【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第一章_06節=

2015-03-19 17:19:19 | 歴史小説・躬行之譜

 大石が目指す陰山・五原には帝都を放り出した天祚帝が逃避していた。 天祚帝は遼帝国の第9代皇帝。 第8代皇帝・道宗の子 聡明な皇太子・耶魯斡(梁王濬)の長男として生まれる。 幼名は阿果。 しかし 太康元年(1075年)11月 父・梁王濬(皇太子)が政争に巻き込まれ、無実の罪に陥れられた。 誣告の虚言を信じた皇帝・道宗は皇太子・梁王濬を幽閉する。 誣告者・耶律乙辛は幽閉先で皇太子を暗殺してしまう。 

 幼くして父を失った阿果と妹の秦晋国梁王濬長公主は、これを哀れに思った祖父の道宗によってとともに養われ、梁王に冊封された。 皇太子・梁王濬が早逝した後、皇帝道宗は甥の涅里を一時的に皇太甥に定めるも、周囲の諫めを受けて孫の阿果を皇太孫と定めて政権を安定させた。 

 しかし、道宗の治世は、皇帝の暗愚と奸臣の専権によって忠臣が迫害されたり、貴顕間の軋轢が続いたりして、朝政は乱れに乱れた。 また、土地の兼併が進むにつれて民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた東北の女真は反抗に立ち上がった。

女真の反乱は、道宗の没後25年目に遼を滅ぼす烈火となるのであった。 従って 次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の47年に及ぶ治世は、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではない。 乾統元年(1101年2月12日)、第8代皇帝・道宗の崩御により 梁王・阿果が遼の第9代(最後)の皇帝・天祚帝として即位した。 

 天祚帝は暗愚な性格である。 政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨むなど、民心の離反を招いた。 外交面でも天慶5年(1115年)に遼に従属していた女真が金を建国して独立すると、親征の討伐軍を派遣。 だが、逆に大敗を帰し、遼の弱体化を露見させる結果を招く。 

 保大元年(1121年)の事、枢密使の蕭奉先(遼の外戚)が、天祚帝の長男で太子候補の晋王耶律敖盧斡と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余睹(晋王の叔母の夫)と対立していた。 そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王・耶律定を太子とすべく「余睹による晋王擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を信じてしまった。 

 そのため、危険を感じた余睹は金に降ってしまった。 間もなく 天祚帝は晋王の生母の蕭文妃を賜死させ、さらに翌年1月 擁立の疑いを持たれた晋王を絞首刑に処した。 蕭奉先の思惑通りに秦王が太子として定まった。 そして 翌年の保大2年(1122年3月7日)、天祚帝は再び親征する。 女真人の金から攻撃を受けた遼帝国の天祚帝は、金の太祖と入来山で合戦、矛を交える。 しかし 天祚帝は、再び 大敗して長春に逃れ、従軍を整えなおして 長春から西の雲中の陰山に逃亡した。 

 この時、耶律大石と李処温(宰相)とともに南京(燕京、現在の北京)において、第7代興宗の孫 天祚帝の従父の耶律涅里(淳)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝として北遼を建国するが・・・・・耶律涅里(淳)は、天祚帝が金の太祖に入來山で大敗し、長春に逃れた時、宗室の御営副都統の耶律章奴らは第8代皇帝・道宗の皇太甥だった涅里(淳)の擁立を目論んだ。 しかし、涅里(淳)は章奴の使者を斬首し、わざわざ長春に赴いて天祚帝に謁見したため、天祚帝から感謝され秦晋王に冊封され、都元帥に任じられていた。 

 そこで、宗族の耶律大石と宰相の李処温らは、3月にあまり乗り気ではない耶律涅里(淳)を擁立し、さらに李処温の子の李奭が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里(淳)は成り行きで即位させられ、北遼の初代皇帝・天錫帝と名乗る。 文学に長じて巧みな文人皇帝である。 また大石らは勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。 しかし、同年(1122年)の6月24日に崩御してしまう。 享年61。 在位期間は90余日であった。 天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任していた。

 コビ砂漠の南辺域に接する長城北側の荒れ地を 騎馬の隊列が進む。 三十数名の騎馬武者、先頭を進む耶律大石の顔には疲労の影が浮かんでいた。 騎馬武者は牛車を囲み、 蕭徳妃皇后と秦王殿下・天錫帝の五男・耶律定が幌の中で身を竦めるように 無言である。 耶律時がその牛車に寄り添い 駒を進めている。 時は大石の右腕を自認し、弟の耶律遥と共に大石に心酔している。 今 弟の耶律遥はこの隊列には居ないが 尚は大石の親衛隊だと自認し 吹聴している。 押しかけ家臣である。 金の阿骨打に捉われの身となった耶律大石を兄弟の知略で居庸関から脱出させたのは二月ほど前のことである。 

 兄弟の父は耶律良、契丹の政治家として名を成し、字は習撚、小字は蘇と言った。 耶律白とも落書した詩人でもあった。 なかなかの人物であった。 四半世紀前の事、耶律良は耶律重元(遼の皇子、第6代皇帝・聖宗の次男)が子の耶律涅魯古とともに反乱を計画していることを聞きつけると、重元が第8代皇帝・道宗の重元への親愛あついことをおもんばかって、あえて直接に奏上せず、ひそかに仁懿太后に報告した。 太后は病にかこつけて道宗を呼び寄せ、反乱のことを告げた。 

 道宗は「おまえは我が骨肉の間を裂きたいのか」と言って信じなかったので、耶律良は「臣のいうことがもし妄言ならば、斧で腰斬されて伏すに甘んじましょう。陛下が早く備えなければ、賊の計に落ちることを恐れます。涅魯古を召して来るかいなかで、陰謀の有無をうらなうべきでしょう」と皇帝の怒りに臆することなく直言したので、道宗はその言葉に従ったと言う。 

 皇帝の使者が涅魯古の門に到着すると、涅魯古は使者を殺害しようと幕下に拘束した。 使者は脱出し、行宮に駆け戻って実態を報告した。 この報に接した道宗ははじめて反乱のことを信じ、良に追討軍を委ねた。 重元の400名前後の反乱軍は行宮を襲撃したが、涅魯古が射殺され、重元の仲間たちは次々と敗走していった。 良の追討軍に追われた重元は北の砂漠に逃れて、「涅魯古がわたしをここに至らしめたのだ」と嘆いて自殺した。 耶律良は功績により漢人行宮都部署に転じ、遼西郡王に追封され、二十年前に他界している。 耶律時と尚の兄弟が幼児の折であった。

 

 天慶5年(1115年)、耶律大石が28歳の時 科挙で状元となって翰林院へ進み 翌年より遼興軍節度使を歴任していた時 平州(現在の河北省盧竜県)で大石は兄弟に会った。 母方の伯父が跡目人として兄弟を見守っていた。 母は耶律時の聡明さと豪胆さを何時も口に登らせていたのである。 初めて仰ぎ見た契丹建国以来の状元の英雄に兄弟は一目で信服した。 以来、二人は大石の傍から離れようとしなくなった。 

 眼光鋭く、四辺を見渡しながら牛車の歩みに合わせて駒を進める耶律時に「水場を求めよ」と大石の指示が飛ぶ。 直ちに 二騎が先駆けをした。 指物旗はない。 陰山を遠望するゴビ砂漠の南周辺地帯。初秋とは言え、日中は暑く 日を遮るものとて無い荒野の逃避行は蝸牛の歩み。 帝都を離れ 早、20日は過ぎていた。

 「時よ 一息入れよう」 「おお、緑に囲まれた水場、極楽 極楽、秦王殿下 はようこれに 皇后様も…」 

 「耶律尚殿はどのあたりに居られましょうか 」  「千余の軍勢を率い、皇后様と殿下の身の回り品の運搬 容易には動けまい、燕雲十六州を通り来るゆえ、時が掛かろうが かの地には耶律尚将軍の身内も多い 」

 「して、今宵は・・・・」 「この緑を追って 駒を進めれば蒙古族に出会えるかも知れぬ、 緑があれば水もあろう 」   「秦王殿下 道のりは半ばをすぎました。 今宵も夜空が美しゅうございましょう。 さぁ 出立で御座りますれば、御車に 」 「余も 馬でいきたい 」

 「なりません、いまだ 日が きっう 御座います」   「時、 殿下を抱き上げ 抱いて行くがいい、 蒙古が言う『青い郷(フフホト市)』の近くであろう。 危険はあるまい」

 ・・・・・続く・・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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