【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第一章_04節=

2015-03-17 19:27:36 | 浪漫紀行・漫遊之譜

 海河の南 奇岩 剣のように立つ深山の山間、 眼下に渓谷の水が緩やかに流れるのが見える。 満月が  険しい岩稜の獣道を下る若者の足元を照らしていた。 え抜かれた彼の肉体はしなやかに、飛ぶように、岩稜を走る。 昨夜、この若者は師の庵に呼ばれた。 師の名は慧樹、禅僧・慧樹大師である。 武術の師でもあった。 

 膝を着く彼に 師は優しく言葉を掛けている。 月明かりが煌々と庭の静寂に溶け、師の柔和な姿を照らしていた。 「楚詞、汝には 教えるべきことは全て授けた。 我が教えをよく聞き、よく励んだ。 ここに文がある。 安禄衝殿からだが 昨日、届いた 」 小柄な慧樹大師の声は途切れることなく 耶律楚詞を 穏やかに包む。 

 「耶律大石殿が秦王殿下と天錫皇帝の皇后・蕭徳妃を擁されて天祚帝皇帝の下に向かわれたとしるしてある。 汝は天錫皇帝が病死されたことは知っておろう。 安禄衝殿jは不審を抱かれておるようすだが・・・ 」 一呼吸を置き、師は やや声高に成り、その声が静寂の中に波紋を広げる。

 「愚僧も迂闊であった。 汝が秦王殿下の従弟であったとは、この文が教えてくれたわ。 安禄衝殿は大石殿から汝を預かり、この霊幽に寄越したのはこの時を考えた深謀であろうか。 ご子息、安禄明さまの入地恵かも知ぬがのぉ 」  大師の声は 高ぶりが消え 目には愛弟子を厭う 喜びがある。 

 「汝は 大石殿の避難行を知った以上 我が教えを聞くどころではあるまい、また 汝の従弟である幼き秦王殿下の事が気掛かりでこの庫裏にはおれまい。 先にも話したが、汝に教えるべき術はもはやない。 明日からは汝自信が励み、我を超えよ 」  いつしか、 満月に一条の雲が掛かり、師の声はくぐもりがちに成った。 

 「文から察するに、大石殿は燕京から北に走り、居庸関・長城を超え西に向かわれたもよう。 陰山までは安全とは言えぬが 砂漠を皇后様や秦王殿下を擁護しての旅は困難を伴っていようが、あえて 少数にて無理を押しておられる逃避行、勝算あっての策と思われるが、汝の存念は如何であろうか、存念を言うがいい 」  

 《身を偽っていたこと 申し訳ありません・・・・・・・》  「・・・・聞かぬことに 答える者などおるまい。 それより 汝 如何にする」   「明日早朝に下山致したく思います。 洛陽の手前で黄河を渡り、山越えの道を早掛けすれば 五日で大原。 大原から大同までは三日もあれば着きましょう。 なれば、陰山は目と鼻の先でありましょう。 耶律義兄には包頭(パオトウ)あたりでみまえることが出来ると思います。 五原へは、さほどの道程は残っておりませんが。 」  

 「よくぞ申した、汝の足は健脚の倍、 だが、かの地は宋や金が目を光らせておる。 明日 文を持たせる。 事あらば、黄河の渡りや大原の霊厳寺 大同の華厳寺にて見せるが良かろう。 くれぐれも無理は致すな よいな 我が衣を身に着けていくがよい」 

 黄河が月光に映えて、眼下の渓谷を東に流れる。 振り返れば 昨夜の師の言葉がよみがえる。 あの尾根の向こうに 春秋三年、教えを受けた嵩山少林寺があり、恩師・慧樹大師が住まわれている。 耶律楚詞は慧樹大師の姿を振り落すように、黄河をめざして歩みを速めて行った。 

 立派な僧衣の若者が 大同は華厳寺の甍を見上げていた。  旅の僧であろう あたらぬ髭が薄っすらと生えている。 笠の下に頭髪も覗える。 気品が漂わせる顔には人を引き付ける清々しい目があった。

 若者は 父を思い出していた。  一昨年の1122年、父は天祚帝の奸臣・耶律撤八に告発され、絞殺の刑に処せられたことを また、すぐる 保大元年(1121年)に蕭奉先(シンホウセン)が誣告で父が境地に立たされ、若者の祖母・蕭文妃(シンブンキ)が処刑されたのを・・・・・・、祖母は天祚帝が寵愛の妃であった。若者は おぼろげにも 記憶の片隅に残していた。 父と母の記憶は鮮明である。 その母も天祚帝に死を命ぜられていた。 

 若者の名は耶律楚詞(ヤリツソシ)。 父の名は耶律敖盧斡(ヤリツゴロアツ)、この華厳寺 若者耶律楚詞が見上げる伽藍建立に関わっている。 敖盧斡は天祚帝と蕭文妃のあいだの長男として生まれた。 幼くして騎射を得意とし、聡明であった。 乾統初年、家を出て大丞相耶律隆運(ヤリツタカウン)の後を嗣ぎ、遼王朝の有力皇族に名を連ねた。 そして、乾統6年(1106年)の年に、父・敖盧斡は晋王に封じられていた。 ≪ 耶律敖盧斡は晋王として善政を行い、隠れて研鑽したと史書は言う。 また、『小さな体を守って、臣子の大節を失うことはできない』と言って従容と死についたとも史書が記している。 ≫

  保大元年(1121年)二月  早春 に事が起こった。  「南軍都統耶律余睹が蕭文妃と謀って晋王敖盧斡を帝位につけようと図っている」と蕭奉先が誣告したため、余睹は逃亡して金に降伏、文妃は処刑される事件が起きた。  祖母・文妃が処刑される前夜 父が突然 いままで訪れたことなどない、 己の部屋来ていた。 楚詞は その夜 父・敖盧斡の苦悩を知った。  

 二月の寒さが父を憔悴させているようであったのを思い出している。 父が 普段は口にせぬ 厳しい口調で 言った言葉の一言一句を思い出していた。 

 「誣告の罪で そなたの祖母は明日、慙死を受ける。 父の寵愛が深かったがゆえにな・・・・・・・父は無慈悲な人だ。 帝位がそうさせるのかも知れぬが・・・   我が身の潔白は明かされたが、 王庭には阿諛追従が蔓延り、帝位を日夜 曇らせている 」

 「王子よ 儂は 帝位は もとより 王位すら望まぬ。 帝位を更かさんと企てた母の意中が いずこにあった かも知りたくは思わぬ。 が、・・・・・ 再び 儂に災が降り懸かるやも しれぬ・・・ 」  「子よ、ここを去れ・・・・今直ちに」 父は途切れ途切れに 己を自責するがごとく 話を継いだ。 父の眼に涙が浮いていたのが 今尚 思い出されて胸を締め付ける。  

 父は 話を続けた、 「耶律大石皇子の下に行くがいい。 安禄衝殿は聞いておろう、大石皇子は安禄殿とは昵懇の仲、安禄殿の懐に入り しばらく 王権から離れた場所から この遼を眺めるがいい。 」 

 「父上は・・・・・」  「陰謀に関与していなかったと認められて、許された。 書物の世界は広い、 虫が付かぬように 日々 手にしてやらねば・・・・」 

 

 佇み、父を思い出しながら 甍を見詰める耶律楚詞の目に、涙が浮かんでいた。  楚詞の父・耶律敖盧斡は眼前の華厳寺建立に尽力し、晋王として善政を布いた。 しかし、  翌年 保大2年(1122年)1月、「耶律撒八らが再び晋王敖盧斡の擁立を計画した」として父は告発された。 祖父・天祚帝は皇太子の敖盧斡を処刑するに忍びず、人を派遣して 絞め殺す命を発している。 執行者が訪れる前、ある人が皇太子に亡命を勧めたが、敖盧斡は「小さな体を守って、臣子の大節を失うことはできない」と言って、父は従容と死についたのだ。 

 華厳寺の甍が一望できる門前は大道の中央に佇む若者・耶律楚詞は瞼をぬぐうと 庫裡に寄る事無く 北を目指して足早に去って行った。 大道りを離れ、大同鼓楼を横目に 町はずれの武周川河原で若者は僧衣を脱ぎ去った。 この武周川の上流、東西1kmにわたる約40窟の石窟寺院があるのだが、嵩山少林寺の作務服に着替えを終えた僧は、北を目指して 再び 駆け出していた。

 

 ・・・・・続く・・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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