チャリポタ DAITAI WEEKLY

健康の為はじめた自転車が高じて、街や郊外を探訪するようになると、普段は見えていなかった景色が見えてきた。

大鐘家

2009年06月10日 | Weblog
所用の帰りがけに、以前から気になっていたところに寄って来ました。牧之原市片浜にある”花庄屋”「大鐘家」です。



 正面の長屋門



国定重要文化財となっている屋敷です。大鐘家は元柴田勝家の家臣で、福井県丸岡城、城代家老だった大鐘藤八郎貞綱がこの地相良に移り住み、十八世紀ごろより大庄屋となる。と、屋敷の案内にありました。

当時の面影を伝える、重厚な長屋門と母屋などなかなか見応えがあります。




 母屋から庭を挟んで長屋門


庄屋と大庄屋?、庄屋と名主?むかし話などによく出てきますが、どう違うんでしょう?ちょっと調べてみました。

江戸時代の、地方三役(じかたさんやく=村役人の総称)のひとつで、西日本では主に「庄屋」、東日本では「名主」と言われることが多いそうです。村で年貢の徴収などを命じられていた代表者ですね。町にも「町名主」「町庄屋」などいろいろな呼称があり、「肝煎」(きもいり=東北や北陸地方の呼称)、とか静岡(駿府)では「丁頭」(ちょうがしら)などと呼ばれていたようです。(清水に残されている古文書で見たことがあります)。三役ですから、他に組頭、百姓代の三つですね。

「大庄屋」は数十の村をまとめる役目で、一般の庄屋さんの上のランクの人のようです。大庄屋は武家の家系の者が任ぜられる事が多く、大鐘家も元、旗本三千石の格式を持っていたと言う事で、大庄屋となったのでしょう。




 座敷へっつい(主人用)。普通のへっついは向かい側にある。


母屋の中は、昔懐かしい”竈”(へっつい=昔のかまど)がありましたが、珍しいのは、主人専用の「座敷へっつい」なるものもあるんです。昔は商家などでも、家人と使用人とでは、台所も食べる部屋も違うという場合が多く、家人は畳の敷かれた部屋で食事をし、使用人は一段低い板の間の部屋で食べるということが普通で、農家である大鐘家もきっとそうではなかったのかと、想像して拝見していました。




 屋敷前の旧田沼街道。


屋敷の前は昔の田沼街道が通っていたそうで、今は農道としてその名残が見られる程度でした。




 今は農道となっている。



帰り際に売店でお茶をご馳走になると、なんとそこには”大鐘餅”(おおがねもち)なるものがありましたが、食事をしたばかりなので、食べずに帰って来ちゃいました。

”おおがねもち”をパスする様では、やっぱり ”リッチ” にはなれそうもないですね。 (笑)



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