自分の感情や私自身の信仰や知識にもとずき、人間自身の弱さをそこにおりこんで話したら、おそらく遠藤氏よりもっとひどいことをいうかもしれない。だが、キりスト信者となって、キリストにすべてをかけているなら、いつもキリストの心をとらえ、キリストの目で物をながめる努力をするだろうし、それが信仰によって挑め、考えることにつながるのである。

 キリストの目で眺めるとなると、もう人間的なものではなくて、この世をさかさまに眺めるとでも言えるであろう。たとえばキリストは、「心の貧しい人は幸せ」「泣く人は幸せ」「正義のためにしいたげられる人は幸せ」と言ったが、これは人間の口から出るせりふではない。

 人間の頭で考えれば遠藤氏にとっても、私にとっても、ふみ絵をふめと強制された昔のあわれな人々は、決して「幸せな人々」ではなかった。かれらは、すべての自由をうばわれ、さらに、今、このふみ絵によって生命さえも断崖に立たされていたのである。イエズスが、「正義のためにしいたげられる人は幸せ」という自分の信念をすてて、ただこの弱いあわれな人々の今のしあわせだけを考えたならば遠藤氏のいうようなことになっただろう。

「私はお前たちが、弱くて、あわれな人々だと知っている。私は、そういうお前たちを救いに来たのだから、この際私を裏切ってもよい。すててもよい、私に対しての愛、誠実をも忘れてよい。お前たちの大切な命を救うがよい。幕府の役人にお前たちは責められているが、それに対してはずるがしこく立ち向かって、自分の生命を救うがよい。そうすれば私は、後から何でもゆるしてあげる」。

 だが、もしそれが事実なら、これ以上危険な道はない。われわれはみな弱いし、日々体験しているように、実にあわれなみじめなものである。日々、人間として信仰者として、われわれは、いろいろな意味でのふみ絵の前に立たされている。キリストと、キリストの国と、キリストの愛をえらぶか、それとも、あなた自身の傲慢と、利益と邪欲とのいずれをえらぶかが、日々ためされている。

 この場合、弱い人間としてえらびやすい方をえらんでもよいなら、そしてどうせキリストは弱いもののためにきたのだから、それをあてにして行動するなら、キリストが、”天にまします父のように完全であれ”という言葉も空しくなる。

 こうなれば、キリストは、「人類が歩くべき気高い道の旗印」とはならず、「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者となるほかない。キリストが「人類の気高いものの旗印」となったのは、かれが生命をかけて、正義と愛と真理を守り通したからである。この三つの言葉が人類の心にその意義を全く失ってしまわない限り、"キりスト者の裏切り"はあるにしても、キリストは人類の指導者としてふみとどまる。

 キリスト者ではない人々でも、人間である限り、生命を賭しても妥協できない一線のあることを知っている。われわれの生存本能は、いかに強くとも、それにまさる価値あるものの存在を知っている。パルティザン同志が戦っていたころ、マルキシストや、ファシストや、アナルキストや、愛国者の中にも、自分の信念を裏切るまいとして生命を投げうった人は多かった。かれらは、人間であったからこそ、この生命以上に、すべてを贈りて惜しくないものがあることを知っていた。

 キリスト教の歴史は、拷問や十字架や責苦が、他のどれよりも多い。それは、葦のように弱い人間が一番拒否したい理想を、キリスト教がかかげていたからである。盲目的な、暴力的なものは、霊と精神とにはげしくぶつつかるのである。正義や真理の理想を宣言して生命をなげうった人々は、キリスト信者であろうとなかろうと、「神の子」であるに相違ない。

 キリストの名によって自由を叫んだ日本キリシタンの殉教者は、日本における最初の「自由の雄叫び」であった。当時の封建的な扱いにならされていた女性たちさえも、そして子供たちも、「人間からは出ない力」をもって、迫害者に向かって「いえ」を言うことができた。こういう人々こそ、精神の自由という新時代を築いた人々である。みなが「弱い人間」であるがために暴力と権威に妥協していたら、暗黒時代の夜は明けなかったろう。

 キリストは、「弱い人々」のために来た。それは真実である。そのためにキリストは、「神のあわれみ」をわれわれに教えた。しかしキリストは一度も、人間の弱さをあおったこどはない。むしろ「自分の生命を救いたいなら、それをすてよ」と教えたではないか。キリストにとって死は、「恐るべき最後」ではなくて、新しい生命へのかど出であり、それが、キリスト教の中心である「よみがえり」の意味となるのである。

 サルトルの無神論的実存主義の結論が「すべてはナンセンス」であるということをここで皆考えてみてはどうであろうか。サルトルの考えでは、神もなく、来世もなく、すべては無意味な、その混沌の中で、人間は自分の力で自分を救わねばならないのである。人間のことを、この世だけで解決するのが、その思想の根本である。こう考えてくれば、たしかにふみ絵も、人間の作ったばかばかしいものであるから、それをふんでもかまうまい、無意味なことなのだから。

 しかし、こうなれば、もうキリスト教ではなく他の宗教である。もうキリスト教はない。


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