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松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

秋田県横手市増田・・・近代化のもたらした町並み

2014年09月13日 22時00分40秒 | 日記


家のなかに蔵がある

横手市増田の町並みはおもしろい。外からではわかりにくいのだが、家のなかに立派な蔵がおさまっている。「内蔵」である。佐藤又六宅などは表玄関にいきなりずしりと分厚い土扉があって、蔵のなかに住宅があるようだ。内蔵は黒漆喰や漆塗、こまかい建具などにもその家独自の意匠をほどこし手がかかっている。カネがかかっている。こうした建物の多くは明治から大正にかけてつくられている。

増田はふるく江戸時代から街道と舟運で栄えてきた町だった。交通の要衝だった。もちろん流通だけで繁栄しつづけることはむずかしい。後背地にしっかりした製造業がなければならない。増田の場合、それは養蚕と葉タバコだった。換金性が高く、農家はきそって育てた。軽量のものをつくり加工して流通させる地域産業が確立し、増田にはカネがおとされた。このことが増田商家に豪華ないえづくりをうながした。

明治以降の日本はおいたてられるように近代化をめざした。そうでなければすでに近代化に先行している列強諸国に対抗できなかったからである。近代製造業の特徴は大資金を投下し科学を駆使した大がかりな装置産業をもとめたことにある。手工業では、莫大な利潤は望めない。増田地域でも、もし養蚕と葉タバコにのみ頼っていれば、明治後期ころから衰退がはじまっていたにちがいない。

しかし増田は大正時代に地域の産業構造を変えた。きつかけは吉野鉱山(のち吉乃鉱山)だった。大正期に大鉱脈が発見されたのだ。県北の小坂を一気に繁栄させた、あの黒鉱だった。鉱山経営者は武田恭作。小坂鉱山で画期的な黒鉱自溶製錬法を開発し技師長をつとめた人物である。かれは小坂鉱山を念頭において、大規模な製錬プラントをもうけ、最新の製錬技術を駆使した。一見企業活動とは無関係にみえる町づくりに投資したのも、やはり小坂で成功したビジネスモデルにならったようだ。ただここで注目したいのは、銅をとりだすための電解工程に必要な電力インフラがすでに増田に存在していたことだ。タバコ専売法によって増田のタバコ産業は壊滅したが、そこでえられた政府からの保証金を浪費せずに増田水力電気株式会社の資本金とすることで、つぎの一手を打っていたのだ。この布石が活きた。

1次産業から2次産業への「近代化」に成功した増田はいっきに注目された。鉱夫、技術者、事務員など関係者がおしよせ、商人・流通業者などがあつまった。大正の最盛期には、鉱山労働者だけでも6千人をこえたという。しぜん増田の町は潤った。莫大なカネがおちた。そこで蓄積された資産が家づくりにまわされた。なお、鉱毒がずっと増田の人びとを悩ませてきたことは近代化の負の側面として特記すべきだろう。

私が目にした「内蔵」の町並みは、増田が産業の近代化に成功したごほうびともいえるだろう。みごとだった。

蔵のなかに座敷がある  横手市HPより

和井内貞行と「情報」

2014年09月11日 08時04分43秒 | 日記
ヒメマス

井内貞行がヒメマス(カパチェッポ)の回帰をみたのは明治38年の晩秋だった。最初に鯉を放してからじつに22年の歳月がたっている。それにしても、もっと早く成功することはできなかったのだろうか。

明治政府は魚肉を供給するために積極的に魚の移植を推進した。魚のすまない湖に移植したり、魚種をふやしたりしようとした。まず政府が目をつけたのは中禅寺湖だった。中禅寺湖はもともと魚はすんでいなかった。そこで明治6年にイワナを放流した。明治14年には農商務省水産局が日光に孵化場をもうけ、サケマスの養殖に力を入れている。和井内が十和田湖での養魚を決意しはじめて鯉を放流したのは17年であるから、養魚の動きは政府にずっと遅れたが、これは非難されることでもなんでもない。むしろ国がまだ養魚方法を確立する前に個人で挑戦していった点をほめるべきだろう。

しばらくあと、北海道でも独自の試みが起こった。阿寒湖に生息するカパチェッポに、北海道千歳孵化場主任の藤村信吉が目をつけて支笏湖に移植した。27年のことである。3年後に回帰がみられみごとに成功した。そこで藤村は卵を採り、他所から求めがあれば応じられる体制をつくった。体制がととのったのは33年のことだった。

この朗報が和井内の耳に入ったのは35年のこと。しかも公的機関を通じてではなく、一会社員から偶然聞いたにすぎない。これがなんとも不思議だ。30年から35年までの間、和井内は試行錯誤をくりかえし、公的機関に何度も最新の養魚情報をとりに行っているのだ。



たとえば30年10月から翌31月4月まで、和井内の長男貞時は貞行の指示にしたがって、官営日光孵化場に研究のため派遣されている。このとき支笏湖での成功のニュースにふれることはなかったのだろうか。もし知っていれば、3年ほど早く成功したはずである。しかし結論からいえば、なかったようだ。当時はインターネットもなく、情報入手には時間がかかったのか、また北海道と国との間では情報の共有化が不十分だったのか原因はわからない。ついで貞時は31年5月から東京水産伝習所に派遣されている。東京水産伝習所といえば当時の水産技術や情報に関する国内最高のセンターである。なぜ貞時はここでもカパチエツポの情報を仕入れることができなかったのか。

疑問はまだある。和井内は東京水産伝習所からもどった貞時からサケマスの養殖が有望であることを聞き、31年10月からすぐにマスの養殖に着手した。卵は日光養鱒所から毎年仕入れたので、当然カバチエツポの情報に接してもよかったはずである。

34年には旧知の松原新之助がわざわざ十和田湖に来て和井内にさまざまな助言をした。松原といえば日本水産行政の中心にあり、36年には東京水産講習所(現東京海洋大学)の初代所長に就任した権威でもある。その人物が十和田湖と条件の似た支笏湖での成功事例を知らなかったのだろうか。いや、そんなことはあるまい。ならばなぜ和井内に情報が伝わらなかったのだろうか。

十和田湖は青森秋田いずれに属するのかずっと対立がつづいてきた場所である。和井内は秋田人ではあるが、意識のうえでは青森とも近かった。だから二男貞実を34年に青森水産試験場に学ばせている。ところで、このころの青森水産試験場では、すでに支笏湖の成功事例を正確に把握していたものとおもわれる。というのは、翌35年に和井内が青森市にある東北漁協本部でたまたま部外者から支笏湖の成功事例を聞いたとき、青森水産試験場では支笏湖からカバチエツポの卵を入手することが決定していたとみられる。そうだとすればそうした情報や動向は、公的機関を通じて和井内の耳に直接届いてもよかったのではないか。和井内が十和田湖での養魚事業に苦しんでいることは秋田青森両県では周知のことであったし、水産行政・教育の中心にあった松原新之助さえ知人であることもよく知られていたのに、なぜだったのだろうか。

結果としては、和井内は支笏湖の事例に自力でたどりついて成功した。しかしもっと早く成功するきっかけがたくさんあったのではないか。いかに情報インフラが未整備の若い時代だったとはいえ、気の毒だったな、と百年余のちを生きる私はおもう。

いずれも青森県農林水産部HPより

佐藤勝蔵のこと・・・十和田湖畔

2014年09月07日 18時12分26秒 | 日記
和井内カツ子すなわち貞行の妻が亡くなったのは明治40年5月のことだった。ヒメマス養殖の成功をみとどけて安心したような最期だった。遺骨は毛馬内の菩提寺に葬られた。

そのとき十和田湖畔の人々は貞行に、どうかカツ子さんの霊を湖畔に祀らせてほしいと懇願した。なかでも深く頭を下げたのが佐藤勝蔵だった。貞行が許すがはやいか勝蔵は神社の建築を毛馬内の棟梁に頼みに行っている。勝漁神社と名づけられた。カツ子の「勝」、豊漁の「漁」をとったという。


和井内神社 秋田県HPより

和井内貞行は歴史に名をのこしたが、佐藤勝蔵は無名のまま埋もれた人である。しかし高瀬博「われ幻の魚をみたり」を読んでいたら、妙に気にかかった。

勝蔵は現在の岩手県花巻市に生まれ、鉱夫としていくつかのヤマを流れ、十和田鉱山にたどり着いた。ここで和井内と一緒に働いた。和井内が魚の養殖をこころざした最初から、手伝っている。のこっている写真をみると、肩幅が広く、精悍な顔つきである。

十和田鉱山の休山にともなって和井内が小坂鉱山に異動になったときには、留守をあずかって魚の面倒をみている。その後、和井内が養殖一本にかけて、成功するまでのおよそ20年間の苦しいときにも、勝蔵は和井内のそばで一緒に耐えながら働いている。

勝蔵は一個の大人である。なぜ「あやしげな」夢をみる和井内にしたがい続けたのだろうか。和井内にはカリスマ性は乏しかったようにみえるが、夢に向かって自身を律していく姿勢は並の人を超えていたから、あるいはそこにひかれたのかもしれない。しかしそれだけだろうか。

あるエピソードが描かれている。まだヒメマスに着手する前の明治24年、和井内は県から漁業権をもらつた。ところがせっかく育った鯉が盗まれる。警戒していたある日、勝蔵が鯉泥棒をつかまえた。みると、いつも和井内を狂人よばわりする輩だった。和井内は怒って、勝蔵に命じ、泥棒を小屋の柱につながせた。秋の夜は冷える。カツ子は貞行に、こんなことをすると恨みをかってかえって困ることになると諄々にといた。つぎに、小屋に入って、男の縄をときながら、情理をつくしてしずかに諭した。男はそれを聞いているうちに、涙を流し両手をついて詫びた。一部始終をかたわらでみていた勝蔵は、腕を組んだままうんと唸ってしまつた。その後はひとに逢うたびに、和井内のおかみさんにはかなわない、とすっかり心服した口調だつたという。

勝蔵はもちろん貞行の仕事にはつかえたが、それとは違った意味でカツ子には恭順したのではないか。カツ子は包み込むようなやさしさを持つ人だつたのだろう。いわば大いなる母性である。そこに勝蔵は圧倒されたのではなかつたろうか。だから、カツ子を神として祀りたいと熱望したのではなかったろうか。

私は勝蔵のことを思いながら、同時にカツ子のことも考えていた。勝蔵とカツ子。この二人の献身がなければ、貞行の成功がなかったことはまちがいない。

それはともかく、一人の人物の軌跡をたどると、さまざまな無名なひととの交叉がある。しかし歴史のなかに埋れていったひとの側にもそれぞれの人生があったのだ。おそらく勝蔵は勝漁神社(のち和井内神社)をまもりながら、幸せだと思って死んでいったことだろう。そういう声なき声をききとどけたいと私はおもっている。

和井内貞行伝説の成立・・・十和田湖

2014年09月06日 07時37分02秒 | 日記
高瀬博「われ幻の魚をみたり」が鹿角先人顕彰館から届いたので、さっそく目をとおした。和井内貞行と久原房之助との関係について記述がないのは当然としても、和井内が十和田湖での魚類養殖をこころざした動機や小坂鉱山退職の理由などを明らかにするための信頼性できる記述も、残念ながら、なかった。ただ、読みすすめると、予期していなかった別の興味深い問題が浮かび上がってきた。

和井内が郷土の偉人になった、すなわち「和井内貞行伝説」が生まれたのははなぜかという問題である。

和井内が十和田湖に放ったカバチェッポ(ヒメマス)の稚魚が3年の間に大きく育ち群れをなして帰ってきたのは明治38年の秋だった。養殖をこころざしてからじつに22年間、貞行の苦難の歩みをおもえば、さすがにこの成功には私も感動する。しかしこれだけでは和井内が「偉人」となることはありえなかった。

「やった、ついにやった」と貞行が家族とともによろこんでいたかたわらで、十和田湖畔集落の人たちはあえいでいた。この年は冷たいヤマセが吹き凶作だったため、米どころかヒエ、アワまでもとれず、飢えに苦しんでいたのだった。その窮状をみかねたカツ子は「魚をわけてあげてください」と貞行に頼みこんだ。十和田湖の漁業権を持っていた貞行も承諾し、約50の全戸に「マスをとつていい、売ったカネは自由に使ってくれ」と告げた。とったヒメマスは11771尾、その売上金およそ1300円はすべて集落民の生活費にあてられ、苦境を救った。ひとびとはどれほどありがたくおもったことだろうか。昨日まで嘲笑、中傷した相手から無償で助けられたのだ。貞行は成功して立場を逆転させながら、いわば「仇」に「仇」ではなく「恩」によって報いた。このときを境にして、貞行は「和井内さん」「旦那さん」と敬意をもって呼ばれるようになったという。ここに「和井内貞行伝説」は生まれはじめた。

翌39年11月、和井内の名前は全国に知れわたった。事業の成功が官報に紹介されたのだ。和井内もよろこんだろう。しかしここまでが明の部分であり、これからは明と暗がめまぐるしく交代する。暗はまず12月におとずれた。先祖からの田畑を切り売りしながら息子を応援しつづけた父・治郎右衛門が逝去した。さらにつづいた。まだ哀しみが癒えない翌40年5月に、今度は貞行の精神をもっとも深く支えていた妻カツ子が倒れた。のこされたのは幼子をふくむ9人の子どもだった。これでは貞行でなくても途方にくれたろう。

ただ暗ばかりではない。カツ子の亡くなったわずか10日後には緑綬褒章を授与するとの連絡が届いている(このとき真珠養殖の御木本幸吉と二人が受章している)。よろこびと哀しみ、明と暗が交互に貞行とその家族を翻弄している。

こうしたとき十和田湖畔や毛馬内のひとたちはどうみただろうか。もしも和井内がとんとん拍子に慶事を重ねていただけならば、せっかくめばえはじめた和井内貞行伝説もいずれ消えていったようにおもわれる。鹿角の人々がというのではなく、もともとひとは成功者をほめるときにもじつは足をひっぱる嫉妬など負の感情を隠しているものだ。事業に成功しただけでは「偉人」とはよばれない。

「偉人」と呼ばれるのは、人々と同じ場所に立ちながら、紙一重でそこをこえていく人である。和井内は成功して国がお墨付を与えてくれても、人々を見返そうとせず明るくはげましながらその果実を分配してあげ、さらに自身は何度も不幸にみまわれながら黙って耐えていた。同じ人間だからできそうでありながら、じつはできることではない。和井内はすぐ隣にいるのにけっして手が届かない。そのことが人々の心にしみわたり、負の感情をきれいに浄めた。ひとをこえる畏い人、和井内のことをそうとらえはじめたのだろう。

ヒメマスが帰ってきた明治38年秋から、妻・カツ子死去わずか10日後に緑綬褒章を受けた40年5月までの2年余の期間に、「和井内貞行伝説」はこのようにして成立したのだった。

むろん明治維新後の国是はあらたな産業を興すことであり、また列強国民なみの体格をつくるための「肉」の確保でもあったから、魚肉を安定的に供給する増養殖事業に成功した貞行の歩みは、ある意味政府に利用されたといえるかもしれない。しかしそうしたことを割り引いてもなお十和田湖周辺の人々の和井内称賛はなくならなかったろう。

和井内のしたことは養殖事業だけではなかった。旅館をつくり、ヒメマスの加工品を開発し、観光チラシをつくり、まず皇族・学者・官僚・政治家を十和田湖に招いてその美しさにふれてもらった。十和田湖観光開発という行政や観光協会のなすべき役割を独力でおこなったわけである。かれの胸中には、おれひとりがよくなることなどありえない、みんなで一緒によくなろうではないかという、「私」を「公」に開いていこうとする強い火種が燃えつづけていたとおもわれる。かつては厳しい自然環境のもとで零細な農業に従事するしかなかった十和田湖畔の人々は、ヒメマス養殖の成功後、しだいに漁業や観光サービス業にかかわって生きられるようになった。和井内の強い火種がみごとに地域産業を変えた。人々は感謝して余りあるだろう。

和井内貞行の伝記をよんだ小学生のときには、ヒメマスが真っ赤に湖面を染めて帰ってきた美しい場面がいちばん好きだった。しかし今ではなぜ和井内は尊敬されるにいたったのかという点に関心が移っている。それは零細とはいえ、私が経営者として「事業とは何か」と自問しつづけていることと関係しているかもしれない。もちろん事業を志す人にとっては成功こそ一番の勲章である。和井内にしても、いくら努力していても成功しなければその名前はとうに消え去って今に残っていないだろう。しかし成功さえすればほんとうに満足できるのか。私の利益を追求していきながらどこかで公の利益につながらなければいけないのではないだろうか。

十和田湖畔の人々はカツ子が亡くなると命を祭神とする神社を創り(カツ子についてはいずれふれてみたい)、貞行が逝くと合祀してずっと守ってきた。この和井内神社は、和井内貞行(カツ子も)という人を十和田湖畔の人々がどうとらえたか今に語りついでいる。


十和田湖    十和田国立公園協会HPより転載


幻の魚を見た人・・・ひと休み

2014年09月03日 08時17分05秒 | 日記
和井内貞行はなぜわたしの心を打つのだろうか。そう考えると、いくつか調べたくなった。まず、養殖をこころざした動機である。つぎに、小坂鉱山を辞めた動機、凶作時に村民に漁を開放した理由、十和田湖観光を開発した理由、毛馬内から一歩も出ようとしなかった理由。さらに、貞行の苦難の歩みをそばで観ていた家族は何を受け継いだのか、村民は和井内をどう評価したのだろうか。


鹿角市先人顕彰館HPより


一次資料にあたりたい。貞行の日誌はないのか。そう思って鹿角先人顕彰館に電話をした。小田嶋館長とは7月以来だ。しかし「日誌はありません」と館長。ならば、他に資料はないのかとくいさがった。

「われ幻の魚を見たり」という本が、聞き書きもおりこんでよくまとまっていますよ、と館長。著者の高瀬さんはすでに故人という。もうお話をうかがうことはできない。ただおそらく高瀬さんは私の関心事に筆をおよぼしているだろう。どんな見解になっているのかわからないが、一次資料や引証、伝聞など、何らかの根拠にもとづいているはずだ。手がかりがつかめるかもしれない。まずは本を一度読んでみよう。

「一冊送ってください」そうお願いした。いまは待つ身である。