【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 11月09日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-09 05:10:05 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 国政選挙が公示される度に立候・落選を繰り返す某氏を慰労する為の“発明家の日”。 ☆ 今の政府のあまりの無能ぶりに乗じて、コルシカの山師が鉄砲と大砲で権力の掌握に成功する(1799年=ナポレオンが軍事クーデターを起こし、フランス革命が終焉)。 ☆ 余りの政治の混乱ぶりに徳川慶喜が匙を投げて、天皇陛下に全てを押っ付ける(1867年=二条城で大政奉還を宣言) 。

◎ ◎ 蔵書整理・・・・身のまわり整理・・・・終活かな!!!!!!? ◎ ◎

有形文化財(建造物)である友人宅=瀬戸内海を背景に見事な庭園を構える=の別棟に喫茶店を開き、

“町内の寄り集い”に供すると言う。

然れば、持て余す書籍をして町の図書館に と整理に入る。

10kg用ミカン箱が80個になろう。箱詰めに三日はかかろう・・・・・

因って、ブログ記事は小休止

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 11月08日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-08 05:10:06 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 写真マニアのヴィルヘルム・レントゲンが、何の因果か人の骨まで写せる写真を発明する(1895年=X線を発見)。 ☆ ミュンヘンでバイエルンの首脳部が酒盛りをしている最中にアドルフ・ヒトラーが乱入、無礼講の域を超えた一大事となる(1923年)。 ☆ 国語審議会(当時)、「ら抜き言葉」の使用を認めないとする見解を発表(1995年)。このような乱れた言葉遣いは断じて認めれない。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 21回= ◎ ◎

1956- «人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 (3/3) »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年11月7日 / (Web編集部) ……

 化石ハンターたちの次なる興味は、サルとヒトのもっとダイレクトな分岐点、つまり、ヒトの特徴を持つさらに古い化石に移り、次々とアジアへ繰り出してゆきます。  ところが、ルイス・リーキーだけはアフリカ説を信じて疑いませんでした。

 1903年、ケニアに住むキクユ族へキリスト教を布教する宣教師夫婦の間にルイス・リーキーは誕生しました。彼がアフリカ説を疑わなかった理由として、子どものときに古い石器を見つけたことがあり、さらに26歳だった1929年にアフリカでアジアの原人たちが使っていたのと同じタイプの旧石器を発見していたことが挙げられます。また、「アウストラロピテクス・アフリカヌス」の発見も、リーキーにとってはアフリカが人類誕生の地という思いを強めるものでしかありませんでした。

1929年の石器の発見以降もリーキーはアフリカに通い続けますが、重要な化石を発見した場所が意図せずわからなくなってしまったり、妻が妊娠中に女性スキャンダルを起こしたりして、しばらく不遇のときを迎えます。

 それでもリーキーはあきらめません。まさに不屈の闘志です。孤軍奮闘、彼はしぶとくアフリカで活動を続け、1959年、一緒に発掘していた妻のメアリーがタンザニアのオルドバイ渓谷で重要な化石を見つけました。

 ゴリラのような頭をしており、人類よりは類人猿に近いものでしたが、二足歩行をし、同時に石器も発見されました。驚くべきはその年代。なんと175万年ほど前のものでした。すなわち、人類の起源がアフリカにあるという極めて有力な証拠だったのです。

 これには世界中が驚きました。ナショナル ジオグラフィック協会もリーキーへの支援を開始して、1960年9月号に「世界最古のヒト発見(Finding the World’s Earliest Man)」という記事を掲載します。

 そして、この発見と支援がさらなる大発見を呼びこみます。  オルドバイ渓谷で発掘を続けていた1960年のこと。ルイス・リーキーと長男のジョナサンは、同じ場所から今度はゴリラのようではなく、明らかにヒトに近い特徴を持つ別種の化石を発見しました。

 前年に見つけたのは、二足歩行をするゴリラのような生きもの。対して、1960年に発見したのは同じく二足歩行をするよりヒトに近い種類。  これはどういうことでしょうか?

 そうです。ゴリラやチンパンジーからヒトが分岐していた状況と考えられるのです。

 それ以来、リーキーは慎重に検証を重ね、1964年についに二足歩行をしてヒトのような特徴を持つ「最初のヒト」の化石として、石器を使っていたことから「ホモ・ハビリス」、すなわち「器用なヒト」とこれを命名。名声を確かなものにします(ただし、研究が進んだ現在、ホモ・ハビリスは人類の直系の祖先ではなくもっと孤立した種だったという意見が主流です)。

 リーキーの発見に世界は興奮しました。メルビル・グロブナーもその1人でした。メルビルはリーキー夫妻に学者としては初のハバード・メダルを授与し、1965年2月号に「アフリカのリーキー家:先史時代の人間を探す家族(The Leakeys of Africa FAMILY IN SEARCH OF PREHISTORIC MAN)」という特集を掲載します。

   ハバード・メダルは初代会長の名前をつけた協会最高の賞で、それまでは北極点に到達したロバート・ピアリやエベレストに初登頂したイギリス隊など、冒険・探検家に授与したことしかありませんでした。

 さらに、1966年にはTV番組「リーキー博士と人類の誕生(Dr. Leakey and the Dawn of the Man)」が大ヒット。くしゃくしゃの白髪頭といたずらっぽい笑顔のリーキー博士はお茶の間でも人気を博し、人類学はナショジオ定番のテーマとなりました。番組の一部はこちらで見られます。ちなみに、赤いシャツを着ている白髪のおじさんがメルビル・グロブナーです。

 リーキーの功績はこれにとどまりません。「最初のヒト」についての理解を深めるには類人猿の研究が役に立つと考えた彼は、ナショジオの誌面やテレビ番組を通じてジェーン・グドールを含む3人のヒロイン「リーキーズ・エンジェル」をプロデュースしますが(リーキーは女性好きでした…)、それについてはまたあらためてご紹介いたしますね。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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次回は “ « “類人猿ガールズ”誕生秘話 » “ を記載、続きます・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 11月07日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-07 05:10:52 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 民意の偽造に怒ったロシア人民が民主主義の政府を倒し、ウラジーミル・レーニンの政府を支持する(1917年)。 ☆ 4ヶ月前に出来たばかりの吊り橋が完成直後から風に揺られまくりで、実況されるまでになって遂にこの日落っこちる(1940年=ワシントン州のタコマナローズ橋)。 ☆ 松永安左エ門の肝煎りで、日本を電力会社の意のままにしようとする工作機関・電力中央研究所がオープン(1951年=日本最大の民間シンクタンク)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 21回= ◎ ◎

1956- «人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 (2/3) »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年11月7日 / (Web編集部) ……

 人類の進化というテーマは、進化という考え方の登場と同時に大きな注目を集めました。当たり前ですが。

 進化論の前は、サルはサルでヒトはヒト。それが、サルとヒトが昔は同じだったことに突然なったわけで、じゃあいつ分かれたの? という疑問はおのずと生じます。と同時に、「我こそは一番乗り!」を目指して「最初のヒト」の化石を捜し求める化石ハンターたちが続々とあらわれました。

 進化論といえばダーウィンです。著書『人間の進化と性淘汰』のなかで、ダーウィンはヒトの祖先はアフリカ大陸にいた、と書いています。彼がそう考えたのは、ヒトにいちばん近い動物であるチンパンジーとゴリラがアフリカにいたからです。

 一方、ダーウィンを信奉していた同時代のドイツ人生物学者ヘッケルはアジア説を唱えました。アジアに暮らす類人猿のオランウータンやテナガザルのほうがよりヒトに近く、アジアこそ人類のふるさとだと。

 かくして、人類の起源をめぐる考えは、当初からアフリカ説とアジア説のまっぷたつに分かれました。

※補足説明 : 1951年にリーキー夫妻はオルドヴァイで道具を発見した。1952年にはより広範な発掘が行われ、オルドヴァイ屠殺場(動物が追い込まれて大量に殺された古代の沼)と呼んだ遺跡が発見された。彼らは1953年に一度発掘を止め、1955年から再び、ジーン・ブラウンとともに掘り始めた。1959年にメアリーはジンジャントロプスを発見した。問題はそれがロバート・ブルームによって発見されたパラントロプスより前か後か、人間の系統に連なるかどうかであった。

1960年に地球物理学者ジャック・エバンデンとガーニス・カーティスはメアリーが発見したジンジャントロプスを175万年前の物と判断した。これは想像より遥かに古く、世界中が驚いた。科学者はアフリカに群がった。リーキーとレックの正当性は完全に証明されたが、レックはすでに1937年に死去しておりそれを知ることはなかった。リーキーはまた、ダーウィンが正しかったことも証明した。

 いまはアフリカ説が支持されていることはみなさんもご存じでしょう。  しかしその後、圧倒的優位に立ったのはアジア説のほうでした。

 なぜなら、1894年にインドネシアでジャワ原人が、1927年に北京原人が発見されたからです。  いずれも数10万年前のもので、二足歩行をして石器も使っていました。いまではこの2つが同じ種(「ホモ・エレクトゥス」)であることがわかっており、人類の直系の祖先であると考えられています。

 ちなみに、記載したとおり、「シトロエン―アールト探検隊」の一員として1924年から25年にアジア大陸を横断したティヤール・ド・シャルダンは北京原人の発見に関わった1人。彼はその後もアジアで「最初のヒト」の化石を探しつづけました。

※補足説明 ジャワ原人 / ジャワ原人(ジャワげんじん)とは、ウジェーヌ・デュボワが1891年にオランダ領であったインドネシアジャワ島トリニールで発見した化石人類に対する通称である。年代は 170 - 180万年前ごろと推定されていたが、最新の研究では130万年前ごろとされている。

かつては Pithecanthropus erectus(ピテカントロプス・エレクトス)の学名で呼ばれていたが、2012年現在はヒト属に分類され、Homo erectus(ホモ・エレクトス)の亜種の一つ Homo erectus erectus(ホモ・エレクトス・エレクトス)と位置付けられている。

オーストラリア先住民などに進化したとする研究者もいたが、現生人類の直接の祖先はアフリカに生息していたホモ・エレクトスの別の亜種(または独立種ホモ・エルガステル)[注釈 1]であって、アジアにいた北京原人やジャワ原人は直接の祖先ではないとする意見が支配的である。

※補足説明 :北京原人 / 北京原人(ペキンげんじん、Homo erectus pekinensis[注釈 1])は、中国北京市房山県周口店竜骨山の森林で発見された化石人類である。学名はホモ・エレクトス・ペキネンシス。2015年現在はホモ・エレクトス (Homo erectus) の亜種として扱われる。北京原人を含むホモ・エレクトスが生きていた時代は更新世中期である。従来は上記の化石の年代は約50万年前とされていたが、最新の研究では約68万-78万年前と推定されている。

周口店の北京原人遺跡はユネスコの世界遺産として登録されている。

 当時、アフリカで発掘を続けた学者もいなかったわけではありません。なかでも1924年には「アウストラロピテクス・アフリカヌス」という、二足歩行をしていたより原始的な、ヒトというよりゴリラやチンパンジーに近いタイプが発見されます。

※補足説明 :アウストラロピテクス・アフリカヌス / A・アフリカヌス(Australopithecus africanus)は初期のヒト科生物である猿人の一種。2-3百万年前の鮮新世にいた。この種より古いアウストラロピテクス・アファレンシスと同様、A・アフリカヌスは体格がほっそりとしており、現代の人類の直接の祖先と考えられていた。

見つかった化石からすると、A・アフリカヌスの頭蓋骨は現代人と同様に大きく、脳の量も豊かであり、アウストラロピテクス・アファレンシスよりも現代人と顔つきが似ていた。A・アフリカヌスが見つかったのは、南アフリカの4箇所のみである。タウン(1924年)、スタークフォンテイン(1935年)、マカパンスガット(1948年)、グラディスヴェール(1992年)である。

 でも、思いのほか脳の容積が小さかったり(ヒトの祖先はもっと脳が大きいと思い込まれていました)、直後に北京原人が発見されたりしたせいで、残念ながらほとんど顧みられることがありませんでした。

 加えて、アジアの原人の化石がその後もたくさん見つかり、アジア説はどんどん勢いを増します。結果として、アフリカで人類の祖先の化石を探すのは「時間の無駄」といわれるほどアジア説がメジャーになりました。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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次回は “ « 人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 (2/3) » “ を記載、続きます・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 11月06日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-06 05:10:59 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ GHQ、三井、三菱、住友、安田の四大財閥解体を指令(1945年)。その後既に77年が経過しているが、何故か解体作業は遅々として進まぬばかりか図体がますますデカくなっているみたい。 ☆ 北陸トンネルが長大なロースターと化す。火種は食堂車(1972年=北陸トンネル火災事故)。 ☆ 松田優作が「なんじゃこりゃ~~~!」と言った後死去(1989年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 21回= ◎ ◎

1956- «人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 (1/3) »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年11月7日 / (Web編集部) ……

 前回は、ナショジオの新編集長(1956年以降)メルビル・グロブナーがテレビ番組の制作に乗りだす契機となったバウンティ号の発見について書きました。ほどなく、メルビルは次々と大ヒット番組を世に送り出し、探検家や科学者から新たなヒーローやヒロインが誕生します。テレビ番組制作の経緯については別の機会に書くつもりですが、今回はそんなヒーローの1人である人類学者、ルイス・リーキーをご紹介いたしましょう。

  人類学って面白いですよね~。  と、隣に座っている月曜日のメルマガ筆者の美人編集者Tに言ったら、「私けっこう苦手なんですよね」。

 どうしてか聞いてみると、ピテカンナンタラとかホモカントカとか名前がわかりにくいとのこと。なるほど、確かにおっしゃるとおり。そこは世の中の一般人にはとても紛らわしく煩雑で捉えどころの無い分野と思います。

 それでも、中の人にとって人類学はとても興味のある分野のひとつです。

 だって、人類はあらゆる生物のなかで明らかに特殊でしょう。こんなふうに、巨大な都市までつくって環境を大きく変え、果てはロケットに乗って地球を飛び出してしまう(地球の)生物はほかにいません。いや、服を着て、料理をして、家に住む「衣食住」というごく基本的なレベルで見ても、ほかの生きものからしたら十分ヘンですよ。

 地球に生物が誕生したのはざっくりいって40億年前。単細胞生物は除き、多細胞生物に限って短く見積もっても10億年ぐらいの歴史はある。

 10億年ですよ10億年。どのぐらいの時間なのか、感覚的にはまったくわかりません。その間には、無数の生きものがあらわれては絶滅していったに違いありません。それなのになぜ人間だけがオンリーワンになったのか。それはいつ、どのようにして起こったのか。雑誌を企画制作する中の人はとても興味があるのです。

 まあこんなことを考えなくても、単に自分たちのルーツを知りたいという人も多いでしょう。それだけでも十分好奇心をそそりますよね。

 ということで、人類の進化は伝統的に人類学の大きなテーマになっています。  ルイス・リーキーはそのなかでもっとも重要な発見をした人類学者ですが、それがどれほど重要だったかを説明するために、ちょっと時代をさかのぼってみたいと思います。

※補足説明 : ルイス・シーモア・バゼット・リーキー(Louis Seymour Bazett Leakey、1903年8月7日 - 1972年10月1日)は、ケニアの古人類学者。アフリカにおける人類の進化の解明に大きな貢献をした。またアフリカでの研究と自然保護のための組織の創設に中心的な役割を果たした。古人類学と霊長類学の次の世代の研究者を育てた。自然科学者としてリーキーはチャールズ・ダーウィンの見解を強く支持し、人類はアフリカで進化したと言うダーウィンの仮説を証明しようと試みた。

 ルイスの両親ハリー・リーキーとメアリー・バゼットはイギリス出身で英領東アフリカ、現ケニヤの宣教師だった。拠点は小さな小屋とテントだけだった。リーキーが幼い頃に住んでた家は土間があり、雨漏れする草葺きの屋根で、ネズミと虫がたくさんおり、暖房設備はなかった。テントの中に病院が設置され、それは次第に拡大されてのちにアフリカの女性のための女学校となった。

 1919年にリーキーはそこで民間の男子学校に通い始めた。教師の一人が銀行家になってはどうかと助言し、父の母校でもあったケンブリッジ大学に入学するための勉強を始めた。入学試験で良い成績をおさめ、1922年に奨学金を得てケンブリッジ大学に入学した。当初は父と同じようにアフリカで宣教師になるつもりだった。息子のリチャードは父について次のように描写している。

 1919年にリーキーはそこで民間の男子学校に通い始めた。教師の一人が銀行家になってはどうかと助言し、父の母校でもあったケンブリッジ大学に入学するための勉強を始めた。入学試験で良い成績をおさめ、1922年に奨学金を得てケンブリッジ大学に入学した。当初は父と同じようにアフリカで宣教師になるつもりだった。息子のリチャードは父について次のように描写している。

  「ルイスが化石発掘を決めた時20歳前半だった。その時までは父親と同じくケニヤでキリスト教宣教師になるつもりだった。」リーキーはキリスト教への熱意を友人たちに説くことと風変わりな振る舞いで知られていた。同時に進化論者でもあり、将来の自然科学者たちを友人としていた。

 1922年にイギリスは第一次大戦の賠償としてドイツ領東アフリカを獲得した。その地域でドイツ人がテンダグルと呼ばれる恐竜化石の豊富な土地を発見していた。リーキーは家族の友人から、大英自然史博物館が化石の発掘隊を送りだそうとしていることを聞いた。リーキーはそれに応募し採用された。

  1924年にウィリアム・カトラーを隊長として一行はアフリカに出発した。彼らは恐竜の完全な化石を発見することができず、カトラーが9ヶ月後に病死するとケンブリッジに呼び戻された。

 リーキーはこの経験から専攻を人類学に変え、アルフレッド・ハッドンの元で学び始めた。1926年に人類学と考古学で最高の成績をおさめて卒業した。在学中からアフリカの考古学、古生物学について講義を行い、執筆活動をし、すでに有名人であった。卒業後はアフリカで多くの遺物を採掘し、出土する人工品を体系的に研究した。

 1927年にエルメンテイタ湖近くのカンブル洞窟と呼ばれた発掘場所で、二人の夫人の訪問を受けた。一人は考古学を学んだことのあるヘンリエッタ・アバーン(フリーダ)だった。二人は夜通し話し合い、その後も交流を続けて1928年に結婚した。

 同時期にカリアンドゥシ(Kariandusi)でアシュール文化の遺跡を発見し、発掘を行った。1929年にセント・ジョンズ・カレッジで研究職を得て、エルメンテイタでの発見を整理するためにケンブリッジに戻った。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « 人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 (2/3) » “ を記載、続きます・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 11月05日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-05 05:10:19 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ ハワード・カーターが王家の谷で盗掘に専念、その執念とカーナヴォン伯の援助でツタンカーメンの黄金マスクを入手(1922年)。されど、「ツタンカーメンの呪い」に遭う。 ☆ 8年前にJFKに苦杯を飲まされたリチャード・ニクソンが、雪辱を果たす(1968年)。しかし6年目にして任期途中の水門事故でホワイトハウスから去ることになろうとは、誰も予想しなかった。 ☆ 自作の動画・尖閣諸島中国漁船衝突事件によってSENGOKU38がネ申となった日(2010年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 20回= ◎ ◎

1956- «世界をアッと驚かせた大スクープ「バウンティ号発 」!(2/2) »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年10月24日 / (Web編集部) ……

   1790年11月にフリゲート艦パンドラ号(エドワード・エドワーズ艦長)がバウンティ号の捜索のために出航した。1791年3月にパンドラ号はタヒチ島に到着し、14人の元バウンティ号乗組員(大部分は非反乱者)を逮捕したエドワーズ艦長はブライ艦長よりもはるかに過酷な取り扱いをした。

パンドラ号はその後もバウンティ号の捜索を続けたが、8月30日にグレート・バリア・リーフの近くで、暗礁に乗り上げ沈没し、ピトケアン諸島に渡った反乱者たちを見つけることはできなかった。この沈没で31人の船員と4人の囚人が死に、残った89人の船員と10人の囚人が、1792年にイギリスに戻った。10人のうち、4人が無罪、2人が有罪だが恩赦、1人が法的手続の問題で釈放され、3人が絞首刑になった。

さて、その結末やいかに!

「忠臣蔵」のような反乱に加えて、「岩窟王」よろしく復讐の要素もあり、そして、漂流モノ的なサバイバルやピトケアン島に移住した反乱者たちの悲惨な末路、さらにはピトケアン島にはいまも反乱者たちの子孫が住んでいるといった事実も加わって、興味は尽きません。

 本はたくさん出ていますし、映画もアカデミー賞を受賞した『戦艦バウンティ号の叛乱』はいまもDVDが売られているので、知らなかった人はこの機会にぜひご覧になってみてください。史実と異なる部分もあるようですが、ホント面白いですよ。クラーク・ゲーブルがカッコいいのはもちろん、艦長役のチャールズ・ロートンがとってもいい味出してます。

1808年1月にアメリカ船トパーズ号がピトケアン諸島にやってきた時、バウンティ号の乗組員は水夫ジョン・アダムスのみが唯一生き残っていた。トパーズ号のメイヒュー・フォルジャー船長はフレッチャー・クリスチャンの息子サースディ・オクトバー・クリスチャンの案内で、アダムスのほかに子供二十数名、ポリネシア人女性10名がピトケアン島で暮らしていることを知った。その他の反乱者はタヒチ人との衝突で大半が相打ちとなり、数少ない生存者も病気、自殺、喧嘩などにより既に死亡し、生き残ったのはアダムスと女性や子供だけであった。

クリスチャンも衝突で殺されたと言われている(アダムスは恩赦となり、1829年に島で死亡した)。1838年、ピトケアン諸島はイギリス領となって、現在まで続いている。バウンティ号が解体された場所はバウンティ湾と名づけられ、現在でもその残骸が残っている。

 さて、バウンティ号の反乱の紹介を終えたところで本題に移りましょう。ふぅ。今回は前置きが長かったですね。すみません。

 バウンティ号の物語に魅せられていたカメラマン兼ライターのルイス・マーデンは、1954年に偶然フィジーの博物館でバウンティ号の舵に出会います。

 資料によれば、バウンティ号は燃やされたとされていて、それまで誰も探そうとしませんでした。しかし、舵の様子からマーデンはピトケアン島に行けばさらに遺品が発見できると確信し、編集部に提案をもちかけます。

 その探索がかなったのは1956年の12月のこと。当初は「6週間も海底をなめるように調べたものの、何も見つからなかった」と苦戦します。

 しかし、滞在日数が残り少なくなったある日のこと。反乱者だった航海士の子孫レンと潜っていたマーデンはついにやりました! そのときの様子を『ナショナル ジオグラフィック』1957年12月号の「バウンティ号の残骸を発見(I found the Bones of the Bounty)」のなかでたくさんの写真とともにレポートしています。

「私は顔を海底に触れんばかりに近づけた。心臓が飛びあがった。虫のようなものはサビに覆われた釘だった。バウンティ号の釘が何10本と散らばっていたのだ。レンを見上げると、真上にいた彼は不思議そうにこちらを見つめていた。彼の腕をつかんで乱暴に引っ張り、釘を指さした。彼は笑顔でうなずいた。私たちは再び握手をした。バウンティ号が眠る場所をついに発見したのだった」(『ナショナル ジオグラフィック日本版』2000年11月号「偉大な写真家ルイ・マーデンの挑戦」より)

マーデンはこの大発見がほかに漏れるのを防ぐため、ある工夫をしました。それは事実をストレートに報告するのではなく、「ダイシャクシギの巣を見つけた」というメッセージを送るというものです。メッセージを受け取った協会は、もちろんこのメッセージの意味をすぐに理解し、すべてを内密に進めました。

 おかげで、1957年12月号の記事は世界的なセンセーションを巻き起こしまします。  この反響の大きさは協会にある変化をもたらしました。

 マーデンの発見が世界中で大評判になったため、翌58年の1月のルイス・マーデンとメルビル・グロブナーがNBCのテレビ番組『オムニバス』にゲスト出演します。さらに協会は『バウンティ号の残骸』という映画を製作。これがテレビでも放送されて大ヒットし、メルビルはその影響力の大きさを思い知って、テレビ番組に乗り出す火付け役となります。

次回は “ « 人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 » “ を記載、続きます・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 11月04日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-04 05:10:15 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 草加次郎が島倉千代子を殺そうとするも未遂に終わる(1962年)。この腹いせから草加は、以後一年近く彼方此方で花火を爆発させることに。 ☆ ロナルド・レーガン主演の映画「ストロング・アメリカ」が封切り(1980年)。以後8年にわたるロングランを記録。豊国では王がバットを奉納して現役引退。 ☆ 麻原彰晃とゆかいな仲間たちが、自分たちを批判した弁護士の一家を丸ごとポアさせて極楽浄土に導く(1989年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 20回= ◎ ◎

1956- «世界をアッと驚かせた大スクープ「バウンティ号発 」!(1/2) »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年10月24日 / (Web編集部) ……

  海好き、船好き、そして、キャプテン・クック好きの中の人はよく知っているのですが、みなさんは「バウンティ号の反乱」をご存じでしょうか。今回はこの事件とナショジオの意外な関係をご紹介いたします。

「バウンティ号の反乱」はフランス革命と同じ1789年に南太平洋で起きたイギリス海軍のデキゴトなのですけれど、どのぐらい知られているか謎だったので、まずは隣に座っているWeb編集部Tに聞いてみました。月曜のメルマガを書いている美人編集者です。

「Tさん、バウンティ号の反乱って知ってます? 昔、イギリス海軍で起きたドラマチックな事件なんですけど」 「何号? 反乱ですか? ドラマチックな反乱といって真っ先に思い浮かぶのは……忠臣蔵かな。カッコいいですよね、松方弘樹♪」

 いや確かに忠臣蔵は反乱モノで、松方弘樹は海のイメージありますけどね……。で、ほかの編集者にも聞いたところ、「バウンティ号の反乱」を知っている人は少数派でした。日本ではさほど有名ではないみたいです。

 ところがこの事件、米英ではとても有名です。たくさんの小説や本が書かれていますし、映画も5本作られています。

 5本の映画のうち、『戦艦バウンティ号の叛乱』(1935年)はクラーク・ゲーブルが主演してアカデミー賞の作品賞を受賞しました。また、『戦艦バウンティ』(1962年)は『ゴッドファーザー』で有名なマーロン・ブランドが主演し、『バウンティ/愛と反乱の航海』(1984年)では、主役がメル・ギブソンで脇役がアンソニー・ホプキンスという豪華キャストです。これだけ見ても知名度の高さがわかるというもの。

  実際のところ、とても面白い話なのです。

  ざっと説明すると、奴隷の食料にするため、パンノキという植物を南太平洋のタヒチからアメリカの南にある西インド諸島まで遠路はるばる運ぶ命を受けた英海軍のバウンティ号。かつてはキャプテン・クックの部下だった艦長がなかなかに横暴で、タヒチからの帰り際、正義感に満ちた二番手の航海士が反乱を起こします。

 航海士の反乱は成功し、艦長はじめ19名が南太平洋上で長さ8メートルほどの小船に乗せられてハイさようなら。バウンティ号を乗っ取った航海士はいちどタヒチに戻り、追っ手を恐れてイギリスの海図にない無人島のピトケアン島に移住します。

ウィキペディア氏曰く : バウンティ号は、タヒチ島から奴隷用の食料品としてパンノキを西インド諸島に運ぶ任務のために、英国海軍が貨物船を買い上げて臨時の軍艦とした徴用船で、小型の船舶であった。したがって、映画の題名などで用いられる「戦艦」という呼称は適切ではない。

 乗組員は唯一の士官である艦長ウィリアム・ブライと上級准士官3人・准士官11人・士官候補生6人・下士官14人・水兵11人の計46人だった。ブライは33歳で、以前にジェームズ・クック船長指揮下のレゾリューション号の航海長を務め、その後商船の乗務員として航海しており、この海域に関して経験豊かだったが、艦長になるのは初めてだった。

 1787年 12月23日にイギリスのポーツマス港を出航、当初は南米ホーン岬を回って太平洋を航行する計画だったが、天候不順のため計画を変更し、喜望峰を周ってインド洋に出て、1788年10月26日にタヒチ島に到着した。航海中にブライは航海長のジョン・フライアを降格し、航海士(上級准士官)の1人フレッチャー・クリスチャンを海尉心得に抜擢している。

 1789年4月までパンノキやその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在し、その期間中、クリスチャンはタヒチの女性と結婚し、多くの船員も現地生活を楽しんだ。3人の船員が脱走の罪で逮捕され、鞭打ち刑を受けた。

 1789年4月4日にタヒチ島を出航し、喜望峰経由で西インド諸島を目指すため西に向かったが、4月28日にトンガのフレンドリー諸島で反乱が起きた。途中の死亡者を除き、当時の乗組員44人のうち反乱者はクリスチャン以下12人だった。ブライ艦長以下19人は救命艇に乗せられて追放され、非反乱者のうち13人は船に残された。

 ブライの指揮する救命艇は、41日かけてニューギニア島とオーストラリア大陸の間の難所トレス海峡を通り、ティモール島にたどり着いた。

 一方、反乱者を乗せたバウンティ号は トゥブアイ諸島に3ヶ月滞在したが、その後タヒチ島へ向かった。16人の船員がタヒチ島に残り、クリスチャンと8人の反乱者はタヒチ島の現地人(男6人、女11人、赤子1人)を乗せて、フィジー、クック諸島を経て、1790年1月15日にイギリスの海図に載っていないピトケアン島にたどり着いた。クリスチャンらはバウンティ号を解体し、その資材を利用して島での生活を始めた。

 めでたし、めでたし?   いいえ、話はこれで終わりません。

 復讐のまっ赤な炎をメラメラと燃やす艦長ウィリアム・ブライは、その後、なんと誰1人船で死なせることなく、命からがらオランダの貿易港があるティモール島に到着。6700キロをわずか8メートルの小船で走破した航海は海軍史上に残る偉業と評価され、無事イギリスに戻ると一躍ヒーローに。そして、反乱事件は軍法会議にかけられて、英海軍は反乱者を追跡する船を派遣します。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・ 

次回は “ « 世界をアッと驚かせた大スクープ「バウンティ号発見」 » “ を記載、続きます・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 11月03日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-11-03 05:10:21 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 小林旭が演歌のネタにした見世物がニューヨークで初開催(1900年=世界初の自動車ショー)。 ☆ ヴィルヘルム2世自らUボートにエクストリーム・カミカゼを命令したところ、水兵がブチ切れたばかりかあっという間にドイツ全土を巻き込む吊し上げに(1918年=キール軍港で水兵が叛乱。ドイツ革命が始まる)。 ☆ 東宝の大型新人ゴジラが銀幕デビューを飾る(1954年)。帝都縦断パレードにてファンクラブ自衛隊の熱烈な歓迎を受け全域が焦土と化した。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 19回= ◎ ◎

1921-1956期 «エベレスト初登頂の手記で腰が引ける »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年10月24日 / (Web編集部) ……

 以前、紹介した原子力もアクアラングも、戦争によって大きく発展したものでした。このように戦争はテクノロジーを飛躍させましたが、その一方で、歩みを止めたり後退したりした物事もたくさんあります。

 ナショジオが力を入れてきた冒険・探検活動もそのひとつ。なかでも北極、南極につぐ未踏の地、世界最高峰エベレストへの挑戦は筆頭にあげられるでしょう。  でも残念なことに、エベレストの初登頂にナショジオは関係ありません。

 協会がエベレストに興味がなかったはずはありません。何しろ世界でいちばん高い山ですからね。それに1933年8月号には「エベレストを空から征服(The Aerial Conquest of Everest)」という記事を掲載しています。イギリスの軍人である著者のブラッカー中佐は、空撮した写真をたくさん並べつつ、エベレストの山頂を飛び越えたときの様子をこんなふうに書いています。

「時が始まって以来、人類が目にしたことのないものを私は床の窓から目にしていた。その光景の恐ろしさは決して言葉にできないだろう……」

 ナショジオを含めて、アメリカがエベレストに関われなかった理由のひとつに外交上のハードルがありました。

 ヒマラヤはチベットとネパールに挟まれています。周辺のインドも含めて、このあたりはずっとイギリスの影響力の強いエリアであり、また、距離が遠いこともあって、アメリカはなかなか入っていけませんでした。

 戦前にイギリスがチベットからエベレスト登頂の許可を得られたのはダライ・ラマとのパイプがあったおかげです(ダライ・ラマとナショジオの関係は古くて長い)。戦後はネパールが外国に許可を出すものの、結局、初登頂以前にイギリス以外の国で正式にチャレンジできたのはスイス隊のみ。そのスイス隊でさえ当初はイギリスと合同チームを組む手はずでした。

「あなたはなぜ山に登るのですか?」という質問に対する「そこに山があるからだ(Because it is there.)」という有名な答えは、1921、22、24年とエベレストに3度チャレンジをしたイギリス人、ジョージ・マロリーの言葉です。本来の質問は「あなたはなぜ山に登るのですか」ではなく「あなたはなぜエベレストに登りたかったのですか(Why did you want to climb Mount Everest?)」でした。

 1924年の3回目のチャレンジで、マロリーはアタック中に行方不明になり、はたして山頂にたどりついたのかどうかが謎として残されます。そんなこともあってイギリスはエベレストに挑戦しつづけ、戦前だけでも遠征は計8回。エベレストへのチャレンジはいわばイギリスの威信をかけた国家的事業でした。

 イギリス隊がエベレストに初登頂したのは1953年5月29日のこと。ニュージーランド人の養蜂家であるエドモンド・ヒラリーと、シェルパのテンジン・ノルゲイが山頂に到達します。

 おかげで登山隊隊長のジョン・ハントとヒラリーは女王になったばかりのエリザベス2世からすぐナイト(騎士)に叙せられました。2人は講演や取材に引っ張りだこで、ハントは1953年のうちに著書『エベレスト登頂』を刊行。2人の体験はまたたく間に世間に広く知れ渡ります。

 にもかかわらず、初登頂から1年以上が過ぎた1954年7月号の「エベレストの勝利(Triumph on Everest)」という特集で、『ナショナル ジオグラフィック』はハントの「包囲と猛攻(Siege and Assault)」とヒラリーの「頂上征服(The Conquest of the Summit)」という手記を掲載しました。

 ハントもヒラリーも著書を出していますし、その翻訳書もあるので、ここでは中身を紹介しませんが、全64ページの手記はとてもドラマチックでよくまとまっています。写真も相変わらず見ごたえたっぷり。その意味では面白い記事ですけれど、すでに有名な話だったことを考えると、『ナショナル ジオグラフィック』としてはインパクトが弱い気がします。おそらく編集部もそれはわかっていたのではないでしょうか。きっと地理学の雑誌として、それでも掲載すべきと考えたのでしょうね。

 おまけに、この記事は『ナショナル ジオグラフィック』としては珍しく腰が引けていました。  ヒラリーが頂上を征服してから下山中、サウス・コルのキャンプに着く前に、迎えにきた親友のジョージ・ロウに喜びの声をあげるくだりです。

「そうだよ、俺たちはついにこいつをやっつけたんだ!(Well, we knocked the blighter off!)」 『ナショナル ジオグラフィック』ではこうなっていますが、ヒラリーが実際に発した言葉は「そうだよ、ジョージ、俺たちはついにこん畜生をやっつけたんだ!(Well, George, we knocked the bastard off!)」でした。ヒラリーは著書でも素直にこう書いていて、いまではよく知られた表現です。

「bastard」は(当時は特に)非常に汚い言葉なので「blighter(「嫌なヤツ」ぐらいの意味)」に変えたのでしょう。けれど、事実を伝えることを信条とする『ナショナル ジオグラフィック』としては変えなくてもよかったのでは、という気もします。その後、この表現が有名になったから、なおさらそんなふうに思うのかもしれませんが。

 今回はちょっとバツの悪い話ではありますが、この時代のトピックスとして、エベレスト初登頂はやはりハズみません。ということで、中の人もあえて紹介してみました。ちなみに、1954年、ナショナル ジオグラフィック協会はイギリスのエベレスト登山隊に戦後初となるハバード・メダルを授与しています。また、ヒラリーの偉業とエベレストについて興味ある記事や魅力的な写真を多数記載・紹介していますい。

小生の別紙ブログ 【壺公夢想;如水自講】 =Daily Archives: 2015/10/20:https://thubokou.wordpress.com/2015/10/20/=にて、登山家ジョージ・マロリーの横顔(9節)を記載済み、御参照下さい。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « 世界をアッと驚かせた大スクープ「バウンティ号発見」 » “ を記載、続きます・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月30日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-30 05:10:46 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 火星人がアメリカを襲撃したぞ!!って迫真の演技で演じてみたら、120万人が右へ左への大騒ぎになったでござる(1938年=オーソン・ウェルズ演出の『宇宙戦争』)。  ☆ ニキータ・フルシチョフの肝煎りで超特大サイズの水爆による花火大会が行われたが、これ以上やり過ぎると危険なので1回切りのイベントで終わる(1961年=ツァーリ・ボンバ)。 ☆ ハワイにいた海兵隊の一人が、ハワイでやられてる水泳大会と自転車レース・マラソンで全部優勝すれば最強じゃね?ってぴーなことを口走ったことから、トライアスロンが生まれることに(1977年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 18回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « 『ナショジオ』と赤シャツと『ライフ』 »  3/3 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年2012年9月12日 / (Web編集部)

  ギルバート・グロブナーの息子であるメルビル・ベル・グロブナーです。彼こそが写真の復権を果たし、次なる第二期黄金時代を築いて『ナショナル ジオグラフィック』を500万部以上の雑誌に押し上げるのです。

  炎の変革者メルビル・ベル・グロブナー  1957年以降の『ナショナル ジオグラフィック』は、ギルバート・グロブナーの息子であるメルビル・ベル・グロブナーが編集を手がけた意向、まっすぐ現在につながっている。

 1957年、この年は『ナショナル ジオグラフィック』にとって実に大きな節目でした。メルビル・ベル・グロブナーが編集長に就任し、前記の“赤シャツ写真スクール”と揶揄(やゆ)された写真のスタイルをはじめ、50年以上変わらなかったスタッフの高齢化による停滞に大変革をもたらします。

 とはいえ、メルビルもこのときすでに55歳。普通に考えれば、編集長としては十分高齢でしょう。

 それでも革新的な仕事ができたのは、ひとつには1924年にナショジオに加わって以来、偉大な父やラゴース編集長に提案を却下されながら、アイデアを温めつづけていたことがあげられます。

 メルビルが生まれたのは1902年。副編集長まではなったものの、22歳から55歳までのほとんどを実の父親の下で働いて、思い通りに仕事ができなかったとしたら、頭と心のうちにためこんだものはいろいろとあったでしょうね。これは中の人の想像に過ぎませんが。

 そしてもうひとつは持って生まれた性格でした。インテリで落ち着いた父親と異なり、メルビルは熱狂的な人でした。いわずと知れた電話の発明者でナショジオ創設者の1人、好奇心旺盛で熱狂的な祖父グラハム・ベルにおそらく似たのでしょう。彼の性格をかつての同僚はこんなふうに評しています。

「メルビル・ベル・グロブナーは決して尽きることのない情熱の持ち主で、一緒に働くには素晴らしい人だった。付き合いやすく、いつも新しいアイデアを出してくれる。あたたかい人柄で気前がいい。筋を通せばわかってくれる。彼の目がきらきらしているのは、世界は驚異に満ちていてワクワクする場所だと信じていたからだよ」

 メルビルはとても感覚的な編集者でした。それがなぜなのかは人に説明できなくても、「これは読者にウケる」と直観的にわかることがしばしばでした。周りの人間が少しでも魅力的なアイデアを持っていくと、彼は瞬間的に燃えあがり、立ち上がって歩きまわってこんなふうに言うのが常だったといいます。

「それはすごい! 君は実現できると思うかい? うん……すごいな。やろう! すぐに取りかかろう!!」

 すでに55歳だったメルビルの任期はちょうど10年間。1957年から1967年まででしたが、彼のアイデアが爆発したこのときに『ナショナル ジオグラフィック』の部数は217万5000部から550万部まで増えました。

 また、雑誌だけでなく、彼はテレビをはじめさまざまな分野にも手を広げ、この10年間はナショジオの第2期黄金時代となったのです。 【躍進の『ナショナル ジオグラフィック』第2期黄金時代】

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « 『エベレスト初登頂の手記で腰が引ける』 » “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月29日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-29 05:10:08 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ ギネス認定の記録であろう、ペルー中部でマグニチュード8.5の地震、約1万人が死亡(1746年)。  ☆ 船橋の競馬場にサラブレッドならぬオートバイが疾走(1950年)。これがオートレースの始まりだったりする。 ☆ 家庭用ビデオの規格としてUマチックが発表される(1969年)。だが、何時の間にかVHSとベータマックスの血で血を洗う戦争で忘れ去られてしまうことに。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 18回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « 『ナショジオ』と赤シャツと『ライフ』 »  2/3 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年2012年9月12日 / (Web編集部)

 その創刊より、ご存じのとおり『ナショナル ジオグラフィック』は「地理知識の普及と向上」をめざす会員誌。ですから、『ライフ』とはそもそも写真の方向性は違っていたものの、戦後になると事情が変わりはじめます。アメリカがますます豊かになり、読者が自由に外国へ旅行できるようになると、『ライフ』にも外国やその首都、エキゾチックな民族などの写真が載りはじめたのです。

 フォワードに同じタイプの選手は2人もいりません。それなら1トップで十分。『ライフ』と『ナショナル ジオグラフィック』が2トップとして存在するために、お互い差別化を図ったのは自然のなりゆきでした。

 その流れのなかでギルバート・グロブナーがこだわったのが「カラー写真」です。  速報性が命の『ライフ』ではすぐに掲載できるモノクロ写真がメインでしたから、ナショジオがカラー写真に力を入れるのは道理。

 しかし、真っ先にカラー写真に力を入れて、「カラー写真技術史上きわめて貴重な一連の記録」(『U.S.カメラ』誌の表彰状より)を掲載してきた『ナショナル ジオグラフィック』の圧倒的なリードをグロブナーは過信します。

『ライフ』が毎年、若手の登竜門となるコンテストを開催し、優勝者を雇い入れていったのに対し、ナショジオではコンテストを開催せず、それどころか専属のカメラマンが全国レベルのコンテストに参加することを禁止します。保守的ですよね。まったく。

 また、グロブナーは写真自体にメッセージを込めることを嫌いました。「写真はあくまで本文の理解を助けるためのもの。とにかく本文の理解を助ける写真を撮れ」といつもカメラマンに言っていたそうです。写真自体がいちばんの商品である『ライフ』とは正反対。どちらが写真により価値を求めたかは言わずもがなでしょう。

こうしてナショジオでは、カラー写真を載せるにあたり、それが本来もっている「現実をありのままに伝えること」ではなく、「カラーであること」自体が目的となってゆきます。結果、赤シャツ写真が定番となった次第。

 きっとグロブナーには誰も何も言えなかったのでしょう。50年祝典の5年後の1954年に、79歳でグロブナーが編集長を退任したときの部数は210万0009部。赤シャツ写真をメインにすえて、朝鮮戦争や冷戦や公民権運動などのタイムリーな記事は掲載しなかったのに、年に5万部以上は増加していましたから。

 それでも、グロブナーの退任でやっと編集部が変わるのかと思いきや、次に編集長を任せられたのはグロブナーの右腕として長い間、副編集長を務めてきたジョン・オリバー・ラゴースでした。どうやら「これまでどうもありがとう」的なごほうび人事だったようですが、彼はグロブナーに輪を掛けて保守的なカタブツで、編集長を務めた1956年までの3年間にナショジオはますますコリ固まってしまいます。

 おかげで彼の任期中の3年間で部数は5万3201部増えただけ。急に伸び率がガタッと落ちました。誌面を見れば減らなかったのが不思議なぐらい。もしかしたら時代がよかったのかもしれません。

 1950年代の赤シャツ写真がナショジオの致命傷にならなかったのはある編集部員のおかげでした。

 ギルバート・グロブナーの息子であるメルビル・ベル・グロブナーです。彼こそが写真の復権を果たし、次なる第二期黄金時代を築いて『ナショナル ジオグラフィック』を500万部以上の雑誌に押し上げるのです。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « 『ナショジオ』と赤シャツと『ライフ』 =3/3= » “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月28日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-28 05:10:22 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 尾張名古屋の大地震(1891年)。岐阜県の山奥ではどえりゃぁ地盤がズレたみていだけど、後の始末は誰がする?=マグニチュード8.0の濃尾地震が発生。死者7273名。= ☆ 中華人民共和国から日本人への宣伝工作の密命を帯びたパンダが来日、上野動物園を活動の拠点に定める(1972年)。その結果、他の動物園はカ・ランからん。 ☆ 「ドーハの悲劇」。イラクの自爆テロにより日本サッカー選手が負傷、翌年のワールドカップの出場が不可能に(1993年)。

――倦怠(weariness) にて――

“徒然なるままに…”と『徒然草』を書き出した吉田兼好は 「無聊を慰める」ために綴ったのであろうか

北アルプスに迷い込み ヒマラヤ遊歩 ゴビ・タクラマカン砂漠の彷徨 厳冬のパミール高原 デナリ山の雪稜

八十路を超して、幻の如し

・・・・・・いや、学生時代からの親友はトライアスロンの現役(協会役員)ではないか・・・・・・ 

杖をついても追わねばならない。 “徒然なるままに…”

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今日(狂)の狂言 : 10月27日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-27 05:10:11 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ タダでさえ水道やらガス管やらでゴチャゴチャしているニューヨークに地下鉄が開通(1904年)。地下の複雑さに拍車をかけ怪物や妖怪の跳梁跋扈を許す原因に。 ☆ ソビエト海軍士官がウォッカではなくウイスキーを支給されたことに腹をたて、潜水艦を座礁させる(1981年= ウィスキー・オン・ザ・ロック)。 ☆ ロンドンのシティが大爆発、外国の投資家のカジノと化し大方のイギリス人はお呼びでない存在になる(1986年=金融ビッグバン)。

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1921-1956期 追考 « 『ナショジオ』と赤シャツと『ライフ』 »  1/3 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年2012年9月12日 / (Web編集部)

 まずは上の写真をご覧ください。  ベルギーで撮影された写真です。ご感想は?

 と、いきなり感想を聞かれても困るかもしれませんねえ。きれいな川辺に赤い服を着た女の子がぽつんと1人。カラフルなのは認めますけれど、特にドラマチックでもないし、中の人は「だから何?」的な印象しか持てません。

 あ、中の人は釣りが好きなので、この川にはどんな魚がいるのかな。あのへんの瀬になんかいそうだな、とかは思うものの、残念ながらそれは写真の感想ではないですし。

 ところが、これが1950年代の『ナショナル ジオグラフィック』の代表的な写真と聞けばハナシは別。「えっ、こんな写真が!?」とびっくりするのでは。現在とも、さらにもっと前の1940年代とも違います。

当時のナショジオでいったい何が起こっていたのか……。

 編集部主導で確立されたナショジオのこのテのスタイルは「赤シャツ写真スクール(The Red Shirt School of Photography)」と呼ばれました。

 なぜ赤シャツなのか。

 自然の風景なかでカラー写真を撮影するとどうしても色が地味になるため、わざわざカメラマンが赤いシャツやスカーフなどを用意してよくモデルに着せていたからです。

 そう言われてみると、冒頭の写真の服もなんか不自然……。

この“赤シャツ写真”こそ1950年代におけるナショジオの問題を象徴しています。

 前回で紹介したとおり、いちばん「ナショジオが報道写真の本流から外れた」時期がまさに赤シャツ写真がメインの50年代です。これじゃフォトジャーナリズムから外れていくのもゴモットモといった感じでしょう。

 前回書いたように、問題の根っこにあったのはグロブナーをはじめ高齢化が進んだ編集部員の保守的な価値観。つまり、変化を嫌う固いアタマです。

 いち早く写真の力を認め、ナショジオを世界有数の月刊誌に育てあげたギルバート・グロブナーはなぜ赤シャツ写真の方向に行ってしまったのか。

 その話は当時『ナショナル ジオグラフィック』と並ぶ、いや、それ以上に人気の写真雑誌だった『ライフ』を抜きに語れません。

 ナショジオと『ライフ』はいわば写真雑誌の2トップでした。そのため、とりわけ戦後から1950年代にかけて、お互いを差別化する方向に進化していったのです。 『ライフ』は1936年に創刊された週刊誌で、写真を大きく見せる「フォト・エッセイ」というスタイルの「グラフ雑誌」として一躍時代の寵児となります。

 その使命は報道であり、一番のウリは写真でした。『ライフ』の写真にはスクープが求められました。日本でも有名な戦場カメラマンであるロバート・キャパや、水俣病の撮影もしたユージン・スミスなどが輩出した雑誌と聞けば、どんな写真が掲載されていたか想像がつくのではないでしょうか。1950年代の部数はなんと500万部以上。

 ちなみに戦前には土門拳による日本の外務大臣の写真が掲載されています。いいですよね、土門拳。中の人は山形県酒田市の記念館まで行きましたよ。

 一方、ご存じのとおり『ナショナル ジオグラフィック』は「地理知識の普及と向上」をめざす会員誌。ですから、『ライフ』とはそもそも写真の方向性は違っていたものの、戦後になると事情が変わりはじめます。アメリカがますます豊かになり、読者が自由に外国へ旅行できるようになると、『ライフ』にも外国やその首都、エキゾチックな民族などの写真が載りはじめたのです。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月26日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-26 05:10:27 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 保安官とカウボーイ兄弟が牧場で血統を争ってしまったため、ガッツ石松を召還してしまう(1881年=OK牧場の決闘)。 ☆ 安重根義士によって、伊藤博文への天誅が下される(1909年)。これで日本の国民から政府に至るまで頭に血が上り、翌年には朝鮮がお取り潰しに。 ☆ 朴正熙とその取り巻きによる酒席での悪口に諜報部門のトップが逆ギレ、銃弾をお見舞いし18年にわたった独裁政治を終わらせる挙に出る(1979年)。他方、病気の担任の代理として坂本金八が東京都墨田区立桜中学校3年B組で教鞭をとり始める。

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1921-1956期 追考 « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 »  2/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年8月8日 / (Web編集部)

 トルストイがチベットに行ったのは1942年から43年。まだ戦争中でした。 目的は中国を支援する補給路の開拓です。 トルストイの旅程はこんな感じでした。

 42年7月にワシントンを出発。チベット政権の許可を得る間はインドに滞在し、9月に許可を得てすぐチベットに向かいます。12月はじめにチベット入りをはたし、12月20日にラサでダライラマに謁見。それからさらに3カ月滞在して、43年2月にラサを発ち、6月に青海に到着してミッションを終えました。

 42年7月にワシントンを出発。チベット政権の許可を得る間はインドに滞在し、9月に許可を得てすぐチベットに向かいます。12月はじめにチベット入りをはたし、12月20日にラサでダライラマに謁見。それからさらに3カ月滞在して、43年2月にラサを発ち、6月に青海に到着してミッションを終えました。

「チベットの慣習にしたがって、ダライ・ラマ猊下のお許しが出るまで誰もいっさい訪問はできなかった。到着から数日して、謁見の日時は12月20日の午前9時20分と外務省から知らされた。ダライ・ラマにとっていちばん縁起がいい時間だという。縁起のよしあしはとても大事なことなのだ」

ポタラ宮 = 歴代のダライ・ラマが住んでいたチベット・ラサのポタラ宮。かつて茶馬古道を旅して都にたどり着いた隊商たちも、その堂々たる姿を目にしたことだろう。13階建てのポタラ宮は、18~19世紀、世界で最も高い建造物だった。写真=Michael Yamashita=

2010年5月号 「伝説の茶馬古道」より  =  ポタラ宮は丘の上にそびえていた。ダライ・ラマ猊下の謁見室はその頂上にある。訪れる者はふつうは長くて広い階段をえんえんと昇らなければならない。しかし、私たちは優遇されていたので、宮殿の裏に通じる細い山道を馬でゆくことを許された。それからエスコートされて迷路のようなポタラ宮の中庭を抜け、質素で小さな待合室にたどりついた」

茶馬古道チベットのザルガマ峠。かつて茶が磁器や絹より高価だった時代、茶を背負った人やラバたちは、つづら折りの山道を進み、標高4658メートルのこの峠を越えた。現在、道は整備され、乗用車やトラックが走り抜ける。

「私たちが1列になっていると、入口にある重いカーテンが引かれ、美しい装飾が施された謁見室に足を踏み入れた。僧侶の列と高官の一団が壁に沿って立っていたけれど、部屋の真ん中はぽっかりと空いていた。私たちのまん前にダライ・ラマの玉座がある。1メートル四方の平らな正方形で、高さも1メートルほど。背もたれもまっすぐ。

猊下は足を組んですわり、先のとがった黄色い帽子をかぶっていた。私たちはひと目みるなり、若いけれども厳かで、もろいところのまったくないご様子にたいへん感銘を受けた」  ダライ・ラマはこのときなんと7歳。写真も掲載されています。それを見ると、とても7歳の男の子とは思えません。トルストイの表現を「なるほど」と思わせるものが確かに見てとれます。

 その後、トルストイはチベットから中国へ行く許可を得て旅をまっとうするのはすでにご紹介したとおり。彼によれば、このような許可がおりるのは22年ぶりでした。ちなみに『セブン・イヤーズ・イン・チベット チベットの七年』を書いたオーストリア人のハインリッヒ・ハラーが命からがらラサにたどりつく約2年前のことです。

 結局、チベットを通る補給路は実現しなかったとはいえ、トルストイには偵察の役目もありました。この旅で得た情報はとても貴重で、あとでたいへん役に立ったそうです。おかげでトルストイ(孫)は勲章をもらいました。 

 どうです? トルストイとダライ・ラマとナショジオ。そんなにヘンな組み合わせでないことはおわかりいただけました?

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次回は “ « 『ナショジオ』と赤シャツと『ライフ』 » “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月25日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-25 05:32:23 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 明治神宮外苑に国立競技場が竣工(1924年)。この時、揉めに揉めて森林を大量に伐採し酷暑でも寒風でも吹き曝しという代物が計画建設中。 ☆ 和田アキ子が芸能界に実戦配備、「星空の孤独作戦」が開始される(1968年)。 ☆ 台湾に捨てられた中華人民共和国が世論の同情をかって国連に入れてもらえる(1971年)。尚、中華民国(台湾)は国連を脱退。新参の中国は常任理事国に・・・・・

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1921-1956期 追考 « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 »  1/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年8月8日 / (Web編集部)

 ロシアの文豪 / チベット仏教の最高指導者 / アメリカの地理の月刊誌。  一見すると「何つながり?」という感じですが、これが実はさほどおかしな組み合わせではありません。

まず、ダライ・ラマは『ナショナル ジオグラフィック』にたびたび登場しています。  新しいところでは2002年4月号の特集「チベット 新時代の息吹と仏教」 =古都ラサやチベット高原各地を訪れる6500キロの旅。1965年に中国の自治区となったチベットではいま、大きな変革が進んでいる。サングラスをかけ袈裟姿でオートバイに乗る若い仏教僧。伝統を守りつつ、人々は新たな時代の波に乗ろうとしている。文/ルイス・M・サイモンズ 写真/スティーブ・マッカリー=。

さらに2004年1月号の特集「チベット仏教の聖地、インド・ラダック地方」 =インド北部ラダック地方は中印国境紛争のせいで、外部の人間の立ち入りは認められていない。写真家マティアス・クルムは、この地方の中心地レーから四輪駆動車で12時間かかってハンレという集落にたどり着いた。17世紀に建造されたハンレのゴンパ(寺院)を訪れたが、あれこれ許可を得るのに2年もかかったのだ。/ナショナル ジオグラフィック誌の写真家がチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマの協力を得て、外部の人間の立ち入りが厳しく制限されているインド・ラダック地方のハンレ・バレーの寺院を訪れる。=

では、中国との国境紛争のもとになりかねないため、現地の人間以外の立ち入りをインド政府が厳しく制限していた「ハンレ」という谷に取材陣が入る許可をとりつけてくれました。この地方にジャーナリストが入ったのは世界ではじめてのことでした。

 また、例の「アフガンの少女」を撮影した写真家のスティーブ・マッカリーがダライ・ラマの講演に行ったときのこと。マッカリーを見つけるとダライ・ラマは自ら近寄り、「もしかして、ナショナル ジオグラフィックの番組に出られていませんでしたか? アフガニスタンの難民の少女の写真を撮った方なのでは?」と聞きました。マッカリーが「そうです」と答えると、その場で俳優のリチャード・ギアを紹介してくれた、なんてエピソードもあったりします。

 それから、トルストイ。

 文豪として有名なレフ・トルストイですが、歳をとるにつれて次第に道徳的、宗教的な傾向が強まります。晩年はインドのマハトマ・ガンジーと手紙をやりとりしたこともあり、魯迅などの思想家にも影響を与えましたから、平和を重んじるダライ・ラマと通じるところはあるでしょう。

 ただし、ナショジオと関係があるのは文豪のトルストイではありません。孫のイリヤ・トルストイです。『父トルストイの思い出』を書いた三男をはじめ、ロシア革命や第一次世界大戦の時期に子孫の多くがアメリカに亡命していました。

「なんだ孫か!」  とか思いました?

 でも、トルストイの孫であることに意味はあった、と中の人は思います。  なぜなら、イリヤ・トルストイこそアメリカ人としてはじめてチベットに入ることを許され、ダライ・ラマに謁見できた人物だからです。

 当時、トルストイはアメリカ自然史博物館の大きな遠征にも参加したこともある軍人、つまり適任者でしたが、特使でもありましたから、ダライ・ラマのような平和を重んじる指導者にとって「トルストイ」という名前にも意味がないとは中の人には思えないのです。だから選ばれたともいいませんけどね。

 前置きが長くなりましたけれど、トルストイがダライ・ラマに会った紀行文「チベットを越えてインドから中国へ(Across Tibet from India to China)」が掲載されたのは1946年8月号でした。“トルストイの紀行文”と聞けば、ほら、孫でもちょっとはありがたみがあると思いませんか?(笑)

トルストイがチベットに行ったのは1942年から43年。まだ戦争中でした。

 目的は中国を支援する補給路の開拓です。1942年5月までに日本がビルマルートを制圧して中国への補給路が断たれ、アメリカは代わりのルートを探していました。そのひとつがチベット越えだったのです。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 後節 » “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月24日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-24 05:10:18 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 神憑りにかかったチョンマゲつけたおっさんたちが熊本県で大暴れ(1876年=神風連の乱)、近代兵器に敵う訳もなく翌日には全滅。 ☆ 集団的な熱狂状態に陥ったウォール街が、突然の大暴落で一挙に現実に目覚めさせられる(1929年)。その後28日・29日と3連続のウルトラショックで一挙に世界大恐慌へ= 暗黒の木曜日=。 ☆ 日本国有鉄道が通勤ラッシュへの手っ取り早い対応策として、乗客を無理やり押し込む要員に学生アルバイト=押し屋=を投入(1955年)。

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1921-1956期 追考 « ナショジオが伝えた原子力時代の幕開け »  2/2 

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2012年8月1日 / (Web編集部)

  46年7月号にビキニ環礁で暮らしていた住民の引っ越しのレポートを掲載しています。 タイトルは「さよならビキニ(Farewell to Bikini)」。最初と最後の段落を引用してみましょう。 「1946年2月の中頃のこと。マーシャル諸島のラリック列島にあるビキニ環礁の住民が、突然、現代文明に襲撃された」

「『さよなら』という言葉が交わされた。『また明日来るからね』と以前のように言えたらどんなにいいだろう、と私は願っていた。私は『さよなら』を繰り返した。だって、私だけでなく、おそらく彼らにとっても、もう二度とここに戻ることはないだろうから。文明と原子力時代がビキニにやってきた。そして、彼らは邪魔だったのだ」

レポートが発表された46年7月は、核実験が行われたまさにその月でした。

 その後、ソ連に先を越されることを恐れた米国は1952年11月に初の水爆実験に成功。  さらに7カ月後の53年6月号には「原子力に耐え忍ぶことをネバダは学ぶ(Nevada Learns to Live with the Atom)」というショッキングな体験レポート(!)が掲載されます。

 この公開核実験では、核兵器の開発と同時に、爆心地の近くの人や民間の建物などがどの程度被害を受けるかも試されました。ナショジオが支援したスタッフによる有名な動画もあるので、マネキンが置かれた車や家が吹き飛ぶ資料映像を見たことがある人もいるのではないでしょうか。

 筆者はサミュエル・W・マシューズです。幸か不幸か、彼はマスコミを代表する20人に選ばれ、なんと爆心地から約3kmしか離れていない塹壕のなかに隠れます。ネバダで以前に行われた実験のときの半分ほどしか距離がなく(6kmでも全然近いですけど)、報道陣は「ふるえる20人」とか「壊滅部隊」と呼ばれました。

「『認めたくねえけどよ』隣の人影が言った。『俺は怖いんだ……』  真うしろでサイレンがうなった。頭を下にして埃のなかにひざまずき、体をこわばらせると、 『爆発20秒前!』  深呼吸する。カウントダウンが始まった。

『10……9……8……7……6……5……4……3……2……1――』

 夜のように暗かった塹壕は一瞬のうちに目もくらむ真っ白い光に包まれた。まばたきすらできない。砂が飛んでいって、光の中に消えてしまった。頭のうしろから巨大なサーチライトで照らされたようだった」

「『立ち上がって見てもよろしい』  その声は耳鳴りの向こうからかすかに聞えてきた。  茶色い埃が濃霧のように砂漠を覆っていた。巨大な原子の火の玉が空に上がり、オレンジ色と黒の球体となって、黒い煤のなかで炎の舌が渦巻いていた」

爆心地から1kmしか離れていなかった家はこっぱみじんに砕けて砂に埋まり、爆発に面した部分が黒焦げの残骸だけがかろうじて確認できました。ソ連がシベリアで水爆の実験に成功したのは、それから2カ月ほどあとのことでした。

 その一方で、ネバダの核実験のレポートから半年後の54年1月号には特集「人類の新たなるしもべ、原子力はみんなの友だち(Man’s New Servant, the Friendly Atom)」が掲載されます。サブタイトルは「“飼いならされた”原子力は病と闘い、工場と農場を助け、産業にとって重要な新エネルギー源となるかもしれない(”Tamed” Atomic Energy Fight Disease, Help Factories and Farmers, and May Become an Important New Source of Industrial Power)」

 これは原子力発電所や原子力潜水艦をはじめ、放射線治療、放射性同位体による年代測定、しまいにはペットの犬の病気を治す治癒力があるという写真も載せて、平和利用のみに的を絞り、原子力の明るい未来を紹介する楽天的な記事でした。

 恐ろしい核実験をレポートしたかと思えば、ペットの犬の病気を治す記事もある。戦後10年間に掲載された主な原子力の記事はオッペンハイマーの言葉を見事に象徴しているようです。去年の福島の事故を見ても、広島、長崎から60年以上たったいまだに原子力をめぐる混迷は解決していません。同じくオッペンハイマーがいうように「世界はもう二度と元には戻れない」のだとしたら、私たちが原子力を飼いならす日はいつのことになるのでしょう。

次回は “ « トルストイとダライ・ラマとナショジオの意外な縁 » “ に続く・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 10月23日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-23 05:10:10 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 年号を明治に改めることにすると共に、年号が天皇の私有物となることに(1868年=慶応から明治に)。 ☆ ドイツの総統がスペインの総統に第二次世界大戦への参戦をせっつくものの、昼寝時だったため実現せず(1940年=西仏国境アンダイで会談)。 ☆ 平成天皇に初孫が生まれる(1991年)が、惜しくも女の子だった。待望の男の子が生まれるには、更に15年の時を待たねばならなかった。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 16 回= ◎ ◎

1921-1956期 追考 « ナショジオが伝えた原子力時代の幕開け »  1/2 

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2012年8月1日 / (Web編集部)

 長く激しかった戦争の終わりはそのまま新しい時代の到来を意味しました。国境や地名は大きく変わり、そのおかげでナショジオの地図製作部は大忙しでしたが、何も新しくなったのはそれだけではありません。

 飛行機やレーダーなど、皮肉にも戦争はテクノロジーを大きく発展させました。  なかでも人々の関心を集めたのが原子力でした。

 原子力の扉を開いたのはもちろん広島と長崎に投下された原子爆弾です。その威力を見れば、以前とは次元の異なるチカラを人類がもってしまったことは明らかです。また、ソ連をはじめ、いずれはほかの国も原爆を完成させるといわれていました。もしもたくさんの国が原爆をもって、核戦争にでもなったりしたら……という恐怖は当初からありました。

「大いなる災厄であると同時に、大いなる希望でもある」そして「世界はもう二度と元には戻れない」といったのは、原爆を完成させた物理学者ロバート・オッペンハイマーです。この恐るべきチカラをどう扱ったらいいのかという問題は、戦後、いや、原爆が投下された直後から米国の国民的関心事でした。

 1945年10月号の「あしたの新世界(Your New World of Tomorrow)」はそんな状況をよくあらわしています。

 第二次世界大戦が完全に終わったのは1945年9月でしたから、10月号は戦後最初の号です。その巻頭特集がこれ。新しいテクノロジーによって、これからどんなふうに暮らしが変わっていくかを予測する、まさに新時代の幕開けを告げる内容です。

「ラジオの驚異」「テレビの未来」「“電気の時代”が始まった」「明日の航空路線」、なかには「テレビコマーシャル」とか「冷凍食品」なんて項目もあったりして、見出しを眺めているだけでも楽しめます。

 その筆頭が「原子力の時代(The Age of Atomic Power)」でした。こんな書き出しです。 「それ(ロケット)以上にセンセーショナルなのは、原爆によって幕が開いた原子力の新時代だ。  原爆のすさまじいパワーは、想像も及ばない宇宙の営みの力、太陽をはじめとする恒星が膨大な熱を出しながら何百万年も輝き続ける力とほぼ同じである」

 簡単に原子力の原理を解説したあとで、こう続きます。 「新しい世界では、少なくともある程度は原子力が石炭、石油、水力と置き換わるだろう。

 巨大な産業プラントや光やシステム、あるいは戦艦や大型船舶などを動かすために、数トンのウラニウムが何千トンもの石炭や石油と同じだけの仕事をこなせるだろう。

『だが、まずは』と、ある科学者が私に言った。『我々は原子力をコントロールするすべを学ばなければならない。原爆ではこの力を解放する方法を学んだだけさ。それは樽のなかとエンジンのなかのガソリンのように違うんだ。樽のガソリンをマッチ1本で爆発させることなら誰にでもできる。でも、自動車のエンジンのなかでガソリンを自分たちの役に立つようにコントロールすることは、もっとずっと複雑だ』」

 平和利用の構想があったとはいえ、まだ原子力発電の実験すら始まっていませんでした。

 1946年には戦後はじめての核実験である「クロスロード作戦」がビキニ環礁で行われます。『ナショナル ジオグラフィック』はその状況を1947年の4月に写真とキャプションだけで伝えているのですが、その前の46年7月号にビキニ環礁で暮らしていた住民の引っ越しのレポートを掲載しています。

 タイトルは「さよならビキニ(Farewell to Bikini)」。最初と最後の段落を引用してみましょう。 「1946年2月の中頃のこと。マーシャル諸島のラリック列島にあるビキニ環礁の住民が、突然、現代文明に襲撃された」

「『さよなら』という言葉が交わされた。『また明日来るからね』と以前のように言えたらどんなにいいだろう、と私は願っていた。私は『さよなら』を繰り返した。だって、私だけでなく、おそらく彼らにとっても、もう二度とここに戻ることはないだろうから。文明と原子力時代がビキニにやってきた。そして、彼らは邪魔だったのだ」

 レポートが発表された46年7月は、核実験が行われたまさにその月でした。  その後、ソ連に先を越されることを恐れた米国は1952年11月に初の水爆実験に成功(。

さらに7カ月後の53年6月号には「原子力に耐え忍ぶことをネバダは学ぶ(Nevada Learns to Live with the Atom)」というショッキングな体験レポート(!)が掲載されます。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

次回は “ «ナショジオが伝えた原子力時代の幕開け» 2/2“ に続く・・・・・

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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森のなかえ

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