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【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 09月10日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳 

2024-09-10 05:10:23 | 冒険記譜・挑戦者達

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ スターやヒロインが互いに引き抜き合戦になるのを防ぐため、日本の5大映画会社でカルテルを結成(1953年=五社協定)。 ◆ フランスが生んだ死刑器具のギロチンがこの日を限りにお役御免となる(1977年)。 ◆ 木村剛の銀行商売がぶっ潰れ、財務省がその尻拭いをさせられる破目に(2010年= 日本振興銀行が経営破綻)。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 07/9 】  ◎ ◎

=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=07/9= | 2015/10/26 =

The Search for Andrew Irvine – 2004 :   https://youtu.be/4WXPMjWtst8

 マロリーの残した言葉

-1924年-、第3回遠征時の折に・・・・・・

「打ち負かされて降りてくる自分の姿なぞ、とても想像できない」

「それがどんなに私の心をとらえているか、とうてい説明しきれない」

「ほかの人達が私抜きで頂上の征服に取り掛かるのを見たら、あまり良い気持ちがしないだだろう」

「どれほど今年に期待しているか、とても言い表せない」

「もう一度、そして、これが最後。そういう覚悟で私達はロンブク氷河を上へ上へ前進してゆくく。

待っているものは勝利か、それとも決定的敗北か」

「この冒険はこれまでになく必死なものとなっていきそうな・・・」

等々、日記に記している。

6月6日、22歳の若いアンドルー・アーヴィン1人を連れてジョージ・マロリーは第4キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。 2人はシェルパ8人を伴って第5キャンプ(標高7710m)を目指した。 ここに到着するとマロリーは書き付けを託して4人のシェルパを戻した。 書き付けには「ここは風もなく、見通しは明るい」と書かれてあった。

翌6月7日早朝マロリーとアーヴィンと4人のシェルパは第6キャンプ(標高8230m)に押し進んだ。 ここでマロリーは再び書き付けを託して、4人のシェルパを戻している。

遠征隊の撮影係ジョン・ノエルに宛てた書き付けには、「親愛なるノエル。この晴天を利して、出発はおそらく明日早朝。当方の姿を探すのに早過ぎる事はないでしょう。午前8時にはピラミッドの下のロックバンド(頂上ピラミッドを取り巻く、灰色の石灰岩の帯)を横切っているか、もしくはスカイラインを登高中の予定」 記し、

ノエル・オデールに宛てた書き付け、「親愛なるオデール。何ともだらしない有様で誠に申し訳ない。出発直前に調理用ストーブを落としてしまった。 明日は明るい内に帰幕の予定にて、間違いなく早めに第4キャンプへ降ってもらいたい。 そちらのテントにコンパスを忘れてきた模様、力添えを頼む。コンパスなしでここに居る。 ここまで2日間で90気圧の消費、明日は、おそらく酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう。 これは、クライミングにはえらいお荷物だ。天候の方は理想的だ!」

・・・・・・今回のマロリーは、1922年のフィンチ隊の健闘を見て酸素器具に対する認識を改めて、自らも積極的に使うことにしていたのだ。 また、日記や連絡メモから 彼の登行意欲が高揚している事が覗える・・・・・・・

6月8日推定午前5時半、この日はマロリーが書いたように理想的な晴天に恵まれた。 マロリーとアーヴィンは第6キャンプを後にすると、頂上攻勢に出発した。 現在、エベレストを目指すにはネパール側からとチベット側からの二通りのルートが開かれているが、ネパール側からの方が難度が低いとされており、こちらが一般的に用いられている。 しかし、マロリーが挑んだのは、チベット側からのルートであり、行く先には数々の難所が待ち受けている。

イエローバンド=石灰岩の急な一枚岩の連なりで、砕けやすく、無数の岩屑が乗っている地帯=、ファーストステップ=高さ30メートル程のほぼ垂直な岩壁=である。 その後は強風が吹き晒す、危険な山稜ルートが山頂へと続く。

セカンドステップ=高さ30メートル程の岩壁で、ファーストステップより遥かに難しく、巡洋戦艦の切り立った艦首とも形容される。 岩場は特徴のある三つの部分に分かれていて、上部は垂直=である、この難所を超えると、技術的に困難な箇所はなくなる。 後は広い台地の緩やかな登りとなり、雪に覆われた山頂ピラミッドへと続く。 マロリーはコダック社のカメラを持参しており、頂上で記念写真を撮る予定であった。 さらに妻ルースの写真を頂上に埋めてくると言っていた。

  ノエル・オデールは2人をサポートすべく単身第5キャンプ(7,710m)に登り、68日の朝8時過ぎに第6キャンプ(8,230m)を目指して登り始めた。 オデールはマロリーに頼まれたコンパスと2人のための食料品を届けるため第6キャンプに向かっていた。 

 その途中(高度8,077m付近)でオデールはふと顔を上げ、雲が晴れ上がって頂上が青い空の中に現れるのを見た、そこで目にしたものを彼は生涯忘れることがなかった。 

 “1250分頃だった。 私が初めてエベレストで化石を見付けて大喜びしていたまさにその瞬間、空が突然晴れ上がり、エベレストの山頂が姿を現した。 私は山壁に1つの小さな点を見出した。 稜線上のとある岩の段差の下、小雪稜上に小さな黒点が一つ浮き出し、そのまま動いて行く。 また一つ黒い点が現れると小雪稜上の黒点に合流すべく、雪の上を進んで行く。 第1の点が岩の上にとりつくと第2の点も続いた。 これは明らかに人影であった。 そこで再び雲が山を覆い、何も見えなくなった。”

  その頃、一つ目の黒点は、大きな岩の段差に接近しており、ほどなくその上に現れた。 二つ目の黒点も同じような動きであった。 幻想的とも言えるその光景はやがて雲に覆われてゆき、まもなく搔き消えた。 遠目にも分るほど、2人はてきぱきとした身ごなしで動いていた。 そこから山頂に達して第6キャンプに戻るまで、明るい時間がそう長くないと意識していたからだろう。 2人が目撃された場所は、頂上ピラミッドの基部からほど近い、よく目立つ岩の段差であった。 

 オデールが午後2時に第6キャンプへ到着した頃、風雪が強かった。 彼は、2人があの地点から山頂に辿り着くまで、後3時間はかかるだろうと見なした。 2人の下山が遅くなるのは確実だった。 だが、オデールは意志堅固なあの2人なら登頂を成し遂げ、「ついに征服した!」と知らせてくれるだろうと思い、さほど心配はしていなかった。 

 また、しばらくして戻ってくる2人が吹雪でキャンプを見付けられないといけないと考え、テントを出て口笛を吹いたりヨーデルを歌ったりしていたが、人の気配はなかった。 下山する2人のための用意任務を終えたオデールは、4時半に第6キャンプを後にし 第4キャンプへと降っていった。 

 下りながらオデールはたびたび山頂方向を眺めたが、下山する2人の姿はついに見ることができなかった。 その夜は晴れ渡っており、オデールは何か動きはないか、救難信号が出ていないか、と夜通し見張ったが何も見えなかった。 第4キャンプで1泊した69日の早朝から、双眼鏡で上部調べる。 しかし、2人の気配はまるでなかった。

 雲も出始め、視界を遮る。 オデールはこの日の正午、嫌がるシェルパ2人を連れて、第5キャンプへの登行を決意、2人の捜索に向かった。 しかし、そこには誰もおらず、何も手がつけられていなかった。 オデールは、  “盛んに流れていくちぎれ雲をすかして、嵐を告げるような夕焼けが時折覗き、やがて夜の帳が降りるにつれて、風と寒さが募っていった。” と追憶している。 

  翌日の6月10日、 シェルパ達はこれ以上登るのを拒否したので、オデールは彼らを帰らせると1人で登っていった。 第6キャンプに辿り着いたものの、やはり2人の姿はなかった。 凄まじい風が吹き荒ぶ中、オデールはただ1人、危険を顧みずに山頂に向かって2時間進んで2人を捜索した。 だが、暗く重い大気の下、強風が吹き荒れるのみで、親しい友人2人の痕跡を見つける事はついに出来なかった。

オデールは捜索をあきらめ、下山に取り掛かろうとした時、山頂へ振り返った。

“それは冷たいよそよそしさで、私というちっぽけな存在を見下ろし、風の咆哮に乗せて、私の切なる願いを嘲笑っていた。 秘密を明かしてくれ、2人の我が友にまつわる謎を明かしてくれという私の切なる願いを・・・”

マロリーとアーヴィンはエベレストに消えた。 そして、彼らが頂上に到達したのかどうかは、世界の登山史上に残る謎となった。

※; マロリーとアーヴィンの最後の難関・セカンドステップの通過はオデールの証言以外にこれを証明するものはなく、彼らがセカンドステップにたどり着いたのかどうかわからない(ファーストステップ周辺には空の酸素ボンベや1933年に見付かったアーヴィンのアイス・アックスがあった)が、逆に言えばたどり着かなかったという証拠もない。

2001年に発見された第6キャンプの位置から、2人がそこから頂上に到達するのに11時間を要したと考えられる。 当時2人は2本ずつ酸素ボンベを担いでいたが、これは普通に使えば8時間分であり、おそらく頂上にたどり着く前に酸素がなくなったのであろう(もちろん、少しずつ使う、あるいは使わずにいくことも不可能ではないが)。

酸素ボンベのうち1本がファーストステップの手前で発見されている。 これをもとに彼らの移動スピードを推測すると、彼らがセカンドステップに到着したときの酸素残量はよくて1時間半。 セカンドステップから山頂まで少なくとも3時間かかるとすれば、酸素を切らさずに登頂するのは難しかったろう。

現代の登山家で無酸素登頂に成功している者もいるが、彼らは充分にトレーニングを積み、酸素をしっかりと吸い込んで最新の超軽量防寒着を着込んだ上、訓練されたシェルパの助けによって登頂している。 マロリーがもし登頂できるとすれば、アーヴィンをファーストステップで待機させた場合のみだが、そうするとマロリーの腰についたザイルの傷が説明できない。 ある者は2人がセカンドステップを諦め、北壁ルートをたどろうとしたのではないかと考えるが、傍証はない。

Lost On Everest - The Search For Mallory & Irvine. 1/5 https://youtu.be/Z7KyVKop3sc

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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森のなかえ

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今日(狂)の狂言 : 09月09日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-09 05:10:08 | 冒険記譜・挑戦者達

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ とあるリア充が自分の連れ合いに飽き飽きしたので、偶然乗り合わせていた飛行機の乗客22人と一緒に爆発させる(1949年=カナディアン航空機爆破事件)。 ◆ 競輪場で大穴が出たことからエキサイトしたおっさん連中が大暴れして、競輪場があった村を崩壊に追いやる(1950年=鳴尾事件)。 ◆ 1991年 - SMAPが『Can't Stop!! -LOVING-』をリリースしメジャーデビュー。

 

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 06/9 】  ◎ ◎

=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=06/9= | 2015/10/25 =

Mallory and Irvine's Route to the Summit and Irvine's Final Resting Place. : https://youtu.be/I_vx9CbD7rk

 ☆マロリーとアーヴィンの事故死☆  

 1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160m付近でマロリーの遺体を発見した。その遺体はロープによって腰部が損傷していたことから、二人はロープで結び合ったまま滑落したのではないかと推測されたが、アーヴィンの遺体は未だに発見されていない。  

 マロリー達が持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見に至っていない。 しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。 

 なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、この時の捜索では何も発見できなかった。 

 マロリーとアーヴィンが失踪した約9年後の1933年、イギリス第四次エベレスト遠征隊が山麓に集結した。 隊長ヒュー・ラットレッジ (Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン・ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー (Lawrence Wager)、 エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、後に遠征隊の隊長をつとめる歴戦の登山家エリック・シプトン (Eric Shipton) もその中に含まれていた。 

 この遠征では高度8570mが最高で登頂はできなかったが、ウィン・ハリスが頂上近くで 1924年にマロリーとアーヴィンが登頂に挑戦したときのものであったアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。 また、同隊がはじめてエベレスト遠征にラジオを持参した遠征隊であった。  

 『エベレスト1933』のp.137にはハリスがピッケルを発見したとき、「それはボイラー板のような厚いスラブの上に、茶色で、平穏で、自由なままに転がっていた。」と述べたとしている。 さらにp.138で、ハリスは「この厚いスラブは別段、険しいものではなかったが、滑りやすく、脆い小石で覆われた危険な場所であった」と述べている。  

 1933年11月のアルペンジャーナルにおいて、隊長・ラットレッジは以下のように解説した。 

 「ハリスが対角線上に上へ横断し、約1時間登った後、マロリーかアーヴィンが使用していたにちがいないピッケルを発見した。 それは 北東やせ尾根の下、60ftの傾斜角30度の地点にそれは転がっていた」と「ここから推測できるのは、このピッケルがアクシデントの発生を示していることだ」と。 

 さらに「このピッケルの存在は、ここで滑落が発生して落ちたか、滑落した同僚を助けようとしてロープを引っ張るために両手を空けようとピッケルをここに置いた可能性を示している」と・・・・。 

  ☆登頂の可能性☆ 

 1999年、イギリスのBBCとアメリカのテレビ局WGBH製作のドキュメンタリーシリーズ「NOVA」が共同で企画したマロリー、アーヴィン捜索隊が、8、155m付近でマロリーの遺体を発見した。 この発見により、二つのことが明らかになった。 

 マロリーの腰にはロープで強く引っ張られたために生じたひどい出血が見られたこと。 これは何れかのポイントで2人がロープで結ばれたまま、滑落したことを意味しており、さらにその後、ロープが露出した岩に引っかかることにより、マロリーがその場所に横たわったことを意味している。 

 マロリーの遺体には北東稜から滑落した最近の例に見られるような激しい損傷が見られず、比較的損傷の少ない状態で「8200mスノーテラス」のすり鉢状の地形で発見された。 さらに、捜索隊が発見するより前にマロリーの遺体を発見したとされる中国の登山家王洪宝は、彼のピッケルが、滑落最終地点である遺体発見現場の近くに落ちているのを発見していた。 これにより、以前に発見されたピッケルがアーヴィンのものであることが判明した。  

 これらの調査結果から、いくらかの推測ではあるが、マロリー、アーヴィンがエベレスト登頂に成功した可能性を見出している。 

 第1に、マロリーは登頂成功後、山頂に妻の写真を置くため、写真を所持していたとマロリーの娘が常に言っていたこと。 この写真はマロリーの遺体が発見されたときに見つけることができなかった。遺体と衣服の保存状態が極めて良好であったため、写真を山頂に置いた可能性が存在する。 ただし、現在のところ、山頂で写真は発見されていない。 

 第2に、マロリーの遺体が発見されたとき、彼のスノーゴーグルが彼のポケット内に入っていたことであるが、それは彼が夜間に死亡した可能性を意味している。 さらにこれはマロリーとアーヴィンが登頂の為に努力した後、日没後に下山した可能性をも含んでいる。 彼らの出発時間と行動能力から判断すれば、彼らが山頂に到着し、それから下山している時に滑落したということも考えられる。 

 しかし、どちらも決定的な証拠とは成り得ていないが、これに決定的な具体的証拠を与えそうなものが1つだけ存在する、それはアーヴィンが所持していたと思われるカメラである。 しかし、アーヴィンの日記に記されていた2台のカメラのどちらも発見されていないが、多くの人が登山の際にこのどちらか1台を所持していたと推測している。 

 コダックの専門家は、カメラがフィルム入りで発見されれば、そのフィルムが白黒であり、急速冷凍されていることから、それを修復して、現像できる可能性があると述べた。 

 1975年、王洪宝が、8,100m付近でイギリス登山者の遺体を見たと報告した。 さらに1979年、日本登山隊がエベレスト北面より山頂に挑戦した時、その登攀隊長・長谷川良典も報告している。  しかし、その詳細を語る前に、王洪宝は雪崩で遭難死した。 しかし、王洪宝が遺体を見つけたとしている高度とほぼ同じ高度でマロリーの遺体が発見されたことから、王が発見したものがマロリーの遺体であるとする見解が根強い。 

 ただし、ある意見ではマロリーの遺体は顔を下に向けていたが、がれきに埋没していたと王洪宝が語っており、捜索隊が発見したときの状況と一致していないことを指摘している。 また、ある研究者は王洪宝がアーヴィンの遺体を発見したと考えており、王洪宝が、その遺体について、おそらく死因となったであろう、頭部の損傷について語っていたが、マロリーの遺体にはそのような損傷が見られなかったことを指摘している。 

 さらに、1999年、マロリーの遺体が発見された時、頭部はガレキに埋没しており、王洪宝が遺体の顔を見た上で、簡単な埋葬をするために、遺体を移動したと思われることも指摘されているが、これは全て推測に過ぎない。 

 マロリー、アーヴィンそして彼らが所持していたヴェスト・ポケット・コダックモデルBを見つけ出すために、1986年、1999年、2001年、2004年、2005年と捜索隊による捜索が行われたが、彼らの運命について新たな証拠が発見されることはなかった。 その推測と議論は「The Mystery of Mallory and Irvine(マロリーとアーヴィンの謎)」として、いまだに続いている。

Everest - Expedición allory-Irvine, 1924 ; https://youtu.be/xj7VeR9-5PM

  2人を霊視したと言う人物の話によると、マロリーとアーヴィンはエベレスト頂上に達していた。 だが、到着時間は非常に遅く、彼らは疲労困憊していた。 闇が深まる中、2人は下山し始めるが、その最中にマロリーは滑落していった。 アーヴィンは1人、下山を続けたが、ほどなくして疲れ果てて座り込んでしまう。 そこにピッケルを置くと、酷寒と疲労でそのまま動けなくなった。 

 アーヴィンは薄れ行く意識の中、マロリーの幻を見た。 マロリーはこう言った。 「さあ、出発しよう」と。 そして、2人は旅立っていった。 

 標高8570メートルの地点でアーヴィンのピッケルが発見された。 そのピッケルは、何事も無かったかのようにただ、岩の上に乗っていた。 だが、そここそが2人の終焉の地であった。 

 ☆調査隊が推測したマロリー・アーヴィンの遭難の様子☆=ブログ“叛骨の焔”より= 

 2人は頂上に達したかどうかはともかく、これまでに人類が到達した事のない高みに立った。 しかし、2人は疲労困憊し、酸素も切れていた。 それでも2人は力を振り絞り、日没前に最大の難所であるセカンドステップを降り終える事に成功する。 そして、ファーストステップも降り終えて、イエローバンドに達した時、辺りは闇に包まれた。 

 しかし、マロリーはランタンと懐中電灯をキャンプに置いてきているので足元は照らせず、ほのかな月明かりだけを頼りに、石灰岩の脆い岩の連なりを降りて行かざるを得ない。 2人は水分、酸素不足に加え、極度の疲労もあって意識が朦朧としていた。 それに最大の難所を超えたのと、キャンプを目の前にした安心感もあって、ふと心が緩んだのかもしれない。 垂直な岸壁が横たわる危険箇所に差し掛かった時、マロリーは雪疵(せっぴ・雪の塊)を踏み外して、滑り落ちてしまった。 

 2人はロープで体を結び合っていたが、激しい衝撃を受けてロープは切れてしまう。 その直後、マロリーは片足で斜面に着地した為、右足が登山靴の上で折れて、そのまま急斜面を滑落していった。 アーヴィンはピッケルをその場に置き、直ちに親友を助けようとしたが、最早、どうしようもなかった。 

 マロリーの体は尚も加速をつけて暗黒の谷底へと下っていったが、彼は諦めず、体をひねって岩屑の斜面に指先を食い込ませ、必死に体を停止させようとした。 手袋はすぐに裂け、それでも腕と指の力だけで必死に食い止めようとする。 だが、その最中、傾いた岩に打ち当たって、体が宙に舞い上がってしまう。 そして、斜面に激しく叩きつけられ、尖った岩に額を激しくぶつけた。 滑落の速度は緩んできて、ようやく体は停止した。 だが、致命傷を負ったマロリーが、再び立ち上がる事はなかった。 

 アーヴィンは暗闇の中、マロリーの名を必死に呼び続けていた。 だが、親友から、返事が返ってくる事はなかった。 アーヴィンは暗く沈んだ気持ちで、1人下山を始めるが、ほどなくして座り込んでしまう。 極限の疲労に加えて、滑落事故の際、アーヴィンも負傷したのかもしれない。 そして、酷寒が体を凍りつかせてゆく中、アーヴィンは短い22年の生涯を閉じた。 翌日、オデールが2人の捜索に向かった際、アーヴィンの遺体の側らを、気付かずに通り過ぎて行ったのかもしれない。 

 1993年 イギリスの第4次遠征隊は、標高8460m地点でアーヴィンのピッケルを発見している。 そのピッケルには滑落したような傷跡はなく、ただ岩の上に置かれていた。 マロリーとアーヴィンは、第6キャンプまで後僅かという距離に達していながらの無念の遭難死であった。 

Mallory & Irvine: A Bloody Load for Climbing : https://youtu.be/CP9Rnz3tIko

・・・・・・・明日に続く・・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月08日(日曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-08 05:10:52 | 冒険記譜・挑戦者達

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ ナチス・ドイツが、弾道ミサイルをロンドン市民に対して初御披露目(1944年)。だが戦局を逆転するまでには至らず、焼け跡でデブ総理がVサインをしたパフォーマンスが大ウケに。 ◆ 2ヶ月前の総選挙での歴史的な敗北で手札が尽きた日本社会党が、最後の切り札として憲法学者のオバさんを委員長に(1986年)。取り敢えずやるっきゃない!さりとて、これが衰退の助走。 ◆ 池袋にてデュラララ!!が現実のものとなる事態に(1999年=池袋通り魔殺人事件)。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 05/9 】  ◎ ◎

=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=05/9= | 2015/10/24 =

 

The Legend of Mallory & Irvine   : https://youtu.be/dd1DwzZXRZU

  マロリーとアーヴィン ☆ 

  マロリーは牧師の子として生まれ、その風采は極めて優れており、整った顔立ちに洗練された雰囲気を漂わせていた。 モデルを頼まれる事もあった。 彼は非常に神経質なタイプで自身たっぷりだったかと思うと、心許なくなって沈み込み、感情の振幅が激しいところがあった。 だが、登山家としても卓越した能力を持っており、山に向かって足を運ぶその軽快な足取りは、誰にも真似できないものだった。 だが、もっとも優れていたのは彼の魂であった。 

 彼の意志力は尽きる事がなく、何かやるべき事があれば、何時でも行動に移す用意があった。 誰よりも早く行動し、夜も空けきらない早朝に出発する事も度々であった。 マロリーは愛すべき人格の持ち主であったが、せっかちで、行く先々で所持品をばら撒いていくという欠点もあった。 

 マロリーのもっとも優れていたものは、その魂であった。 彼の意志力は尽きる事がなく、何かやるべき事があれば、何時でも行動に移る用意があった。 彼は誰よりも早く行動し、出発する時は夜も明けきらない早朝だった。 遠征隊の隊長ノートンはマロリーの事を「不屈の精神を持った男であり、チャンスがある限りは敗北を認めない」と評している。 しかし、その一方で「彼は愛すべき人物だったがせっかちで、行く先々で所持品をばら撒いていった」とも述べている。 

 確かに マロリーは登山家としては際立った能力を持っていたが、管理能力はなかったようだ。 目の前の物事に集中すると、決まって大事な物を忘れてくる傾向があった。 最後の忘れ物の中にはコンパス・夜間用ランタン・懐中電灯がある=荷物になるので置いていった可能性もあるが、このランタン・懐中電灯を携帯していれば遭難は避けられていたかもしれない=。 

 マロリーは過去2回、エベレスト遠征隊に加わって、登頂に失敗している。 3度目となるエベレスト挑戦時、マロリーはもうじき39歳となる年齢であり、肉体的にもこれが最後の機会である可能性が高かった。 それに彼は、このエベレスト登頂に人生の意義を見出していた。 そのため、彼は並々ならぬ決意でエベレストに向かっていった。

 

 アーヴィンは裕福な家庭に生まれ、少年の頃からバイクの旅をするなど生来の冒険家であった。 彼には登山の経験は少なかったが、機械に極めて強い点と抜群の体力を買われて21歳の若さで遠征隊に加えられている。 若さゆえの生意気な行動を取る事もなく、常識心に富んでいた。 

 長身で顔立ちが良く、肩幅の広い青年であった。 1924年の第三次遠征隊の中では最年少でありながら、彼が発揮した仕事能力は大変なものだった。 昼間、氷河で作業して疲れ切った後でも、テントの中で道具類を広げ、壊れやすく扱いにくい酸素器具の改良に取り組んだり、遠征隊の修理屋を勤めたりもしていた。 彼はこの作業を皆が寝静まった後も、だいぶ遅くまで続けていた。 

 彼は、生来の冒険家であり、高い理想を抱く好青年だった。 まだ22歳になったばかりの若者だったが、肉体的にも精神的にも大人であり、年長者に対して控え目な態度を取りながらも、大人として行動していた。 高い理想を抱いており、シェルパに対しても礼儀正しく接していた。  

 年長者の中にあって控え目な態度を取りながらも、大人として行動しており、皆が彼を尊重した。 マロリーとアーヴィンは共に理想主義で子供っぽいほどの無邪気さがあり、2人は出会ってすぐに意気投合する。 マロリーの事をジョージと呼ぶほどの仲になる。 

マロリーの方が10年以上も年長であったが、2人は対等の親友となった。 遠征隊の記念写真が残っているが、2人は隣同士で写っている。そして、写真に写るアーヴィンはいつも陽気に微笑んでいる。 

  ☆マロリーとアーヴィンの挑戦☆ 

 マロリーは、エベレストへのアタック隊にベテランのオデールを選ぶという選択肢もあったが、このアーヴィンを指名している。 これは、アーヴィンの若さ、体力、機械に対する知識、そして、2人の深い信頼関係を買ったものだろう。 

 後ほど その詳細を述べるが、1923年、アメリカ合衆国での講演活動を行ったマロリーは、1924年の第3次遠征隊にも参加を要請された。 1922年同様隊長はブルース将軍が務め、副隊長にはノートン大佐が選ばれた。 58歳のブルース将軍にとって年齢的にこの山行が最後のチャンスだろうと思われていた。 

 隊員として経験者のジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham )、E・O・シェビア(E. O. Shebbeare ) 地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期を共にしたアンドルー・アーヴィンらが選ばれた。 

 一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。

4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。 彼らは7000m付近に第4キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。

 マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日、22歳の若いアンドルー・アーヴィン1人を連れて第4キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。 

 今回のマロリーは、1922年のフィンチ隊の健闘を見て酸素器具に対する認識を改めて、自らも積極的に使うことにしていた。 ノエル・オデールは2人をサポートすべく単身第5キャンプ(7,710m)にあがり、6月8日の朝8時過ぎに第6キャンプ(8,230m)を目指して登り始めた。

   後続するその途中(高度8,077m付近)でオデールはふと顔を上げ、雲が晴れ上がって頂上が青い空の中に現れるのを見た、そこで目にしたものを彼は生涯忘れることがなかった。 

≪12時50分頃だった。私が初めてエベレストで化石を見付けて大喜びしていたまさにその瞬間、空が突然晴れ上がり、エベレストの山頂が姿を現した。私は山壁に1つの小さな点を見出した。それは大きな岩塊の下、雪の上に浮き出た小さな点だった。やがて雪上にもう1つの小さな点が現れ、最初の点に追い付こうと動いていた。第1の点が岩の上にとりつくと第2の点も続いた。そこで再び雲が山を覆い、何も見えなくなった。≫ 

 この時、オデール=前節参照=は2人がセカンドステップにたどり着くところを見たと語った。 オデールの証言以外にこれを証明するものはなく、彼らがセカンドステップにたどり着いたのかどうかわからない=ファーストステップ周辺には空の酸素ボンベや1933年に見付かったアーヴィンのアイス・アックスがあった=が、逆に言えばたどり着かなかったという証拠もない。 その後、2人の姿は山中に消えた。

  オデールが午後2時に第6キャンプへ到着した頃、風雪が強かった。 しばらくして戻ってくる2人が吹雪でキャンプを見付けられないといけないと考えたオデールは、テントを出て口笛を吹いたりヨーデルを歌ったりしていたが、人の気配はなかった。 下山する2人のための用意を終えたオデールは、4時半に第6キャンプを後にした。 

 下りながらオデールはたびたび山頂方向を眺めたが、下山する2人の姿はついに見ることができなかった。 第4キャンプまで下りて1泊した明くる日の6月9日、オデールは再び第5キャンプから第6キャンプへ向かったが、人が入った形跡はなかった。 モンスーンの接近のため、遠征隊は2人をあきらめて山を下りることになった。 

 マロリーとアーヴィンは、おそらく6月8日(あるいは9日)に命を落としたのであろう。 今や国民的ヒーローとなっていたマロリー遭難のニュースは、イギリス中に大きな衝撃を与えた。 10月17日に行われたマロリーとアーヴィンの追悼式は、国葬のような規模でセント・ポール大聖堂において行われ、列席者の中には時の首相ラムゼイ・マクドナルドや国王ジョージ5世をはじめロイヤル・ファミリーの姿もあった。 

 (1924年6月6日午前8時40分)、マロリーとアーヴィンの2人はノース・コル(標高7066メートル)のキャンプを出発する。 2人が出発間近、準備に余念が無いところを登山隊の1人、ノエル・オデールが写真に収めている。 マロリーが酸素マスクを気にしている様子を、アーヴィンがそれを側らで、少し首を傾げながら眺めている図である。 これが2人が撮られた最後の写真となった。

「なぜエベレストに登るのですか?➡そこにそれがあるからだ」超人伝ジョージマロリーの物語。: https://youtu.be/mtazR6ffMA4

 

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・

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今日(狂)の狂言 : 09月06日(金曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-06 05:10:41 | 冒険記譜・挑戦者達

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 8月07日な君は明日か明後日か明明後日の予習をした方がいいかもしれない。いやはや、“松崎しげるの日(日本記念日協会認定)”なんだ!!?。 ◆ いやいや、ロリコンで妹萌えな某守護天使によれば、本日は世界人類の最も聖なる日である妹の日とのこと。 ◆ パレスチナのゲリラが、一遍に5機の航空機をゲットする快挙を達成(1970年= PFLP旅客機同時ハイジャック事件)。ヨルダンの砂漠へ全機集めたものの、使い途に困り結果的に爆破処分する破目に。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 03/9 】  ◎ ◎

=【 閑仁耕筆 】 冒険記譜・挑戦者達 | シリーズ・登山家の横顔=004-② | 2014-03-21 =

《ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦》 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=gR0aWPQZa_0

エベレスト ☆

 1953年5月29日、ヒラリーテンジンがエベレスト(海抜高度8848m)初登頂に成功する事から遡る事29年、1924年に、このジョージ・マロリーがエベレストに初登頂していた可能性がある。 エベレストは登山家なら一度は挑戦してみたいと願う山だが、人間が足を踏み入れるには非常に過酷な地・第三の極地である。

 ここで、エベレストがどのような山であるか、説明してみよう。 まず、標高について・・・・

 7500メートル以上の高山では、酸素は平地の三分の一(1/3)となり、高山病(頭痛・吐き気・倦怠感・眠気・めまい)や肺水腫(呼吸困難・咳き込み)、脳水腫(無気力・精神錯乱・方向感覚喪失・昏睡状態)にかかるリスクが非常に高くなる。

 また、超高所では紫外線も強烈で、そこで見る太陽は巨大な光の球の様に映る。 雪面は、その紫外線を反射するので、サングラス無しでは すぐに重い雪盲に罹ってしまい視界を奪われる。 もし、サングラスを外して太陽を見つめたなら、10分足らずで網膜は火傷を負い、完全に失明してしまうと言うのだ。

 エベレストではこうした高山特有の症に加え、滑落・雪崩・天候悪化による遭難などによって2008年の時点で、約200名の登山者が命を失い、また、その遺体を回収する事も困難な場所であるとされている。 エベレストの頂上付近まで行くと、登山者の疲労と酸素欠乏は甚だしく、本人が動けなくなると、大抵そのまま放置されて死を迎えねばならない。

 このような危険な場所では、ろくに動けない人間を担ぐなり、引きずるなどして、下山させる事は不可能に近い。 エベレストには座り込んだままの姿で、疲労凍死した登山者の遺体が散らばっている。 以上の様な条件から、7500メートル以上の超高所はデスゾーンと呼ばれ、死の危険・死神との同行を余儀なくされる。 また、このような高所では、休息をとったとしても体力の回復は進まず、むしろ長く留まるほど衰弱してゆき、それはテントの中であったとしても、そこに留まっている限り、人は徐々に死んでゆくしかないのです。

 高山病にかかっても誰も助ける事はできず、それでも助かりたければ自力で下山し、高度を下げる他回復する術は無い。 マロリーは、そのような過酷な山に現代では考えられないような貧弱な装備で挑み、少なくとも8600m付近までは登ったとみられている。

 1924年6月8日、当時38歳のマロリーは22歳のパートナー、アーヴィンと供にエベレスト頂上直下270メートル付近を登っているところを、遠征隊のメンバーであるノエル・オデールによって目撃されている。 やがて2人は、雲に包まれて見えなくなり、その後、完全に行方不明となった。 マロリーがエベレスト登頂を果たしたかどうかは、世界の登山史上最大の謎となり、それは現在でも明らかとはなっていないのです。

 話の先を急ぐことなく 今一度、マロリーがエベレスト山麓に現れるまでの経緯を確認しておこう。

 1865年 “尊敬する前長官のサー・ジョージ・エベレスト大佐 (Colonel Sir George Everest) は、すべての地形に現地での呼称を採用するよう、私に教えてきた。しかしこの山には、おそらく世界最高峰であろうこの山には、現地での呼称を見いだすことができなかった。もし仮にそれがあったとしても、私たちがネパールへの立ち入りを許可される前に、それが見つかることはないだろう。今のところ、この高峰を名付ける特権と責任とは、同等に私に委譲されているものと思う。この山の存在が、市民と地理学者に広く知られ、文明国家に深く浸透するかは、この高峰の名称いかんにかかっているであろう。

アンドリュー・ウォー(Andrew Waugh) -“と認めた手紙を発信した第一発見者のウォーによって、堺最高峰は命名された。

 因みに、チョモランマ(チベット語: Chomolungma, Qomolangma、中: 珠穆朗玛峰 Zhūmùlǎngmǎ Fēng)、サガルマータ(ネパール語: Sagarmāthā)は現地での呼称である。

 1922年、英国山岳会と王立地理学協会が組織したエベレスト委員会が第二次遠征隊をエベレスト北側のチベットに送り込まれた。 隊長にはかねてより宿願であったC・G・ブルース准将がつき、E・R・ストラット大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・イングル・フィンチ、H・サマヴィル 博士や E・ノートン、同地方の地理にも詳しい医師のT・G・ロングスタッフ、 同じく医師のA・ウェイクフィールド博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のG・ブルース大尉と同僚のJ・モリス大尉、さらに前回のメンバーであるマロリー、H・モーズヘッド、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル 大尉らが選ばれた。

 第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行った。 7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。

 薄い空気に苦しみながら、一同は8,225 mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。

 次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8,321 mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。

 ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。 しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。

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※;ジョージ・イングル・フィンチ(George Ingle Finch、1888年8月4日-1970年11月22日)はオーストラリアで生まれ、スイスのジュネーブ大学で物理科学を学んだ 。 フィンチは化学者であり、なおかつ優れた登山家であった。 その技術は、ジョージ・マロリーはフィンチと組まない限り登山隊に関わることを拒む程であり、登山における酸素吸引の先駆者的役割を果たした。

1921年、エベレスト委員会によって組織された第一次エベレスト遠征隊にフィンチは選ばれたものの、健康状態を理由に降板する。  しかし、翌年の第二次エベレスト遠征隊にフィンチは再び選ばれる=フィンチを入れるよう、ジョージ・マロリーが強く主張したとされる=。

第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行ったが全て失敗に終わる。 フィンチは第二次アタックチームとして第一次アタックチームの達成した人類の最高到達高度の記録を8321mまで更新した。 この結果により、ジョージ・マロリーは酸素器具に対する認識を改めたとされる。

フィンチは第三次アタックチームにも選ばれたものの、登山途中で雪崩が発生、七名のシェルパが犠牲となり、計画は破棄された。 そして、 1924年、第三次エベレスト遠征隊が組織されたものの、フィンチは離婚した際に不誠実だったという噂を根拠に選ばれなかった。 これは、フィンチがオーストラリア人であるという、国籍を本質的な問題とした人選であったとされる。

その後の1931年、アルプスでフィンチの友人三人が命を落とし、それ以降フィンチは登山を止める。しかし、 1938年、英国王立地理学会に入会。 フィンチは熱心なスキーヤーであり、1908年にアルパインスキークラブの創立メンバーだった。  1959年から1961年までアルパイン・クラブ会長を務め、息子は俳優のピーター・フィンチ。

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Mallory and Irvine's Route to the Summit and Irvine's Final Resting Place.》  https://youtu.be/I_vx9CbD7rk

 
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・・・・・・・・明日に続く・・・・・・

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=今日の足跡記録帖 & 幕間の狂言/ 休刊_ 03月19日(火曜日)=

2024-03-19 05:10:38 | 冒険記譜・挑戦者達

★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ はとバスの1羽目が出発する(1949年)。 &so、 西宮市の山奥で幼児2人が誤って浄化槽へ落ちて亡くなり、監督不行き届きだとして保育士が殺人鬼扱いされる(1974年)。      ☆ 大陸の沖合の島々に牛喰らいのタンゴ好きが無断で上陸、ブチ切れた変態紳士が赤道を越えて殴り込みを起こす切っ掛けに(1982年=フォークランド紛争)。      ☆ 1997年- 東電OL殺人事件発生。 2008年- 土浦連続殺傷事件の最初の事件が起こる。 &so、2018年- キタシロサイ最後のオス、スーダンが死去し、絶滅が事実上確定。

  =本日記載附録 【😒 桜のつぼみが堅く / 休刊😘】_◎03月19日 =

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怖いのは巨大地震の後_噴火 /藤田英輔(03/nx)_学究達=676

2024-03-18 05:10:37 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月18日<ⰧⰊⰧ

☆ オラガ大将の新居が完成するものの、僅か4ヶ月で昭和天皇に追い出される(1929年)。      ☆ 明治村が開村し、明治時代にタイムスリップが可能になる(1965年)。 &so、識者よ、視野を広く!!! この年に、ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオノフが宇宙船ヴォスホート2号から離れて、史上初の船外活動を行った。      ☆ 名古屋で勝手に帝王切開をされた妊婦が死亡、執刀医が失踪したまま事件は迷宮入りに(1988年=名古屋妊婦切り裂き殺人事件)。

本日記載附録(ブログ)

阿蘇山、箱根山、御嶽山など、このところ活発化しているように見える日本の火山だが、本当はどうなのか。

東日本大震災が起きたのは2011年3月11日。その4日後の3月15日深夜、富士山の直下でマグニチュード6.4の地震が起きた。

19世紀以前には、富士山宝永噴火並みかそれ以上の規模の噴火が毎世紀4~6回は発生していた。

  2011年の東北地方太平洋沖地震の影響は?令和6年能登半島地震での地殻変動は?富士山は?そして、火山についていまどこまで分かっているのか――。

  地震や地殻変動の観測し、火山防災に取り組み、噴火の予知を目指す藤田英輔!!!

【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 藤田英輔(03) ; 第1回 日本の火山活動は活発化しているのか =2/3=

 なんと、「静かだったこれまで」を含めて、活発な時期の一部であるという解釈。時間スケールを変えてみると、違った傾向が見えてくることがよくあるけれど、ひょっとすると、長期的には活発な時期にあって、その上でたまたま少しの間静かな時期があった、という解釈だ。

 さらにもう一点、物事を単純に言えない理由がある。

「最近、火山が噴火する前の異常を我々が検知する能力が非常に上がってきています。例えば、8月の桜島は、結局、噴火しなかったので、『噴火未遂』というような言い方を我々はするんですけど、以前だと単に見逃していたかもしれないわけです。でも、今では、GPSですとか、いわゆるSAR衛星(合成開口レーダーという観測装置を搭載した人工衛星)、日本のものだと2014年から運用されている陸域観測技術衛星の『だいち2』ですとか、リモートセンシングが発達して、地殻変動が非常にとらえやすくなったということがあります。今年の箱根に関しても、小さな噴火はありましたが、以前は捉えにくかった変動を捉えています」

 ああ、こういった現象は思い当たるフシがある。感染症などの調査の仕方が変わったり、がん検診で感度の良い方法が導入されたりしたとき、報告され認知される患者数が一気に増えることがある。あれと似た理屈だろうか。

 これまでのところを、ざっくりまとめると──

 日本の火山が活発化して見えるのは、ごくごく短期的なレベルでは「これまで静かすぎた」とか「検知能力がアップしたから」で説明できることもあるかもしれないけれど、百年のレベルでは活発化しているかもしれないと専門家は疑っている。

 というところか。

 質問があまりにざっくりしていたので、ざっくりした回答にならざるをえないとみた。

 ちらりと出てきた2011年の東北地方太平洋沖地震との関連もぜひ知りたいし、火山噴火の物理的な側面や観測について、もう少し掘り下げてうかがっていくのが、やはり最適な方法なのである。

次回は“ 第2回 予知できる噴火、できない噴火 ”に続く・・・・・

【参考資料】 : 火山噴火予知の現状と課題(3/4)

Ω・-地域防災との関わりにおいて-・Ω

== 藤井 敏嗣火山噴火予知連絡会会長 ・ 東京大学名誉教授 ==

4. 噴火警戒レベルについて

気象庁が、現時点で37火山に導入している噴火警戒レベルは、先にのべたように、火山噴火予知に関する学問水準がまだ不十分な状況で導入されたものですから、噴火予知情報というより、むしろ防災情報であると理解すべきです。しかし、多くの人々は、予知が可能となったから噴火警戒レベルが導入されたと誤解していることも事実ですから、情報の発信にあたる気象庁は、この現実の周知に努力すべきです。

2014年9月27日には御嶽山で突然の水蒸気噴火が発生し、戦後最悪の火山災害となる63名の犠牲者が発生しました。この噴火に先立ち、9月10、11日には1日50回を超える微小な地震が発生しましたが、気象庁は、火山観測情報で地震回数が増えていることを地元自治体等に連絡したものの、噴火警戒レベルは1の状態に据え置いたままでした。

噴火が発生した後では、9月10、11日の地震の多発は噴火の前兆であったとみなされます。しかし、地震が発生した時点で噴火の前兆と考えなかった背景には、御嶽山で2006年に発生した微小な噴火の経験があったと思います。

2006年噴火時には、今回とほぼ同等の観測体制が整っていました。この2006年噴火の際には地震の増加だけでなく、人工衛星を利用した地殻変動観測で、噴火の数か月前から山体の膨張が観測されていましたが、今回は噴火の約2週間前に地震の増加はありましたが、明瞭な地殻変動は観測されませんでした。このため、噴火に至るにはまだ時間があると判断され、噴火前に警戒レベルが2に引き上げられることはなかったのです。

このため、地方自治体による規制などの防災行動はとられず、結果的に多くの犠牲者が発生したのです。

もし気象庁が噴火警戒レベルは防災情報であると正しく認識していれば、10日の段階でレベルを引き上げ、その後の推移を見守るという方法もあったでしょう。噴火に至るとの判断は困難であっても、何らかの異常が検知された場合、レベルを引き上げる事が考えられても良いと思います。

もちろん、このような防災手法が通用するためには、レベル引き上げが行われて、噴火などが生じなくても、大事に至らなくてよかったとする、いうならば警報の空振りを受容する社会である必要があるでしょう。

5. 火山ホームドクターと防災協議会

何十年も噴火をしないような火山では、観測を続けても研究論文を書けるようなデータを得ることは困難ですから、観測研究の対象になりにくいのですが、短期間に比較的規則的に噴火を繰り返す火山や桜島の様に常時噴火する火山では、大学が観測所を設置して、現地に勤務する研究者が火山研究を行っています。このため、常駐する火山研究者と地方自治体や住民との日常的なコミュニケーションが図られ、噴火時には適切な助言が与えられるなど火山防災に役立ってきました。

 続く・・・・・

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怖いのは巨大地震の後_噴火 /藤田英輔(02/nx)_学究達=675

2024-03-17 05:10:22 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月17日<ⰧⰊⰧ

☆ 今や読者層に於いて少年より青年や中年が多数派だったりする『少年マガジン』『少年サンデー』が創刊する(1959年)。      ☆ アサヒビールが麦芽をケチった辛口のビールを売り始め、日本のビールの流れを変え始める(1987年)。      ☆ 巨人真理教が、長らく使われていた神殿に代わり全天候型の新しい神殿を完成(1988年)。更なる全国民への洗脳布教を図るも、この頃からその教勢に翳りが出てくる。理由は簡単明白、教主・監督の体質。

本日記載附録(ブログ)

阿蘇山、箱根山、御嶽山など、このところ活発化しているように見える日本の火山だが、本当はどうなのか。

東日本大震災が起きたのは2011年3月11日。その4日後の3月15日深夜、富士山の直下でマグニチュード6.4の地震が起きた。

19世紀以前には、富士山宝永噴火並みかそれ以上の規模の噴火が毎世紀4~6回は発生していた。

  2011年の東北地方太平洋沖地震の影響は?令和6年能登半島地震での地殻変動は?富士山は?そして、火山についていまどこまで分かっているのか――。

  地震や地殻変動の観測し、火山防災に取り組み、噴火の予知を目指す藤田英輔!!!

【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 藤田英輔(02) ; 第1回 日本の火山活動は活発化しているのか =2/3=

 関東地方では、一大観光地である箱根山。4月下旬から、火山性の地震が増加して、5月末には大涌谷で小規模な噴火があるなどレベル3(入山規制)の警報が出された。ふだんは観光地として多くの人が訪れる場所だけに、注目された。警戒レベルは、本稿の時点で、一段引き下げられてレベル2(火口周辺規制)になっている。

 さらに、長野県の浅間山では、4月下旬頃から山頂直下のごく浅いところを震源とする火山性地震が増え、6月19日には噴火が確認された。警報レベルは2(火口周辺規制)。

 年限を今年に限らずに言えば、2011年1月の霧島山(新燃岳)の噴火を鮮明に覚えている人は多いだろう。地域の住民1000人以上に避難勧告が出された社会的な影響だけでなく、巨大な溶岩ドームが発達したり、爆発的な噴火が繰り返したり、火山の持つ力を示してあまりあった。

 そしてなによりも、2014年9月の御嶽山噴火。秋の行楽シーズンで、晴れた週末の日中であったため、死者行方不明者が60人を超える大きな人的被害を出した。1991年の雲仙・普賢岳の大火砕流による被害を超える、戦後最悪の火山被害となってしまった。

 このように列挙していくと、本当に近頃、火山のニュースが、それも人的、社会的な被害をともなうものが「増えている」ように思える。藤田さんが「難しい」というのはどの点なのか。

「たしかに最近、火山活動が賑やかに見えるのは事実なんです。過去15年ぐらい、いや、90年代から見ても、間違いなく活発なんですね。でも、それは、これまでが静かすぎたんです。1991年には雲仙普賢岳の噴火があって、2000年には、三宅島の噴火とか有珠山の噴火がありました。でも、それらを除いたら、その後、ニュースになるような噴火がほとんどない時期が続いていました。ですので、私たちが思うのは、この15年ほどが静かすぎたというところです」

 なるほど、「最近多い」というのではなく、21世紀になってからの15年ほどが「静かすぎた」だけなのか。

「ところが、やはり難しいのは、もう少し大きなスケール、例えば百年っていう単位で見ると、今は、活動的な時期じゃないかなとも取れるんです。東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震の直後にもよく言われましたが、火山活動や地震が活発だった9世紀に非常に似てきているとやっぱり思っていまして。それを考えると、ここ1~2年、活発化しているというよりも、2000年の三宅、有珠あたりからもつながっていて、一連の活発な時期に入っているのかもしれない、と」

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

【参考資料】 : 火山噴火予知の現状と課題(2/4)

Ω・-地域防災との関わりにおいて-・Ω

== 藤井 敏嗣火山噴火予知連絡会会長 ・ 東京大学名誉教授 ==

一般的には、避難後1週間たっても噴火が発生しなかった場合は、しびれを切らした住民が避難指示を振り切って自宅に戻り、被災するという事態が発生してもおかしくありません。2000年噴火の場合は、有感地震発生から3日後に噴火に至ったので、避難した住民から特段の不満の声はありませんでした。有珠山2000年噴火は火山噴火予知の成功例として語られることが多いのですが、ある意味、薄氷を踏む思いの防災対応だったのです。

1955年以来、ほぼ連日のように爆発的噴火を行っている桜島では、地震計や傾斜計、伸縮計という各種の高精度の観測装置で噴火に至る過程をこれまで何千回となく観測してきました。このため、今ではこれらの観測装置を使って、噴火の前兆を確認し、数時間程度の範囲内で爆発的噴火の発生を予測することができます。的中率は9割以上といってもよいでしょう。

しかし、上にあげた2例はむしろ例外的です。火山によっては、噴火前に生じる現象も様々で、噴火のたびに異なる現象が起こることすらあるのです、また、地震計などの観測機器が発明されたのは、およそ100年ほど前なのですが、それ以降には噴火をしたことがない火山も少なくありません。

このような火山では噴火前の観測データがありませんから、噴火前にどのような異常現象が観測されるのかは、必ずしも明確ではありません。類似火山の観測例から類推するほかないのです。この意味で、活発な活動を続けている桜島火山の存在は、火山噴火予知研究を進める上で大変貴重な火山なのです。

3 中・長期の火山噴火予知

 ある火山が、いつ頃噴火するか、数十年後にはどのような活動をしているかなどが分かると土地開発などにも活用する事はできますし、防災対策も効率的に準備する事ができます。しかし、このような中・長期の予知は短期的予知以上に困難です。この理由は、火山噴火は多くの場合、大変不規則に発生するからです。

例えば、富士山では、奈良・平安時代には数十年おきには噴火を繰り返していましが、1707年の宝永噴火を最後に300年以上噴火していません。このように、千年スケールで見ると、噴火間隔は不規則ですが、奈良・平安時代の数百年間は数十年おきに噴火するなど比較的規則的でした。しかし、百年スケールでみても噴火が不規則な例として、浅間山があげられます。

浅間山は1940年代から60年代にかけては、毎年、活発に噴火を繰り返し、1年間に400回を超えるような噴火を行っていた時期もあります。まさに現代の桜島のような火山でしたが、1973年の噴火以降は10年に1回程度しか噴火しないような火山に変わってしまいました。このように噴火の頻度が低くなると、噴火に先立つ異常データを充分に蓄積できないので、噴火前にどのような異常現象が発生するか、どのくらい前に表れるのか明確にいうことは困難です。短期的予知も難しくなるのです。実際、1960年代は地震発生のパターンから噴火を予測することができ、その的中率は高かったのですが、1970年代以降、その規則性は変化し、正確な予測も困難になりました。

しかし、明確にいつ噴火をするかを言えなくとも、平常時から観測を継続していれば、火山の活動度が高まっていて、噴火に至る可能性があることを把握できるケースは少なくありません

 続く・・・・・

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怖いのは巨大地震の後_噴火 /藤田英輔(01/nx)_学究達=674

2024-03-16 05:10:02 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月16日<ⰧⰊⰧ

☆ 『ウォーリーをさがせ!』の影響により第1回バビロン捕囚が始まる(紀元前598年=バビロン捕囚)。 &so、時が下り 鈴木梅太郎が米糠からオリザニンと称する栄養素を抽出する(1910年=ビタミンB1)も、全世界からスルーされた挙句ビタミンと勝手に名づけられてしまう。     ☆ 日本中から有名な景勝地三か所を国立公園に指定(1934年)。但し富士山は指定されず2年経ってようやく箱根一帯と一緒に指定されることに。     ☆ 千葉県は佐倉市の城跡に国立歴史民俗博物館が開館(1983年)、流石にお城風の建築ではなかった模様。

本日記載附録(ブログ)

阿蘇山、箱根山、御嶽山など、このところ活発化しているように見える日本の火山だが、本当はどうなのか。

東日本大震災が起きたのは2011年3月11日。その4日後の3月15日深夜、富士山の直下でマグニチュード6.4の地震が起きた。

19世紀以前には、富士山宝永噴火並みかそれ以上の規模の噴火が毎世紀4~6回は発生していた。

  2011年の東北地方太平洋沖地震の影響は?令和6年能登半島地震での地殻変動は?富士山は?そして、火山についていまどこまで分かっているのか――。

  地震や地殻変動の観測し、火山防災に取り組み、噴火の予知を目指す藤田英輔!!!

【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 藤田英輔(01) ; 第1回 日本の火山活動は活発化しているのか =1/3=

最近、火山の噴火に関するニュースをよく聞く。

 日本の火山は、ここのところ活発化しているのではないか。

 そう感じている人は多いと思う。本当のところ、どうなのか。

 茨城県つくば市の防災科学技術研究所には、地震・火山防災研究ユニットという組織がある。総括主任研究員の藤田英輔さんは、火山物理学を専門とする噴火メカニズムの専門家で、研究所の性質上、その応用としての防災にも深く関わってきた。今回、研究室にお邪魔することになった直接の動機は、「最近の火山(および火山研究)、どうよ」だ。

 各火山からの観測データをリアルタイムで監視する部屋のすぐ隣に会議室があって、テーブルを挟んで相対した。そして、まず最初に尋ねたのはまさにその点だった。

「それ、意外に難しい問いでして──」

 藤田さんはソフトな声でこたえつつ、パソコンから会議室のモニタに図表を出力した。

「公開されている資料なので出してかまわないんですが、6月10日に開かれた気象庁の火山噴火予知連絡会で検討された火山のリストです」

 口永良部島、桜島、箱根山、御嶽山、西ノ島、蔵王山、吾妻山、草津白根山、阿蘇山、霧島山、雌阿寒岳、十勝岳、浅間山、とそのリストにはあった。

やはり、最近、報道に挙がった火山の名前が並んでいるし、常時活動しているような、さもありなんという名前も多い。

今年(2015年)に限っても、5月29日、鹿児島県の口永良部島で噴火があり、全島住民が島外避難(警戒レベル5=避難)することになった。

 同じく鹿児島県の桜島では、8月15日、噴火警戒レベル4(避難準備)の噴火警報が出された。この時は、結局、噴火には至らず、ほぼ2週間後に、警戒レベル3(入山規制)へと引き下げられたけれど、鹿児島市を含む近隣の市町村は、緊迫した空気に包まれた。

 そして、9月14日には、熊本県の阿蘇山が噴火。昨年から小規模な噴火を繰り返していたとはいえ、唐突に2キロ上空に達する噴煙をあげる本格的な噴火となった。入山規制(警戒レベル3)の警報が出されて、現時点(2015年9月末)でも続いている。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

【参考資料】 : 火山噴火予知の現状と課題(1/4)

Ω・-地域防災との関わりにおいて-・Ω

== 藤井 敏嗣火山噴火予知連絡会会長 ・ 東京大学名誉教授 ==

  • はじめに

最近、火山活動が活発化しているのではないかということがマスコミ等で話題になっていますが、現時点では火山が活発化していることを示す明瞭なデータはありません。例えば、わが国で年間に噴火する火山は3火山から8火山の間でばらついていて、最近数十年間では、その傾向は変わっていません。年間噴火火山数という意味では活発化しているということはないのです。

「活発化」ということを規模の大きな噴火が増えるという意味で捉えても、この100年近く大規模噴火が発生していないという点からも、まだ活発化していないというべきでしょう。むしろ、19世紀以前には、富士山宝永噴火並みかそれ以上の規模の噴火が毎世紀4~6回は発生していたのに、20世紀には、1914年の桜島大正噴火、1929年の北海道駒ケ岳噴火しか発生していないことを考えると、今後は規模の大きな噴火が増える可能性が高いという意味で、わが国の火山活動の活発化はむしろこれからでしょう。

火山活動の活発化に備えて、火山噴火予知の現状について述べ、火山防災のために何が必要かを考えます。

. 短期的火山噴火予知の現実

火山活動に関する情報は気象庁が発信することになっています。2007年12月に気象庁が業務法を改訂し、火山活動の観測に基づいて、一般の活用に適合する火山活動の予報・警報を発することになりました。

これを受けて、火山噴火は予知して当然と受け止められている方々も多いようです。警報が出されずに噴火が発生すれば、それは観測に当たっている気象庁あるいは大学の火山研究者の怠慢とみなす人々もいます。しかし、火山噴火予知は未だ研究レベルであり、噴火を予知することは一般的には困難なのです。

ただし、比較的噴火の頻度が高く、噴火の前にどのような現象が生じるのか把握できている場合には、事前に噴火の発生を予測して、避難勧告等の情報発信を行うことは不可能ではありません。

例えば、有珠山では1977年まで、江戸時代以降、ほぼ数十年間隔で噴火を経験していました。通常、有珠山では、地震活動はあまり活発ではありませんが、過去7回の噴火では、いずれの場合も噴火の前に有感地震が群発することが知られていました。

したがって、2000年3月に有感地震が群発した際には、噴火の発生が予測され、これにもとづいて関係市町村長が避難勧告、避難指示を行ったのです。被災予想区域から住民1万6千人が避難した後の3月31日正午過ぎに噴火が発生しました。事前の避難が功を奏して、噴火による負傷者や死者は発生しませんでした。

しかし、群発地震発生時には噴火時期が明確に予想されていたわけではありませんでした。ヘリコプターなどからの観測によって、山体に亀裂が発見されるなど、ある程度噴火が切迫していることが分ったものの、噴火までの猶予時間については決め手がなかったのです。過去の事例では、有感地震が発生してから32時間で噴火に至った場合もあったし、数週間後に噴火した例もありました。

 続く・・・・・

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https://youtu.be/4ZPyy8d9fVE   

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=今日の足跡記録帖 & 幕間の狂言/ 休刊_ 03月15日(金曜日)=

2024-03-15 05:10:49 | 冒険記譜・挑戦者達

★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ イギリスの映画なのに何故か日本ではこの日がサイコの日。サイコーですか~!?     ☆ 最初の普通選挙でオラガ大将の党がライバルに1議席差にまで迫られ、加えてカマトンカチまでもが議席を獲得したのに恐れを為してコミンテルンの日本支部を徹底的に駆除(1928年=三・一五事件)。     ☆ 東の国から西の国から世界中からの来客が大阪府は千里丘陵でこんにちわし始める(1970年)。&so、カスラックによるカラオケにかこつけた搾取行為に、お上のお墨付きが出る(1988年)。

  =本日記載附録 【😒 ズルズルとずる休み / 休刊😘】_◎03月15日 =

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“モグラ博士”哺乳類分類学 / 川田伸一郎(14/14)_学究達=673

2024-03-14 05:10:14 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月14日<ⰧⰊⰧ

☆ バレンタインに続き、女子同士で「バレンタインでもらったから~」なんて言ってお互いチョコレートを交換するホワイトデー。かくして、この日は全国の男子校が白けたりする。      ☆ カール・マルクスが逝った日(1883年)。後には家族と『資本論』の読み取ることが難し過ぎるくらい下手っぴな文字で書かれた草稿が遺され、さすがの同志フリードリヒ・エンゲルスも草稿の解読には苦労したとかしないとか・・・・・      ☆ 川口市のアパートで熟睡していたブクロ派のトップが、早稲田界隈からやって来た連中に過激な方法で叩き起こされた挙句に永遠に就寝させられる(1975年)。

本日記載附録(ブログ)

車線上の無残な動物の轢死体_瞬時に目をそむけ、遭遇した不運を呪う

しかし、彼は「かわいそうに」を飛び越えて_噴き出す感情は「もったいない」

誰もが知り謎に満ちたモグラ_身近な存在である哺乳類を研究する「モグラ博士」

  自称「標本バカ」というほど標本にも魅せられた国立科学博物館動物研究部研究主幹

  「モグラ博士」として知られると同時に、「標本バカ」の哺乳類分類学者_川田伸一郎(14/14)

【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 第5回 「無目的、無制限、無計画」の大切さ =2/2= 

「うちのニホンカモシカの標本って昔はたぶん20くらいしかなかったんですけど、この4年くらい集めまくって、今では、登録しているので8000点、未登録も含めれば9000点くらいです。これだけあると、ヨーロッパモグラの8000点を超える研究ができますね。同じ種でも、必ず変異はあって、この前ためしに500点くらい歯の変異を調べてもらったら、やっぱりいろいろあるんです。一番後ろの歯、第三大臼歯って呼んでるんですけど、その後ろにもう1本歯がはえてるとか。それよりももっと由来不明の謎の歯が生えているのがいるとか。500見て1つ見つけたわけですけど、その1つだけで語るわけにはいかないから、最低でも、数千見ないといけませんよね。雌雄別に見たかったら、その倍ですよね。さらに年齢別に見たかったら──」

 解明したい変異の頻度や、雌雄・年齢などの属性ごとの解像度次第で、8000、9000という標本の数が、決して大きなものでなく、必要最小限にもなりうる、というわけなのだった。

 しかし、これだけたくさん集めて、収納はどうするのだろう。いくら、収蔵庫として専用のビルを使えるからといって、いずれはパンパンになってしまうんではないだろうか。

「いえ、もうなってます。置き場所がないんですよ。新しい建物を建てる予算が得られるのを待つばかりですね。それができなくても、集め続けるしかありません。いよいよ、ということになったら、貸倉庫に手を出しますかね(笑)」

 なるほど、だから、壁際にどんどん箱が積み上げられたりしているわけなのだ。収容能力を超えてまで集める。本当に「無制限」だ。さらに言えば、部外者の心配をよそに、ここでも「無計画」において揺るぎなし、という様子だ。

 収蔵庫を案内していただくうちに、「クリハラリスみたいな外来種ですとか、カモシカの頭だけ何千個というのではなくて、誰もが貴重だと認めるものもどうぞ」ということで、見せていただいたのは、モグラよりもリスよりもかなり大きな仮剥製が入った棚だった。

「アマミノクロウサギ。仮剥製を10以上持っているところはうちしかないと思います。たぶん70点くらいあるはずです。まだ、仮剥製になる前の状態のものも入れると120とか130とか」

 これも、結構な数の「無制限」系の受け入れなのではあった。

「奄美野生生物保護センターというところから提供いただいているもので、猫に噛まれたり、蛇に噛まれたりで死んだやつです。うちに来る前にいろんな研究室で組織のサンプリングをされているので、あちこち切られていて、ちょっと修復士みたいな仕事になってます。もともとウサギって結構、皮を剥きにくいことも重なって、一体で一時間くらいかかってますね。これも、数を集めてよくよく見ると、結構、変異があって、それを研究したいと思っているところです」

 しばらく留まった収蔵庫での時間は濃密で、頭がくらくらしてしまった。

 さらに収蔵庫ツアーを続け、別の階の大部屋に足を踏み入れると、収納棚がなく、まるまる開けたエリアがあった。

 仮剥製ではない、立派な大型哺乳類の剥製が所狭しと並んでいるのである。 いきなりホッキョクグマと目があってドキッとした。

 ああ、これは知っている。よく博物館の展示で見る、「普通」の剥製だ。おまけに、上野の国立科学博物館の地球館3F展示室「大地を駆ける生命」に展示されているヨシモトコレクションの「展示されていない分」ではないか。

 ヨシモトコレクションは、ハワイの裕福な実業家で日系二世だったワトソン・ヨシモト氏が晩年、父母の国の国立科学博物館に寄贈したものだと聞いている。収蔵庫に残された「展示されていない」剥製たちも、非常に迫力があり、まさに博物館という雰囲気を醸し出していた。

 しかし、ぼくの印象に強く残ったのは、しっかりポーズを取った展示用の剥製や骨格ではなく、ひたすら収集され保管されている仮剥製などの圧倒的な存在感だった。

 案内してくれた川田さんは、染色体の研究者として訓練を受け、モグラの研究でフィールドに出て、標本を作り、また博物館の標本で研究をするうちに、みずから、博物館の標本を集める立場になった。モグラが穴を掘ってネットワークを張り巡らすように、あちこちにネットワークを張り巡していたら、自らが「すべての標本が集まる(標本を集める)」自然史博物館という場に行き着いたのである。

 モグラ博士と標本バカ。それは、コインの表と裏のように川田さんを特徴づけると同時に、フィールドと標本、サイエンスと標本、といった自然史博物館のテーマにもつながっている。本当に興味深いものを見せていただいた。

おわり

明日 新企画“ 噴火の予知を目指す藤田英輔 ”続く・・・・・

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“モグラ博士”哺乳類分類学 / 川田伸一郎(13/14)_学究達=672

2024-03-13 05:10:00 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月13日<ⰧⰊⰧ

☆ 大阪が初めて空襲されて地下鉄が防空壕代わりに (1945年=大阪大空襲)。&so、事件は起きているけど『見てるだけ~』になる現象を、強▲殺人鬼の某と被害者、その現場の周辺住民38名が身を以て証明する(1964年=キティ・ジェノヴィーズ事件)。     ☆ 親方日の丸の日本国有鉄道にブチ切れた乗客が、上尾駅等の主要駅で一斉蜂起(1973年=上尾事件)。     ☆ 感動映画の超大作『生還トンネル』が上映開始する(1988年)。 &so、ブルトレは衰退しました(2009年)。2015年のこの日 - 寝台特急「北斗星」がこの日発の運行限りで廃止。

本日記載附録(ブログ)

車線上の無残な動物の轢死体_瞬時に目をそむけ、遭遇した不運を呪う

しかし、彼は「かわいそうに」を飛び越えて_噴き出す感情は「もったいない」

誰もが知り謎に満ちたモグラ_身近な存在である哺乳類を研究する「モグラ博士」

  自称「標本バカ」というほど標本にも魅せられた国立科学博物館動物研究部研究主幹

  「モグラ博士」として知られると同時に、「標本バカ」の哺乳類分類学者_川田伸一郎(13/14)

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 第5回 「無目的、無制限、無計画」の大切さ =1/2= 

「無目的、無制限、無計画。3つの無、とか言ってます。博物館の仕事は展示と研究だけじゃない。そのために大切なのは標本。そして、標本を集めるスローガンが、『3つの無』です」

 生き物の標本は、情報の宝庫だ。ノボシビルスクのシベリア動物学博物館で、標本の力を実感して帰ってきた川田さんは、世界中のモグラを追いかけると同時に、標本づくり(モグラに限らず)にも邁進しはじめた。当時所属していた名古屋大学のフィールドが、畜産系の実験実習施設でもあり、当時の施設管理者が積極的に動物標本を集める意図を持っていたことも大きい。川田さんは、どっぷりその方針につかって、地元の水族館からゾウアザラシやトドの死体を預かるまでになった。そして、とうとう国立科学博物館の研究員という天職を得た。博士号を取得し「モグラ博士」として世に知られるようになった時には、すでに「標本バカ」(自称)という別の要素を育んでいたのである。

 そして、「3つの無」の境地に至る。

「まず、無目的。研究に役に立つからといって集めるなら、ぼくの場合、モグラばかりのコレクションになるでしょう。ぼくには面白いけど、ほかの研究者には意味がないかもしれない。自分の目的のために集めているだけじゃだめなわけです。そして、無制限というのは、標本って、ひとつだけで分かることもあれば、たくさん見なければ分からないことも多いんです。ヨーロッパモグラの頭骨を8000点見た論文の話をしましたよね。種の中の変異を見るには、やっぱり数を見なきゃならない。ぼくがアルタイモグラを約1800点みて、歯の変異を確認した研究は、8000点の論文に触発されていたんですが、それもやっぱり無目的に無制限に標本化していた博物館のおかげだったわけです」

 いつかやってくるであろう研究者との出会いを待って、無目的、無制限に標本を収容する。それでこその博物館、というのである。これは、字義通りに「すべて」というのは無理なのだけれど、自然史博物館で標本を担当する人たちは、川田さんに限らず、かなり普遍的にそうしたいと思っているようだ。少なくとも、ぼくがこれまで話すチャンスがあった、自然史博物館関係者は、洋の東西を問わず同じ主旨のことを述べていた。

「そして、無計画という要素を僕は付け加えます。哺乳類の標本って、法的にも、倫理的にも、金銭的にも、いろいろ制限がかけられることが多いです。だから、チャンスが大事で、集められる時に集めておかなければ、ということです。真夏の動物園で大型哺乳類が死んで、獣医さんから電話がかかってきたとします。おりしも気温は35℃みたいな状況では、待ったなし、です。いろいろ会議とか計画が入っていたとしても、そっちはなんとか理解してもらって引き取りにいきます。と同時に、僕らは基本的には骨と皮の標本を作るので、軟組織を調べたい研究者仲間に声をかけて、興味のある人にはやはり自分の予定をキャンセルしてでも集まってもらいます。そんなふうに無計画にまわりを巻き込んで、標本集めをしているわけです」

 なんだかすごい。

 博物館のアルタイモグラの標本を徹底的に見る仕事をできたのは、誰かが「無目的に」(自分の役に立つのではないのに)標本化していたからだ。標本を集める立場になった川田さんは、無目的を徹底し、もはや、自分のモグラだけには収まらない標本作製活動にいそしんでいる。そして、それはしばしば無制限だったり、無計画だったりする。

 連載の冒頭に記した、クリハラリスやニホンカモシカの「バカげた」収集は、まさにこういった文脈で集められているものだ。

「誰も興味ないような、研究者的には雑魚と思われてるようなものでも、集めます。例えば、クリハラリスとか、こんなの集めてもしょうがないと、普通の人は思うんですよ。でも、定期的に送ってもらって、ちゃんと皮も骨も残して標本にしていますから。これなんのため、と言われても、数を集めれば分かることもあるでしょうとしか言えないわけです」

 なお、リスというのは、わりと仮剥製が作りやすいため、標本づくりを学びたい人のために、「リス大会」なるものを開催して、みんなで標本づくりをすることがあるそうだ。

「ネズミですとか小さなやつでは、皮が弱くて、力をかけすぎるとやぶれてしまいます。ゾウとか大きなものになると、今度はみんなで皮を引っ張りながら刃を入れていかなければならない。でも、リスは初めての人でもまず皮が破れることはないし、中に綿をいれたら誰がやってもだいたい同じような形になるので、初心者にはいいんです。こういうのもみんなでやると楽しいもんですよ」

 淡々と語る川田さんは、この時、本当に楽しそうに目を輝かせた。

 ちなみに、初心者がリスの皮を剥くのにかかる時間はだいたい2時間。川田さんは10分くらいだそうだ。熟練というのは、すごいものだ。

 そして、「無制限」をきわめているのが、カモシカの頭骨だ。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

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=今日の足跡記録帖 & 幕間の狂言/ 休刊_ 03月11日(月曜日)=

2024-03-11 05:10:22 | 冒険記譜・挑戦者達

★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

☆ 『風の谷のナウシカ』が封切られ、風力発電の騒音問題と野生生物との共存に一石が投じられた(1984年)。   ☆ ソ連歴代指導者が遺したツケの後始末役に禿げ頭の若僧がなり(1985年=ミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長就任)、結局8年後に連邦を潰してしまう破目に。    ☆ 茨城空港の開業1周年記念として、茨城県沖と宮城県沖で相前後して激震が走り、以後数日もの間に数えきれない程の緊急地震速報が鳴り出す(2011年)。 

  =本日記載附録 【😒春を拒む冬将軍 / 休刊😘】_◎03月11日 =

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森のなかえ

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“モグラ博士”哺乳類分類学 / 川田伸一郎(11/14)_学究達=670

2024-03-10 05:10:09 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月10日<ⰧⰊⰧ

☆ 大日本帝国陸軍の記念日をお祝いして、美軍機が帝都・下町の紙と木と土で出来た軍需工場群を綺麗に消毒してくれた(1945年=東京大空襲)。 ☆ “恥ずかしながら”とルバング島に残留していた陸軍少尉の小野田寛郎が救出される(1974年)。ああああああああ!大日本帝国陸軍/中野学校の教育は・・・・・・・。 ☆ 1985年の阪神タイガース日本一の際に道頓堀川に投げ込まれ、その後もタイガーズを呪縛し続けていたカーネル・サンダース像が、24年の時を経て引き揚げられる(2009年)。

本日記載附録(ブログ)

車線上の無残な動物の轢死体_瞬時に目をそむけ、遭遇した不運を呪う

しかし、彼は「かわいそうに」を飛び越えて_噴き出す感情は「もったいない」

誰もが知り謎に満ちたモグラ_身近な存在である哺乳類を研究する「モグラ博士」

  自称「標本バカ」というほど標本にも魅せられた国立科学博物館動物研究部研究主幹

  「モグラ博士」として知られると同時に、「標本バカ」の哺乳類分類学者_川田伸一郎(11/14)

【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 第4回 夢は世界のモグラをコンプリート! =2/3= 

 さて川田さんは、日本国内のモグラの標本を自ら入手し、形態や染色体を見るようになってから、次第に海外にも目が向くようになった。日本国内のモグラはモグラ亜科の6種にヒミズ亜科の2種を加えて8種。世界では40種そこそこ。川田さんは、その中の25種を捕獲し、研究してきた実績を持つ。

「もちろん、すべてのモグラを捕獲して、研究して、標本を作りたいんです。分類を見ていきたいですよ。でも、研究の仕方については、海外でのフィールドワークを繰り返すうちに、いろいろ考えるようになりました」と川田さんは言う。

「やっぱり現地の研究者にやってもらうのが一番いいんです。でも、ベトナムですとか東南アジアでは日本のようにモグラの存在があまり知られていなくて、まず知ってもらうところから始めなければなりません。だから、僕はとりあえず1匹とらせてもらって、興味を持ってもらえたら、捕獲技術を伝えたり、研究の流れを伝えたり、できるだけサポートしていこうと思っています」

 ヨーロッパやアメリカの博物館は、歴史的に、各国から大量の標本を持ちかえっている。例えば、絶滅したニホンオオカミの標本は数少なく、種を決める論文で証拠として使われた模式標本はオランダのライデンの自然史博物館にある。シーボルト事件で日本を退去する際、シーボルトが持ち帰ったものだ。これによってニホンオオカミが科学の世界に紹介され、分類名も与えられた。当時、日本には標本を残すのに適切な場所がなかったし、持ち去られていなければ、おそらくは無くなってしまった標本だから、やむを得ない。しかし、基準となる標本が、いつまでも海外にあるのは、どこか釈然としない気もする。

 川田さんが、染色体を見て、分類を確定するためにもやはり標本は必要だ。川田さんは、現地で捕まえたものを仮剥製にして、骨格標本にすると、きちんとその場で観察・計測して、皮と骨の標本は現地に置いてくる。東南アジアでは染色体を見る設備がないところが多いので、染色体のサンプルだけは持ち帰らせてもらうけれど、その国に標本を保管するのに適した場所があるなら、「本体」は残してくる。現地の研究者にできるだけ任せる、というのが21世紀のフィールド研究の心得のようだ。

 そして、川田さんのモグラをめぐる冒険は、形を変えながらもまだまだ続く。

 名古屋大学で博士号を得て、国立科学博物館に就職した川田さんだが、その伏線は博士時代からあった。もちろんモグラをめぐってのことだ。

「博士課程の時に、ロシアのノボシビルスクに1年ほど留学しました。ロシア科学アカデミーのシベリア支部で、動物細胞学・遺伝学研究所というところです。その地域は、最北のモグラともいわれるアルタイモグラがいて、あたたかいうちは、捕獲できていたんですが、冬になって地面が凍ると、それができなくなってしまいました。それでなにをしたかというと、ノボシビルスクの博物館に通い詰めたんです」

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

【参考資料】 : 川田伸一郎と世界のモグラたち(4/5)

Ω 国立科学博物館動物研究部/2014年度大会公開シンポジウム記録 Ω

ベトナムではより地域レベルの調査を行っており,北部から南部まで 10 地点ほどで調査を行っている.かつてはベトナムには 2 種のモグラが分布するとされていたが,捕獲個体を詳細に種同定したところ,ベトナム南部にドウナガモグラ E. parvidens が,北部にハシナガモグラ E. longirostrisとフーチェンモグラ M. latouchei が分布することが判明した.ベトナムにも Mogera 属のモグラが分布することが分かったのはこれが初めてである.

Euroscaptor 属と Mogera属は下顎切歯の数を調べることにより容易に同定可能で,実は 20 世紀前半にベトナム北部で行われた調査でもこれらの 2 種が捕獲されていることが,英国の自然史博物館での標本調査によって明らかになった.

当時これらの標本を調べたウィルフレッド・オスグッドは歯数の違いに気付かなかったのであろうか.ハシナガモグラとフーチェンモグラは同地域の高地と低地で接所的な分布様式を持つこともわかり,日本のミズラモグラと Mogera 属に似た関係なのである.

さらに調査地を増やして捕獲を行うと,北部の低地でも小型の Euroscaptor 属が分布していることが判明した.しかも同地域の高地には同属のハシナガモグラが分布している場所がある.外部形態はハシナガモグラよりもむしろドウナガモグラに似ているようである.

すでにベトナム産モグラの標本は 50 点を超えるコレクションになっていたので,詳しく調べてみたところ,ベトナム第四の種のモグラが存在することが明らかになった.この種の顕著な特徴は,尾が極めて短く,外見的にはほとんど毛下に埋もれて見えないことである.

この種にヒメドウナガモグラ E. subanura と命名することとなった.もう一つの重要な特徴は核型なのである.分類学者となった筆者はここで改めて染色体の興味深い特徴に立ち返ることとなる.

驚くことにベトナムの 4 種,すなわち Mogera 属のフーチェンモグラ,Euroscaptor 属のハシナガモグラ,ドウナガモグラ,ヒメドウナガモグラの染色体数はそれぞれ 30,34,36,38 であることが明らかになった.

なおフーチェンモグラはかつて台湾のタカサゴモグラの亜種と考えられてきたが,形態的な差異が著しいことから独立種と考えることができ,またタカサゴモグラの染色体数は 32 であることによって形態的な差異を補強している.このように,形態的に識別可能なすべての種が独特の染色体数によって特徴づけられているのである.

特にヒメドウナガモグラの 38 はアジア地域のモグラとしては初めて出てきた数字である.核型はやはり種の特徴を反映しているに違いない.

続く・・・・・

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“モグラ博士”哺乳類分類学 / 川田伸一郎(10/nx)_学究達=669

2024-03-09 05:10:22 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月09日<ⰧⰊⰧ

☆ バービーの誕生日。ちなみに生まれたのは1959年だが、実年齢は非公開。 史実では、ナポレオン・ボナパルトがジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚(1796年)。“恋多き女”で年下のナポレオンは手玉に取られたとか・・・・。 ☆ 寺田屋に投宿していた坂本龍馬が伏見奉行の襲撃を受ける(1866年= 寺田屋事件)。 ☆ 日本初の記念切手発行(1894年)。 &so、どさくさ紛れに、日本で商法公布(1899年)。

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車線上の無残な動物の轢死体_瞬時に目をそむけ、遭遇した不運を呪う

しかし、彼は「かわいそうに」を飛び越えて_噴き出す感情は「もったいない」

誰もが知り謎に満ちたモグラ_身近な存在である哺乳類を研究する「モグラ博士」

  自称「標本バカ」というほど標本にも魅せられた国立科学博物館動物研究部研究主幹

  「モグラ博士」として知られると同時に、「標本バカ」の哺乳類分類学者_川田伸一郎(10/mn)

【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 第4回 夢は世界のモグラをコンプリート! =1/3= 

モグラの形態や染色体を調べるには、モグラを捕まえなければならない。つまり、モグラ研究者は、優秀なモグラハンターである必要がある。

 川田さんは、自他ともに認めるモグラ捕りの熟練者である。

 では、いったいどうやるのか。試行錯誤の後に出会った決定版というべき罠をみせてもらった。

「こういう罠をトンネルの中に仕掛けます。もともとイタチの罠に使ったものを小さくしてあって、中にモグラが入ってくると、バネが弾けて、リング状のワイヤーを引き上げて出られなくする、みたいな仕組みです」

 細い塩ビ管のようなパイプを使っており、そのまわりに、バネの仕掛けがくっついている。一応、怪我をさせずにとる「生け捕り用」だ。川田さんは、このタイプの罠でだいたいのモグラを捕ってきた。

 もっとも、仕掛けさえあれば、誰にでもすぐに捕まえられるというわけではない。

 まず、モグラのトンネルがどこにあるか探さなければならない。トンネルを見つけられても、どのあたりなら罠にかかりやすいか知っていなければならないし、そのためには、モグラの行動パターンを読む必要がある。

 お話を聞いて面白かったのは、モグラの活動時間が1日に3回(3周期)、ということだ。

「だいたいのモグラで、1日3回なんです。さらに調べると、同じところに住んでるモグラでは、その周期が同調するみたいです。罠をかけても、しばらくは全然かからない。でも、1匹捕れたら、ほかのところでもう1匹捕れてるとか、ですね。お互いに縄張りがあるので、そういうことをやらないと、1匹がどっかに侵入していって全部食い荒らしちゃうことになる。荒らされた方は生きていけなくなってしまうし、そういうことばっかりやってると、そのうち集団全体が絶えることにつながるんで、うまく折り合いをつけて、活動期の同調性というのが進化してきたんじゃないのかって言われてるんですけどね」

 モグラハンターの立場からは、この3周期は「モグラを捕まえるチャンスは1日に3回ある」ということでもあって、なかなか都合がいいことのようだ。

 さて川田さんは、日本国内のモグラの標本を自ら入手し、形態や染色体を見るようになってから、次第に海外にも目が向くようになった。日本国内のモグラはモグラ亜科の6種にヒミズ亜科の2種を加えて8種。世界では40種そこそこ。川田さんは、その中の25種を捕獲し、研究してきた実績を持つ。

 モグラハンターの立場からは、この3周期は「モグラを捕まえるチャンスは1日に3回ある」ということでもあって、なかなか都合がいいことのようだ。

・・・・・・・・明日に続く・・・・・

【参考資料】 : 川田伸一郎と世界のモグラたち3/5)

Ω 国立科学博物館動物研究部/2014年度大会公開シンポジウム記録 Ω

モグラ分類学の現在 2,形態観察への目覚め

北米のモグラ科を調べているさなか,ロシアのノボシビルスク市にあるロシア科学アカデミーへ留学することとなった.ここではアルタイモグラ Talpa altaica の核型分析を行う予定であったが,10 月に降り始めた雪は街や森を覆いつくし,モグラの捕獲は不可能となった.幸いにも短い夏の間に得ていたデータで満足することとし,筆者が向かったのはシベリア動物学博物館であった.

ここには 1,700点を超えるアルタイモグラの標本が所蔵されている.博物館で標本を調べる研究はこの時始めて体験し,主にアルタイモグラの歯数変異や形態変異,またコーカサス地方のモグラの種間形態変異を調査することとなった.

この経験によって筆者は後に「標本バカ」を自称するほどの標本作成および収集活動に明け暮れることになり,さらには現在の博物館研究員を職とすることになった.博物館での標本調査は筆者を染色体研究者から,標本を扱う分類学者へと成長させていく.

分類学者としての最初の研究は,台湾のモグラに関するものだった.台湾にはタカサゴモグラ M. insularis という 1種が分布するとされていたが,この種の染色体調査のために訪問した際,共同研究者から山地に棲むという謎のモグラの話を聞いた.

翌日すぐに車で玉山の 2,800 m 地点まで移動して,その夜,明らかに平地の個体とは毛色が異なるモグラを 1 個体捕獲することができた.帰国後,調査した核型はタカサゴモグラの染色体数 32 と同じで,分染法を用いた分析でも差異は見つからなかった.

そこで形態分析を主眼として調査を行うこととなった.このモグラを巡って数度台湾を再訪し,また米国の博物館を歴訪して標本を計測・観察し,ついに新種として認めることができたのがヤマジモグラ M. kanoana である.

最終的に行き着いた地はアジアである.中国からネパールにかけての地域にはモグラは連続的に分布せず,山地に限定された飛び石状の分布を示す.これらのグループは イ ン ド 東 部 か ら 中 国 南 西 部 に 分 布 す る ア ッ サ ム モ グラ Parascaptor leucura や 現 在 ミ ズ ラ モ グ ラ と 同 じ 属Euroscaptor に分類される数種が含まれる.

アッサムモグラは比較的最近ミャンマー北部で捕獲したが,上顎小臼歯が一対少ない点が特徴的な,一属一種とされる興味深いモグラである.マレー半島で捕獲されたモグラはタイのクロスモグラ E. klossi の亜種 E. k. malayana であるとされていたが,筆者がタイで捕獲したクロスモグラとは明らかに臼歯の形態が異なっており,また尾率が小さいことが分かった.

さらに核型分析の結果,マレー半島とタイのモグラは染色体数が同じであったが,相互転座という染色体再配列によって変化したとみられる違いがあった.これらに分子系統学的データを加味して,マレー半島のモグラをマレーシアモグラ E. malayana として独立種に位置付けることができた.

続く・・・・・

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“モグラ博士”哺乳類分類学 / 川田伸一郎(09/14)_学究達=668

2024-03-08 05:10:21 | 冒険記譜・挑戦者達

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月08日<ⰧⰊⰧ

☆ ソビエトロシアでは、二月があなたを革命する!(1917年)     ☆ 牟田口廉也の個人的なプライドのためにインパール作戦が開始(1944年)。お陰で2万人以上の兵士が生贄となり撤退時の悲惨さはぴー。     ☆ NYSE創立190年を前に、NYSE自身がNYSEに上場(2006年)・・・・・ややこしい。 & マレーシア共和国の飛行機が突如として行方不明になる(2014年)21世紀にもなって破片や遺体すら☆見つからないので異世界へ飛ばされた可能性大。

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  「モグラ博士」として知られると同時に、「標本バカ」の哺乳類分類学者_川田伸一郎(09/14)

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 第3回 「昆虫少年」が「モグラ博士」になるまで =3/3= 

 じゃあ、染色体の研究と、遺伝子の研究は、この点において、どんな関係にあるのだろう。正直、「似た方面」の研究テーマだと思っていたので、少し頭が混乱した。

「遺伝子って系統関係は議論できますが、どれくらい違ったら別種にしていいかっていう判断はできないんですよ。遺伝子がほとんど一緒でも、染色体の形が違って、繁殖できなくて、別の種類になっちゃったっていうような種類もあります。モグラだと、エチゴモグラとサドモグラを別種にするのは、ぼくたちの染色体研究が鍵になりました。遺伝子を見ている分にはとても似ていたんですが。逆に、染色体の弱いところっていうのもあって、種が分岐してきた順番が分からないんです。どっちからどっちに変化したかっていうのを推定するのが非常に難しい。そういうところは遺伝子なんかのデータを使って確かめてもらって、最終的に全体の枝分かれの順番を見る。やっぱり形態を見て、染色体を見て、遺伝子で裏をとってみたいなことを全部やって、独立した種なのかどうか、と考えていくことになるんです」

 これは非常に興味深い。

 染色体を見る技術は、遺伝子の違いだけでは分からない「種」を見る技術。

モグラの分類を解明するためには、標本を作り、形態を見て、染色体を見る。川田さんの表現では、今や染色体は「形態より」というのはそういうことか。

 もう少し具体的に言うなら、染色体を種ごとによくよく見てみると、同じ遺伝子セットを持っていたとしても、「形」が違うことがある。例えば、「動原体」と呼ばれるくびれた部分があって、その位置が重要だ。動原体が端っこに位置していると、染色体の形は、逆V字型になる(単腕性)。染色体の一部が逆転して動原体の位置が真ん中に変化すると、X字型になる(両腕性)。細胞分裂で、細胞が2つに分かれる時、この動原体の部分に紡錘糸と呼ばれる糸がくっついて引っ張られるようにして、染色体も2つに割れる重要な部位だ。当然、生殖にも関係してくる。

 日本のモグラの染色体の数は18対で、つまり36本。これは共通だ。そんな中で、エチゴモグラとサドモグラは、形態も遺伝子も非常に似ており、同種かせいぜい亜種レベルとされることが多かった。しかし、川田さんが、染色体を調べると、「単腕性」と「両腕性」の染色体の組の数が違い、エチゴモグラとサドモグラが交配困難で別種という見解を支持するものとなった。

 これは単なる一例。一事が万事で、とにかくモグラのことはよく分かっていない。行動的なことはもちろん、分類についても謎が多く残っている。モグラにはまった川田さんは、日本のみならず、海外のモグラの探索にも出かけるようになる。

次回は“ 第4回 夢は世界のモグラをコンプリート! ”に続く・・・・・

【参考資料】 : 川田伸一郎と世界のモグラたち(2/5)

Ω 国立科学博物館動物研究部/2014年度大会公開シンポジウム記録 Ω

モグラ分類学の現在 1,染色体調査

筆者の哺乳類学は染色体の数や形といった特徴,すなわち核型を分析することから始まった.モグラとの出会いは大学院修士課程で,ヒメヒミズ Dymecodon pilirostris とヒミズ Urotrichus talpoides の核型比較を行うことが研究テーマになってからである.

アルコール漬けの小さな組織サンプルからでも分析が可能な分子情報と異なり,染色体研究は細胞分裂という生命現象の一コマを観察するため,生きた細胞が必要である.そのため研究者自身が個体を捕獲するというところから研究が始まる.この「捕まえる」という必然性が筆者をして海外にまでモグラを求めての旅へといざなうこととなる.

大学院博士課程ではより分類群を広げ,広くモグラ科の比較核型分析を開始した.まずは身近な日本産のモグラ全種を調べるために,国内各地で捕獲を行った.残念ながらいまだ尖閣諸島への上陸は果たしておらず,そこに分布する 1 種だけは未分析であるが,そのほかのミズラモグラEuroscaptor mizura,サドモグラ Mogera tokudae,アズマモグラ M. imaizumii,コウベモグラ M. wogura について 1 年半程度で核型分析を終えて,論文として発表することができた.

重要なトピックとしては,逆位と呼ばれる染色体変化が種ごとに段階的に起こっているという点である.またサドモグラの越後平野孤立集団が,佐渡島集団とは複雑な構造変化を伴う独特の核型を有するという違いから,独立種エチゴモグラ M. etigo とする意見を支持するデータを得ることもできた.比較的早期に一つの目的を達成した筆者は,北米や東南

アジアに核型が未整理な種が多数分布することに注目し,海外のモグラを求めて旅を繰り返すことになった.

アメリカでは西海岸に生息するセイブモグラ属 Scapanus の一種ヒメセイブモグラ S. orarius,大陸東部のトウブモグラScalopus aquaticus,ホシバナモグラ Condylura cristata といった種を調査し,またヒミズ類を研究していた修士課程時代にいつか調べたいと思っていたアメリカヒミズ Neurotrichusgibbsii もリストに加えることができた.

アメリカヒミズは日本のヒミズ類の染色体数 34 とは異なる 38 であることが古くから報告されており,一方で他の北米産モグラ類は 34であること,そして日本産ヒミズ類に類似した核型であることを確認した.

染色体的には北米産の「モグラ」と呼ばれるグループは日本やアジアなどに分布する「モグラ」とは異なっており,日本の「ヒミズ」に類縁がある,あるいは単に祖先的核型を維持したものなのだろうか?その後筆者は中国雲南省の高地で第四のヒミズであるシナヒミズScaptonyx fusicaudus を捕獲し,核型分析を行ったところ,核型は日本のヒミズに近いものであった.

シナヒミズは英語では long-tailed mole と呼ばれ,多くの研究者はヒミズよりも地下性に適応した別グループと位置付けているが,ヒミズの仲間に違いないと筆者は考えている.なお,雲南省ではこの山域でしか見ることができないミミヒミズ亜科の一種ホソミミヒミズ Nasilus gracilis も捕獲したが,本種の核型は他のモグラ科からは一線を画した特徴を有し,独立の亜科として位置付けることを支持している.

続く・・・・・

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