不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第一章_17節=

2015-03-31 19:01:22 | 歴史小説・躬行之譜

 フフホト(呼和浩特)は南ゴビ砂漠に南縁に位置する。 遊牧民は“緑に茂る森の場所/青い城郭”と呼んでいる。 尻無し川がこの地にて表れ、どこかに消える。 耶律時が率いる25騎の騎馬武者は遅い朝餉を済ませ、騎馬して南東に進む。 樹木帯は何時しか潅木地帯に変わり、荒地に変わり、砂漠草が現れだす。 馬にとって自然な速歩である斜対歩で前方の丘陵地を目指して行く。 東西に伸びる丘陵地帯の山稜に万里の長城が横横たわる。 長城の北側は村落が希薄である。 しかし、遼帝国の権勢が消えようとし、金の阿骨打がこの地の統治者と成った今、邑には金の間者が居るであろう。

 耶律時は率いる隊を五名一組の五班に分けて次の目的地・張家口に向かわせた。 中間地点であるウランチャブを通過すれば、張家口までは丘陵地帯、遊牧民の村落はない。 ウランチャブは五原から常歩の馬速で一日の行程。 時にはこのウランチャブの邑に情報収集を行いえる密偵の確保が課題であった。 腹案はある。 耶律大石統帥に心服して主従の契りを一方的に立てた蒙古族の苞力強が昨夜、書面手渡してくれた。 姉ウランチチカが嫁いだ先がウランチャブの郷士であると言った。 

 張家口は燕雲十六州の軍事的な要塞。 張家口には帝都・燕京の風聞が伝わり来る。 また、張家口は漢北の軍事的な情報が、居庸関 ・居庸関長城、挿箭嶺長城(ソウセンレイ)を伺えば集められ、西方の大同に集まる燕雲十六州の動きをも感知できる場所である。 フフホト邑外で朝餉を取った折、時は五名の班長に張家口が金への密偵活動には最適であると説明したうえで、分散行動で張家口に向かう事を命じていた。 更に、張家口城内には入る必要はなく、手前にある万里の長城が南北の通行門である長城大境門北側近くの適地に われ等が長期の野営を密かに行える秘密基地を設営する任務も命じていた。 

 

  “北帰”が話し合われた三日後の晩、 大石の草庵には、昨夜の参集者以外に四人の将が集まっていた。 各小隊の統率者である。 みな若かった。 大石・軍事統師を信奉し、戦い抜いてきた勇者たちである。 耶律楚詞は大石の右側に座し 両名を中核に円座である。 梁山泊の宋江のとの密約に向かっている耶律抹只の子である耶律康阮と康這兄弟、大石子飼いである欽宇阮と苞力強、耶律巖、耶律化哥に耶律磨魯古の若き将たちである。 苞力強はモンゴル族であり、彼の父親は有力な部族の長であった。 欽宇阮は大石に代々仕えてきた契丹族の正嗣である。

 ただ 前夜と異なるのは畢厳劉と何亨理が円座から離れた場所で楽器を奏でている。 三味線のようなラワープを厳劉が操り、亨理がタンブリンであろうダップを指の腹で打っている。 陽気な宴席を演じているのだ。 石隻也とチムギたちの談笑がその音楽に和していた。 おもむろに 大石が口を開いた。  「我々が 集結を計る、蒙古草原の砦は陰山山脈の北 ゴビ砂漠の北辺 この地は間もなく雪に閉ざされた酷寒の地となろう。 予定する砦は北庭都護府・可敦城。 されど、遼の混乱が長く、廃墟に成っているであろう。 また、この時期 遊牧の民は近くにはおるまい 」 

 「身を隠し、この砦を 我々の雄図の出発が牙城にするのに 他に求めるべき場所はない・・・」 大石は 柔和な顔を若者たちに注ぎながら 話を継ぐ。 

 「二百有余の兵士が酷寒の地で営為しなければならぬことを まず念頭に置いて、この場所を離れることの危険を肝に命じて、明日からの行動を起こしてもらいたい」  ウイグルの民族音楽に大石の声が柔らかく絡み付き、若者たちの目が輝いている。 全員が大石の話に耳を傾けている。  「北帰の行動に齟齬が生じぬように隊を分ける。  今朝 日が昇る前に時と二十五名の勇者が先遣隊として出立した。  残る有志を大きく四隊に分けるのだが、無論、各隊の任務は異なる。 しかし、この地を離れるまでは全員が一丸と成って20日分の兵量と予備の兵馬、弓矢を密かに集積してもらいたい。」 

 「統帥さま、天祚帝の兵の中に われ等と、いや 統帥について行こうとする将兵が、更に見受けられますが」  「ここに参集した者が信を置ける将兵なら構わぬが、北帰が漏れぬようにせねば成らぬ。 先日話したように阿骨打の動向が計画の基軸になる。 従って、時が偵察に出たのだが苞力強は先遣隊の援軍として働いてもらう。 ついては、耶律化哥に陰山南麓の適地に支援基地を造営してもらう。 苞力強と耶律巖は分散する各隊の連絡員として・・・・・・」  「して、われらは・・・・・・」

 「欽宇阮は西夏に向かって西夏の宰相セデキ・ウルフ殿の援助貰い受ける。 耶律康阮と康這兄弟はオルドスの地で宋と金の動向を探りつつ、天祚皇帝の亡命行動を探る。 耶律磨魯古は兵糧の管理と運搬に汗と知恵を出してもらう。」

 「各隊の人員と行動を起こす吉日はきめておられますか?」 と欽宇阮が聞き、大石統帥が答えていく。 「そこで、一部の隊が姿を隠そうが、残る諸隊の隊員には日ごろの行動を厳守し 天祚帝の警備兵に気付かれてはならぬ。 従って 各隊の要員は後日に伝えるが、 全員がこのことを厳守しなければ成らない。 また、時がもたらす情報次第なのだが 耶律楚詞に石隻也にも情報集めに燕京に向かってもらわねばならなくなろう・・・・・」

 

 ※ 参考資料遼王朝・契丹人

10世紀に耶律阿保機(やりつあほき)が登場し、八部を纏め、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て、国号を契丹とし、契丹国皇帝となった。契丹は勢力を拡大して、北の女真や西の西夏・ウイグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海や西の烏古を滅ぼした。 二代目耶律徳光の頃、後唐では内紛が起こり、石敬瑭(せきけいとう)に正統なる者として晋皇帝の称号を与え、援助して燕雲十六州の割譲を成立させる。こうして後唐は滅び後晋が建国となる。

その後、しばらくの間は中国文化を取り入れようとする派と契丹の独自風習を守ろうとする派とに分かれて内部抗争が起き、南に介入する余裕が無くなった。その間に南では北宋が成立する。内部抗争は六代目聖宗期に一段落し、再び宋と抗争するようになった。1004年、南下した遼と北宋は盟約(澶淵(せんえん)の盟)を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。

しかし宋からの財貨により働かなくても贅沢が出来るようになった遼の上層部は次第に堕落し、武力の低下を招いた。また内部抗争も激しさを増し、その間に東の満州で女真族が台頭し、1125年に宋の誘いを受けた女真族の金により遼は滅ぼされた。

この時に皇族の耶律大石(やりつたいせき)は部族の一部を引き連れて、中央アジアに遠征し西ウイグル王国・カラ・ハン朝を征服、契丹語でグル・ハーン、中国語では天祐皇帝と称号を改め西遼を建てた。 1126年、現在のキルギス共和国の首都付近にクズ・オルドという都を定める。 トルコ人にはカラ・キタイと呼ばれた。 これは黒い契丹の意味である。 耶律大石は更にセルジューク朝の軍を撃破して、中央アジアに基盤を固め、故地奪還を目指して東征の軍を送るが、途上で病死した。

耶律大石死後の西遼は中央アジアで勢力を保持したが、チンギス・ハーンによってモンゴル高原から追われて匿ったクチュルクによって簒奪され、西遼は滅びた。 一方で遼が滅びた時に残った人々は金の中で諸色人に入れられて、厳しい収奪を受け、また対南宋戦争では兵士として狩り出され、これに反発した契丹族は度々反乱を起こした。 特に金の海陵王の時の反乱は、海陵王が殺される大きな要因となった。

金滅亡後はチンギス・ハーンの下で漢人に組み入れられた。元来遊牧民でモンゴル周辺部に居住していた彼らは、ほとんどがモンゴル人と普通に会話でき、大半は中国語や漢文にも長けていた。その為漢人とモンゴル人の橋渡しを行うことが多く、この中にモンゴル帝国に仕えた耶律楚材がいる。

・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

 

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_16節=

2015-03-29 17:31:13 | 浪漫紀行・漫遊之譜

  1123年初冬 耶律大石統帥が離れた燕京の北遼は、天錫帝の太子の耶律朮烈(英宗)が擁立された。 しかし、11月に金軍に包囲され、英宗は内訌によって家臣たちに殺害された。 こうして、北遼は滅亡を迎えることになった。金の阿骨打は燕京を含む燕雲十六州を北宋に割譲し、委ねた。 代わりに燕京の人民を全て連れ去る。 また、割譲の代償に、金は遼にかわって宋から歳幣に銀20万両・絹30万匹・銭100万貫・軍糧20万石を受けることにした。 入京を果たした阿骨打は、宋と約定を交わし、契丹人である遼王朝の優秀な文士公僕たちを引っ立てて金の王府・上京会寧府(じょうきょうカイネイフ、現在のハルピン)に凱旋していた。  

 翌年、夏の蒸し暑さが終わるころ 阿骨打は逃亡した遼の天祚帝を追撃する親征に向かった。 長春、通遼を経過して瀋陽へと軍団を率いて南下して行った。 瀋陽から西に向かい、朝陽に抜け赤峰へ、シュリンゴロの大草原南縁を西走すればウランチャブ(鳥欄察布)に至る。 万里の長城が北側を平行して西行する経路であり、草原の道が続く。 天祚皇帝を討ち取り、雪辱を与えた上に西夏に金の武力を誇示できうる進軍は誠に容易であった。 万里の長城が南からの敵を遮断してくれる。 そして、ウランチャブ-フフホト-パオトウ-五原は10日もあれば進軍できる距離である。 

 阿骨打の親征軍が部堵濼(ウトゥル、現在の阜新市付近)に差し掛かったころ、五原の天祚皇帝が王庭を耶律時が率いる25騎の騎馬武者が10頭の代え馬に兵糧と弓矢を載せて黄河の左岸を早がけの襲歩でパオトウ(包頭)を駆け抜けていた。 太陽が昇りくる前である。 25名の勇者の左前方に横たわっていた陰山山脈の山腹が朝日を浴びて黒き陰影を浮かび上がらせだした。 フフホト(呼和浩特)の手前であろう。 これ以上の襲歩は馬には過酷であると判断した時が手綱をひいた。 「あの小川で朝餉にしよう」 彼らが日の高いうちには、ウランチャブ(鳥欄察布)に至るのは容易であった。 彼らは、慕田峪長城(ボテンヨク)から居庸関(キョウヨカン)と古北地帯での金軍の動向を偵察に赴く途上であった。 

 

 耶律大石は”北帰”は急がねばならぬが、 過酷な冬がまじかに迫りくる今、 春まで待つべきか 自問していた。 200有余名が草原で越冬できるであろうか、草原の民は冬営地で殻に籠り、没交渉の生活を強要される。 なれば、半年間の兵糧を運び込まねばならない。 春まで勇者たちをいかにすべきか・・・・急ぐ必要があるのか・・・・

 ゴビ砂漠の北、陰山山脈の北麓にある遼王朝の北庭故城を北帰行の拠点に考えていた。 大蒙古高原中央部の南部に位置し、遊牧の民との交易を執り行う砦であった。 遼王朝が盛んなころには漠北の遊牧民を統治する基点であった。 北庭故城から草原を東に移動すれば小興安嶺山脈の故地に、容易に辿り着ける。 200名の兵団でも二十日の行軍、金軍の側腹後背面を突く進路であり、危険はない。 だが、故地にて契丹人を集握して遼の政権を鼓舞できるであろうか、その挙兵以降は・・・・・ 

 大石は四辺の状況を考え続けていた・・・・・ 南宋は阿骨打を”海上の盟”で誘って、遼に進軍させたのだが、金の騎馬軍団は我の予想以上に猛勇果敢である。 遼の国土を侵食した。 そして、気付けば 遼と宋の確執に金に漁夫の利を得た。 結果 宋は黄河の南に閉じ込められた。 今 金と西夏が盟約すれば、宋は北進して己が旧領すら奪回できかねる状態に追いやられている。  

 南宋は、未だに 50万以上の将兵を燕雲十六州攻撃に北上させているも、 金の阿骨打は南下し、燕京を陥落せしめて入京を果たし、北に凱旋した。 遼の皇帝・天祚帝を五原に追いやり、中華に権勢を維持して 余裕を持って宋に燕雲十六州を割譲している。 金の政権は遼の統治方法を真似る新政権を打ち立てている。

 天祚帝は南宋に向かうであろうが、今は 阿骨打の客将と成った耶律余睹が南宋対策の将軍として立ち振る舞っている以上は天祚帝の挙動は容易でない。 西夏は天祚帝が西夏の北の過疎地での仮寓を黙認しているが・・・・宋の北進も・・・・・黄河を挟んで金と南宋が覇権を争う・・・・ 

 我は、二年前、居庸関・八達嶺長城で阿骨打の迎撃を試みが失敗し、金軍に捕らえられた。 あの折、阿骨打は捕虜である我を厚遇した。 彼は金軍の南攻統師将軍として宋を攻めろと言った。 宰相・李処温が宋と密約を交わし、北遼と南宋で金の南下を阻止する陰謀を計っているとも言った。 それゆえの我は宰相・李処温を誅殺したのだが・・・・・ 

 阿骨打の考えていることは見える。 今、 海上の盟は破棄され、阿骨打は南宋の侵略を考えているに違いない。 されば、南宋は将兵を北東方に進軍させ、阿骨打と対峙しなければならぬはず。 なれば、当面、阿骨打は燕京の差配と南宋との戦いに 思惑を集中しなければならず、遼の討伐に親征はおろか大量の将兵を向けることはできまい。 遼の存在など眼中になく、鼠をいたぶる猫のはず 天祚帝が動く瞬時が殺される瞬間に成るはずだ。 

 それゆえの、”北帰”策なのだが・・・・・・この冬を如何にせん、故地に辿り着くまで如何にせん・・・・・・・燕京の安禄明や安禄衝殿は動けまい・・・・・・・草原が緑で覆われている時なら・・・・・耶律大石の思考は 同道巡りのようであった。 

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_15節=

2015-03-28 16:34:28 | 歴史小説・躬行之譜

  「皇后さま殺害事件の後、統帥に従おうとする将兵は増えております。 旧来から、耶律大石統帥に心服する兵を合わせて 今日200名と言えます。 結束は一段と強く、意気は盛んに高まり、現在八つの小軍団に分かれております」 と時が右側にて胡坐をかく楚詞に説明するように話を進めれば、 「その組織はいかように・・・・・」 と大石が問う。 すかさず 時が説明している。 200名はすべて騎兵であり、五名が基本単位の班隊です。 班隊単位には乗馬用の馬五頭に三頭の添え馬が基本とするのですが、現在予備の馬は不足している。 また、兵糧や兵器の準備には、未だ手づかずの状況。 しかし、五名一班の管理は班長が互選されており、五名の班長で小隊を作り、この小隊の小隊長を班長同士の話し合いで選任している。 また、小隊長は自前が班長としての責務の上に、25名を指揮する組織運営の責任を持っており、部組織の要であると自覚している。 更に、四名の小隊長を把握するのが将軍より選任される中隊長で100名の将兵の指揮官であるが、将軍を拝命された者がいない現在、中隊長は任命されていないと淀みなき説明が続く。  

 「その組織は、騎馬民族の互助組織を自発的に応用した組織ですね・・・・・宮中の文人が頭で捻り出したものではなく、生きた組織のようですね・・・・・」 と楚詞が言葉を添える。   「・・・ では、明日からの行動は秘密裏に また 組織を活用して効果的に目的を達せられるな・・・・ 今日明日に急変する事はなおが、北帰行動の実行は厳冬の頃になろうが、明日から兵糧と弓矢の確保、兵馬の補充、等に力を注がねばならない、明晩 各隊の将官と相談するとして・・・、 チムギ殿 そなたは いかがされる・・・。  今聞いかれたように 我々と勇者200名はここを離れる。 寒風吹き荒ぶ夜陰に紛れての行動となるかも知れぬ、 また、厳冬の時期に陰山山脈の間道を突いての北帰行に成るやかも知れぬ。 女人には過酷な旅になろう・・・・・」 と突然大石にわが名を呼ばれたチムギは動揺した。 

 チムギは思わず、耶律楚詞にすくいを求めるように彼の背を見た。 しかし、長く伸びた髪は微動だにしない。 大石のチムギを見詰める温情溢れる目には、厳しさは無く 笑みが漂っている。 「十分なお世話が叶わず心苦しい上でのこの状況、都には戻れぬことであろうから 西夏の中興府に戻られてはいかがだろうか・・・・チムギ殿 」 

 「大石様 私くしが 燕京を離れる折、父が申しました 『耶律楚詞王子が許されるなら、どこまでも そなたは王子に付き従い 同行しろ。 金がこの燕京を差配しようとも我が家には手を出せまい。 が、 万が一 お前を盾に取られると、困難を払うすべをなくす。 戻ることは父が許さぬ 心して行くがいい』と 話されました、・・・・・」

 

 「そのことは承知している・・・・ して、 今 どうさなされる・・・・・」 

 「ツムギ殿は 雪の残る太行山脈は小五山の険しき間道を歩き抜かれた、伴する男すら音を上げた難所 我々と行動を共にされても、手足纏いにはならないでしょう 」 と耶律楚詞が大石を見詰めて口を開いた。   「・・・ さりとて 北は草原の地、 漢中や燕雲十六州とは・・・・・・」  

 「私くは、ウイグルの一族、ウイグルの民は草原の民、 ”北帰”は楚詞さまの献策と伺っております。 ウイグルの私くしにしても 帰郷でございます。 北の蒙古高原はウイグルの故地。 ウイグルは騎馬の民でございます」 と凛とした声が 静寂の部屋に流れた。 その余韻が何時までも留まっている。  「そこに居られる 何蕎殿・曹舜殿・畢厳劉殿・何亨理殿 方々のお考えは・・・」 

 「申すまでもない事、我らが主命はチムギ殿をお守り致す事、 たとえ、北遼軍事統師が反対されようとも、チムギ殿の意が”北帰”に随行することである以上 背負ってでも後を追いましょうぞ 」 と言い終えた何蕎は 部屋に流れる沈黙を破るように、言葉を継いだ。  「統師殿、 僭越ではございますが、今 一言申上げたいと・・・・ この地に参り 早や半月、 王庭とは申せ、ここは砦。 しかも、諸将や兵は楽しみは無く、望郷の念に心ここに在らずと見受けられます。 また、 今 聞かせて頂いた”北帰”策の準備等 万全を期さねばなりますまい、しかも 露呈せぬようにと極秘の行動のように思われますが、・・・・・・・」 と話しだした何蕎の筋が大石には読めない。 

 「さて、 緊張する必要は無い。 客人としてではなく、我らが策に なにか・・・」  「されば、この地は西夏の中興府に比すれば、荒廃の原野に佇む砦。 寒さは厳しく、これより 日増しに寒さが強くなりましょう。 予測だにしなかった西行で、帝都よりこの地に来た天祚帝を警備する諸兵は二年目の冬に望郷の念に不満を募らせ、耐えがたき寒さは警護を鈍らせますが 当方とて、夜陰に紛れての行動が鈍りましょう。 そこで、いかがでしょうか、我ら四名は楽士の触込みで この地に滞在する者、 明晩より、城門近くの広場にて 大きな焚火を五六ヶ所設けて 楽を奏でましょう、 楽しみを忘れている将兵が多く集まり来れば、伺いました行動の一助に成ろうかと考えますが・・・・」 

 「蕎殿、若さに似ずとは失礼ながら、その策 儂は乗る。 隻也、明日から湖面にて鳥を射ぬいて参れ、 篝火の下 楽が流れれば、歌う兵士も出てこよう、されば 彼等への賞金として焼き鳥を与えれば、なお 兵は集まって来ようと言うのじゃ、四五日毎の宴の決行として、算段いたせ ・・・・・  ところで・・・・」 と背後に向きを変えた耶律時が最後尾の石隻也を見詰めて 「・・・ ところで、 隻也 汝のこの任務を なんと読む・・・・・・」  

 「鳥打ちに 行け とは・・・・・ 道を作れとの事でしょうか・・・・」  「その道とは・・・・」  

 「砦を離れれば、南は葦原 私を見出すことはできますまい、 馬とて 首を下げれば見つかりません、狭き馬道があれば、 夜陰の事 葦が少々そよごうとも 馬に布を履かせて葦の中を進めば、音も聞こえず、姿もみえず 行動は捗りましょう 」

 この会話を聞くともなく、耳にした楚詞は安禄明の屋敷裏で弓矢に励んでいた若者がここまで成長したのかと 驚きの顔で振り返っている。 石隻也と耶律時の師弟関係は 打てば響くごとくに何時しかなっていた。 楚詞は耶律時の指導者としての器を感じていた。 

  「 まず、何蕎殿にお礼を申さねばならぬ、200名の勇者を危険に晒らさぬ策、我ながら 思いは至らなかった。 先ほどのように 我々の行動は明日の打ち合わせ事として、時よ、明日20名を選び 別働隊を任せる。 先ほどの小班を五つ選び、そなたが指揮官で、燕京方面に向え。 この地を安全に離れた後 別働隊は東に走り、 阿骨打が追遼軍の後方攪乱しつつ金の動向を探り 金軍のつぶさな状況報告を定期的に送ってもらう。 また、折を見て 慕田峪長城の金軍が兵站基地に向え、燕京に居る遥には秦王の動向を見届け次第に 兵站基地にて合流する旨連絡を取っておく。 また、梁山泊の宋江との打ち合わせに漢南へ遣わした耶律抹只もそろそろ戻って来よう。 時が率いる別働隊が去る翌日から 全てが始まる。 阿骨打の動向が北帰行の成否を決するであろう」 

 「天祚帝には 最後の最後まで儂の首は打てまい。 この地を離れる事を策しておるが、西夏には亡命は出来まい。 チムギ殿の御尊父・石抹言殿や安禄衝殿が手を打って下されたお陰じゃが、 なれば、天祚皇帝は金が攻め来る前に、必ず南宋に走る。 南宋に亡命するには 南宋を痛めつけたこの首が必要。 当面は動けまい。 更には 耶律抹只に託した梁山泊の宋江が仲間を率いて西夏に入り、我らを支援するはずだ」  

 「この王庭に 大石ある限り、皆に手を下す者は居らぬであろう。 我一人にてこの印旗を掲げ城門を出るつもりである。 それは、我が遠祖太祖が諭した将の規範であり、我が意志の誇示。 天祚帝は何もできまい。 最も安全な策であろう。 更に、チムギ殿と共に城門を出るは、僧と女人に楽士達四名だけ。 泰然と進む我らに天祚皇帝は時を失するであろうし、例え 捕獲の命を出そうとも、刃を差し向ける将は居るまい。 すでに 諸将は皇帝を離れておる。 200名の勇者がこの王庭から、何時とも解らぬ間に姿を消せば、この策は成る。 今一度 申せば、阿骨打の動向がすべてを決する。」  耶律大石は 諭すように 話を続ける 「我がこの地を離れる折、隻也はあの印旗を高く掲げて儂と共に出る。 無論、楚詞殿は僧衣のままにてチムギ殿に付き、儂と共に城門を出る。 何蕎殿・曹舜殿・畢厳劉殿・何亨理殿も相前後して この地を離れていただこう。 さて、夜も深まった。 今宵はお開きにいたそうか・・・・・ 」 

 「何蕎殿 一献傾けたいが、 いかがでござろう、・・・北遼軍事統師殿の酒がござるで、 北遼軍事統師よろしいでしょうか・・・・・」   「・・・・酒の話になれば、統師、統師と呼びおって、・・・・・・」  草庵の外、下弦の月が 陰山の上にあった。 

 

・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_14節=

2015-03-27 17:43:54 | 歴史小説・躬行之譜

 葦原を分け、王庭に向かう 二人の背後から馬が歩む音が聞こえてきた。 すばやく、耶律時は身を縮め、後方を覗う。 石隻也は葦をかき分け、背伸びした。 数頭の馬のようである。 急ぎ足の斜対歩、速歩で王庭に向かっている。 蹄の音が近づいてくる。 日は未だ高く、雲一つない青空が 葦の間から広がっている。  「・・・オオー あれは、あの僧姿は天狗殿 いや、耶律楚詞さま、・・・・ 隻也、我に続け」 

 「耶律楚詞殿 楚詞殿・・・・」 叫び、葦原をかき分け、直進する耶律時の首が葦原を進んで行く。 石隻也はまっしぐらに馬を目指した。 葦をものともせず駆け抜ける隻也は、燕京の安禄明が屋敷裏での耶律楚詞王子が声を掛けてくれた優しい言葉を思い出していた。 

 葦の戦ぎに気付いた耶律楚詞は 耶律時の怒っているような顔が 波打つ葦原の海を こちらを目指して進んでくるのを見た。 その前方の葦が大きく波打ち、左右に揺れている。 「迎えが来たようです、あれに いい空地が見える、あの空地にて出迎えを受けましょう 」  

 「かの者が、耶律時殿でしょう、 楽しみでございます 」と チムギが応じる。 二人は轡を並べて 駒を進めていた。 チムギが身に被う服装は西域の衣装、乗馬には適した下裾衣であった。 二人の後方には 西域の衣服を着る若者が四人、それぞれ 控えの馬を曳いている。 色目人と言われる中央アジアのウイグル人か、その西方に住むテュルク系のムスリムであろう。 チムギの伴者であるらしい。 

 

 「おおー、これは、お美しい 石抹言殿がご息女ですね・・・・安禄明殿から文がありました」

 「お会いできて嬉しゅうございます。 耶律大石様、軍事統師さまですね。 父よりかねがね伺っております。 このたび、晋王子さま、失礼申しました、楚詞さまに無理を願って参りました。  楚詞さまには燕京よりの長き道中、大変お世話に成りました。 また、今日から 同道いたしましたあれら四名もお世話にならなければなりません。 ご無理を承知で参りました・・・・・」 

 「ここは、ご覧のような砦 よろしければいつまでも、 して ご尊父はご承知のことで・・・・ こちらから、文を送りましょうかな・・・・」 

 「父は、私がここに居ることを知っておりましょう。 西夏の中興府(銀川市)に旅立つ折、『叶えば、晋王子に付いて何処までも行け』と申しておりました・・・・・」 凛として、答える チムギに大石は好感を持った。 チムギは淀みなく続ける。

 「また、中興府の出立の時に、四名の武者を楽士として同行させ、私が歌わぬ歌姫と成れば、楚詞さまには迷惑が及ぶまいとのセデキ・ウルフ殿のご配慮がございました」 

 「そうでしたか、 安禄明から聞き知っておったが、儂にはソグドの民、ウイグルの民の繋がりは想像以上のように思えてきます、西夏の宰相セデキ・ウルフ殿にはかねがねお会いしたいと考えておりました」 

「セデキ・ウルフ殿は父抹言をウイグルの長と尊び、何かと交流がありました。 もともとは、私を女真族から遠ざける為に、兄の抹胡呂の義弟である安禄明さまのご配慮で楚詞さまに西夏まで案内していただいたのですが・・・・」

「いや、委細は禄明どのから、逐一 文にて知っていました。 よく参られた。 また、ご尊父のお考えも知りましたがゆえに、何の遠慮が要りましょう。 だが、ここは不自由な砦であるとお考えいただこう」 と耶律大石と石チムギが初対面とは思えぬ談笑を重ねる。 傍で 耶律楚詞を中心に耶律時・石隻也に四人の若者が笑い声をあげている。 天空蒼く、風はない。 

 

 だがしかし、都は・・・・・その頃 燕京は金軍に包囲され、北遼の第四代君主・英宗は内訌によって家臣たちに殺害されていた。 安禄明が伝書鳩に託した通信文が昨日届いていた。 天空から舞い降りた文には、耶律定秦王は帝都燕京から雲中に向かっている模様と追記してあった。  

 9月末 燕京・安禄明からの伝文が届き、開いた文面には ただ一行 【金の阿骨打が入京】 と走り書きの墨痕が浮かんでいた。 耶律大石の行動は早い、 直ちに 耶律時に 王庭内の軍営の動きを確認させ、石隻也に将兵の状況を探らせた。 耶律楚詞にチムギ一行を呼ばせた。 諸事の命を発した後 王庭の奥にある宮中に歩み出している。 日が陰り始めていた。 

 久しぶりの拝謁である。 大石は 正面を睨むように きざはしを登る。 一足進めるごとに 決意は固まっていく。 先ほど、大石の風圧に恐れ、奥に走った側近が駆け戻って扉をひらいた。 室内には衛兵が立ち並び、将四名が玉座の傍に立っていた。 皇帝・天祚帝は玉座に座り、玉座の周りのみ 明るく照らされている。  「大石、 事前の断りなきは、無礼であろう 」 耶律大石は今春から、もはや 皇帝の器を見切り、見下しっていた。 無論 諸将や側近は眼中にない。 皇帝を睨めつける大石の声が響く、その態度 諸将には高圧的に映るかも知れない。 傲然たる音量で声を放った。  

 「拝謁を願うは、あれ以来見出せなかった。 ただ、 寸刻前に北遼は金の差配を受ける事になったと知った。  承知いたされておられようか・・・ 」

 「北遼は北遼のこと、 遼の皇帝はここにおる 」 

 「されば、 北遼が軍事統師、申し上げる。 金の阿骨打が遼を攻めるは 造次顛沛でありましょう。 急ぎ、北帰策にのっとり、北の草原に兵を集め 小興安嶺山脈に出るは、我らが故地にて お家再興を図る最高の策 このこと再度 申すべく ここに参上に越しておる 」

 

 「余にも 策がある 汝が献策とは 相容れぬが・・・・・ 」  

 「されば、 太祖より受け継ぐ 我が血 幾瀬まで繋がねばならぬ、閣下とて同じでござろう。 また 武運つたなく、敵に屈する時に至らば、潔く自害するか 敵将と刺し違えるが将の誉れ。 北遼が軍事統師として、 今 ここに至らば、我が道を進むまでのこと 」 

 頑然と胸を張る巨体に 皇帝は腰を玉座に沈め、大石から眼をそらした。 怒りの眼差しは長く続かなかった。 立ち並ぶ将軍の中で誰一人として抗ずる口を開く将はいなかった。 無論、左右の側近は 終始 下に目を落としたままであった。 ただ一人、天祚皇帝の佞臣が猜疑の目で大石を覗い、何事かを皇帝に囁いていた。 

 

 大石が草庵に戻ると、全員が集まっていた。 草庵と言え、黄河すら凍てつく酷寒の世界。 日干し煉瓦が二重の壁を造り、床下の壁には煙道を設けて暖を取る構造。 屋根は葦を幾重にも葺かれ、夏は涼しく、葦を燃やす煙が部屋全体を暖める。 秋に成ったとはいえ残暑がやや厳しい。 後一月もすれば暖房がいるのだが、開放されている窓から入る風が気持ちよい。 床に直接腰を落とすせいであろうか、この部屋にての会合は何時も開放感が漂っている。 時には車座になっての話し合いだが、今日は耶律大石に対面するように耶律楚詞と耶律時が座し、その後方に石チムギが 左右に何蕎・曹舜・畢厳劉・何亨理 そして 石隻也は最後列に座っていた。  

 太陽は既に沈んでいるが部屋は暖かい。 大石の左右に蠟燭が立ち、入口に二本、 部屋の四隅にそれぞれ一本が緩やかに揺れる炎で部屋を明るくしていた。 大石の背後には北遼軍事統師の旗が立て掛けてある。 調度品が極端に少ない書院風なのだが、簡素で気品さえある。 室内は明るい。 耶律大石が着座するなり、明朗な声で 静かに話しだした。 

 「天祚皇帝には お別れの話を申し上げてきた。 摂政皇后殺害事件以降 内密理に推し進めてきた”北帰”を断行するべき時に至った。 ついては、時 我らが内密の兵はいかがである。 まずそれを聞こう」

 

・・・・・続く・・・・・・        

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

・-・-・-・-・-・-・・-・-

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_13節=

2015-03-26 18:43:53 | 歴史小説・躬行之譜

 草原には新芽が息吹き、ここ五原の王庭が葦原は若き茎がどんどんと伸び 人の背丈にも達しようか 湖面には渡り鳥であろうか 遅い春が訪れていた。 朝餉を終えた耶律大石は草庵の縁に座り、文を読んでいる。 傍で、耶律時が長閑さにすべなく湖面を眺めている。 時折、主の横顔を覗いながら・・・・・・・

 立て続けに 燕京の安禄明からの書面を受け取っていた。 燕京から伝書鳩が連絡文を運んでいた。 4月末の手紙には さしての連絡はなく ただ、耶律楚詞が西夏に向かうとの内容。 それは=彼が父・安禄衝が西夏王国の重鎮に 天祚帝からのいかなる要請にも大石殿の意向はなく、返答するべきではなく支援の応果無き事 また 西蔵や吐蕃の状況につき、楚詞殿を通じて大石殿に伝えてもらいたい= また、楚詞殿の成長を喜ぶと共に 西夏には胡呂の妹が同行している と 追記されていた。

 読んでいた手紙から目を離し、 耶律大石は 独り言のように呟いた。 「都では 御次男の梁王・耶律雅里殿が北遼の皇帝に擁立されたか・・・・・ 秦王様では この時局。 返す返すも、摂政皇后・蕭徳妃のご他界が残念・・・・・・」 そして、 「時、 耶律余睹が阿骨打に捉われた。 燕京は時間の問題ぞぉ・・・・。 事が大事に至らば、禄明殿より火急の伝鳩文が来ようが さて 耶律定秦王は帝都で・・・・・」 と大石の目は 虚空の一点を睨め付けるように厳しさを増している。

 「されば、新皇帝は耶律大石統帥様不在のこの時、両翼を無くしたと同然、民も動揺しておりましょう」  「時、そなたの弟 遥が率いる都の間者を南宋に向けるがいい、 北の動きは阿骨打殿の真意は、あの日以来よく読める。 北の流れはもはや抗しきれぬようになった。 耶律余睹の動きが明かしてくれよう。 遥には秦王の到来をもって以降、警護の必要は無いが余睹同様に見守るように伝える。 耶律抹只に早駈してもらおう。 抹只には遥への伝言と、梁山泊の宋江殿に会ってもらわねばならぬで・・・・・ 」

 「居庸関の迎撃戦・・いや、それ以前から阿骨打殿は 主を恐れているように 思えてなりません。 主が不在のこの折、宋の動きなどに関わりなく燕京に入城する機会を覗っているでしょう。 遥の情報がますます重きをなって来ました 」

 一時の沈黙の後、 耶律大石は胸中に 何かが決するように立ち上がり、耶律抹只たちが居住する東屋に向かった。 耶律時は大石のそばを離れ、帰って行った。


 その夕刻、早春とは言え寒さが肌を刺す。 東屋の小さな書院に座す耶律大石は、昨年 万里の長城を超えての皇太子逃避行を思い出していた。

 同じ満月が頭上で輝き、今は亡き、蕭徳妃・摂政皇后の姿が蘇っている。 ここ五原まで擁護すれば、 直ちに燕京に取って返す腹積もりが ことごとく天祚帝に阻止されていた。 また、摂政皇后の依頼を断りきれずにいる間に皇后殺害事件が起きた。 事件は半年前のことであっが、以降 奸臣の口に乗る皇帝、軽挙妄動に走るさまに大石は皇帝への信頼を自ら捨てしまっている。

 月明かりを突いて、若者が走り込んできた。 月明かりが照らすその顔には記憶がある。 安禄明の子飼い、執事の長男であることに気付いた大石は 直ちに傍に引き寄せ《 変事か 》と質する声を上げた。

 「主人、安禄明様からの文に御座います。 尚 書面に無きことながら、『耶律余睹殿は阿骨打殿に投降、忠節を誓われた』 と伝えよ が伝言でございます。 

 片膝を付き、見上げる若者に 「そなたの名は・・・・」 と大石が問い、 「安禄明様の執事・石鵡六が長子 石隻也と申します」 と小身に似ず野太い声で答えている。 眼には力があった。 意志が強そうな雰囲気がある。

 「庭は冷える、 庵でも、 この月明かり、文は読めよう」と 若者を誘い、大石は 今一度 青白き月を仰いだ。 大石が手にする封筒には二通の書面があった。 書院に使っている 庵内で燕京の友からの文を開いた。 緊急の知らせは伝鳩が運んでくれる。 石隻也を使いに向けたのには、他の意味合いもあろうと思いつつ大石は二通の文を読んだ。 一通には 皇帝の次男である梁王が病みに伏したこと =見知りの医師が内密に伝えるに 回復は無き事=、 大臣・諸将の思惑が絡み、耶律朮烈を擁する動きあること と記し、私見として されに 述べていた。  耶律朮烈は 皇帝の三男成れど妃の子 また、優柔不断の性との世評、 今に至らば、皇太子位が空位の今は 北帰の策は水泡に帰したこと。 時迫り来れば、帝都の崩壊は瞬時のこと、金の阿骨打は入城後 すぐさま 五原に兵を向けるは予想をたがわないこと、 皇帝は西夏には向かえまい、なれば 南宋への亡命を策画するであろうこと。 その折の手土産には大石殿の首が必要に成るであろうこと、・・・・・そして 最後に 耶律楚詞が同行は 契丹貴族蕭氏・ウイグル族の王族が末裔にて 石抹言が息女 西夏王国はもとより、西域での勢力は我が家すら凌ぐであろう。
 
 西夏の重臣セデキ・ウルフ殿が楚詞殿とチムギ殿を五原に向かわせと述べ、同封の書は石抹言殿が親書、西域の諸王への文、事あらば、使われたい と追記していた。 読み終えた大石は、全ての状況を踏まえた上での 禄明の心温まる配慮が感じられ、視界が広がるように思えた。 

  翌朝、日が昇ると共に 耶律大石は耶律時を呼び 安禄明の手紙の内容をすべて話していた。 西からの寒い風が 湖面を渡り、葦原を戦がせている。


 「時、あれに居る若者がこの文を届け、新皇帝が死の病の床にあるとの禄明殿からの極秘伝言を伝えてくれた」 

  「・・・で、その伝言とは・・・・・」 「余賭殿がアボダに屈服した。 もはや、金側の将になったとのことじゃ」 「されば、都は・・・・・」


 「石隻也、こちらに来るがいい」 突然の大声に驚きながら隻也は大石の傍に立つ耶律時の前に跪いた。  「これ、そなたは安禄明様の使い、大石殿の前に出るが良かろう」 


 「いえ、昨夜 恩主である安禄明様の私くしめの命令を伝えたところ・・・・」

 「時よ、この隻也は 以前から そなたに憧れ、そなたの下で働きたくて、禄明殿に直訴したそうだ。 で、禄明殿は 『都の明日は知れぬ 算盤が立つそなたなら 大石殿の駒として働けよう』 と さらに『帰還は許さぬ』 と送り出したもようでのぉ」  

 「して、汝 いつ 都を立った・・・・」 「三日前の夜でございます」 

 「なんと、天狗・・・ これは・・・ 神の早掛けを致したと申すか」


 「いえ、安禄明様の お計らいで、馬を乗継いで参りました。 宿場に着けば、父が書きし証書にて 変え馬が得られました。 日夜駆けてまいりました。 この先にて最後の馬がこと切れ、月明かりが幸いしてか やっとの思いで辿り着くことが叶いました」 耶律時は 野太く、朴訥に答える小身の若者・石隻也が気に入ったようすである。 時は大石のほうに体を向けて、「軍事統師殿・・・」 

  「時、 改まってなにようか 」 「只今より、ここに居る石隻也を我が直属兵士にする事 ご裁断願いたい」 

  「時よ、もとより そのつもりで 両名を呼んでいる。 弓を教えるがいい」

 

 湖面に遊ぶ鳥に石隻也は矢を射ていた。 その背後で耶律時が息を殺して、若者の動作を注意深く擬視している。  枯れ始めた葦が 二人の体を隠していた。 隻也が矢を十本放てば、八羽の小鳥が湖面に浮いていた。 矢立の中には五本の矢が残っていた。 すでに 矢の二十本は放たれている。 耶律時は筋肉質の巨体を立ち上げながら、  「隻也、今日はこれまで、 矢立には五本の矢を残して置くものぞ、 しかし、汝 以前から矢を射ていたのか・・・・」

 「・・・・都の安禄様のお屋敷の裏庭にて、 一人で的を立て 密やかに引いておりましたが・・・・ 先日来の お教えで・・・・・何とか コツが・・・・・」石隻也の顔からは 未だに矢を射る緊張から解放されていないようすが覗える。  「流石に 軍事統師殿 小身の汝には 矢武がよいと一眼されたのぉー お蔭で 毎夜鳥が口に入る、だが、百発百中には今一歩 雪になる前に狼と対峙し、一矢で仕留めることができねば、狼の牙その腕もぎ取られる。」 

  「夜半に 聞こえるあの遠吠えが狼ですか・・・・」  「この近隣には 狼が多いて、狼を射て殺せば 人並みの武人として人が認めてくれるでのぉー 励むがいい、 汝の声からして、肝っ玉の座り具合はよくわかる。 楽しみが増えた のぉー 隻也 鳥を籠に納めて帰るとするかな・・・」 さりげなく、時が言う言葉の端は端に 隻也は 何となく、自信が湧ていた。

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_12節=

2015-03-25 16:07:28 | 歴史小説・躬行之譜

 都の西 香山の近く、城郭からは騎馬にて小一時間 森に囲まれた大きな屋敷に石抹胡呂(セキマコロ)は住んでいた。 両親も別棟の建屋で暮らしている。 乗馬姿の安禄明に気付いた門衛は 直ちに 大きな門を内側に開いた。  安禄明は笑みをその門衛に送り、騎馬のまま母屋に向かって行く。 その後を楚詞が屋敷内の静けさを壊すまいと静かな歩みで馬を進めて行った。
 母屋への小さな内門で 馬を預け 安禄明は勝手知ったる我が家然と母屋に進み、庭に踏み入った。 木剣を交わす音が聞こえ、「さぁー 今一度」 と 叱たする女性の声がする。 進むにつれ、生垣越しに鉢巻を絞めた女性の後ろ姿の上半身が見え、幼女と対面しているようだ。 その向こうに巨漢の姿が見えてきた。

 「・・・ おおー これは義兄さん」と 声高に しかし その声には落ち付がある。 巨体が歩みを始め、 黒髪を大きく空に舞わせて 鉢巻き姿の女性が振り向いた。

 「こちらから出向くものを・・・・」と 巨体が 身を小さくするように生垣を回って近づいてきて、 頭礼し 頭をあげ、 訝しげに 「で、義兄さん こちらの方は・・・・」
 「 立ち話では・・・ ご両親は 在宅かな 部屋にて話そう、 オヤジ殿のご意見も聞きたい用事で 二人して早駆けしてきたが春風が心地よかったぞ 」

 「して 鳥賦呂(トブロ)は 剣の稽古はいかがじゃ まだ六歳の幼女、チムギどのがお相手では ちと可哀そうだ。 チムギどのが連れ出すのであろうが、鳥賦呂には剣より筆を持たすのが よろしの では・・・・ 」   「父が いつも 小言を言うのですが、あの気性、義兄さからも・・・・」

 「それよ、 それ 今日は 格別の天狗殿に 同行願っての早駆と言う次第でのぉー 」 いぶかる抹胡呂に話す禄明の目は、笑みをたたえている。 傍で聞いている楚詞には軽やかな兄弟の会話が羨ましく聞こえていた。  抹胡呂が簡素な庭を横切り奥の吾妻屋に二人を導いていった。 東屋には老夫婦が・・・・・・

 「これは、これは むさい当吾妻によくぞ 下馬下されました 」 巨体の石抹言(セキマゲン)は驚き、息子の抹胡呂を横目で見て、言葉をついだ。 抹胡呂は敬愛の眼差しで耶律楚詞と義兄・安禄明を見ている。 母屋の書斎の中である。

 「覗えば覗うほど、慙愧にも 今は 姿を隠された王記様に 似ておられる 」石抹言は巨体とは思えぬ身のこなし、隠者を思わせる落ち着き、異邦の目鼻立ちがくっきりする顔で まじまじと楚詞に慈愛あふれた眼差しを注ぎながら言った。
 
 「母を 知っておられますか 」 
 「はい 晋王・耶律敖盧斡閣下の王庭に ご依頼の書物をお届けに参りました折、 二三度 お会いいたしております。 遼国一の美貌と謳われた御尊顔 忘れるものではございません 」 

 「・・・・ では、父 にも 会われていましたか 」  「はい、もともとは こちらの明殿がご尊父・安禄衝殿に連れて行かれ、 何かの話の折に、 『孟子』が話題に上りした。  後日 手前の書を持って上がりました。 それ以降 時刻が許す限り お目見え叶っておりました。 ・・・・・・・しかし・・・・ 悔やんでも致し方ございません。 普王閣下は性善説をよく用いられた王、仁義による王道政治を貫かれました。 誠に 残念でなりません・・・ 」 

 「王子のことは 大石殿から 文にて聞いておりました。 また 安禄衝さまからも、 嵩山少林寺にて慧樹大師の教えを受けられたことも、 さらには 普王閣下がみまかれて以降 自らを王子とは言わせぬ事をも・・・・ 礼を失するかも知れませぬが、感服いたしておりました 」 石抹言・抹胡呂親子は 青き髭ぞり跡が映える貴公子を 目を細めて見詰め その凛とした立振舞に感嘆している。

 「して、義兄殿 お話とは・・・・」 抹胡呂が話の先を 急ぐ。 
 「先般、 父が楚詞殿に西夏への所要を依頼されて、 楚詞殿は 快くお引き受け下された 」
 
 「なんと、 王子・・・いや 楚詞様が 西夏の中興府に向かわれるか、 して 御出立は・・・」
 「私は 慧樹大師の下を離れて一年瀬半 耶律大石様の下で五原と燕京を行き来する 天狗です  御出立などと・・・・一人で いついかなる時でも・・・・」

 

 何らの気負いもせずに言う楚詞に 巨体を進めた石抹胡呂が安禄明義兄に顔を向けるや 「なれば、 同行者が居ても 差しさわりはないでしょうか・・・」と問いかけている。  

 禄明が口を開こうとする前に 、 「私には 西夏に向かう旅は、五山に向かうより長き道中 話し相手の道連はありがたいことでしょう 」   「なれば、 女性でも かまいませぬか 」

 「今朝ほど、安禄明様から お話を伺い、 ここに来ております 」と答える楚詞に、一時の ある種の 安堵の静寂が室内に流れる中 石抹言と抹胡呂親子は目と目で合図を交わしている。 
 「尊父殿、 大石殿には 文にて了解を頂けましょう、 父の所要とて 急ぐものでなし、 話の先は お判りになられた事と 思われますが・・・・」 と 石抹言に 端正な顔を向けた禄明が静かに口を開き、抹言が言葉を継いだ。
 
 「禄明殿、 金の阿骨打は大軍を擁して 迫っております。 耶律大石軍事統師は五原で天祚皇帝に足止めされているとも 聞き及びます。 都は長くは持ちますまい。 先般来、愚息が話しております事、 老父の憂い お耳に入っていると思われますが・・・・・」と 安禄明に向けられていた彫の深い顔の石抹言には立派で白い顎鬚が美しい。 彼は、楚詞を直視して言葉を続ける。

 「耶律楚詞殿、 この老父の願い 聞き届けて頂けましょうか 」    「いや、それよりも ご息女の意が・・・・・」と 楚詞は即答を避け、先ほどから静かに同席する老母に声を掛けた。 その声は静かに 明朗に流れ、初対面の堅苦しい雰囲気を和ませた。



 「・・・・これ、お湯を 運ばせよ、 お茶が冷えておるわ・・・・ 」 と 抹胡呂が戸外に叫ぶ、時を移さずに、お湯を運んできたのは 艶やかな黒髪に白い鉢巻を巻いている 稽古衣裳の女性であった。 「これ、チムギ なんだ、その姿は 」 抹言・抹胡呂親子が同時に言った。

 「だって、 鳥賦呂が離さないし、禄明兄様に気を使うことは無いでしょう、それに 兄様の・・・・」と、父兄に抗する石抹言の娘のチムギが抗弁の口を開き、言葉を濁した。 だが、彼女の視線は楚詞から目を離すことが出来ないでいた。



 その夜、 明け離された窓から春の風が流れ入る部屋には 石抹言老夫婦が 耶律楚詞を挟み、石抹胡呂夫妻と彼らの長子・鳥賦呂と長女・チチカ 妹のチムギ 安禄明たちが円卓を囲み 夕餉の時を楽しんでいた。 チムギは楚詞の対面に座り、見事な矢絣の紬衣服に身を包み、 黒髪の上には刺繡が綺麗に映える濃紺の帽子を載せていた。  ウイグルの民族衣装であろう。 彼女の視線は楚詞の明快な挙動 一つ一つから離れなかった。 

 石抹言氏は代々 契丹貴族蕭氏として 遼の皇后を出して来たウイグルの王族、 その血がチムギを自由闊達にしているのであろう。 庭先で奏でられる民族音楽・ムカムに楚詞は 話に聞く異郷を思っていた。 耶律楚詞は北方から南進した騎馬遊牧民、内モンゴルを中心に中国北辺を支配した耶律氏が皇族である。 また、安禄明の遠祖は康国(サマルカンド)のソグド人である。 ソグド人と突厥の混血である安禄山と血のつながりがある。 華北を経済的に収握するソグド人、政治的に運営するウイグル族、軍事的政権の保有者である耶律氏一族。 それぞれを代表する若き駒が 今宵 一堂に座し杯を交わしていた。 もともと、ウイグル族はゴビ砂漠北方のモンゴル高原に覇を唱え、南下した。 シルクロードを西方から交易を求めてソグドの民は東進してきた。 ウイグルはソグドと手を組んで漢中の軍事政権の中枢に入り込み、政治と経済の執行者として 各時代を生き延びてきた。 マニ教はユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教1などの流れを汲んでおり、サマルカンドを中心に北アフリカ、イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。

 ソグドの民がマニ教を中華に持ち込み、仏教に感化されなかった歴代王朝の高位者の心を掴んだ。 石抹言氏は漢中のマニ教団を取り仕切る有力者でもあった。 耶律一族の駿馬である耶律大石は、遼帝国内に於いて マニ教の最高位者であった。 漢南は梁山泊の宋江がマニ教信者を束ねていた。 耶律大石の連絡を受けた宋江が、北上する宋軍の背後を攪乱し脅かした水滸伝の猛者たちを指揮していた。

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_11節=

2015-03-24 15:27:43 | 歴史小説・躬行之譜

 帝都燕京に向かう秦王・耶律定皇太子は何もできなかったであろう。 五原を離れる折  摂政皇后と大石に会えなかった悲しさが終始去来し、 ただ変わりゆく視界のみを受け入れるしかできない、いや 視界が変化していくことすら しかと認識できない 弱々しい皇子であった。 活気を無くした彼の、その視界左方には陰山山脈が横たわり 、黒い山腹が終始付き纏い 牛舎の歩みを更に鈍く感じさせていた。  

 長城の北側の草原を東行に進む一団、遼帝国が皇太子の帰城を護衛するその一団には覇気は無かった。 晩春とは言え、草原の芽生えは遅く 夜半の寒さは時として凍てついた。 五原を離れて10日、二三日で万里の長城が挿箭嶺を越え、漢中に入る。 長城より都・燕京は近い。 金の阿骨打が軍勢に追われるように脱出した都に安住の場所はあるのであろうか・・・・。 金の将兵が、いや 阿骨打は燕雲十六州を宋に委ね、金銭の代価で身を引いたと言うが 金の威風で燕京は自由を奪われ、覇気ある遼の旧臣は遼に忠たらんとすればするほど失息しているであろう。 

 二三日前に耳にした父の皇后殺害事件。 大石の沈黙。 牛車に揺られながらの幼い秦王とは言え 摂政皇后の死が意味することを、耶律大石統帥が傍にいないことに 帝都燕京に人質として父の天祚皇帝から差し向けられている と 従僕達の話の端から知るようになっていた。 牛車を護衛する兵は来たときより多い。 しかし、耶律阿思が率いる50数名には緊張感も無く、さながら 場へ着飾った牛を引くようであった。

 過日、遼の天祚帝が入來山で金の太祖によって大敗し、長春に逃れ 陰山の五原に飛散したのは1122年の初頭。 一昨年のことであり、 同年の3月17日に天祚帝の従父の梁王・耶律淳が天錫帝として擁立されて「北遼」を建国し、北と南の敵に対処したのだが、 同年10月に梁王は病没した。 天祚帝の太子で五男の秦王・耶律定が擁立され、天錫帝の未亡人の蕭徳妃・蕭徳妃普賢女が摂政となり国政を見た。 しかし、1123年の初秋 燕京が金の攻撃を受けると、これを支えきれずに秦王と蕭徳妃は軍事統師・耶律大石らに支えられて 長春から西方の雲中は陰山の五原に移動した天祚帝のもとに身を寄せていた。

 大石が燕京に不在の期間に、北遼は 再び 天錫帝の太子の耶律朮烈(英宗)を擁立していた。 だが、燕京城は11月に金軍に包囲され、英宗は内訌によって家臣たちに殺害されていた。 こうして、北遼は滅亡の坂を転げ落ちて行き、遼・北遼の支配は殆ど壊滅した。 この状況を知るのは耶律大石と彼の参謀のみだった。 天祚皇帝がこれらの状況を的確に把握していたとは思えない。 

 因みに 阿骨打は、翌年の1123年秋9月19日に 天祚帝の追撃を試みたが途中で発病し、部堵濼(ウトゥル、現在の瀋陽付近)で56歳で病没し、同母弟の呉乞買(太宗)が後を継ぎ、1125年に天祚帝を捕え遼を完全に滅ぼしたが、歳幣の支払い等を巡って北宋と対立する。 呉乞買は、1127年“靖康の変”で北宋を滅ぼし華北一帯を領有するのだが・・・・・

 

 遼の皇太子秦王が長城を越え、南下を始めるに前に護衛軍を率いる耶律阿思が偵察隊を先行させた。 その数30余騎、金軍の警備は無いが 偵察隊の情報に基づき行動すれば、挿箭嶺長城(ソウセイレイチョウジョウ)に至る谷を避けて南下する間道を選び進めば 四五日で燕京の城郭まで近づける。 偵察隊の10騎は先駆けさせて、宮城に向かわせたのである。 南京(燕京)にいた北遼の大臣たちは 耶律大石軍事統師の帰還は望むべくも無く、失望の中で政務は手に着かなかった。 北遼は直面する金国が阿骨打の猛威と南宋に対抗しうる錦の御旗“天帝”を必要としていた。 しかし、遼の後継・北遼を取り囲む状況は 更なる厳しさを増していた。 一部の将兵は金に投降し、一部の大臣や官僚は宋に内通した。 阿骨打は天祚帝の捕獲命じ、遼の残余勢力を泳がせていた。 

 

 遼・北遼崩壊の約半年前に当たる1123年秋の上節旬の頃であろう、空には大きな満月がある夜半に、耶律楚詞が安禄明の屋敷に入って行く。 影が長く伸びる。 遼の皇太子・秦王一行が帝都・南京に辿り着くに頃合であった。 勝手知る安禄明の屋敷内、案内も請わずに楚詞は 月明かりで薄明な庭を横切り、書院の戸口で声を掛けた。

 「その声は楚詞どのか、・・・・入られよ」との返答に、耶律楚詞は観音開きの扉に静かに手を掛け 開き 中に入った。 黒檀の大きな机が中央にあり、その机は 黒く、落ち着いた光沢、袖の彫刻が見事である。 読み止しの書籍に筆掛けが机上にあり、静寂な室内は墨の香りが漂っている。 机の奥に安禄明が座していたのであろうが、立ち上がり 机を回り込んでくる。 大きく両手を広げて楚詞を抱擁した。 そして、 「大石殿の近辺は・・・・・・」と安禄明が総髪の楚詞に問いかけている。 耶律楚詞は武人の装いである。 僧装は脱ぎ捨て、総髪であるが新鮮な瑞々しさがある。 

 「耶律時殿が お傍を警護しております、危害の心配は・・・・・・しかし 」 楚詞は話しづらそうに 続ける。 「お聞きの事だと思いますが、 天祚帝は寵愛の蕭皇后を病気で亡くされています。 五原に入って間もなくの事でした。 そして、摂政皇后を殺害なされ・・・・更には 前年 翌保大3年の春の事、 天祚帝は 些細なことから、蕭皇后の御兄弟 蕭奉先・蕭保先を、 その子の蕭昂、蕭とともに誅殺する凶事を起こしておられます 」
 
 「 楚詞殿、 祖父の事は話しづらそうじゃなぁ ・・・・・」 
 「いえ、祖父とは言え、父を追い詰め、死を・・・ 五原にて 近くで観れば、皇帝としての いや 私くしからは・・・・」

 「大石殿からの伝書鳩文にて蕭徳妃普賢女さまの変事は 先般 知り得ている。 また、天祚帝の行動の委細は、父より知らされているが、・・・・・・・」 
 「秦王・皇太子と前後して離れましたゆえ、 大石様のお考えは解りかねます。 ただ、大石様は 皇太子出立の朝、 見送りを控えられました。 草庵の縁にて 『摂政皇后が姿を見せず  時や儂が皇子を見送れば、兵が騒ぐ』と耶律時様と私に話され、 その後、大石様は『時・楚詞 他言無用ぞ、 一昨夜 皇后様は殺害された』 」 と 小声で話されたのです。 そして、 「また、独り言のように 『この地には 長くはおれまい』 と・・・・・・」

 「天祚帝は大石殿を手放すまい、 北遼の支えとして戻らせるより、 大石殿の知略で己が身を 安全に保つ事のみ考えておられよう。 しかし、軽挙妄動に走るお方 奸臣の口に乗って、 何時・・・・・・」 安禄明は しばらく 腕を組み 考えていた。 貴族を思わせる聡明な顔立ちである。 

 「ところで、 楚詞殿、 石抹胡呂殿は知っておられるかな 儂の義弟じゃ 妹が嫁いでいる。 抹胡呂殿の妹が西夏の中興府(西夏の都、今日の銀川市)に行きたいらしい・・・・いや、都の風説に恐れてのことかも知れぬが、 ご両親も 都に居るよりもと乗り気でいる所に、 父の思飽が絡み、早く旅に出してやりたい。 ウイグルの姫御だ。 中興府には縁者もおろう、 が、 道中 今の状況では 御輿に乗っての旅はできまい 」 と 涼しい眼差しで楚詞の顔を伺いながら 話の方向を変えた。

 「楚詞殿、 姫御を 西夏まで送って行かぬか、 いや お転婆を連れ出してやらぬか・・・ 大石殿には 都の動きなど 文を走らせる 」 
 「大石様さえ ご納得 いただければ・・・ それに ご尊父のお役にたてる事なら・・・・・・」

 「これはいい、嵩山少林寺の天狗が護衛するとあらば、 ご両親も安心 あのお転婆も、おとなしく ついて行こう。 ・・・ 急かせるようだが、善は急げ これから 抹胡呂殿に会い行き、ご両親にもお会いいたそう。 父の要件は 旅に出る前に聞けば良し として・・・  まず、髭をあたれよ、あの姫御が汝の姿に驚くとは思えぬが・・・」 

 

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_10節=

2015-03-23 19:04:28 | 歴史小説・躬行之譜

 耶律楚詞が戻った1124年の晩春 久しぶりに 耶律大石は皇太子・秦王殿下に伺候した。 太陽が頭上に在り、温かい日和であった。 大石が部屋に上がると 皇太子は暗い部屋の中で鎮座していた。 窓からの陽光が 皇太子を浮かび上がらせ、蒼白の顔を物憂げに 皇太子は日が差さぬ薄暗い空間に視線を漂わせている。

 大石には 嫌な予感があった。  ここ、三日 毎日 同じ夢を見ていた。 天錫皇帝が現れ、その後 天錫の姿は天祚に変わる。 その天祚皇帝は薄暗い部屋 皇后の閨で戯れている。 皇后蕭徳妃は裸体を天祚皇帝に弄ばれている。 再び 天祚が天錫に変わる。 そして 天錫皇帝が 己が剣で、皇后の胸を 蕭徳妃を突く夢である。 久しぶりに皇太子を訪れようと思い立ち拝謁するのは この夢を否定する為かもしれなかった。 

 「秦王殿下 いかが なされた 」   「先日 父・みかど の勅命が降り、太子として燕京に去れ と・・・・」 俯いたままの秦王殿下が 弱々しく、答える。 大石は理解した。 幼い皇太子は従事から 勅命が意味することを理解させられたのであろう。 また 摂政の蕭徳妃・皇太后が常日頃に教えている大石への信頼が唯一無二の取りうる行動であると理解し、昨夜は一人で孤独に耐え 待っていたのであろう。 下を向いたまま、視線を上げない秦王の蒼白の顔に涙が零れ落ちたのを大石は見た。 そして、声を掛けることなく踵を返した。 大石は動揺することなく 直ちに 天祚皇帝に拝謁を願った。 が 許されなかった。 さらに 皇后の仮寓に 伺候に伺うことも許されなくなった。 その夜、大石は毎夜と 同じ夢を見た。 夢の中の皇后は いつも目を閉じていた。 

 皇太子・秦王殿下と一言の言葉を交わした日の三日後、 皇太子の位を剝奪され、元の秦王が太子として燕京に去らねばならぬ日の前日に 再三再四の連日の拝謁要望が許可されたと連絡があり、大石は直ちに皇帝の下に登った。 砦のような宮廷内接見の間には諸将は居ず、檀上の皇帝と左右の側近が待っていた。 大石は長身の胸を張り、一礼の後 直ちに口を開いた。 「皇帝閣下、 皇太子・秦王殿下の降格 燕京への太子として帰任 これは いかなる ことでありましょうか。」 

皇帝は臆するように腰を引いた。 そして、虚勢を張るがごとく 大きく胸を張り、声高に 「大石、汝たちは天錫帝を擁立し、北遼を建て あまつさえ、「湘陰王」に余をと言わしめた。 この壇上に立つは太祖が遼王朝の七世 天祚。 秦王を帝都に向かわせるは 遼王朝再興の礎、 今宵 鹿鳴の宴に参列するが良い 」 

 「なれば、 蕭徳妃皇后陛下に秦王との同行が勅命を 発せられましたか 」 

 「皇后は同行叶わぬ であろう、北遼の建国は 摂政の意志であった。 汝らは摂政皇后を助け、 幼き秦王を皇太子としての冠位を持たせた上で、 摂政を維持するため 朝議を誘導した。 辞退する耶律淳に 策を巡らし、無理やり 天錫帝として擁立した。」 

 虚勢を飾る生気なき声が 大石の耳に至り来るようであった。 声はなお 続く 「我が忠臣、宰相・李処温を誅殺した事、汝の北遼への忠節 遼王朝の永続の為ゆえであった事と 認め、汝は不問に致した が、・・・・・」  

 「さらに 申しておこう、 昨夜 皇后は 耶律淳の下に、余が送った。 余に服せず 余の怒りをかったのじゃ 」

 

 大石の耳の中で 『耶律淳の下に、余が送った』 の低く鈍い声が幾重にも繰り返され 反響し 大石を動揺させた。 ・・・・・≪蕭徳妃が皇帝・天祚に殺害される事件が起きていた≫・・・・・・・しかし、大石は表情も変えずに、「そのこと 皇太子 いや 秦王太子はご存知か?」 と皇帝に向かって設問した。

 「いずれ 都にて耳にするであろう、太子には まつりごとを知るには幼すぎる 」 天祚帝の返答は予測できたのであろうが、大石は 未だ治まらぬ動揺を隠す為であろうか 超然と言う、

「皇帝閣下の お時間を 頂き また 愚将へのお言葉 肝に銘じました。 今宵の鹿鳴の宴 参加せぬ事 お許しを賜りたい」

 「太子に伝えおく、 一度 西夏に足を向けては どうか・・・・ 西夏王は喜ぶだろう、 そちの武勇は 天下に轟いているらしい。 西夏の姫君たちは西方の美形ぞろいと言うではないか・・・・・ 」

 耶律大石は 重い足取りで草庵に向かった。 その耳の中では『耶律淳の下に、余が送った』が何時までも反響していた。 身に危険を感じるよう事は なかったが、・・・・・・ 内も外も安住できぬ、お互いの不審が渦巻いていると 大石は肌で感じていた。 

 ・・・・・資料として ; 西夏(1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。 首都は興慶(現在の銀川)。 モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされる王朝。 西夏の起源は初にまでさかのぼる事ができる。 この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。 その中、拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。 唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。

初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。 当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。 李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。 その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、独自の文字である西夏文字を制定した。 近隣を制圧した彼は、1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。

西夏は建国後、と同盟しに対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。 この軍事対立は1044年の和議成立(慶暦の和約)まで続いた。 宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。 しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。 ただ、宋との和議成立後もたびたび局地的な戦闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていた。 李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である沒蔵氏による摂政が行われた。 この時期遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、遼に臣従する立場となった。

1063年、吐蕃禹蔵花麻が西夏に帰属した。 皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになった。 しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしている。 李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなった。

1115年、が成立すると遼に対し侵攻を開始した。 1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命(領内オルドス北方の五原に仮寓を認める)、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。 李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。 そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなる。・・・・・・・・・ 

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_09節=

2015-03-22 18:06:14 | 歴史小説・躬行之譜

 五原に大石たちが 辿り着いた日から 三ヶ月が過ぎていた。 1124年 春 帝都の梅花が咲き、散り出す頃である。 ここ陰山山麓の王庭には、無論 梅林は無い。 風は未だに 身を刺し、時折起こる突風が 沙漠の流沙を巻き上げた。 地表に砂が舞い  微小の流沙が天空を曇らせる。 上空に舞い上がった黄砂が燕京(北京)の空を黄色く変える。 黄河は凍りつき、生命の息吹はない。 仮寓とは言え、王庭は前方に広がる葦原と後背の砂漠地帯と水なき山稜に守られ、穏やかであった。 ただ、緑少なく 急造の王宮を見れば 砦の観である。 王宮を思わせるのは後宮の存在のみであろうか。 

 遼の皇帝・天祚帝は金軍に追われるように来訪下北遼皇帝・秦王殿下(天祚帝の正嗣五男・皇太子)を疎み、また 摂政する天錫帝の未亡人の蕭徳妃を猜疑の眼で見るようになっていた。 耶律大石は 自分達が即位させた天錫皇帝の寵愛皇后・蕭徳妃を皇帝・天祚が 己の幾人目かの妃に望んでいることを この地に着て、まもなく知った。また 秦王殿下の摂政皇太后としての立場から 天祚帝の後宮に入る事を皇后が拒絶している事実をも知った。 以来 摂政皇后の意を汲みとった大石は、事あるごとに皇帝に異議を唱えている。 しかしまた、皇帝が幼年の実子・五男を皇太子・秦王として冠位を与えている事実に、 皇帝が秦王皇太子を疎み始めた理由は全く見当たらなかった。 がしかし 大石には、皇帝が秦王皇太子(北遼皇帝)を疎み始めた理由は摂政皇后の美貌に起因しているのでは・・・・・また “皇太子の存在が摂政皇后の拒否に結びついている” のでは・・・・と 

 過日の事。 保大元年(1121年)に、枢密使の蕭奉先(ショウホウセン、遼の外戚)が、天祚帝の長男で太子候補の晋王耶律敖盧斡と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余睹(晋王の叔母の夫、金の太祖・阿骨打に投降)と対立していた。 そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王耶律定を太子とすべく「余睹による晋王擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を信じてしまった。 そのため、危険を感じた余睹は金に降ってしまい、間もなく晋王の生母の蕭文妃は賜死させられ、さらに翌年1月に、擁立の疑いを持たれた晋王も絞首刑に処されてしまう。 蕭奉先の思惑通りに秦王が太子に定まったのだが。 

 しかし、金の太祖と入来山で戦って大敗した天祚帝は戦場離脱し、長春に逃れ 逃亡した。 留守を預かる皇族の耶律大石と李処温らは天祚帝の従父の耶律涅里(淳)を擁立し北遼を建国した。 燕京にて涅里(淳)は天錫帝として即位するが三ヶ月で崩御し、北遼皇帝は秦王・耶律定が蕭徳妃摂政の下に擁立されたのは昨年(1122年)の10月のこと。 以来 金の阿骨打が軍勢に追われて、遼の皇帝・天祚帝の下への逃避行なのだ。 だが、その天祚帝は暗愚な性格で政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨むなど、遼の弱体化を露見させ、民心の離反を招いたのだ。 好色でもあった。 

 耶律大石は思い返している。 三ヶ月ほど前 この王庭の門を潜り 皇帝・天祚に拝謁した時の事を・・・・・ あの折の 皇帝の態度を 天祚帝の一言 一言を・・・・ 

  「大石、汝 いかなるいわれで 我が従父の耶律淳を擁し 天錫皇帝として北遼を開かせたか・・・・」  顔色の変化を悟られぬように声を高らめ、玉座の前方に腰を預けるように座る皇帝は、責問を続けた。 = その時 大石は 傲然と天錫帝を睨み、『天祚帝が逃げたからだ』 と史書は記している=

  「我が忠臣、宰相・李処温と子女を誅殺したのは いかなるいわれか 」 

  『宋と内通した上、共に 擁した天錫帝を 薬をもって 崩御せしめた ゆえに』 と大石は屹然と、天祚帝を見詰めて言う。 その声は凛と部屋に響いた。 同席の蕭徳妃皇后の嫋やかな顔が 一瞬青ざめ その姿態がよろめいた。 天錫皇帝の未亡人帝蕭徳妃皇后のうろたえた様を玉座から見下ろす皇帝は見逃さなかった。 大石は皇帝の冷ややかに蕭徳妃を見下していた視線が熱を帯びた事を知り、一瞬 憎悪した。 

  「この地に、皇太子を連れて参ったのは いかなる しょぞんか 」   「秦王殿下は 皇帝が冠位をお与えに成った皇太子、金と宋が合力を致した今 遼王朝を永続せしめるが 我が勤め。 皇帝が西に走られた空位の都で将軍・将士を束ね、民を安んずるには 天下人を擁立せねば 成りますまい 」 大石の皇帝を見上げる眼光は力を増し、その凛とした声は四辺を圧していく。  「北遼は 今、皇帝の皇太子を擁立いたしております。 皇帝の血筋を絶やすわけには参りませぬ。 また、いま 帝都燕京では金に亡命した耶律余睹将軍が南の宋の軍勢・20万余と対峙し、北の阿骨打が50万の騎馬隊を燕京に進軍させて、遼の官人を籠絡し あるいは武力で調伏しておる事は ご存じであられましょう。 北帰によって 耶律家の遼を再興するしか 我が策は御座いません 」 大石は 臆すること無く 言い放った。 大石の才知・軍略を知る皇帝は威圧されていた。 がしかし、皇帝は、耶律大石統帥には視線を向けず、摂政の蕭徳妃皇后を見詰め続けていた。  

 未だ、春が訪れぬ 夕刻 四辺を眺めるでもなく、耶律大石は寒風に身を晒し、佇み 考えていた。 大小の湖面が散在する風景、湖面は氷結している。 草木は全て砂漠と同色の茶色。 音も無く、生命の営みは見られない。 《この王庭、わずか 三万足らずの陣容で、皇帝は 動こうともせず、間諜を都に送ろうともせず 西夏にのみ 誼を取り、己が延命のみを考えている》・・・・・のか。 《皇太子の摂生・蕭徳妃皇后さまのみが この局面を打開しようと 待っておられる》、《耶律尚将軍は何処を進んでおられる・・・・・・》・・・・・・されど、・・・・・。 

 皇帝は耶律大石の人望に 武勇に 英知に嫉妬していた。 天祚帝は、もとより 帝たる器ではない。 実子である皇太子・秦王を擁立する大石が目障りであった。 大石の献策を退け、西夏との誼を密にする策動以外に行動せず、華中の帝都・燕京の状況などには 全く関心を持たなかった。 ただ、天祚皇帝は 大石が保護するがごとく支え励ます天錫帝の未亡人・蕭徳妃の美貌のみが日々の関心事であった。 また、若き蕭徳妃皇后が幼き秦王を養護し、摂政するいるさまに 秦王を皇后から遠座けさせていた。  事あるたびに 皇后を孤立させたが、後宮に入れる策動は成功していなかった。 皇后は大石を支えにして、帝の要求を拒み続けていた。 

 天祚帝に与えられた吾妻屋の前で大石は、漠然と思案に耽っていた。 近辺に佇む配下の者はいない。 吾妻屋に一人 寝起きしているのだ。 時が過ぎたのであろう、大きな太陽が傾いていた。 草木の上辺が赤く染まり、氷結している湖面も陰影を濃くしている。 

 気づかぬうちに、吾妻屋の傍に僧姿の耶律楚詞が立っていた。 彼の影が長く伸び、大石は 今 その影に気付いたように顔を上げ、逆光で判別できない影主体を一瞥して その傍に歩み寄って行き、笑みを浮かべて 声を掛けた。 「安禄明はいかがであった、 それに 安禄衝殿は壮健であられたか・・・・ 」 その声にはねぎらいの暖かさがあった。

 「これに、安禄明様の文が 」     「して、安禄衝殿には・・・・」   「安禄衝さまは、宋との戦いに 金の将軍として耶律余睹殿が善戦されている事をお喜びで御座いました。 ただ 西夏の要人、セデキ・ウルフ様からの知らせとして 天祚帝様が誼を図ろうとするも西夏王は確たる言質をお与えに成る考えは無い と 申されました。」  

 「さもありなん。 安禄衝殿の御家族は息災で在られたであろうが、 都の様子は いかがであったかのぉ 」  

 「安禄明様の計らいで、 いろいろ見てまいりました。 総じて、 民に落ち着きがなく、諸将も北・南からの重圧に耐えきるには 帝が不在の今 軍事統師殿の御旗が必要と言っていました。」 

 「耶律余睹殿には お会いしたかな? 」   「いや、 燕雲十六州の太原に向かわれており お会いできませんでしたが、 安禄明さまは 声を落とされて 『余賭将軍は 一途な方 武弁のみで 大石殿のように 政経が無い、金の阿骨打に御されなければ良いが 』 と申されておりました。」

 「いつ 都を離れたなかな?」    「十日ほど前 太行山脈を超えて 当地に 」   「騎馬より 早掛けじゃなぁ・・・で、 山西・雲中のようすは 」   「南宋の間者が 入り込んでいるもよう、 この王庭にも居るやも 知れません 」 

 

 「兄上の身辺は・・・・」   「こちらが自若でも、皇帝が苛立っているのぉ、そろそろ 動きがあるかも知れぬ。 また、 ここに駐屯する兵は、望郷の念が目立つように成ってはいるが、皇帝が動かねば兵も動けぬ・・・」 

 「さて、何もないが、 皇后様からの雉を戴いておる、都では口に出来ぬが・・・濁り酒に雉 僧姿の身には罪かも知れぬが 慧樹大師も目をつぶられよう、 中で 続きは聞こう・・・・」 

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_08節=

2015-03-21 19:43:10 | 歴史小説・躬行之譜

 風が出てきた。 ゴビ砂漠の地表に砂塵が舞い、陰山山脈の黒き山肌が その陰影を薄くした。 遅い朝餉を済ました耶律楚詞は、緊張から一時の開放を覚えた。 砂塵が河原を低く舞い、舞う砂の音が聞こえそうな静寂の中に身を委ねていた。 ふと、 馬の嘶きかと、東方を擬視した。 舞う砂塵が遠方を霞める。 河原の境を示すような潅木がまばらに並び、その根元の草が靡いている。 幻聴か、 作務服の楚詞は東方に神経を集中している。 

 再び 馬の嘶きを耳が捉えた。 楚詞は、一瞬耳を疑い 立ち上がると河原を東に走った。 一条の樹林帯に達すると、目指した巨木に難なく攀じ登った。 砂塵が地表で乱舞しているが、20尺も登れば視界を遮るものはない。 楚詞は 疎らな樹林帯に沿って東方を窺がい、木々の北側を注意深く 目を移していった。 樹林帯の北側は砂漠が広がっている。  

 白馬であろう姿が小さく見えた。 騎馬武者に違いないと 楚詞は緊張した。 こちらに向かって来る。 白馬に跨る騎馬武者の姿が樹木からこぼれる陽光の下に はっきりと視える。 その後方に 騎馬武者数名 そして 牛二頭が曳く牛車の幌が確認できた。  ≪耶律さまだ 耶律様だ≫と声を発すると同時に 巨木の枝から地表に飛んだ。 急いで河原の小屋掛けに戻り、何もないのだが、全てを整理した。 そして 衣服を脱ぎ捨て、肌を切る黄河の水にて水浴を済ませた。 高ぶりは静まり、慧樹大師の衣に 手を通した。 

 下草を踏み、楚詞は東に歩んで行く。 まばらとは言え一条の樹林帯である。 広く明けた下草の荒れを北側に抜け出し、砂漠との境を東に進んでいった。 砂嵐は止んでいた。 やや、急ぎ足である。 周囲に全神経を注ぎながら。 一時の後 二人の騎馬武者が林を突いて、迫り来た。 楚詞を認知し、緊張しているようである。 近づくにつれ、楚詞目指して砂塵をあげ、飛ぶように近づいて来た。 直ちに、楚詞は片膝を地に付けて低頭した。 

 「僧 聞くが、この様な場所で なにゆえ 」 

 「耶律大石軍事統師殿の一行かと これにて待つは 晋王・耶律敖盧斡が一子  耶律楚詞。 耶律大石様を ここにて お待ち申しておりました 」   

 二人の騎馬武者はその申し出に 慌てて下馬したが、不審が晴れぬ様子にて 剣の柄に手をやり 「その証は・・・・」    「ここに 師の文がございます、 これを・・・・・」  差し出された 一通の封書を受けた取った武人は 裏面の確認もそこそこに、すばやく騎馬するや 馬に鞭を当てて走り出している。  走り去る騎馬武者が起こす砂塵が舞う、疎らな樹林の間で消えずに漂っている。 一時の後 散在する樹林の奥に砂塵を突いて、白馬が疾走して来るのが見えた。 砂塵が再び舞い上がる。 白馬のみぐんぐんと砂塵を背後に巻き上げて迫りくる。 騎者は伺えない、 が 白馬を確認できるや、楚詞は飛翔していた。 

 「馬を借りる、ごめん」  僧のすばやい挙動に 制することも叶わず、騎馬武者は圧倒された武人は、 ただ 大きく目を開いたままである。 しかし 急いで後を追った。 

 耶律大石は、疾走して来る伝令のただならぬ様子に 馬を進め 馬上で封書を受け取った。 直ちに、裏を覗った大石は 時を置かずに 『時 あとは頼む』と大声の指令を後方にいる腹心の時に発し、愛馬に鞭を当てるも もどがしげに 一目散に 馬を走らせていた。 彼が見た封書の裏には、【慧樹】と墨痕鮮やかに書かれていた。 大石の心が躍ったのである。

 楚詞は大きく迫りくる 白馬が≪大石様だ≫と確認できるや、手綱を絞り 引き、下馬した。 そして、片膝を地面に付けた。 その姿勢で 髭が生えそろわぬ顔を上げ、白馬の主から目を離さずに耶律大石統帥を待った。  やや 歩みを落とした馬上から 凛とした声が飛んだ。  「晋王が長子 楚詞王子でござろう 立たれよ 立たれよ」   楚詞の 日に焼けた秀麗な顔に一条の涙が落ちた。 

 身の丈を越す葦原の海 ゴビ砂漠が葦原の北にあるのだが、近くまで 陰山の黒き山肌が迫り、葦原はその麓まで続くようであった。 馬上からは四方が見渡せ、穏やかではあるが寒風がそよぐ。 厳冬になれば、マイナス40度近くの厳しい原野に変貌するが、牛車の轍は乾いた地表に支えられ、二頭の牛が曳くのを 容易にしていた。 冬に架かろうとする黄河北方の五原が葦原を騎馬武者三十数名が北上していた。 黄河が気ままに奔走した跡の湖面が散在し、南に馬の鼻を向ければ 蛇行する黄河の河原である。 対岸がオルドス。 

 耶律時は騎馬武者三十数名と共に 牛車を護衛しつつ 耶律大石の後を追っていた。 彼の背には美しい指物旗が垂直に掲げられている。 北遼・軍事統師の印旗である。 穂先が純白の毛で飾られている。 それは あたかも葦原の海に浮ぶ小舟が帆のように、また 耶律大石の存在を誇示するがごとく 葦原の海を北に向かって進んでいた。 

 耶律大石は白馬に跨り、一隊を先導していく。 その傍には僧衣姿の耶律楚詞が寄り添うように轡を並べて進んでいた。 彼の顔は晴れ晴れとし、目には輝きがあった。  大石は時折、温かい目を楚詞に注ぐも、顔には憂いがあった。 時折 吹く風が二人の会話を四散した。 耶律時には その笑い声のみ聞こえてきた。 

 「耶律楚詞王子、 この地を いかが見る・・・・」   「西夏へ10日も要せず、 あの陰山が切れる西方より北に向かえば蒙古の大草原に至るも10日でありましょう。 草原を東向すれば 騎馬にてこれも10日で小興安嶺山脈は我らが故地に至りましょう 」 何らの躊躇いもなく 答える楚詞は 不満顔で言葉を続けた。 

 「軍事統師さま、約束ではございませんか 王子と呼ばないことは・・・・」   「忘れてはいぬ、 王子の いや 楚詞の僧衣を見ると つい普王の事を思い出してのぉ・・・・ それで、この地は 仮寓の王庭に相応しいか 」 大石の眼は 優しく注がれ、 また 前方を覗うように 陰山を眺めている。 

 「この葦原、身を隠すには適地 また 葦のそよぎが敵の動向を知らせてくれます、が、この時期に火責めで包囲さるれば 適地が死地に変わりましょう 」 

 「我は 慧樹大師殿に感謝申し上げねばならぬのぉ、楚詞よく見た 」    「明後日になれば 五原の王庭の門を潜る。 王庭に至らば、 楚詞 汝 天祚皇帝に めどうりするか・・・」 質する大石の眼は鋭く、 楚詞から離れない。 楚詞もその眼に答えた。  「父の無念は考えません。 皇帝としての立場がさせた事でしょう、 しかし 秦王殿下をいかが遇されるか、また 蕭徳妃皇后の拝謁をお認めに成られるだろうか それに 北遼を差配された 大石軍事統師さまを厚遇なされるでしょうか・・・・私には祖父が判りかねます。 ただ、 この度は 大石様の客僧として、大石様の傍にて 王庭の一隅に住まわせて頂き 明日を考えとう思います 」 楚詞は 眼をそらせることなく、 考え考え 明朗に答えていく。

 「勧める我が衣服に着替えぬは その為だったか、 河原で会った日から はや七日が過ぎ、二日前から 時に旗を掲げ差している。 何事もなく、このまま 王庭の門前に至らば、この身への処遇は予測出来る。 王庭には間諜が走っている事であろうし・・・  旗を掲げた時から、我らが意志は伝わっていよう。 処遇はともかくとして このそよぐ風のように 我らは振舞えばいい。 また、秦王殿下は天祚皇帝の第五子 しかも 晩年生まれた皇子 愛しかろう。 天錫皇帝の皇后さまは 今は皇太后として秦王殿下を慈しみ、擁護されているお方 心配は杞憂であろうが・・・・・」 と話す大石の顔には憂いが漂っている。 その憂いを引きずって燕京よりこの地まで、 秦王と蕭徳妃皇后を天祚帝の下に導いてきたのだが、 楚詞に向ける顔には喜びがあった。 

 「楚詞 嬉しく思う、 それに 頼みが一つある 」    「いかような事でも・・・・・・」   「王庭の様子を ふみにしたためるゆえ、 安禄明に届けてもらいたい 」   「安禄明さまに 嬉しゅうございます、 それに ご尊父・安禄衝さまは 私が父とも思うお方 喜んで参りましょう 」 

 「ありがたい、 安禄明との連絡は密に取らねばならぬが もはや 敵陣。 先日 兵の一人が 汝の飛翔に驚いたと申して居った。 これから後、嵩山少林寺での修業が役に立つかも知れぬが、 王子である身は忘れるではない 」  日が陰り始め、 一行は 大きな湖面が現れた方向へと葦原を進んで行った。  

・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

 ================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_07節=

2015-03-20 16:36:10 | 浪漫紀行・漫遊之譜

 古来より、“オルドスを征する者天下を征す”と言われてきた。 鄂爾多斯(Ordos、オルドス)の豊潤な大草原は遊牧民にとっても農耕民にとっても豊潤なちいきである。 そのオルドスの外周を黄河が流れる。 逆U字型にオルドスを迂回し流れ黄河 逆U字型の頂頭部である北側はゴビ砂漠の西端部である。 陰山山脈がゴビ砂漠の奥、北側に遠望できる。 他方、オルドス地方の南部域には 東西に万里の長城が二重三重に走っている。 

 逆U字型の頂頭部の黄河は西より東にゆったりと流れている。 川床は明確ではなく、河原は広く 本流はどれか判別できぬほど 自由気ままに広がり蛇行し、冬季は氷結する。 黄河で囲まれる広大なオルドス地方は全体がおしなべて平坦な草原である。 西方に丘陵が横たわるが、東方はいつしか黄河の広い河原となり 黄河を離れて東行しれば山西雲中(大同市)に至る。  北上してきた黄河が巴彦淖尔(バヤンノール)あたりで90度右折して東に向かうのだが、包頭(パオトウ)を過ぎたあたりから再び右折して南下する。 しかし、大河としての威容な形状を示すのは、楡林東部あたりからである。 この付近は燕雲十六州の西部域であり、黄河は万里の長城に沿って南南西に流れ 洛陽=長安(西安)の潼関に至り、三門峡に流れいく。 

 三門峡のその先の右岸、中岳嵩山の中の少室山の北麓にある寺院に住まいする禅僧の慧樹大師を師と仰ぐ若者が、黄河の川筋が南下し始める包頭付近の河原に居た。 冷える早朝の黄河が河原 粗末な作務服を着込み、飛ぶように足を運ぶんでいる。 敏捷に浅瀬を渡り、石から石へと飛び 深き瀬を渡るようすは僧ではない。  しなやかな身体は動物を思わせた。 頭髪は短く、髭も短いが濃い。 長身瘦躯である。 気品を漂わせている。 

 その若者は耶律楚詞であった。 嵩山少林寺を離れ、黄河を越えて大同に至り、この地に辿り着くおに五日を要していない。 北上する内に、何時しか 足元の土は赤褐色より 黄色を増し、黄褐色に変わっている。 川床と堤の境界は定かでなく、前方には一条のまばらな林がある。 村落は見当たらないが、かなたに霞む山脈がある。 陰山山脈であろう。 嵩山少林寺を離れ、黄河を越え、太原・大同を通過してこの地に到達したのは三日前である。 嵩山の慧樹大師に別れを告げた日より、はや10日が過ぎていた。 

 東西が一望でき、視界を遮る一物は無い。 黄河北端の河原、堆積する大小の石 河原は広く、堤らしき起伏は無い。 ただ、樹木の列がその境界を示している。 樹木帯は幅狭く下草が茂るも、背丈のある草は枯れだしていた。 その樹林の先は砂漠が広がり、 その先に黒き山脈が伺える。 三日前から 耶律楚詞はこの場所にいたのである。 東に流れていた黄河が気ままに広い河原を蛇行しながら、気が付けば南に向きを変える屈点近くである。 村落は近くには見当たらず、遊牧する民もこの地には居なようである。 だだ、東方からの奇人の姿はないかと 大同あたりから情報を集めつつ、この地に至り、野営している。  

 1123年秋 10月中旬の事である。 降りそそぐ星が 連夜の孤独を慰めてくれた。 が、夜半は零度近くに下がり、楚詞は流木の焚火を絶やさなかった。 その弱々しく寒気を防ぐ炎が彼を慰めてくれた。 仮営は六日を過ぎた翌日の昼下がり 陽光は弱く四辺を照らす。 遠望する陰山の山服は灰色の影を這わせ、縦縞を刻んでいる。 何時もの場所 巨木の幹に腰を下ろして、楚詞は自問していた。

 ≪二日も この河原を西走すれば五原、 五原に入れば祖父には会える・・・・・・・≫   ≪が、このままでは、王庭の門は潜れぬ ≫    ≪耶律さまは 必ずこの地を通るはず、 未だその足跡はないが・・・必ず・・・≫  

 

 太行山脈は小五台山の北側を西に進む隊列が 山間の間道で喘いでいた。 長蛇の列である。 騎馬武者達も馬の轡を引き、日毀れのする樹林帯を行く。 農夫姿の者も多い。 その長蛇の列は一里にも及んでいた。 百名ぐらいであろうか、個々に集団を作り 農夫姿の者たちは荷を背に振り分けた馬を追っていた。 騎馬武者は凡そ800、 農夫姿は150であろう。 五十名程度の騎馬武者の集団が先頭と最後尾にいた。 その間を20集団が進む。 その集団は騎馬武者と農夫で構成されていた。

 「耶律尚将軍 あの山を回り込めば 張家口は山西平野が望めるはず。 山西には 縁者が多くいるし、金も宋もこの地までは 未だ手を伸ばしておりますまい 」   「羽殿 油断は禁物じゃ、 金は耶律大石軍事統師殿を全力で追っていよう。 しかし、西方の各地には間諜を配していよう。 間道を抜ければ、 この人数 嫌でも間諜の目に留まる。 怪しき者は縁者人とて 切り捨てよ・・・」 

 「軍事統師殿は 無事、着かれたであろうか・・・・」   「師の事だ、あえて 少人数で立たれた上は 策ありであろう。 我らは 雪降る折、黄河が凍てつく時に着けばいい。 この荷じゃ、黄河が氷り着けば、道程は楽になる。 くれぐれも、陰山が見えるまで急ぐではない 」 

 遼王朝の精鋭騎馬武者800余名は引退していた老将・耶律尚に率いられ、太行山脈を西に進んでいった。 同じ頃、宋の武将・郝仲連らが軍勢を率いて、黄河を越えて遠征を仕掛けた。 金の阿骨打に帰順した耶律余睹は金の皇族・粘没喝(ねんぼつかつ)の武将として、西京(大同)の統括に当たっていた。 彼は都元帥府・右都監としてこの宋軍を西京南方の大原で迎え撃ち、郝仲連ら数万の軍勢を壊滅させていた。 

 その西京(大同)を耶律楚詞が父・耶律敖盧斡を思いながら華厳寺に立ち寄る事無く北に向かったのは六日前の事。 耶律余睹が耶律敖盧斡を帝位に就けようと画策していると天祚帝に讒言され、身の危険を感じて金に投降したのは一昨年の事。 昨年の事であるが再び帝位を狙うと告発された父・敖盧斡が祖父の天祚帝に派遣された処刑執行人に絞め殺されたと慧樹大師から聞いていたのは、昨年の事である。 しかし、耶律楚詞は叔父・耶律余睹が金の皇帝・阿骨打の武将であることは知らない。 

・・・・・・・・・・・資料 ウイキペヂアより : オルドス地方(前節イラスト参照)

オルドス地方(オルドスちほう、鄂爾多斯)とは、中国内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方。行政区分としては伊克昭盟が2002年にオルドス市となり、オルドス地方の大半を占める。黄河対岸(北側)の河套平原なども含め、河套(かとう)ともいう。

大部分が海抜1500メートル前後の高原準平原)でオルドス高原と呼ばれ、南側は黄土高原に続く。一部はステップ、大部分が砂漠オルドス砂漠という。砂漠は大きく2つに分かれており、それぞれクブチ(庫布其)砂漠ムウス(毛烏素)砂漠という。面積はそれぞれ1万6千平方キロメートル、4万2千平方キロメートル。農業や牧畜が行われるが、砂漠化土壌流失が激しい。年平均降水量は200~500mmほどだが、半分以上が梅雨秋雨にあたる7~9月に降る。また、雨が多い年は平均の2~4倍の雨が降ることもあり、洪水や激しい土壌流失が起こる。

オルドスという地名は、代以降この地に住み着いたモンゴル人の部族「オルドス部」に由来する。それよりはるか前、旧石器時代から人が住み、特に紀元前6世紀から2世紀にかけて遊牧騎馬民族によるオルドス青銅器文化が栄えた。匈奴によって次々に征服され、南部には万里の長城が築かれた。その後も匈奴系や突厥系などの遊牧民が住み、遊牧民族王朝(西夏など)あるいは中華王朝(など)による支配を受けた。代から漢族が入植し、現在の住民は漢族が多い。 

・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================
   

 

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

================================================

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_06節=

2015-03-19 17:19:19 | 歴史小説・躬行之譜

 大石が目指す陰山・五原には帝都を放り出した天祚帝が逃避していた。 天祚帝は遼帝国の第9代皇帝。 第8代皇帝・道宗の子 聡明な皇太子・耶魯斡(梁王濬)の長男として生まれる。 幼名は阿果。 しかし 太康元年(1075年)11月 父・梁王濬(皇太子)が政争に巻き込まれ、無実の罪に陥れられた。 誣告の虚言を信じた皇帝・道宗は皇太子・梁王濬を幽閉する。 誣告者・耶律乙辛は幽閉先で皇太子を暗殺してしまう。 

 幼くして父を失った阿果と妹の秦晋国梁王濬長公主は、これを哀れに思った祖父の道宗によってとともに養われ、梁王に冊封された。 皇太子・梁王濬が早逝した後、皇帝道宗は甥の涅里を一時的に皇太甥に定めるも、周囲の諫めを受けて孫の阿果を皇太孫と定めて政権を安定させた。 

 しかし、道宗の治世は、皇帝の暗愚と奸臣の専権によって忠臣が迫害されたり、貴顕間の軋轢が続いたりして、朝政は乱れに乱れた。 また、土地の兼併が進むにつれて民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた東北の女真は反抗に立ち上がった。

女真の反乱は、道宗の没後25年目に遼を滅ぼす烈火となるのであった。 従って 次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の47年に及ぶ治世は、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではない。 乾統元年(1101年2月12日)、第8代皇帝・道宗の崩御により 梁王・阿果が遼の第9代(最後)の皇帝・天祚帝として即位した。 

 天祚帝は暗愚な性格である。 政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨むなど、民心の離反を招いた。 外交面でも天慶5年(1115年)に遼に従属していた女真が金を建国して独立すると、親征の討伐軍を派遣。 だが、逆に大敗を帰し、遼の弱体化を露見させる結果を招く。 

 保大元年(1121年)の事、枢密使の蕭奉先(遼の外戚)が、天祚帝の長男で太子候補の晋王耶律敖盧斡と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余睹(晋王の叔母の夫)と対立していた。 そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王・耶律定を太子とすべく「余睹による晋王擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を信じてしまった。 

 そのため、危険を感じた余睹は金に降ってしまった。 間もなく 天祚帝は晋王の生母の蕭文妃を賜死させ、さらに翌年1月 擁立の疑いを持たれた晋王を絞首刑に処した。 蕭奉先の思惑通りに秦王が太子として定まった。 そして 翌年の保大2年(1122年3月7日)、天祚帝は再び親征する。 女真人の金から攻撃を受けた遼帝国の天祚帝は、金の太祖と入来山で合戦、矛を交える。 しかし 天祚帝は、再び 大敗して長春に逃れ、従軍を整えなおして 長春から西の雲中の陰山に逃亡した。 

 この時、耶律大石と李処温(宰相)とともに南京(燕京、現在の北京)において、第7代興宗の孫 天祚帝の従父の耶律涅里(淳)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝として北遼を建国するが・・・・・耶律涅里(淳)は、天祚帝が金の太祖に入來山で大敗し、長春に逃れた時、宗室の御営副都統の耶律章奴らは第8代皇帝・道宗の皇太甥だった涅里(淳)の擁立を目論んだ。 しかし、涅里(淳)は章奴の使者を斬首し、わざわざ長春に赴いて天祚帝に謁見したため、天祚帝から感謝され秦晋王に冊封され、都元帥に任じられていた。 

 そこで、宗族の耶律大石と宰相の李処温らは、3月にあまり乗り気ではない耶律涅里(淳)を擁立し、さらに李処温の子の李奭が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里(淳)は成り行きで即位させられ、北遼の初代皇帝・天錫帝と名乗る。 文学に長じて巧みな文人皇帝である。 また大石らは勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。 しかし、同年(1122年)の6月24日に崩御してしまう。 享年61。 在位期間は90余日であった。 天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任していた。

 コビ砂漠の南辺域に接する長城北側の荒れ地を 騎馬の隊列が進む。 三十数名の騎馬武者、先頭を進む耶律大石の顔には疲労の影が浮かんでいた。 騎馬武者は牛車を囲み、 蕭徳妃皇后と秦王殿下・天錫帝の五男・耶律定が幌の中で身を竦めるように 無言である。 耶律時がその牛車に寄り添い 駒を進めている。 時は大石の右腕を自認し、弟の耶律遥と共に大石に心酔している。 今 弟の耶律遥はこの隊列には居ないが 尚は大石の親衛隊だと自認し 吹聴している。 押しかけ家臣である。 金の阿骨打に捉われの身となった耶律大石を兄弟の知略で居庸関から脱出させたのは二月ほど前のことである。 

 兄弟の父は耶律良、契丹の政治家として名を成し、字は習撚、小字は蘇と言った。 耶律白とも落書した詩人でもあった。 なかなかの人物であった。 四半世紀前の事、耶律良は耶律重元(遼の皇子、第6代皇帝・聖宗の次男)が子の耶律涅魯古とともに反乱を計画していることを聞きつけると、重元が第8代皇帝・道宗の重元への親愛あついことをおもんばかって、あえて直接に奏上せず、ひそかに仁懿太后に報告した。 太后は病にかこつけて道宗を呼び寄せ、反乱のことを告げた。 

 道宗は「おまえは我が骨肉の間を裂きたいのか」と言って信じなかったので、耶律良は「臣のいうことがもし妄言ならば、斧で腰斬されて伏すに甘んじましょう。陛下が早く備えなければ、賊の計に落ちることを恐れます。涅魯古を召して来るかいなかで、陰謀の有無をうらなうべきでしょう」と皇帝の怒りに臆することなく直言したので、道宗はその言葉に従ったと言う。 

 皇帝の使者が涅魯古の門に到着すると、涅魯古は使者を殺害しようと幕下に拘束した。 使者は脱出し、行宮に駆け戻って実態を報告した。 この報に接した道宗ははじめて反乱のことを信じ、良に追討軍を委ねた。 重元の400名前後の反乱軍は行宮を襲撃したが、涅魯古が射殺され、重元の仲間たちは次々と敗走していった。 良の追討軍に追われた重元は北の砂漠に逃れて、「涅魯古がわたしをここに至らしめたのだ」と嘆いて自殺した。 耶律良は功績により漢人行宮都部署に転じ、遼西郡王に追封され、二十年前に他界している。 耶律時と尚の兄弟が幼児の折であった。

 

 天慶5年(1115年)、耶律大石が28歳の時 科挙で状元となって翰林院へ進み 翌年より遼興軍節度使を歴任していた時 平州(現在の河北省盧竜県)で大石は兄弟に会った。 母方の伯父が跡目人として兄弟を見守っていた。 母は耶律時の聡明さと豪胆さを何時も口に登らせていたのである。 初めて仰ぎ見た契丹建国以来の状元の英雄に兄弟は一目で信服した。 以来、二人は大石の傍から離れようとしなくなった。 

 眼光鋭く、四辺を見渡しながら牛車の歩みに合わせて駒を進める耶律時に「水場を求めよ」と大石の指示が飛ぶ。 直ちに 二騎が先駆けをした。 指物旗はない。 陰山を遠望するゴビ砂漠の南周辺地帯。初秋とは言え、日中は暑く 日を遮るものとて無い荒野の逃避行は蝸牛の歩み。 帝都を離れ 早、20日は過ぎていた。

 「時よ 一息入れよう」 「おお、緑に囲まれた水場、極楽 極楽、秦王殿下 はようこれに 皇后様も…」 

 「耶律尚殿はどのあたりに居られましょうか 」  「千余の軍勢を率い、皇后様と殿下の身の回り品の運搬 容易には動けまい、燕雲十六州を通り来るゆえ、時が掛かろうが かの地には耶律尚将軍の身内も多い 」

 「して、今宵は・・・・」 「この緑を追って 駒を進めれば蒙古族に出会えるかも知れぬ、 緑があれば水もあろう 」   「秦王殿下 道のりは半ばをすぎました。 今宵も夜空が美しゅうございましょう。 さぁ 出立で御座りますれば、御車に 」 「余も 馬でいきたい 」

 「なりません、いまだ 日が きっう 御座います」   「時、 殿下を抱き上げ 抱いて行くがいい、 蒙古が言う『青い郷(フフホト市)』の近くであろう。 危険はあるまい」

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

 
================================================

   

 

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

================================================

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_05節=

2015-03-18 15:58:28 | 歴史小説・躬行之譜

 漠々と荒涼な原野を 牛車に揺られながら 蕭徳妃皇后が、背後の耶律時から抱くように支えられて馬上にある秦王が進む。 精悍な眼光を四辺に向けつつ、耶律大石が無言で騎馬兵を引率して行く。 三十数名の騎馬武者集団である。  耶律大石の心は重い。  共に立った李処温は宋に寝返り、私欲に遼を売った。  また、遼の再興を期して擁立した天錫帝があっけなく崩御し、今 北の阿骨打に追われるようにゴビ砂漠の西方に逃避した天祚帝に会いに行こうとしているこの旅程・・・・・・ 

 ここ数日、大石は馬の鞍に悠然と身を構え 考えるも無く 天祚帝に会うべく心の準備、 “天祚帝が逃亡しなければ策はあった” に至った心証と親友・安禄明と交わした言葉の端々を考えている。  三年前の保大元年(1120年)、耶律大石は北面官 =蒙古高原の遊牧民統治機構= の大林牙院 =南面官の翰林院(皇帝直属の秘書室)に当たる= に進み上級の林牙(局長)に就いていた。 

 泰州(現在の黒竜江省泰来県)・祥州(現在の吉林省徳恵市)の二州の刺史を務め、遼帝国の領土が金の馬蹄に踏みにじられる様を苦慮していた。  時には 少数の兵を率いて侵略する金の軍兵を追走し領地を保全していた。 翌年 彼の任地は平州(河北省)にまでも拡大され、遼興軍節度使をも歴任するようにもなっていた。 遼帝国の領土東北部が金の馬蹄に踏みにじられれば、遊撃部隊を率いて天祚帝の本隊を援助しつつ金軍を撃退し、かつ 南方から宋の軍団が二十有余万の将兵で北上した折には 少数の兵で宋の軍勢を撃破して来た。 

 保大2年(1122年)3月7日、大石35歳の折、天祚帝は金の太祖・阿骨打と入来山で戦って大敗し、長春に逃れた。 女真人の金からの攻撃に迎撃し直接矛を交えた皇帝・天祚帝は、遼興軍節度使の耶律大石の遊撃軍を待つことなくこの攻撃を防ぐことができぬと独断し 中京から西の雲中の陰山に逃亡した。 この行為が、大石の胸に突き刺す棘であった。 

 皇帝の避難行を知った大石は、宰相の李処温とともに燕京において、3月17日 天祚帝の従父である南京留守・耶律涅里を擁立し、あまり乗り気ではない耶律涅里を天錫帝として戴冠させた。 天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任した。  これに止まらず、新政権は勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げし 新王朝・「北遼」と称し、金と対抗した。  しかし、6月に天錫帝は崩御し、天祚帝の五男で太子の秦王・耶律定が擁立され、秦王は未だ幼く 天錫帝未亡人の蕭徳妃・蕭普賢女が摂政となった。 

 大石は北遼の国力をもって宋、金2国を相手取って戦うことは困難であると考え、宋との和平を望んだが、宋は“海上の盟”に則り燕雲十六州の攻撃準備を急いでいるとしった。 1122年夏、宋の童貫は15万の大兵力=禁軍遠征部隊=を率いて北遼侵攻を開始した。 童貫の字は道夫。 開封の人。 去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした体躯で顎鬚までたくわえる怪人物である。 

 童貫は北遼の軍隊は宋に降伏する手筈だと喧伝していたが、燕京を守る耶律大石は親友安禄明の父・安禄衝が南方で展開する商いの組織を通じて 江南は梁山泊の豪傑・宋江以下36人の好漢達が背面で陽動行動を起こし戦いを優位に運ぶ作戦を画策していた。 また、大石はマニ教団に漢南の信徒数十万人が童貫の禁軍遠征部隊が行軍する進路を阻害するように依頼していた。 

 燕京を守る耶律大石率いる北遼軍の抵抗は頑強であり、初戦で楊可世が率いる前軍・辛興宗の西路軍・種師道の東路軍が国境線の白溝河まで敗走を余儀無くされ、更に追撃を受けた際に童貫が北遼軍を恐れて退路を遮断したため、東路軍は壊滅的打撃を被り西路軍も大きな被害を出した。 宋は童貫の監督下で15万の大軍を動員したいたが、大石は二万有余の将兵でこれを白溝河において大いに打ち破った。

 ・・・・・しかし、あの戦い以降 二年の歳月しか過ぎていないのに、 なぜであろうか・・・・・いま、 女真族の阿骨打に追われるように五原の天祚帝に会いに行こうとしている・・・・・ 阿骨打は、宋と手を組み、南北から遼を侵略して 抹殺するであろうが、勢いの在る金は宋すら飲み込むであろうか・・・・

 

 童貫の監督下で15万の大軍を動員した宋軍は、耶律大石統帥が指揮する二万有余の将兵によって白溝河で大敗を喫した。 万策尽きた童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 阿骨打は、先年の1115年に按出虎水で皇帝に即位し、国号を大金と定め、按出虎水にある会寧(上京会寧府)を都としていた。 同年 遼の天祚帝率いる大軍を破っていたのである。  

 北遼に苦しめられてきた北宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年 金と“海上の盟”といわれる同盟を結んでいた。 これにより阿骨打は遼との決戦に臨み、同年遼の都上京を占領し、さらに燕京(現在の北京)に迫った。  1121年に遼の天祚帝は再び阿骨打と対決して大敗、燕京を放棄して西走したのは昨年の出来事、遼の支配は殆ど壊滅したが 大石が支える北遼が奮闘していた。 阿骨打は童貫の依頼を渡りに船と快諾、これを受理し 北方より三路から燕京を再び攻撃する。  

 もともと、宋軍は“方臘の乱”(大石の計略で江南のマニ教徒が起こす)など国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れ、阿骨打は北宋との盟約・海上の盟に従って燕京を攻め残していた。  その後、宋軍が到着して燕京に攻めかかるが、弱体化した宋軍は耶律大石らの率いる遼の残存勢力・北遼に連敗していたのである。 

 金軍が燕京の攻略に南進した。 金の将軍達は遼寧省承徳で長城を越える東路軍と内蒙古・張家口から長城越えの西路軍に“天下第一雄関”・居庸関を撃破して燕京(北京)に迫る中央路を進軍した。 阿骨打は中央路・居庸関を進軍していた。 10月、大石は居庸関で迎撃する。 燕京には幼い秦王・耶律定と摂政・蕭徳妃皇后が老将耶律尚将軍に守られていた。  しかし、大石が金軍に捕らえられた。 阿骨打は大石らを厚遇し、軍門に降りろと誘う。 遼宗室の耶律余睹が金に仕え、武将として仕え 対宋戦略の任に就いているとも秘密を明かしてもいる。 また、北遼の宰相・李処温の宋との内通している事実をも。 

 大石は子飼いの耶律時・耶律遥兄弟の知略で阿骨打の捕虜的束縛から脱出し、居庸関の闇に紛れての燕京に走った。 燕京は陥落直前であった。 開城迫る中、大石は耶律尚将軍に 蕭徳妃皇后の生計が成り行く資財を五原に運び込む事を指示、屈強の騎馬武者200騎を陽動として 山西雲中(大同市)から五原に向かわせる事 等の指示を与え、 また 耶律尚を親友安禄明宅に走らせた。  

 秦王と蕭徳妃皇后に状況を説明し 秦王などを奉じて天祚帝の元へ秦王を送り届けるは務め、遼帝国への最後の努めとして自分に強いていると説得した上で燕京を脱出した。  燕京は陥落した。 このとき金の群臣は阿骨打に、北宋が燕京攻略の役に立たなかった事実により、燕京の譲渡を拒否してはどうかと進言した。 しかし、阿骨打は盟約“海上の盟”の尊重を理由にその進言を退け、住民、財産の略奪を行った後、事実上の空城を明け渡し 燕京以下六州を北宋に割譲した。 更に 北宋に必要経費の数倍にあたる戦費=銅銭百万緡、兵糧二十万石=を請求するという実利重視の方針を取った。 遼帝国の皇族が領地であった燕京十六州は金と宋の勢力争いの地帯と化した。 この地帯は西方でオルドスに接し、オルドス地方は西夏王国の勢力が勝っていた。 

 「オルドスを征する者天下を征す」と古来より言われてきた豊潤な大草原の外周を黄河が流れる。 黄河が大きく 逆U字型にオルドスを迂回し流れる。 逆U字型の頭部・北側にはゴビ砂漠の西端、陰山山脈が砂漠の奥に遠望できる。 オルドス地方の南部を東西に万里の長城が二重三重に走っている。 

 南下を開始する逆U字型頭部の東端部あたりの黄河は ゆったりと流れ、河原は広く 本流はどれか判別できぬほど 自由気ままに広がり、蛇行している。 広大なオルドス地方は全体がおしなべて平坦な草原である。 西方に丘陵が横たわるが、東方はいつしか黄河の広い河原となり 黄河を離れて東行しれば山西雲中(大同市)に至る。  山西雲中は燕京十六州の中心城郭である。  

 ・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

 
================================================

   

 

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

================================================

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_04節=

2015-03-17 19:27:36 | 浪漫紀行・漫遊之譜

 海河の南 奇岩 剣のように立つ深山の山間、 眼下に渓谷の水が緩やかに流れるのが見える。 満月が  険しい岩稜の獣道を下る若者の足元を照らしていた。 え抜かれた彼の肉体はしなやかに、飛ぶように、岩稜を走る。 昨夜、この若者は師の庵に呼ばれた。 師の名は慧樹、禅僧・慧樹大師である。 武術の師でもあった。 

 膝を着く彼に 師は優しく言葉を掛けている。 月明かりが煌々と庭の静寂に溶け、師の柔和な姿を照らしていた。 「楚詞、汝には 教えるべきことは全て授けた。 我が教えをよく聞き、よく励んだ。 ここに文がある。 安禄衝殿からだが 昨日、届いた 」 小柄な慧樹大師の声は途切れることなく 耶律楚詞を 穏やかに包む。 

 「耶律大石殿が秦王殿下と天錫皇帝の皇后・蕭徳妃を擁されて天祚帝皇帝の下に向かわれたとしるしてある。 汝は天錫皇帝が病死されたことは知っておろう。 安禄衝殿jは不審を抱かれておるようすだが・・・ 」 一呼吸を置き、師は やや声高に成り、その声が静寂の中に波紋を広げる。

 「愚僧も迂闊であった。 汝が秦王殿下の従弟であったとは、この文が教えてくれたわ。 安禄衝殿は大石殿から汝を預かり、この霊幽に寄越したのはこの時を考えた深謀であろうか。 ご子息、安禄明さまの入地恵かも知ぬがのぉ 」  大師の声は 高ぶりが消え 目には愛弟子を厭う 喜びがある。 

 「汝は 大石殿の避難行を知った以上 我が教えを聞くどころではあるまい、また 汝の従弟である幼き秦王殿下の事が気掛かりでこの庫裏にはおれまい。 先にも話したが、汝に教えるべき術はもはやない。 明日からは汝自信が励み、我を超えよ 」  いつしか、 満月に一条の雲が掛かり、師の声はくぐもりがちに成った。 

 「文から察するに、大石殿は燕京から北に走り、居庸関・長城を超え西に向かわれたもよう。 陰山までは安全とは言えぬが 砂漠を皇后様や秦王殿下を擁護しての旅は困難を伴っていようが、あえて 少数にて無理を押しておられる逃避行、勝算あっての策と思われるが、汝の存念は如何であろうか、存念を言うがいい 」  

 《身を偽っていたこと 申し訳ありません・・・・・・・》  「・・・・聞かぬことに 答える者などおるまい。 それより 汝 如何にする」   「明日早朝に下山致したく思います。 洛陽の手前で黄河を渡り、山越えの道を早掛けすれば 五日で大原。 大原から大同までは三日もあれば着きましょう。 なれば、陰山は目と鼻の先でありましょう。 耶律義兄には包頭(パオトウ)あたりでみまえることが出来ると思います。 五原へは、さほどの道程は残っておりませんが。 」  

 「よくぞ申した、汝の足は健脚の倍、 だが、かの地は宋や金が目を光らせておる。 明日 文を持たせる。 事あらば、黄河の渡りや大原の霊厳寺 大同の華厳寺にて見せるが良かろう。 くれぐれも無理は致すな よいな 我が衣を身に着けていくがよい」 

 黄河が月光に映えて、眼下の渓谷を東に流れる。 振り返れば 昨夜の師の言葉がよみがえる。 あの尾根の向こうに 春秋三年、教えを受けた嵩山少林寺があり、恩師・慧樹大師が住まわれている。 耶律楚詞は慧樹大師の姿を振り落すように、黄河をめざして歩みを速めて行った。 

 立派な僧衣の若者が 大同は華厳寺の甍を見上げていた。  旅の僧であろう あたらぬ髭が薄っすらと生えている。 笠の下に頭髪も覗える。 気品が漂わせる顔には人を引き付ける清々しい目があった。

 若者は 父を思い出していた。  一昨年の1122年、父は天祚帝の奸臣・耶律撤八に告発され、絞殺の刑に処せられたことを また、すぐる 保大元年(1121年)に蕭奉先(シンホウセン)が誣告で父が境地に立たされ、若者の祖母・蕭文妃(シンブンキ)が処刑されたのを・・・・・・、祖母は天祚帝が寵愛の妃であった。若者は おぼろげにも 記憶の片隅に残していた。 父と母の記憶は鮮明である。 その母も天祚帝に死を命ぜられていた。 

 若者の名は耶律楚詞(ヤリツソシ)。 父の名は耶律敖盧斡(ヤリツゴロアツ)、この華厳寺 若者耶律楚詞が見上げる伽藍建立に関わっている。 敖盧斡は天祚帝と蕭文妃のあいだの長男として生まれた。 幼くして騎射を得意とし、聡明であった。 乾統初年、家を出て大丞相耶律隆運(ヤリツタカウン)の後を嗣ぎ、遼王朝の有力皇族に名を連ねた。 そして、乾統6年(1106年)の年に、父・敖盧斡は晋王に封じられていた。 ≪ 耶律敖盧斡は晋王として善政を行い、隠れて研鑽したと史書は言う。 また、『小さな体を守って、臣子の大節を失うことはできない』と言って従容と死についたとも史書が記している。 ≫

  保大元年(1121年)二月  早春 に事が起こった。  「南軍都統耶律余睹が蕭文妃と謀って晋王敖盧斡を帝位につけようと図っている」と蕭奉先が誣告したため、余睹は逃亡して金に降伏、文妃は処刑される事件が起きた。  祖母・文妃が処刑される前夜 父が突然 いままで訪れたことなどない、 己の部屋来ていた。 楚詞は その夜 父・敖盧斡の苦悩を知った。  

 二月の寒さが父を憔悴させているようであったのを思い出している。 父が 普段は口にせぬ 厳しい口調で 言った言葉の一言一句を思い出していた。 

 「誣告の罪で そなたの祖母は明日、慙死を受ける。 父の寵愛が深かったがゆえにな・・・・・・・父は無慈悲な人だ。 帝位がそうさせるのかも知れぬが・・・   我が身の潔白は明かされたが、 王庭には阿諛追従が蔓延り、帝位を日夜 曇らせている 」

 「王子よ 儂は 帝位は もとより 王位すら望まぬ。 帝位を更かさんと企てた母の意中が いずこにあった かも知りたくは思わぬ。 が、・・・・・ 再び 儂に災が降り懸かるやも しれぬ・・・ 」  「子よ、ここを去れ・・・・今直ちに」 父は途切れ途切れに 己を自責するがごとく 話を継いだ。 父の眼に涙が浮いていたのが 今尚 思い出されて胸を締め付ける。  

 父は 話を続けた、 「耶律大石皇子の下に行くがいい。 安禄衝殿は聞いておろう、大石皇子は安禄殿とは昵懇の仲、安禄殿の懐に入り しばらく 王権から離れた場所から この遼を眺めるがいい。 」 

 「父上は・・・・・」  「陰謀に関与していなかったと認められて、許された。 書物の世界は広い、 虫が付かぬように 日々 手にしてやらねば・・・・」 

 

 佇み、父を思い出しながら 甍を見詰める耶律楚詞の目に、涙が浮かんでいた。  楚詞の父・耶律敖盧斡は眼前の華厳寺建立に尽力し、晋王として善政を布いた。 しかし、  翌年 保大2年(1122年)1月、「耶律撒八らが再び晋王敖盧斡の擁立を計画した」として父は告発された。 祖父・天祚帝は皇太子の敖盧斡を処刑するに忍びず、人を派遣して 絞め殺す命を発している。 執行者が訪れる前、ある人が皇太子に亡命を勧めたが、敖盧斡は「小さな体を守って、臣子の大節を失うことはできない」と言って、父は従容と死についたのだ。 

 華厳寺の甍が一望できる門前は大道の中央に佇む若者・耶律楚詞は瞼をぬぐうと 庫裡に寄る事無く 北を目指して足早に去って行った。 大道りを離れ、大同鼓楼を横目に 町はずれの武周川河原で若者は僧衣を脱ぎ去った。 この武周川の上流、東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院があるのだが、嵩山少林寺の作務服に着替えを終えた僧は、北を目指して 再び 駆け出していた。

 

 ・・・・・続く・・・・・・

    ※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

 
================================================

   

 

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

================================================

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説・耶律大石=第一章_03節=

2015-03-16 17:00:05 | 歴史小説・躬行之譜
 
 天祚帝(テンソテイ)は暗愚な性格である。 政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨など、民心の離反を招いた。 外交面でも天慶5年(1115年)に遼に従属していた女真が金を建国して独立すると、親征の討伐軍を派遣。 だが、逆に大敗を帰し、遼の弱体化を露見させる結果を招く。 

 保大元年(1121年)の事、枢密使の蕭奉先(ショウホウセン、遼の外戚)が、天祚帝の長男で太子候補の晋王耶律敖盧斡と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余睹(ヤリツヨト、晋王の叔母の夫)と対立していた。 そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王・耶律定を太子とすべく「余睹による晋王擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を信じてしまった。 

 そのため、危険を感じた余睹は金に降ってしまった。 間もなく 天祚帝は晋王の生母の蕭文妃を賜死させ、さらに翌年1月 擁立の疑いを持たれた晋王を絞首刑に処した。 蕭奉先の思惑通りに秦王が太子として定まった。 そして 翌年の保大2年(1122年3月7日)、天祚帝は再び親征する。 女真人の金から攻撃を受けた遼帝国の天祚帝は、金の太祖と入来山で合戦、矛を交える。 しかし 天祚帝は、再び 大敗して長春に逃れ、従軍を整えなおして 長春から西の雲中の陰山に逃亡した。 

 この時、耶律大石と李処温(リショオン、宰相)とともに燕京(現在の北京)において、第7代興宗の孫 天祚帝の従父の耶律涅里(淳)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝として北遼を建国するが・・・・・耶律涅里(淳)は、天祚帝が金の太祖に入來山で大敗し、長春に逃れた時、宗室の御営副都統の耶律章奴らは第8代皇帝・道宗の皇太甥だった涅里(淳)の擁立を目論んだ。 しかし、涅里(淳)は章奴の使者を斬首し、わざわざ長春に赴いて天祚帝に謁見したため、天祚帝から感謝され秦晋王に冊封され、都元帥に任じられていた。 

 そこで、宗族の耶律大石と宰相の李処温らは、3月にあまり乗り気ではない耶律涅里(淳)を擁立し、さらに李処温の子の李奭(リソウ)が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里(淳)は成り行きで即位させられ、北遼の初代皇帝・天錫帝と名乗る。 文学に長じて巧みな文人皇帝である。 

 また大石らは勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。 しかし、同年(1122年)の6月24日に天錫帝は崩御してしまう。 享年61。 在位期間は90余日であった。 天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任していた。 以降、大石は、耶律大石統帥として遼帝国を牽引して行く。 


 大石が目指す陰山・五原には帝都を放り出した天祚帝が逃避していた。 コビ砂漠を避け、長城北側の荒れ地を 騎馬の隊列が進む。  三十数名の騎馬武者、先頭を進む耶律大石の顔には疲労の影が浮かんでいた。  騎馬武者は牛車を囲み、蕭徳妃(ショウトクヒ)皇后と秦王殿下が幌の中で身を竦めるように 無言である。 

 耶律定は天祚帝の五男の太子、天錫帝が61歳で病死すると、蕭徳妃は北遼耶律淳(涅里)の皇后である蕭徳妃が、耶律大石統帥らが推戴する秦王・耶律定を擁立し、徳妃自身は皇太后と成って摂政となっていた。 騎馬遊牧民の俗習なのだが、天錫帝と蕭徳妃の間に正嗣がなく、新興の北遼は遼帝国に流れる契丹の皇統を重んじたのである。  

 天錫帝の崩御による混乱に 宋が、新たに軍団を20万に増強し これに乗じて再び侵攻してきた。 宋は劉延慶将軍の指揮の下で燕京に奇襲をかけて来た。 耶律大石統帥率いる北遼軍は燕京における市街戦にまで追い込まれたが、宋軍を再び撃破した。 宋の宰相童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 金の阿骨打はこれを受理し、北方より三路から燕京を攻撃、大石は居庸関で迎撃を試みたが失敗し、金軍に捕らえられていた。 

 居庸関の金軍南制基地に囚われ身になった耶律大石統帥に対して、敵将の阿骨打は大石らを厚遇し、前例である金吾衛大将軍の耶律余睹の例を引いて 投降する事を幾度となく誘っている。 しかし、大石は部下の耶律時・遥兄弟の知略で脱出に成功していた。 そして、燕京の安禄明の助けを受けて、秦王、蕭妃など奉じて保大3年(1123年)、天祚帝の元へと逃亡したしたのです。 蕭徳妃と秦王殿下を守る天徳軍はもはや頼るに足らずと判断し、軍に追われるように燕京を離れ来たのである。 

 耶律時がその牛車に寄り添い 駒を進めている。 時は大石の右腕を自認し、弟の耶律遥と共に大石に心酔している。 今 弟の耶律遥はこの隊列には居ないが 遥は大石の親衛隊だと自認し 吹聴している。 押しかけ家臣である。 金の阿骨打に捉われの身となった耶律大石を兄弟の知略で居庸関から脱出させた戦略は時が立て、戦術は遥が実践した。 大石としては 彼らの作戦に乗っただけだったが、阿骨打の腹の内を確かめたい事情があったのだが・・・・・・・・それはともかくとして、 阿骨打が教えってくれた北遼宰相の李処温が宋と内通している事実を蕭徳妃に告げ、李処温度子に天誅を加えたのちの燕京脱出であった。 

 この兄弟の父は耶律良、契丹の政治家として名をなし 詩人でもあった。 字は習撚、小字は蘇。 耶律白とも落書した人物であった。  四半世紀前の事、耶律良は耶律重元(遼の皇子、第6代皇帝・聖宗の次男)が子の耶律涅魯古(ヤリツデツロク)とともに反乱を計画していることを聞きつけると、重元が第8代皇帝・道宗の重元への親愛あついことをおもんばかって、あえて直接に奏上せず、ひそかに仁懿太后(ニジンコウゴウ)に報告した。 太后は病にかこつけて道宗を呼び寄せ、反乱のことを告げた。

 道宗は「おまえは我が骨肉の間を裂きたいのか」と言って信じなかったので、耶律良は「臣のいうことがもし妄言ならば、斧で腰斬されて伏すに甘んじましょう。陛下が早く備えなければ、賊の計に落ちることを恐れます。涅魯古を召して来るかいなかで、陰謀の有無をうらなうべきでしょう」と皇帝の怒りに臆することなく直言した。 道宗はその言葉に従った。  皇帝の使者が涅魯古の門に到着すると、涅魯古は使者を殺害しようと幕下に拘束した。 使者は佩刀をふるって脱出し、行宮に駆け戻って実態を報告した。 道宗ははじめて反乱のことを信じ、良に追討軍を委ねた。 重元の400名前後の反乱軍は、行宮を襲撃した。 しかし涅魯古が騎馬で突出して射殺され、重元の仲間たちは次々と敗走していった。 重元は計画の失敗を知ると、北の砂漠に逃れて、「涅魯古がわたしをここに至らしめたのだ」と嘆いて自殺した。 耶律良は功績により漢人行宮都部署に転じ、二十年前に他界している。 彼は遼西郡王に追封され、諡は忠成といった。 耶律時と尚の兄弟が幼児の折であったと言う。  


 天慶5年(1115年)、耶律大石が28歳の折、科挙で状元となって翰林院へ進み 翌年より遼興軍節度使を歴任していた。 この時 平州(現在の河北省盧竜県)で大石はこの兄弟と会った。 母方の伯父が跡目人として兄弟を見守っていた。 大石の母が耶律時の聡明さと豪胆さを何時も口に登らせていたのである。 兄弟は契丹人として、有史以来 初めて科挙の状元を得た同じ家系 しかも さほど年の差が感じられない大石の素行に信服し、以来 離れようとしなかったのである。  

 眼光鋭く、四辺を見渡しながら牛車の歩みに合わせて駒を進める耶律時に「水場を求めよ」と大石の指示が飛ぶ。  直ちに 二騎が先駆けをした。 指物旗はない。 陰山を遠望するゴビ砂漠の南周辺地帯。 初秋とは言え、日中は暑く 日を遮るものとて無い荒野の逃避行は蝸牛の歩み。 帝都を離れ 早 20日は過ぎていた。 

 「時よ 一息入れよう」  「おお、緑に囲まれた水場、極楽 極楽、 秦王殿下 はようこれに 皇后様も…」 

 「耶律尚殿はどのあたりに居られましょうか 」  「千余の軍勢を率い、皇后様と殿下の身の回り品の運搬 容易には動けまい、燕雲十六州を通り来るゆえ、時が掛かろうが かの地には耶律尚将軍の身内も多い 」 

 「して、今宵は・・・・」  「この緑を追って 駒を進めれば蒙古族に出会えるかも知れぬ、 緑があれば水もあろう 」  

 

 「秦王殿下 道のりは半ばをすぎました。 今宵も夜空が美しゅうございましょう。 さぁ 出立で御座りますれば、御車に 」   「余も 馬でいきたい 」   「なりません、いまだ 日が きっう 御座います」 

 「時、 殿下を抱き上げ 抱いて行くがいい、 蒙古が言う“青い郷”(現在のフフホト市、中国名=帰化城)の近くであろう。 危険はあるまい」

・・・・・続く・・・・・・

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

【壺公慷慨;世相深層】   http://ameblo.jp/thunokou/

================================================

 

   

 

 

 

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

================================================

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする