
被災地のみならず あの日のことを振り返る人は多いと思う。
いつもと変わらぬ金曜の午後。
お隣の作業台のS氏は有休をとっていて不在、
私は時間が掛かりそうな大きめのサイドボードの修理をしていた。
Yさんが来て コイツは急ぎの出荷商品ではないよね?と確認されたので
違いますと答えて そのまま サイドボードについて話をしていた瞬間だった。
「地震!」Yさんが言った。
一瞬 呆然とした私に「ほら、地震!」とまたYさんが言った。
鉄筋コンクリート3階建て(と、認識)の建物が
ゆらんっ、ゆらんっ、と 大きくヨコ揺れしていて 我に返った。
揺れが大きい!と思って作業スペースから出て奥を見ると
O氏(記憶が確かなら→)サンダー掛けの真っ最中だった。
(身体を使って作業に集中している場合 非常に気付きにくいと思う!)
奥に向かって「地震!」「地震!」と、Yさんと交互に叫んでいた気がする。
怖かった。
こんな時 揺れがおさまるのを待った方がいいんだろうか?
実際には考える間もなく うずくまっていた私は腕を掴まれて
半分 引きずられるように まだ揺れのおさまらない階段を走り 外に出た。
この時 静岡県中部で震度4。
ひどく怖かったけれど 作業場に戻ると
その後すぐ戻って来たO氏から 震源が東北地方であることを聞いた。
「....また東北?」と言ったのを覚えている。
今思えば、東日本大震災の津波による被害は この頃からだっただろうか。
その後 ラジオを聞いたHさんからチラチラと情報が入ったけれど
いつもと変わらず仕事をこなし 定時で終業。
帰宅の準備をしていたら 浜松のYちゃんから とにかく連絡下さい、と、
ただ事ではなさそうな心配のメールが入った。
何も知らず「そんなにヒドいの?」と返信すると
間髪開けず とにかく帰ってテレビ見るように、とメールが来た。
日本最大級の地震だというその内容に 嫌な予感がしてならなかった。
翌日の新聞は(東名高速 通行止めのため)中央道を名古屋周りで届き
近所のスーパーは店を閉め 家の周りは大型トラックが溢れた。
インターの入口まで長い列を作っていたらしい。
TVでは 人々の生活を一瞬で飲み込む津波の映像を何度も見て
インタビューされる男の人達が何人も カメラの前でこらえきれない涙を見せた。
「癒えません 半年とは言ってもね」
今日も カメラの前で男の人が泣いていた。
本当にもう こんな思いはしたくない。
今年に入って 人の死に直面する機会が続き
自分で自分の異常に気づいた瞬間があった。
余裕が無く、どこか緊張している状態が 今もうっすらと確かに続く。