DIAMOND online (姫田小夏:ジャーナリスト)
2024年4月12日
食べることに目がないマレーシア人。日本からの水産物のシフトが歓迎されている(著者撮影)
「中国による禁輸」の功罪が見えてきた。昨年8月から始まった福島第一原子力発電所にたまる処理水の海洋放出で、中国は日本の水産物の輸入を停止。あれから約8カ月がたったが、中国市場に依存してきた日本の水産物の一部は、マレーシアをはじめとする東南アジアで活路を見いだしている。これも結果的には「サプライチェーンの脱中国」を促すことになったようだ。(ジャーナリスト 姫田小夏)
マレーシアで「日本食」のポテンシャルが高まる
23年8月24日に東京電力が開始した「処理水の海洋放出」で、中国は即座に日本産の水産物に対する禁輸措置を講じた。そのため、日本の農林水産物・食品の輸出額は減少し、輸出先の転換や多角化は焦眉の課題となっている。
一方、日本産の水産物に「禁輸措置」を講じなかった国もある。マレーシアもその一つだ。海洋放出が行われた翌日、モハマド・サブ農業食糧安全相は「日本からの水産物の輸入禁止を実施するかは決定していない」と伝えた。
昨年10月初旬、宮下一郎農林水産相(当時)はマレーシアを訪問し、日本産水産物の安全性をアピールした。複数の現地メディアがこれを取り上げ、マレーシアのサバ州沖で実施しているモニタリングでは、この時点で放射性物質の検出はなかったことを報じた。
もとより「海洋放出」以前から東南アジアでは、日本食の消費地として関心が高まっていたが、水産物見本市への積極的な参加や新たなホタテの加工基地の開設など、さらなる日本の水産物の市場開拓が進んでいる。
同時に、日本食レストランにも期待が集まっている。
日本貿易振興機構(JETRO)によれば、人口3350万人のマレーシアにおける日本食レストランの数は、22年5月時点で約1700店舗、クアラルンプール首都圏には約900店舗あるという。マレーシアは、1人当たりGDPが1万1109ドル(21年)と日本の4分の1程度。それだけにポテンシャルがあり、日本食レストランの発展も見込まれている。
時々刻々と変化する日本食を巡るマーケットだが、クアラルンプールでは、今、“中国の禁輸”とともにある変化が起こっている。
「OMAKASE」を頼むことが一つのステータスに
「上等の食材がマレーシアに入るようになりましたよ」――クアラルンプールの高級日本料理店で包丁を握る田中敏行さんはこう語る。マレーシアに8年、日本食を取り巻く環境の変化を、コロナ禍以前からつぶさに見つめてきた。
今マレーシアで起こっているのは、中国が日本の水産物を禁輸することで進む新たなサプライチェーンの構築だ。水産物のみならず、加工食品や調味料など、それに付随する日本の食の産業の南下が始まり、現地では、さまざまなイベントやプロモーション活動が行われている。
振り返れば、20年のコロナ禍で、マレーシアも人々の行動が大きく制限された。飲食業界も苦戦が続いたが、一方で別の動きも見られた。地元の富裕層にとって、習慣化していた海外渡航ができなくなった分、その予算を「食」に投じるようになったのである。
「コロナを前後して『おまかせコース』を提供する高級店が増えました」と田中さんは話す。
「おまかせ」は、すし屋用語の一つだが、東アジアや東南アジアでは、高級志向の高まりを受け、「OMAKASE」を頼むことが一つのステータスになった。クアラルンプールの高級日本食を扱う店でも、キャビアやウニ、金粉でトッピングしたぜいたくな日本食が振る舞われるようになった。
コロナ禍がもたらした“新市場”は予期せぬ出来事でもあったが、さらに「食のサプライチェーンの南下」も予期せぬ展開だった。中国による日本産水産物の禁輸が、回り回ってマレーシアの高級日本食市場に“福音”をもたらしているという側面もあるのだ。
ちなみに、マレーシアに強いシフトがあることについて、隣国タイの高級すし割烹の店主は「首都バンコクではすでに日本料理店が飽和となっているためではないか」とコメントしている。
これまでマレーシアは中国に買い負けていた
中国による日本産水産物の禁輸は、確かに日本の一部の水産業界に痛手を与えた。しかし、別の角度から見ると、「功罪」の「功」の部分も浮き彫りになる。田中さんはこう語る。
「今までマレーシアに“いい食材”が入りにくかったのは、中国に買い負けていたからでした。10年ほど前から、中国の業者が『いくらでも構わないから』と言って買い付けていったのが、日本産の水産物でした。その結果、仕入れ値が上昇してしまい、日本産水産物は手に入りにくい食材になってしまったのです」
マグロ一尾まるごと欲しい、いくらでもいい、一番いいのを譲ってくれ…、こうした中国の業者の求めに応じ、高級食材は中国に流れ、日本は競り負けるという一面が潜在していた。ノドグロや金目鯛なども、今では日本国民の台所からはすっかり遠のいてしまっている。
田中さんによると、日本の魚河岸で競りが行われると「最もいい魚介類はまず香港に行った」と言う。日本産の水産物は、香港の食の高級市場にがっちりと組み込まれていたというわけだ。しかし、香港も「海洋放出」を機に日本の10都県からの水産物の輸入禁止措置を講じている。
その影響は香港の消費者にとっても小さくはないはずだが、田中さんは「今では、中国の地元で取れるいい魚を食べているんです」と語る。
中国の水産業界で進む日本産抜きの高級化?
この状況から見えてくるのは、中国の水産物の一大変革だ。
2000年代初期、上海でさえも冷蔵設備は不十分で、市場の水産物は発泡スチロール箱に入れて売られていた。コールドチェーン(冷蔵・冷凍に保ったまま流通させる手法)は未発達で、鮮度管理が必須の刺し身などの消費は、極めて限定的だった。
しかし2005年を前後して、日系商社の取り組みの下で超低温物流などが整備され、中国の水産業界全体が徐々に底上げされていった。こうした黎明期を経て、中国は今、近海・遠洋漁業のみならず、養殖、加工、貿易や流通にも乗り出し、水産業の大規模化、国際化、エコロジー化を目指している。
昨年11月には、中国屈指の水産拠点であるアモイ市で、当局の主催で水産物の国際会議が開かれたが、高級輸入水産市場の拡大に焦点を当てたフォーラムには、英国、アルゼンチン、ノルウェー、米国、ペルー、カナダ、ベトナムなどの大使館や業界団体の代表が参加した。
こうした報道からは、日本の不在の下でも、中国における高級水産物市場の形成が進んでいる一端が垣間見られる。
筆者はクアラルンプールでの取材中、「日本への出張から戻ったばかりだ」と話すマレーシア人の仲買人と出会った。日本の錦鯉と金魚の売買が彼の生業であり、数週間で日本の養殖地を数カ所巡ったという。
「今、日本の錦鯉も金魚も中国に直接輸出できないので、取引の一部はマレーシア経由で行っている」とこの仲買人はほのめかした。両腕に金魚のタトゥーのある40代と思しき彼の話からは、中国の水産物禁輸がマレーシアにもたらす商機が見て取れた。
この十数年間、世界は中国の独り勝ちを許してきたが、それが意味するものは巨額の資金を惜しみなく投じた“独り占め”でもあった。水産物もまたその一つだった。
しかし、中国による禁輸は、皮肉にも“オウンゴール”となり、日本にとっては新たなマーケティングの機会を、マレーシアにとっては従来手に入りにくかった高級水産物の供給をもたらしている。
中国との結び付きが薄れることで逆に軌道を取り戻す…そんな“玉突き現象”はマレーシア以外にもあるのかもしれない。
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