松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

秋田県大館市・・・・・安藤昌益の墓

2014年08月10日 07時12分15秒 | 日記
わたしたちは(というのは青森公立大学のT先生と同行している)まず大館市比内の山田福男さんの家をたずねた。山田さんは本職の写真家のかたわら、安藤昌益や狩野亨吉を調べてきた郷土研究者でもある。あらかじめ案内をお願いしてあった。

山田さんはさっそく車に乗り込み「まず昌益の墓に行こう、まっすぐに行け」と指示を出した。はいとT先生は素直にハンドルを握る。すこし走ると水田が広がっている。北秋田は稲作には不適な山間地域だという先入観があったのだが、まったく違う。米代川沿いに発達した豊かな穀倉地帯である。「1反あたり何俵とれるんですか」と山田さんに聞くと「さあて」という答えが返ってきた。山田さんは10代のときに土門拳に認められてからずっと写真家稼業で、どうやら農業の経験はないようだ。80歳近いというのに会話のテンポが速く、愉快だ。「団体や観光客からは案内を頼まれても断る。個人は事前に勉強してくるから引き受ける」。思わずうなずいた。大館市の職員は「変わった方ですよ」と山田さんのことを評していたが、こういう偏屈は好きである。いい人に出会えた。勝手ながら、今日のミッションの隊長と定めた。狭い道をいくつか曲がると、田んぼの真ん中に大きな建物が眼に入った。「あれだ、あれが温泉寺だ、駐車場ではなく山門から入れ」と山田隊長。「はい」とわれら二人。


秋田県HPより

「これを見ろ」と隊長が石塔をゆびさす。「三界万霊供養塔」。これは飢饉で餓死した者を供養するもので、江戸時代に建てられたものが各地にみられる。もしやこの供養塔が昌益と関わりがあるのかと聞いたが、隊長は笑っていた。しかし、昌益を昌益たらしめた契機は、かれが飢饉の惨状をまのあたりにしたことにある。すっかり昌益ワールドに入り込んでいた。

昌益の墓はすぐにみつかった。案内の杭が立っていたからだ。さっそくカメラを取り出して一枚。ところが、山田隊長はこの杭がお気に召さないらしい。「この位置に立てると、墓石を撮るのに邪魔になる」。さすがは写真家だ。またもやうなずく。



昌益の墓は数十センチほどであり、普通の高さである。しかしどうも貧弱に見える。まわりの新しいカロウト群の背が高すぎるのだ。その内心を察したのか「うちの墓は隣のより少しでも高くという気持ちがみんなにあってなあ」と山田隊長。平等を説いた昌益の周辺墓石くらい見栄をはらずに控えめにしてもいいではないかと隊長は思っているらしい。

曹洞宗温泉寺は文禄2年(1593年)の開山と伝わる。その100年以上あとに安藤昌益は生まれた。昌益の生家からは歩いて数分、棒切れをもって夕暮れまで境内で遊びまわったこともあっただろう。裏手にまわると、広大な水田がひろがっていた。この肥沃な光景が昌益少年の原点となったにちがいない。

「つぎは昌益の生家だ、行くぞ」、隊長の声が響いた。

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