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[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、2-3

2017-01-12 07:41:34 | 遠藤周作批判
映画「沈黙」の公開が近いので、急遽、掲載します。これらの記事は半年前にカトリックグループに掲載されたものです。

フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-3、キリスト者の信条  踏絵 (デルコル神父)

 遠藤周作氏の第三の口実、「家族への配慮」に対しても、キリストのみことばは、ほんのちょっとの疑いさえ残さないほど、はっきりお答えになっておられる。

「私よりも、父や母を愛する人は、私にふさわしくない、また、私よりも、息子や娘を愛する人も、私にふさわしくない」(マタイ10・37、ルカ14・17)と。そして、さらに、このことを強調するかのように、キリストは、「地上に平和をもってきたと思ってはならない。平和ではなく、つるぎをもってきた」(マタイ10・34)」といっておられる。

 キリストにふさわしい弟子となるために、十字架は避けられない。キリストご自身「自分の十字架をとって私にしたがわねばならない」(マタイ10・38)と明らかにそのことを断言された。

 十字架!自分の十字架!その十字架にはいろいろあるだろうが、ある人には、その十字架は、踏絵であった!キりストの証のため、キリストのみ顔を足げにしないという十字架だったのだ。

 あしげにしなければならないのは、悪魔のあたまである。だからこそ、キリストのみ顔をあしげにすることは、キリストを救い主ではなく、”ほろびのあるじ”悪魔とみなすことになる。神は、はじめて救い主について約束なさったとき、「かれ(すなわち救い主)は、おまえ(すなわち、悪魔)のあたまをふみくだくだろう」(創世の書3・15)とおおせになり、また、悪魔も、救い生とその仲間たちの「かかとを、かむであろう」とおおせになったのではないだろうか!

 この予言は、救い主が勝利をえるであろうが、それは、苦しみを通してであることを示している。まことに、「弟子は、先生以上のものではない」(マタイ10・24、ルカ6・40)からこそ、救い主キリストの仲間も、キリストの十字架にあずからなければならないのだ。その十字架が、人によってそれぞれ異なり、ときとして、ある人には、それが殺されることであっても!

(続く)


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