【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 06月17日(月曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-06-17 05:10:40 | 歴史小説・躬行之譜

★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 赤信号か青信号かってことで警察と陸軍の組織を挙げた大喧嘩が勃発(1933年=ゴーストップ事件)。 ◆ ワシントンの水門ビルに忍び込んだ三流のコソ泥が、大統領の首を飛ばすヘマをやらかし逮捕(1972年)。大統領の盗聴、裁判もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、等々の発端となる。 ◆ O・J・シンプソンが3日前に自宅で死んだ妻のことで揉めて、2時間ものエクストリーム・カーチェイスをする破目に(1994年)。因みに、2018年 - トヨタがル・マン24時間レースを優勝。

◎ ◎ ・・・・・・・ずる休み・・・・・・・・ ◎ ◎

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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Today’s B.G.M, = Miles Davis - Freddie Freeloader (Official Audio)
 
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“モグラ博士”哺乳類分類学 / 川田伸一郎(12/14) _学究達=671

2024-03-12 05:10:51 | 歴史小説・躬行之譜

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=令和六年03月12日<ⰧⰊⰧ

☆ スイーツの日。この日の存在自体がスイーツ (笑)だと思う。 冗談は置くとして、死刑が戦後憲法の下でもO.K.というお墨付きが最高裁判所で下る(1948年)。 ☆ 「モスバーガーがいいね」と君が言ったから3月12日はモスの日(1972年)。 &so、 「三蔵法師が妖怪に食べられる」ドラえもん映画が封切り(1988年)。 ☆ バーミヤーン巨大石仏の破壊(2001年)でターリバーンの悪名は世界にとどろき、へきへきしたヤンキーたちが故郷に帰る道を探り始めた。

本日記載附録(ブログ)

車線上の無残な動物の轢死体_瞬時に目をそむけ、遭遇した不運を呪う

しかし、彼は「かわいそうに」を飛び越えて_噴き出す感情は「もったいない」

誰もが知り謎に満ちたモグラ_身近な存在である哺乳類を研究する「モグラ博士」

  自称「標本バカ」というほど標本にも魅せられた国立科学博物館動物研究部研究主幹

  「モグラ博士」として知られると同時に、「標本バカ」の哺乳類分類学者_川田伸一郎(12/14)

【この企画はWebナショジオ(文=川端裕人、写真=的野弘路)】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

 第4回 夢は世界のモグラをコンプリート! =3/3= 

ノボシビルスクのシベリア動物学博物館には、哺乳類の標本がなんと11万点も所蔵されている。日本の国立科学博物館の5万点というのは、世界的にみるとそれほど大きなものではないようだ。そして、研究の世界では、数がものを言うことも、しばしばある。

「モグラの研究で、僕が知っているものの中で、一番たくさんの標本を用いたのは、ヨーロッパモグラの頭骨の標本8000点で、その変異を調べたものです。実はこれ、哺乳類の研究で使われた点数でも最大のはずです。僕は、それにはとても対抗できないけれど、シベリア動物学博物館にあった約1800点のアルタイモグラの標本を使って、種の中での変異を見ていきました。アルタイモグラはほかの哺乳類よりもかなり高頻度で歯の数と形に変異があると分かりました。日本に帰ってきてから論文にしたんですけど、そのあたりが実は転機でした。博物館の標本って大事だなあ、形態って大事だなあと強く思いまして、帰国してからは、標本バカです。別にもう、興味があるとか、そういう次元ではなく、とりあえず、標本はちゃんと登録して保存しとくもんなんだっていうのを学んだんですね」

 博物館の標本は、その動物に特別な関心があるかどうかにかかわらず、とにかく、受け入れたものを標本にしていく。だから、ある冬、シベリア動物学博物館を訪ねた日本人の博士課程学生が、シベリア固有のモグラの頭骨約1800点を見せてもらい研究することができた。

 標本って大事! 残しておくのは大事! 川田さんは、標本スイッチが入ってしまい、自称標本バカが誕生していた。

 川田さんの拠点だった愛知県設楽町の演習施設は、様々な家畜を飼育しており、当時の施設管理者(=川田さんの指導教官)の方針のもとに、できるだけ標本を残そうとしていた。冷凍庫にはまだ標本化されずに保管されている動物の死体がたくさんあった。

「ロシアから帰ってきて、まずやったのは、指導教官の先生が拾ってきた大量のタヌキやハクビシンの死体が、冷蔵庫にいっぱいたまっているのを、ガンガン標本化していくことでした。畜産系の演習施設だったんで、牛や山羊もよく標本にしたし、そのうちに、評判が広がって、猟師さんが、イノシシを捕ったからいるか?と声をかけてくれたり。三河湾にスナメリが座礁して死んでいるので拾ってこいって言われたり。水族館でトドとアザラシが死んだので引き取ってこいと言われ、トドって大きいから大変そうだと思いながらいったら、アザラシがゾウアザラシで、トドより大きくて。4トントラックで持って帰ったはいいものの、完全に凍っているのが融けるのを待ちながら作業をして、結局、2体で10日間くらいかかったり。もう完全に標本中心の生活になっていました」

 標本収集スウィッチが入ってしまった川田さんは、まさに「標本バカ」の高みに一気に駆け上がるのだった。

次回は“ 第5回 「無目的、無制限、無計画」の大切さ ”に続く・・・・・

【参考資料】 : 川田伸一郎と世界のモグラたち(5/5)

Ω 国立科学博物館動物研究部/2014年度大会公開シンポジウム記録 Ω

以上のように,筆者は染色体研究から哺乳類学の世界に入り,のちに分類学的研究を進めるために形態学的な観察も行うようになった.染色体分析に必要な新鮮なサンプルを得るためのフィールドワークは,標本採集および作成という行為を伴い,当然のことながら調査個体の種同定が必然となる.思えばいい流れで研究のスタイルを作ることができたと感じている.

最近の研究動向から未来を予見すると,遺伝子解析技術の発達によって分類学・系統学はよりミクロな視点で行われるようになってきた.たくさんの遺伝情報を調べて系統世界のモグラ 319推定を行い,隠蔽種を見つけてそれを新種として記載するための形態情報を調べる,というスタイルの論文が多々見受けられる.もはや遺伝情報は形態分類学者の観察能力を試す「答え合わせ」ではなくなってきたことが,少々残念に思える.

哺乳類学の研究者人口のうち分類学のような基礎を探求する研究者は減少し続けている.基礎研究をやる者の中でも,研究者間のネットワークの発達,遺伝子データ整備など研究自体がやりやすくなってきたこともあり,新たに動物を捕獲して調査するというフィールドワーク志向の研究者は少ない.博物館に行けば標本がたくさんあるのでそれを調べればよいと思うかもしれないが,形態の地理的変異や齢変異を調べるために十分な標本群はそれほどあるわけではない.

また乾燥標本や液浸標本では,本来の外部形態の特徴が変形して失われている場合が多い.また個体を捕獲する作業では生息地の環境や個体の行動などたくさんの情報が得られるのが利点である.便利な時代になったもので,インターネットに情報はあふれ,デジタルカメラは安く手に入り,プレゼンテーションはパワーポイントで簡単に作れる(そしてこの原稿はワードで何回でも書き直せる)といった具合である.

デジタルを使うなというわけではなく,こういう時代だからこそ楽はせず,過去の研究を振り返って,あえて古典的な研究手技にも手を染めてほしいと思う.今では海外に渡航する機会も増えている.未開の地で哺乳類の新種を発見して一山当ててやろう,という夢と冒険心あふれる研究者が育つよう応援していきたい.

おわり

Shin-ichiro Kawada: A report on the Open Symposium “Present and future of Mammalogy” at the Annual Meeting of the Mammal Society of Japan

2014: Shin-ichiro Kawada and moles of the world

著 者: 川田伸一郎,〒 305-0005 茨城県つくば市天久保 4-1-1 国立科学博物館動物研究部

 kawada@kahaku.go.jp

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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弱者の武器” モロトフ・カクテル”とは ; 緊急企画 / ウクライナ(5/5)

2022-05-05 05:52:34 | 歴史小説・躬行之譜
ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年05月05日<ⰧⰊⰧ

☆★ 夏の始まりであるからして、田植えの前に身を清めるから女の日だ、いや菖蒲=尚武だから男の日だ、と散々揉めて今では子どもに全権がある日に。☆★ 殺されたナチス活動家を顕彰した客船ヴィルヘルム・グストロフが、ハンブルクにて進水(1937年)。その8年後に1万人近くの乗客を乗せて、本人の許へ最後の航海に旅立った。☆★ 日本から飛来した風船爆弾の不発弾がオレゴン州で爆発し、民間人6人が死亡。第二次大戦でのアメリカ本土での唯一の死者となる。(1945年)。なお第二次大戦でのアメリカ本土での唯一の死者となる。

本日記載附録(ブログ)

ウクライナ市民が自作する「弱者の武器」モロトフ・カクテルとは

「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る

【この企画はWebナショジオ_【研究室】_「研究室」に行ってみた】を基調に編纂(文=川端裕人/写真=藤谷清美 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ウクライナ(5/5) / ウクライナ正教会、ロシア正教会から独立へ  ◆◇

古来の儀式を守るウクライナ正教会

 ロシア正教会から、ウクライナ正教会が独立する見通しだ。ロシア正教会は、2億6000万人強の信者を擁するキリスト教東方正教会のなかの最大派閥。先日、東方正教会幹部によって明らかにされたこの決定は、300年以上前に確立された教会の基盤を揺るがすほど大きな意味を持っている。

 コンスタンチノープル総主教のバルトロメオ1世(正教会高位聖職者の位階制において「平等の中の首位者」とされる)が招集したシノド(主教会議)は、1686年以来モスクワの宗教当局者の管轄下にあったウクライナ正教会に対し、独立する権利を承認した。

 ウクライナ正教会は、26年前のソ連崩壊後に設立されて以来、これまで正式な承認を得られずにいたが、今回のシノドにおいて、ウクライナ正教会キエフ総主教庁の正統性が正式に認められた。シノドではまた、キエフ総主教庁の創設者でリーダーのフィラレート総主教(94歳)の主教としての地位と権限も認められ、さらにはウクライナ正教会をロシア正教会の管轄下に組み込んだ1686年の決定も無効とされた。

 ロシアとウクライナの信徒を合計すると、世界のその他の正教会の信徒全員を合わせた数を超える。現在、モスクワ総主教庁が抱える1億3600万人の信徒の4分の1はウクライナ人が占め、また1万8000カ所ある教会区の3分の1はウクライナにある。ウクライナ正教会の分離は、1000年におよぶ正教会の歴史上「最悪の危機」になると見られている。

 また今回の決定により、ロシアとウクライナの対立はさらに深まるだろう。どちらも教会の危機を政争に利用しているというのが一般的な見方だ。2014年にロシアがクリミア半島を強制的に併合したこと、また現在まで続くロシアによるウクライナ東部への軍事介入により、両国の関係は近年、特に悪化している。

 ウクライナのポロシェンコ大統領は、シノドの決定を「悪に対する善の勝利」と呼び、またモスクワ総主教庁は「ウクライナの国家安全保障への直接的な脅威だった」と発言した。

 ウクライナ正教会の「自治独立」が現実味を帯びてきた9月、モスクワ総主教庁は報復措置として、モスクワ派の主教とコンスタンチノープルの主教との共同礼拝を禁止したり、会合、神学上の対話、コンスタンチノープルの代表者が主宰する業務への協力を拒んだりするようになった。

 こうした対立の激化は、暴力的な事態に発展するのではないかとの憶測を呼んだ。ロシアのインターネットでは、ウクライナ人国家主義者が有名なキエフ・ペチェールシク大修道院を襲撃したとの未確認情報が飛び交った。モスクワ総主教庁派の聖職者の中には、教会区民に「自分たちの教会を守れ」と命じた者たちもいたという。

 この緊張状態の原因が東方正教会の歴史に深く根ざしていることは確かだが、今回の分離が神学上の問題でないことは、ほぼすべての派閥が同意するところだ。

 正教会の権威を巡って対立するロシアとウクライナというふたつの国は一方で、世界でも特に世俗化が進んだ国でもある。国家教会への帰属率は非常に高いものの(ロシアでは人口の71%、ウクライナでは77%)、積極的な宗教活動を行っている人の割合は極めて低い。

 米調査機関、ピュー・リサーチ・センターが行った2016年の世論調査では、宗教が「非常に重要」だと答えたのはロシア人のわずか15%、ウクライナ人の20%だった。毎週礼拝に出席しているのはロシア人の6%、ウクライナ人の12%で、毎日祈祷を行うのはロシア人の18%、ウクライナ人の28%に過ぎない。これとは対照的に、米国では人口の52%が宗教は非常に重要だと考え、31%が毎週教会に通い、57%が日々祈祷を行っている。

 つまり正教会への帰属率が高いことは、国民であることの象徴的な意味合いが強く、宗教的な信仰心とはほとんど関係がない。

 世界的に見ても、東方正教会は信徒数の減少に悩まされてきた。1910年には、世界のキリスト教徒の20%は正教徒だったが、現在は12%だ。こうした背景の中で、モスクワの宗教当局者と、ウクライナとコンスタンチノープルの総主教庁との不和が、全面的な危機に発展したわけだ。

「教会法においては、コンスタンチノープルの総主教はウクライナに対する管轄権を有していません」と、ロシア正教会幹部であるウラジーミル・リゴイダ氏は言う。「バルトロメオは、1686年の協定は一時的なものであることを証明する歴史的な文書が存在すると言っています」。しかしそうした文書が作られたことはないとリゴイダ氏は主張し、300年以上続いた関係を終わらせるのは「とんでもないこと」だと述べている。

「それはいわば、アラスカの米国への売却ははるか昔に別の政権下で行われたのだから、アラスカは今もロシアのものだと、われわれが主張するようなものです」(アラスカ売買の交渉は1867年、当時の米国務長官ウィリアム・H・スワードによって行われた)

 ロシアの教会当局者は、モスクワ総主教庁はプーチンの手先であり、常に大統領の国内政策を支えているとたびたび非難されることに苛立っている。

 リゴイダ氏は言う。「われわれはロシア国の教会でも、その他どの国の教会でもありません。われわれの総主教は16カ国の人々に心を配っています。それは主教座としての、また宗教指導者としてのわれわれの責任です」

明日、新企画“タイタニック号はなぜ沈没したのか?”に続く・・・

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断頭台の露と消えた王妃 =44・終節=

2016-07-31 17:27:30 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ 残酷な最後 ; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =7/7= ◇◆

 1809年、グスタフ4世は失政を糾弾され、クーデターにより廃位させられ失脚した。 新しくカール13世が戴冠し、スウェーデンの王になった。 フェルセンはクーデターには関与しなかったが、貴族たちが作った臨時政府には加わった。 新しく王位に就いたカール13世には世子がなかったため、アウグステンブルク家のクリスチャン・アウグスト(カール・アウグストと改名)が王太子に指名された。 しかし、1810年に王太子が事故死した。 当時のスウェーデンは、フランス革命の余波で、政治的危機に直面していた。   

 その直後から、王位を狙った暗殺事件であるとの噂が飛び交い、暗殺の首謀者としてフェルセン伯爵の名が取り沙汰された。 噂の根底には、「グスタフ3世の暗殺後、グスタフ4世がフランスへの政策を引き継いだため、フランス革命期に暗躍したフェルセンを復権させていたのだが、グスタフ4世が失脚すると、彼がスウェーデン王になり、マリー・アントワネットをギロチンに処したフランスの民衆に復讐するために、国民を戦争に引きずり込もうとしている」という噂が立っていたのである。

 グスタフ3世の目的は、フランスの王制を存続できるようにし、同盟国としての関係を保ち、スウェーデンがヨーロッパの大国としての地位を確保できる状態にしたかった。 この政策を継承したのがグスタフ4世であり、国策として、マリー・アントワネットの信頼を得ているフェルセンを通じて窮地に陥ったフランス・ルイ王朝を革命の嵐から救出するように命じていたのである。 

 グスタフ4世の失政を糾弾するクーデターによって戴冠したカール13世は、名門のフェルセン伯爵に疑惑をもちつつ、わざわざ彼をカール・アウグスト皇太子(カール14世)葬儀の責任者とした。 フェルセンもそれに従った。 当日、クリスチャン・アウグストの遺骸がストックホルムに運ばれ、市内の広場で葬儀が行なわれたが、そこに馬車で現われたフェルセンに群衆が暴動を起こした。 

 現場にいた近衛連隊の指揮官と兵士たちはあえて暴動を制止しようとせず、激昂した民衆に襲われたフェルセンは必死に剣で抵抗するも、最後には殴り殺されてしまう。 その衣服や勲章は剥ぎ取られ、誰かも分からないほどに痛めつけられ、全裸で側溝に投げ捨てられました。 きしくも、事件が起こった6月10日は、19年前にヴァレンヌ事件が起こったその日であった。 ちなみにカール13世の王妃ヘトヴィヒ・エリーザベトの愛人の一人がフェルセン。

※  追稿 

当日中に撲殺された遺体はステーニンゲ城(Steninge Slott)に置かれたらしい。 カール14世の嫌疑が晴れたとして、翌年の4月12日、リッダホルム教会で盛大な葬儀は行われた。

妹のソフィア・パイパー(1757–1816) は同年に記念碑を建てた。 彼女もカール14世の死で、嫌疑がかかっていたらしい。 彼女はバクスホルム城に身柄を預けられたようだ。 彼女はグスタフ3世の弟フレドリク・アドルフ (エステルイェートランド公)に求婚された一人。 父や兄らは王家からの失寵をこうむることを恐れ、反対した。

宮廷の侍従アドルフ・ラディック・パイパーと結婚。 死別すると恋人のエバート・ウィルヘルム・タウベの元に行くが、死別しストックホルムに戻る。 フェルセンとの手紙のやりとりが有名だが、王妃アントワネットの崇拝者で、アントワネットの髪を一房持っているという。

父親のフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵(1719-1794)は王室顧問であり、ハット党(ハッタナ党)の党首であったと伝えられている。 グスタフ3世の暗殺の黒幕と噂された。 アドルフ・フレドリク(Adolf Fredrik, 1710 - 1771)は、ハント党に擁立され、推戴されたスウェーデン国王。 

アドルフ・フレドリクの息子がグスタフ3世になる。 噂の真意は政敵が流したものであろうが、グスタフ3世以降の政権はメッソナ党が握るが、スウェーデンの「自由の時代」はフェルセンの死と共に終わった。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =42=

2016-07-27 16:30:21 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ ヴァレンヌ事件」の顛末; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =5/7= ◇◆

 実行は1ヶ月以上も遅れ、1791年6月20日、国王一家はテュイルリー宮殿を後にした。 その日に変わった真夜中に、ルイ16世と王妃、王子と王女は、それぞれ変装してばらばらに分かれて宮殿を抜けだした。 予定では午前0時の出発のはずだったが、国王の監視役であったラファイエットの予定外の長居によって、結局、国王が宮殿を出たのは午前1時を過ぎていた。

 一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすまして、近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立ての馬車に乗って誰にも止められることなく宮殿を出ていった。 王子と王女は仮面舞踏会にいくと言い含められていたので驚いたようである。 一方、護衛を務めるショワズールとゴグラーは、この10時間前に猟騎兵を連れてすでにパリを出ていた。

 旅券には書かれた一行の人数は6人で、コルフ侯爵夫人の役には王子たちの保母であったトゥルゼール公爵夫人がなり、その子供には王太子ルイ=シャルル王女マリー・テレーズが、旅行介添人が王妹エリザベート、デュランという名前の従僕にルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女にマリー・アントワネットが扮していた。

 馬車の御者は変装したフェルセンであった。 まずクリシー街のサリヴァン夫人の邸宅に着くと、ここで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えた。 さらに2人の従者が車後に乗った。 フェルセンは自ら手綱を操って、回り道しながら2台の馬車は北に向かった。 すでに午前2時半を過ぎていた。

 フェルセンは御者に扮して追っ手がつかないように回り道をして北へ行き、パリ郊外まで来たが、ルイ16世がフェルセンの同行を拒否したため別れることとなった。 ルイ16世は、王妃マリー・アントワネットとフェルセンの関係を知っていたが、フェルセンの王家への献身ぶりは認めざるを得なかったため、王妃にもフェルセンにも何も言うことはなかったという。 いかし、この段階に至って、ルイ16世はフェルセンを拒絶したのである。 逃亡する国王一家にフェルセンが最後にかけた言葉は「さようなら、コルフ夫人!」だけだった。 一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましていたのである。

 その頃、ショワズールは、40名の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールの橋でずっと待っていたが、待てども待てども国王の馬車は到着しなかった。 何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊を分散させ、街道から隠すことにした。 国王の馬車は、銀食器やワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せ、ゆっくりとした速度で進んでいた。

 国王一行がシャロンに到着したのは午後4時だった。 扮装した国王一行は安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。 すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。 ポン・ド・ソルヴェールで国王は最初の護衛に会えると思っていたが、ショワズールの愚かな判断によって行き違いになった。 次のサント=ムヌウの町でも別の竜騎兵部隊が待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。

 しかしサント=ムヌウでも、不審な部隊を警戒した地元の国民衛兵隊300名が武装して集まってきたので、衝突を恐れた指揮官のダンドワン大尉は解散を命じて、竜騎兵たちの多くは市民と一緒に酔っぱらっていた。 しかしダンドワン大尉は何とか国王の馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。 ところが運悪く、それを夕涼みに出ていた宿駅長のジャン=バプティスト・ドルーエ が見ていた。 彼は大尉や竜騎兵たちが馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。 そこにシャロンから王室一家が通過したという噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエは、アッシニア紙幣の肖像を見て一行の中にいたのがルイ16世であったと確信して、間道を抜けて先回りした。

 クレルモン・エン・アルゴンヌの町で国王はようやく護衛の竜騎兵部隊と合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町ではニュースになって騒ぎになっていた。 町の当局者は、一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券をもつ国王の馬車を止める権限がなかったので、行かせることにした。 しかし明らかに不審な部隊の随行は禁止した。 再び護衛と引き離された国王の馬車がヴァレンヌに到着した時、ドルーエらは先に到着して、大勢の群衆と共に待ち構えていた。

 6月22日、国民議会の使者ロメーフが国王一家を拘留せよとの命令を持って現れた。 すべてが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエが救援するのを待とうと試みた。 国王は疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しいと言った。 ロメーフはラファイエットの副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。 しかしもう一人の使者のバイヨンが拒否し、「パリへ、パリへ」と群衆を煽った。

 群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願するので、国王もついに観念し、しょうがなく国王一家は車中の人となった。 マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていた。 その僅か半時後、ブイエ侯爵は部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て、国王がすでに屈服したと知らされた。 彼はそのまま踵を返して道を引き返し、国境を越えて亡命した。

 一方で、同じ日に逃亡した王弟のプロヴァンス伯爵夫妻は、同じ頃には無事にベルギーに到達していた。 プロヴァンス伯は、6月20日の夜に兄ルイ16世に会ったのが、今生の別れとなった。 彼は2年後の兄の死と前述の王妃を摂政職から排除する法律によって、自動的にフランスの摂政となる。

 6月25日夕方7時、国王一家はテュイルリー宮殿に連れ戻された。 議会を代表する護衛としてバルナーヴ、ペティヨン、モブールの3議員が途中で加わっていた。 道中の各地に「国王に礼を尽くすものは撲殺。国王に非難を加えるものは縛り首」との警告ビラが貼られた。 パリは国王一家を沈黙で持って迎えた。 以後の国王は「民衆にとっては裏切り者、革命にとっては玩具」となってしまった。 そして、マリー・アントワネットは、妹エリザベート宛ての遺書を書き残してギロチンで刑死する。 遺書の内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」であった。

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断頭台の露と消えた王妃 =41=

2016-07-25 16:10:34 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ ルイ16世の脱出計画; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =4/7= ◇◆

 サン=クルーへの復活祭のミサ行幸が群衆の妨害で中止せざるを得ない状況に陥ったフランス王家。 フランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられていたフェルセンは、各地の王党派と連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動をした。 だが、王党派の貴族内ではフェルセンの王妃への愛がタブー視された政治の底流にあった。 フェルセンの行動はスウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになっていた。

 計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。 彼女は実家であるオーストリアへ亡命することを企てていた。 当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれにみせかけることは可能であった。 マリー・アントワネットは、メルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した曉には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていた。

  しかし 当のレオポルド2世は、ルイ16世が申し出た1500万リーブルの借款を断り、渋々軍隊を送る条件として、国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならないとした。 このためルイ16世は「パリ逃亡の際の国王の宣言」を作成して、成功したら発表する予定であった。 これはパリ脱出の経緯を説明するもので、国民議会の憲法違反を非難する内容だった。 逃走の資金は銀行家から借金することになった。

 王妃マリー・アントワネットの主導のもとに計画が立てられたことで、いくつもの問題が生じることになった。 まず計画の中心人物が、王妃の愛人と噂されているスウェーデン貴族・フェルセンとなった。 彼に協力するのはショワズール竜騎兵大佐と王室技師ゴグラーという、国王と王妃に忠誠を誓った個人で、数名の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携はほぼ皆無となる。

 国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯爵は重要な役割を果たすこととなったが、このような問題に外国人が関与することに当初より強い懸念を示した。 フェルセンはルイ16世の臣下ですらなかったからである。 しかし、フェルセンは王妃の信頼に応えようと、国王一家の逃亡費用として、私財を投げ出した。 =2004年当時の日本円に換算して総額120億円以上を出資したという=

 

 フェルセンは別の愛人のエレオノール・シュリヴァンにこの資金の一部を用立ててもらい、さらに2頭立て馬車や旅券を手配したが、これらは彼女の助力の賜だったと言う。 ところが一方で、マリー・アントワネットの無理な主張にも振り回され、快走を約束する二頭立て馬車は王の行幸に用いられる8頭立てのベルリン型の大型四輪馬車の新品とすることになった。 馬車の内装を特注にし、さらに美しい服などを新調したことなどにより、脱出は当初の予定より1ヶ月以上も遅れることになる。

 また、王妃の主張する亡命というアイデア自体も難があった。 実行役となるブイエ侯爵は、反逆罪に問われる可能性が高かったことから、国王の署名入りの命令書を求めるなど抵抗した。 ルイ16世も国外への逃亡という不名誉を恐れ、計画の変更を求めて、ルートをフランス領内のみを通過するものに変えた。 しかしこれはブイエが最初に提案した旅程よりも危険なものになった。

 最終的な目的地は、フランス側の国境の町であるモンメディ の要塞に決まった。 ここに国外の亡命貴族軍を呼び寄せて合流する予定であった。 つまり実際には亡命ではなかったのである。 ベルギー国境に集結していたオーストリア軍の協力をあてにはしていたが、国王はあくまでも国内に留まる決意だった。

 計画は6月19日に決行される予定であった。 が、直前までマリー・アントワネットに振り回された。 何もかも準備は整っていたのに、彼女が革命派と考えていた小間使いが非番となる翌日まで1日延期されることになったのである。 他方、ブイエは街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して警護させようと考え、準備していたが、彼らは王党派というわけではなかったので兵士達には任務の内容は知らせなかった。

指揮官のショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然変更になって部隊は右往左往することを強いられ、計画は実行前からズタズタになっていた。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =40=

2016-07-23 17:58:23 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ 国王ルイ16世の国外脱出計画 ; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =3/7= ◇◆

 1789年、フランス革命が全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わって行こうとする。 グスタフ3世はフェルセンを革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに送り込んだ。 国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。

 フランス革命の先行きを憂慮していた開明派貴族たち、特に立憲王政派のミラボーは、国王がパリを脱出し、急進的なパリ民衆の影響下にある国民議会を解散して、地方の支持を背景にして国王の直接統治を行うべきであると進言していたが、ルイ16世本人が「王たるものは国民から逃げ出すものではない」として頑として反対し、実現しないでいた。

 これには十月行進以来、国王がその守護者となることを誓ったラファイエットに信頼を寄せていたことも一因で、彼はミラボーの政敵であった。 しかし革命の進展とともにラファイエットの権力は日増しに弱まり、約束が反故にされ、改革によって様々な権限が奪われていくことに国王は不満を強めていった。

 1790年10月20日、大臣非難決議と新大臣任命に関するラファイエットの表裏ある態度に、ルイ16世は激怒し、憲法に規定された自由任免権すら侵されたとして彼を見限って、思い切って反革命に転じることにした。 国王はすぐに王党派であるパミエル・ダグー司教とルイ=シャルル=オーギュスト・ラ・トノリエ・ド・ブルトゥイユ男爵を呼び寄せ、王の代理として諸外国と交渉する全権を密かに与えた。

 12月27日、聖職者に革命の諸法への宣誓を強制する法律に署名を強いられた際には、不本意な国王は「こんな有様でフランス王として残るなら、メッス市の王になったほうがましだ。 だが、もうじきこれも終わる」と述べ、何らかの計画があることを暗に漏らした。

 ルイ16世は、王弟アルトワ伯(シャルル10世)や亡命貴族が行っていた地方での反乱蜂起の扇動などには賛成せず、彼らの愚かさを非難したが、一方で、ブルトゥイユ男爵が必死に諸外国を説得に回り、結成を目指していた神聖王政連盟に対しては密かに期待していた。 しかし具体的に支援を約束したのは王権神授設を信じるスウェーデン王グスタフ3世だけで、イギリスは植民地の譲渡などを条件に中立を約束したが、ローマ教皇の宗教上の支援はあまり効果がなかった。

 特に痛手であったのは、王妃マリー・アントワネットの実兄である神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、ポーランドやオスマン帝国の情勢を鑑みて、計画に懐疑的態度を取ったことであった。 彼は口実をつけて交渉を引き延ばし、これにより無為に8ヶ月間が経過したため、その途中12月にはマラーの「人民の友」紙などのパリの革命派新聞が国王側の不穏な陰謀の気配を嗅ぎつけてしまい、1791年1月30日にはデュボワ・クランセが国王の計画をジャコバン派に暴露してしまった。

 国王が逃亡するという噂は、計画が事実であっただけに、深刻なものであった。 議会は国境の警備を強化して、王族の監視も強化した。 しかしルイ16世は、反カトリック的な法律ができたこともあるが、挑発するかのように、先だって叔母にあたるアデライード王女(修道女)とヴィクトワール王女を出国させ、ローマに行かせた。 離国事件はすぐに問題となり、彼女たちは途中で2度も捕まった。 

 これはちょうど亡命禁止法を議会で審議していた時期の出来事であったが、ミラボーの人権を擁護する主張により、この法案は退けられ、議会は特別命令を出して出国を許した。 しかし一方で議会は「王の逃亡は退位とみなす」と宣言して警告し、王妃が駐仏オーストリア大使フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵 と交わしていた書簡を調査して、その不穏当な内容を問題視して、摂政職から女性を排除する法案を可決させた。

 1791年4月2日、ミラボーが急死した。 ミラボーはもはや国王が唯一信頼していた人物であったので、国王は面従腹背の態度を強め、後任者を誰も信頼しなかったし、王妃の国王に対する発言力が増した。 三頭派やバルナーヴがブルジョワ的政策を進めて、議会と民衆との軋轢が顕著になると、国王は反革命のチャンスであると思ったが、レオポルド2世との交渉は全く進んでいなかった。

 ところが、4月18日に事件が起こった。 この日、国王一家は復活祭のミサを行うためにサン=クルー宮殿へ行幸しようとしたが、民衆はこれを国王が逃亡するものと思いこんで、テュイルリー宮殿の門を人垣で塞いで馬車の行く手を妨害した。 ラファイエットは群衆を解散させることができずに、国王一家を守るべき国民衛兵隊も、行幸が中止と発表されるまで妨害を止めなかった。

 マリー・アントワネットは「これで私たちが自由でないことは認めざるを得ないでしょう」と言い、国王一家は自分たちが実際には囚人であることを確認した。 最初は乗り気でなかったルイ16世も真剣に脱出計画に耳を傾けるようになった。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =36=

2016-07-15 16:39:08 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ルイ・シャルル =2/3= ◇◆

  1794年1月19日、後見人であるシモンは革命勢力の派閥争いに敗れ、妻とともにタンプル塔から去った。 しかし、 幽閉されている幼いルイ・シャルル=ルイ17世=は、 政変の国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王とみなされ、政治的に利用されることを恐れたショーメットとエベールは2月1日、元は家族の食堂であった部屋に幼いルイ17世(ルイ・シャルル)を押し込んだ。 厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。

 不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。 そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。

 また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。 この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。 食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。 ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。 監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる廟になり、歩けなくなった。

 その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。 室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。 深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。 番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。 もはやマリー・アントワネットとルイ16世の血を引く国王であるルイ17世に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。

 パリ・コミューンの派閥争いにより、エベールは支持者らと共に3月24日に処刑され、その3週間後にショーメットも処刑された。 5月11日、ロベスピエールはタンプル塔の様子を見学した。 その後、7月28日にロベスピエールやロベスピエール派だったかつてのルイ17世の後見人シモンも処刑された。

タンプル塔のルイ17世 / 光が差し込まぬ獄舎での孤独

 ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。 バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだ。 バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに、衰弱したまま横になったルイ17世を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕する。 バラスは当時24歳だったマルティニック島(カリブ海・西ンド諸島一島)の出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にすることに成功した。

 ローランは9月1日にルイ17世の独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズに依頼されて虱と蚤だらけのルイ17世のベッドを処分し、彼女が使用していたベッドをルイ17世に使用させた。 ローランは自らルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。 室内の家具とカーテンの焼却も命じた。 この日、ルイ17世は医師の診察を受けた。

 この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色の蚯蚓腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。 ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人では歩けなかった。

 11月8日、国民公会はルイ17世の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。 ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。 ルイ17世は長く続いたローランとゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。 11月末に役人のデルボイがルイ17世の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。

 しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じた。 ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。 ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。 しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。

 この頃にはフランス国内の空気も変化し、タンプル塔で行われていたルイ17世への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。 11月26日、「世界通信」紙はルイ17世のひどい待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。 関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者のためにルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けていると説明した。

 スペイン王室はルイ17世の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、1795年の早い時期に申し出たが、スペイン側がこれに関し争う気が見えないため、フランス側は要求を拒否した。 この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世は見捨てられた存在であった。

 1795年3月31日、エティエンヌ・ラーヌが世話係に加わった。 ラーヌはルイ17世はラーヌにはなつかなかったという記録を残している。 その後、ローランは別の役職に就き、ゴマンが後見人となった。 5月8日にローランとゴマンの再三にわたる要求により、ピエール・ジョセフ・ドゥゾー医師によるルイ17世の診察が許可された。ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。 最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。 私には元に戻すことができない。 なんたる犯罪だ!」と正直に意見を述べた。

 毎日午前中に往診に訪れ、ルイ17世から感謝されていたドゥゾーは、5月29日に招待された国民公会公式晩餐会の後、急に具合が悪くなり、3日後に死去した。 彼の助手もその後死去したので、暗殺が疑われた。 次の医師が決まるまで、重態のルイ17世は治療を受けられなかった。 6月6日、新たに主治医となったフィリップ・ジャン・ペルダン医師が治療に向かった。

 彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。 孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び少し、様態が改善した。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =33=

2016-07-09 17:46:26 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々; マリア・テレーズ・シャロット =4/5= ◇◆

ナポレオンの百日天下

この頃のフランス国民はマリー・テレーズの地味な衣装や不機嫌さを嫌ったが、極寒のミタウからワルシャワまで叔父を支えて旅した勇気を称え「新たなアンティゴーネ」と呼んだ。 彼女はブルボン家の再興に熱意を燃やし、フランス各地を視察した。 アングレーム公もそれを支援した。 1815年3月12日、滞在先のボルドーにアングレーム公が到着するが、ナポレオン逃亡の一件を聞き、アングレーム公は引き返す。 マリー・テレーズはボルドーに残り、4000人の国王軍を指揮する。マリー・テレーズ小さな国王軍の主導権を握った。 

彼女は、3月20日からのナポレオンの百日天下に際して、カロンヌ川岸のベルトラン・クロレール率いる革命軍と反対側に陣取るブルボン家軍が緊張する中、屋根のない馬車で立ち上がり、反ナポレオンの挙兵演説を行った。 その内容は翌日、ロンドンの『ザ・タイムズ』に紹介された。 これを知ったナポレオンはマリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄した。 ヘントに逃れていたルイ18世は彼女を、薔薇戦争ヘンリー6世のためにランカスター家の軍隊を指揮したマーガレット・オブ・アンジューに例えた。

マリー・テレーズはその後再び亡命し、4月19日にイギリスに上陸。 彼女はまずブルボン公に手紙でけしかける。 ヘントに逃れていたルイ18世に送った手紙では、ナポレオンを「あの男」と呼んだ。 ナポレオンはマリー・テレーズと亡命中の夫との書簡の一部を奪い、その中身を公開した。 この行為に彼女は怒り狂った。 そして、7月29日、彼女はにパリに戻るが、臆病なルイ18世にうんざりしていた。 帰国するやいなや、彼女はチュイルリー宮殿にあるNの文字、蜜蜂と鷲の装飾をすべて取り払うよう命じた。 そしてルイ18世に頼み、100日天下の頃、自分を王座につけるよう民衆を煽っていたルイ・フィリップをフランスから追放させた。

ルイ18世時代

マリー・テレーズは死の間際の父から「憎しみを捨てるように」と諭されたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のように彼女についてまわった。 アルトワ伯とマリー・テレーズは超王党派となり、出版の自由の制限や教会勢力の増大、完全な国王主権を望んだ。 ルイ18世は中道的で、時には自由主義者と妥協することもいとわぬためそりが合わず、政治面で何度も衝突したという。 また、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえる。

そのため、復讐のためフランスに戻った王女とも呼ばれるほどであった。 夫君・アングレーム公はイギリス亡命時代に触れた議会政治への憧れが徐々に強くなり、夫婦は政治面に口論することもあった。

しかし、ボルドーで彼女が見せた勇気と慈悲深い性格を人々は称え、作家で政治家のシャトー・ブリアン夫人は1816年、パリに元亡命貴族と聖職者の避難所のマリー・テレーズ病院を作った。 ルイーズ王妃に先立たれたプロイセン国王が最初の寄付者となった。 この年、ルイ18世はマリー・アントワネットが最期を過ごしたコンシェルジュリーの独房を公開し、フランスのキリスト教会は敬虔なマリー・テレーズに司教と枢機卿を指名する名誉を与えた。

同年の5月17日、アングレーム公の弟ベリー公が両シチリア王フランチェスコ1世の長女マリー・カロリーヌと結婚した。 ところが1820年2月13日、オペラ座でベリー公は狂信的なボナパルト派の馬具屋ルイ・ピエール・ルヴェルにより暗殺された。

王族一同が警察大臣エリー・ドゥカズの罷免を求め、アルトワ伯爵とマリー・テレーズはこの事件を、ルイ18世の自由主義的政権と権力を強めたドゥカズのせいとした。 彼女はルイ18世に「もう一緒に食事をしません、パリを立ち去ろうと思います」と夫婦で南西部へ行こうとする意思を見せると、ルイ18世は譲歩し、ドゥカズを罷免した。 9月29日にマリー・カロリーヌがアンリ・フェルディナン・デュードネ(フランス・ブルボン家最後の王位継承候補だった人物)を出産する。 マリー・テレーズは友人ポーリーヌに「やっと永遠に諦めがついたから子供がいないままでいるわ」と心中をもらした。

マリー・カロリーヌは社交に熱中し、子供たちと過ごすことは少なかった。 マリー・テレーズは幼い甥と姪が自由に遊べるプチ・トリアノンのような場所を望み、自らも辛い思い出から離れるために1821年12月29日、パリ西部にあるヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を購入した。 図書室には彼女が集めた旅行記や革命史の本が並び、父ベリー公を失ったルイーズとアンリのために動物を集め、農場を作った。 彼女は農場で取れる牛乳と生クリームを自慢にし、パリに持ち帰っては友人たちと楽しんだ。 しかし、政治的な面で嫌っていたリシュリュー公が参加した晩餐会では、彼の皿にそのクリームを与えなかった。

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断頭台の露と消えた王妃 =32=

2016-07-07 18:22:19 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々; マリア・テレーズ・シャロット =3/5= ◇◆

再びクールラント、そしてイギリス

1804年3月21日、コンデ公がナポレオン暗殺を企んだという冤罪により処刑された。 ワルシャワの亡命宮廷は4月9日にこの事実を知った。 マリー・テレーズは憎しみを込めて、ナポレオンを「犯罪者」と呼んでいる。 そして、翌年の1805年4月、亡命宮廷は再びミタウに戻った。 ナポレオン軍によるプロイセンとロシアの攻撃が始まると、マリー・テレーズとエッジワース神父はミタウの負傷兵を看護する。 看護中にエッジワーズ神父は腸チフスに感染し、5月22日に病死してしまう。 またしても彼女は悲しみに襲われた。

ミタウを訪れたアレクサンドル1世は、間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン国王グスタフ4世が避難場所を用意することを知らせた。 8月、グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号に乗り、ルイ18世とアングレーム公は妻たちを残してストックホルムへ旅立った。 グスタフ4世は2人を手厚くもてなしたが、2人は突然やってきたベリー公とともにイギリスへ向かった。

イギリス国王ジョージ3世は、スコットランドのエディンバラに向かう条件つきで下船許可を出したが、バッキンガム侯爵 が仲介し、ロンドン北東部のゴスフィールド・フォールをフランス亡命宮廷の定住地とした。 1808年8月、マリー・テレーズはルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌとゴスフィールド・フォークに到着した。 翌1809年4月、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスを年500ポンドでバッキンガム侯爵から借り、移転した。 マリー・テレーズは田園地域の城で、夫や親族と廷臣に囲まれ暮らした。 義父アルトワ伯はロンドンの館に暮らし、アングレーム公夫妻を社交の場に招き楽しませた。 イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接した。

1810年3月11日、マリー・テレーズがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリア・ルイーゼ大公女がナポレオンに嫁いだという知らせに、ルイ18世もマリー・テレーズも衝撃を受けた。 フランス亡命宮廷にはフェルセン伯爵殺害、プロイセン王妃ルイーズの病死と悪い知らせが続き、マリー・テレーズは落ち込んだ。 1812年2月、認知症となったジョージ3世の摂政となった王太子(後のジョージ4世)は、亡命中のフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続け、亡命王室に多額の手当を出し、フランス亡命貴族にも愛を持って接し、盛大なパーティを催して楽しませた。 

舞踏会の際、栄誉ある王太子の右隣にはマリー・テレーズが座らせた。 彼女はもちろん、王太子を気に入った。 英国亡命生活には憂いが無く、1813年1月、マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれる。 しかし、妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまう。 その後、彼女が妊娠することはなかった。

復古王政期 / フランスへの帰国

1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、マリー・テレーズはイギリスを後にした。 4月23日、フランス・コンピエーニュに到着した際、トゥルゼル夫人、結婚してベアルン伯爵夫人となっていたトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌと泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。 パリに戻ってからのマリー・テレーズは、幼い頃に辛酸を舐めつくしたチュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。 そこにはナポレオンによりあちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。

マリー・テレーズは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で名前を呼び、彼らを怒らせた。 他方、新興貴族たちは、マリー・テレーズがイギリスの田舎くさい格好でパリに戻ったと嘲笑した。 ルイ18世は「人前でむすっとした顔をしないこと、垢抜けない服装をしないこと、人前では紅ぐらいをつけなさい」と彼女を叱った。 また、帝政下で成功したかつての仲間もマリー・テレーズは嫌った。

また、マリー・アントワネットの侍女だったカンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していたことを知ると、彼女との面会も拒んだ。 反対に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌには「夫と子供と宮廷に来て下さい」と手紙を送り、当時ナポリにいたド・シャトレンヌ夫人には年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。 時代に融合できない旧家僕の恩に報いている。

両親のルイ16世とマリー・アントワネットの遺体は1805年に発見されていたが、ルイ・ジョゼフの遺体はマリー・テレーズが帰国後も見つからなかった。 亡命時代からルイ・シャルルだという人間が現れてはマリー・テレーズに面会を求めたが、彼女は一度も面会に応じなかった。 しかし、彼女は弟の生存を確かめるべく、12月13日にかつての弟の牢番アントワーヌ・シモン未亡人を非公式に訪ねた。 シモン夫人は、ルイ・シャルルはタンプル塔で死んでおらず「1802年に自分を見舞いに来た」と答えた。

翌1815年1月27日、パリ市立病院を見舞っていたマリー・テレーズは、ルイ・シャルルの検死を行ったフィリップ・ジャン・ペルタン医師を紹介された。 ルイ・シャルル(ルイ17世)の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と述べている。 2日後、ペルタン医師は再び彼女と会い、ルイ・シャルルの心臓を切り取った経緯を話し、その入れ物を渡したいと伝えたが、その後何度も手渡すことに失敗し、1825年5月にパリのド・ケラン大司教にそれを託した。 その後の1826年9月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠されたと言う。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =31=

2016-07-05 16:03:55 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々; マリア・テレーズ・シャロット =2/5= ◇◆

1797年、この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍してくる。

フェルセン伯爵は、マリー・アントワネットがマリー・テレーズのために親類や友人に分散して残した金と宝石を取り戻し、彼女が相続できるように各国の宮廷を奔走した。 フランツ2世がそのほとんどを手に入れていたが、1797年2月24日の謁見でフランツ2世は、マリー・テレーズが相続すべき財産の所有を認め、後に彼女の持参金にするとフェルセン伯に答えた。 フランツ2世はマリー・テレーズを自分の弟のカール大公と結婚させて、フランスの利権を手に入れようと考えていたが、彼女はブルボン家の叔父が薦める父方の従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。

ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉、フランツ2世の皇后マリア・テレジアと互いを嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーナ大公女、マリア・アマーリア大公女とは親しく、1798年にマリア・アマーリアが死去した際には非常に悲しんだ。 他方、スペイン・ブルボン家カルロス4世はマリー・テレーズに年俸を与えると同意し、フランツ2世はミタウまでの旅費を負担すると約束した。 トリーア選定候クレマンス・フォン・サクセンから、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフの肖像画と父ルイ16世が断頭台で身に着けていた血で汚れた肌着を受け取り、それらを持ってミタウへと旅立った。

流転の亡命生活 / クールラント

1789年春、叔父ルイ18世夫妻の亡命地ロシア領クールラントのミタウ城に到着した。 彼女はルイ16世の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面したが、神父は涙ぐみ言葉にならなかった。 マリー・テレーズは同年6月10日、アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚した。 結婚祝いにルイ18世は、ルイ16世夫妻の結婚指輪をマリー・テレーズの手のひらに載せると、新郎新婦は抱き合って泣いた。 当時のロシア皇帝パーヴェル1世は、署名入りのロシアの結婚証明書に豪華なダイヤモンドのアクセサリー一式と金がつまった財布、帽子とガウンを山のように贈った。 マリー・テレーズの勇気を褒め称え、フランスに帰国できるまでロシア領滞在を認める手紙も添えられていた。 彼女はパーヴェル1世に、自分の家族に尽力してくれた礼を述べている。

この頃のマリー・テレーズについてルイ18世は「両親にそれぞれ似ており、身長は母親ほど高くないが、かわいそうな妹よりは高い。 軽やかに優雅に歩き、悲運を語る時涙は見せない。 善良で親切で優しい」と弟のアルトワ伯爵(後のシャルル10世)宛ての手紙で評した。 この結婚はアングレーム公の父アルトワ伯が、王政復古が成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったようである。

アングレーム公とは愛し合っていたが、子供が出来ず、亡命中のアングレーム公は対ナポレオン戦線に加わることを望んだ。 1800年4月、ナポレオンが第2次イタリア戦役を開始すると、アングレーム公はコンデ公と共に戦うためミタウを去った。 この結果、夫婦はイギリスで合流するまで、長年離れて生活せねばならなかった。 5月、ミタウを訪問したフェルセン伯は、マリー・テレーズから生きる気力を感じれられず、結婚生活が不幸なのではと考えた。 その後、父の処刑に賛成票を入れたオルレアン公の長男ルイ・フィリップ(後のフランス王)がやってきたが、マリー・テレーズは面会すら拒んでいる。

1801年1月22日、ルイ18世はパーヴェル1世から、ロシア領からの退去命令を受ける。 マリー・テレーズにはサンクトペテルブルクで自分の客として過ごすよう薦めた。 しかしマリー・テレーズは、叔父の2台の馬車の一行に加わった。 真冬のロシアから行き先もない旅をするため、家具を売却して旅費に充てた。 旅費も乏しい極寒の旅の最中、ルイ18世の秘書であり、マリー・テレーズの聞罪司祭だったマリー神父が自殺する。 彼は最期に「ド・ショワジー嬢」と彼女の侍女の名前を残していた。 マリー・テレーズは聖職者の密かな恋を知り、ショックを受ける。

ルイ18世はプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に滞在許可を求める手紙を送り、マーメル滞在中にプロイセン王から、ナポレオンを刺激したくないのでフランスの許可を先に待つという返事を受け取る。 マリー・テレーズは母の幼馴染フレーデリケの娘、プロイセン王妃ルイーズからサンクトペテルブルクに安全な場所を提供されるが、「叔父を見捨てられない、私は我々全員の場所を求めている」と断った。 その後ルイーズ王妃は「ナポレオンがルイ18世はリル伯爵、マリー・テレーズはラ・メイユレイ侯爵夫人と名乗る条件付きで、この一家と側近をワルシャワに滞在許可を出した」という手紙をマリー・テレーズに送った。 ルイーズ王妃はその後も王に代わり、フランス亡命宮廷のためにナポレオンや各国の王族と交渉し続け、マリー・テレーズの頼れる友となった。

流転の亡命生活 / ワルシャワ

1801ねん3月6日、一行はワルシャワに到着した。 数週間後、休暇をとったアングレーム公が到着した。 その直後、パーヴェル1世の暗殺に息子アレクサンドル1世が関わっていたことを知る。 アレクサンドル1世はブルボン家にあまり関心を示さず、父が支払っていた半額以下の手当しか出さなかった。 しかし、ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキの曾孫であるルイ18世と、熱心なカトリック信者であるマリー・テレーズは、ワルシャワで非常に歓迎された。 

ワルシャワではヴェルサイユのように宮廷儀礼が作られ、彼女はフランス亡命貴族の支援や修道院や貧民を見舞う慈善事業も行った。 ポーランド貴族たちは、亡命宮廷がレシチニスキ宮殿で夏を過ごすよう手配した。 この頃、ルイ18世は政治的な相談についてマリー・テレーズを頼るようになった。

ワルシャワにフランス王室が定住すると、ミタウやヨーロッパ各国からルイ18世のために廷臣たちが集まった。 カルロス4世やフランツ2世、アルトワ伯からの送金だけでは宮廷費がまかなえず、マリー・テレーズはパーヴァル1世から贈られた豪華なダイヤモンドを売却した。 ルイ16世に仕え、ルイ18世の側近となったユー男爵は、1801年から1802年の冬の厳しさ、マリー・テレーズの倹約、そして彼女がよく泣いていたことを記録している。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =30=

2016-07-03 16:26:52 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々; マリア・テレーズ・シャロット =1/5= ◇◆

マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。 夫妻の結婚から7年目にしてようやく生まれた子供であった。 名前は祖母である「女帝」マリア・テレジアの名のフランス語形である。 幼少期はブルボン家ハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、プライドが高く、少しこましゃっくれた性格であった。 

9歳の頃、ヴェルモン神父から母が落馬したが無事だったという話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに」と答え、神父を唖然とさせた。 養育係が誤って彼女の足を踏みつけたが、その日の晩に傷ついた足に乾いた血がついているのに気づいた養育係は「なぜ足を踏まれた際に何も言わなかったのか」と聞くと、「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、あなたが原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう」と答えたというエピソードがある。

マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエ(下着の一種)を身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母への悪口を耳にしていた。 1789年5月5日の三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公爵(後のフィリップ・エガリテ)や民衆を憎んだ。 それでもフランス革命以前は、人々からマダム・ロワィヤル(Madame Royale)の称号(第一王女に授けられる)で呼ばれ、愛された。

10歳の頃、1778年7月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズの遊び友達として迎えられた。 この少女はマリー・テレーズと瓜二つだったと言う。 1788年4月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。 ルイ16世はエルエスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた。 マリー・テレーズは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼル夫人の娘、ポーリーヌ・ド・トゥルゼルによくなついた。

1789年10月6日、マリー・テレーズは家族や廷臣と共にチュイルリー宮殿に軟禁される。 そして、1790年4月4日、エルネスティーヌとともに父から聖体拝領を受けた。 1791年6月21日、ヴァレンヌ事件が起きたが、前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。 1792年8月9日、チュイルリー宮が襲撃される。 

かねてからマリー・アントワネットよりエルネスティーヌの安全を命じられていたマリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人は、エルネスティーヌを連れてチュイルリー宮を脱出。 しかし、8月13日、マリー・テレーズはタンプル塔に監禁された。 父母と叔母エリザベート王女は革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルルとも引き離され、2年近く1人で幽閉生活を強いられていた。

マリー・テレーズは国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、国民公会面会者からの質問には全く答えなかった。 また、幽閉されてから病気になった弟の健康状態を常に気にかけ、ルイ・シャルルに治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。 マリー・テレーズの部屋では下の階に幽閉されていたルイ・シャルルの泣き声がよく聞こえてきた。 少女の慰めはエリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であったと言う。

ロベスピエール処刑以降は待遇が良くなり、1795年7月、身の回りの世話をするアルサス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。 30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩をする許可を得て、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」をペットとして部屋に呼んだ。 ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に彼女が気の毒になり、それまで伏せられていた母と叔母の処刑を知らせた。

また、誰ともほとんど会話をすることのないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズの発声異常を、ド・シャトレンヌ夫人は手助けした。 しかし、彼女のガリガリと話す発声異常は生涯治ることはなかった。 マリー・テレーズはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼ぶようになる。

この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズに同情的になっており、彼女が散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーは近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。 タンプル塔近くのボージョレ通りは、マリー・テレーズを見学しようとする野次馬であふれ、民衆の関心を集めて行った。

流転の亡命生活 / オーストリア

1795年7月30日、マリー・テレーズの母方の従兄の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、フランス人捕虜との引き換えによるマリー・テレーズの身柄引き渡しに同意した。 9月、ド・トゥルゼル夫人とその娘ポーリーヌと面会、まもなく彼女と釈放されウィーンに送られることを話す。 この時マリー・テレーズは、ルイ・シャルルが使った部屋を案内した。 12月19日、マリー・テレーズが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発する。 翌1796年1月9日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着する。 しかし、ナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏ごろまで避難する。

ウィーン宮廷では亡命貴族支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世はマリー・テレーズを丁重に扱い、手当も与えたが、手紙や面会人を厳しく監視した。 しかし、マリー・テレーズは時にレモンの果汁で手紙を書く=炙り出し文=など、非常に慎重に文通や送金を行っていた。 1797年、文通を続けていたド・シャトレンヌ夫人が出産した男児を命名して欲しいという手紙が届き、自分の名前からシャルルと名づけてはという提案を返信したが、皇帝の監視を逃れるため非常にそっけない内容の返信となった。 この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍してくる。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =27=

2016-06-27 16:24:39 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ マリー・アントワネット、最後の日・・・・・・ ◇◆

 マリー・アントワネットは判決に嘆願もせず、抗弁もせず、猶予を願うこともあえてしない。 彼女にはもう失うものが何もないのである。 まだ三十八歳だというのに、髪はすでに白くなり、その顔には不安は消えて、茫漠とした無関心の表情があらわれている。 すでに彼女は「自分自身を使いつくして」別の女になってしまっていたのである。 王妃マリー・アントワネット、未亡人カペーは、世界中から見捨てられ、いまや孤独の最後の段階に立っている。 あとはただ、王妃にふさわしく、誇り高く立派に死ぬことが残されているのみだ。

 マリー・アントワネットは、死刑の判決を受けて独房に戻ったときに、義妹エリザベートに手紙を書いている。 『妹よ、あなたに最後の手紙を書かなければいけません。私は判決を受けたところです。 しかし恥ずべき死刑の判決ではありません=死刑は犯罪者にとってのみ、恥ずべきものなのですから=。あなたの兄上に会いに行くようにとの判決をくだされたのです。 ・・・・・・』、 しかし、この長い告別の手紙を義妹エリザベートが目にすることはなかった。 エリザベートも二ヶ月後にギロチンに処せられるのである。 王妃のこの遺書は、牢獄管理人から数人の手を経て、最後に手にしたのはルイ18世で(ルイ16世の弟)、後に王政復古後の時代になってからに成る。

 足掛け3日間続いた裁判が終わり、王妃マリー・アントワネットが獄舎のコンシェルジュリーに戻ったのは10月16日未明だった。 刑場に出発する時間まで、7時間あまりしか残されていなかった。 上記の義妹エリザベートに手紙を書き終えた王妃は、1人跪いて長い間神に祈りを捧げ、衣裳を着たままベッドに横たった。 夜明け頃、部屋係のロザリが王妃の独房に行き、朝食をどうするのか尋ねると、アントワネットは涙を流しながら、自分は何も必要としない、全てが終わったと告げたと言う。 それでも『マダム、かまどにブイヨン・スープとパセリをとっておきました。あなたは持ちこたえる必要があります。 何か持ってこさせてください。』と言う、『ロザリ、私にブイヨン・スープを持ってきて』と、更にたくさんの涙を流して言ったと言う。

 このブイヨン・スープがマリー・アントワネット最期の食事となった。 午前8時、それまで身にまとっていた喪服を脱ぎ、白い普段着に着替え、下は黒のスカートをはき、黒いリボンのついた小さめの帽子をかぶる。

 午前10時頃、刑場へ行く準備をするために、独房に判事と死刑執行人のサンソン(前節イラスト参照)がやって来た。 サンソンに手を出すように言われたマリー・アントワネットは、うろたえて、『私の手を縛るのですか? ルイ16世の手は縛らなかったのに』と抗議する。 判事に促されてサンソンはアントワネットを後ろ手に縛ります。 そして、断頭台の刃が妨げられないよう、髪の毛も乱暴に短く切られてしまう。

 午前11時15分、後ろ手に縛られたままのマリー・アントワネットは、夫ルイ16世が刑場に向うときは立派な馬車で向ったのに対し、彼女が乗せられた馬車は普通の罪人にも使われる荷馬車だった。 死刑執行人サンソンが、彼女の両手を背中に縛りあげた縄の端をにぎっている。 王妃は最後まで強さを失うまいと、精神力のありったけを集中して前方をにらんでいる。

 刑場までの道には、アントワネットの救出を警戒し、3万人の憲兵が動員され、多くの見物人も詰め掛けていた。 馬車はゆっくりと進み、セーヌ川を渡り、断頭台のある革命広場(旧ルイ15世広場・現コンコルド広場)に到着した。 その間、王妃マリー・アントワネットは背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見据え、付き添いの僧侶とも口をきかずに群集を黙って見ていた。 充血した目に青白い顔の頬はほんのりと赤く、乱暴に切られた白髪が帽子から出ていた。

 革命広場(コンコルド広場)に到着したマリー・アントワネット。 テュイルリ庭園の方をチラっと見ると、誰の手も借りずに荷馬車から降りた。 毅然とした態度で処刑台の階段を登り、頭を振って自分で帽子を頭から落とした。 取り乱して見苦しいところを見せることなく、執行人に身をゆだねたのである。 ただ、荷馬車から降りる時に手を貸そうとした、死刑執行人アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」と微笑んだと言われている。

 準備をするのに4分かかり、1793年10月16日12時15分。 マリー・アントワネットの首に、刃が落とされた。 執行人が、マリー・アントワネットの血のしたたる首を掲げると、『共和国万歳!自由万歳!』という歓声が、見物人から地響きのように繰り返しあがる。 マリー・アントワネットの最期の言葉は、『さようなら、子供達。あなた方のお父さんのところに行きます。』だった。

 それを聞いていた、刑の執行人のサンソンは、皮肉なことに王党派であり、後に、見つかると重罪になる、ルイ16世とマリー・アントワネットのためにミサを行っている。 刑が執行されたあと、マドレーヌ墓地に運ばれたアントワネットは、埋葬命令が出ないため、半月近くもの間、膝の間に頭を置かれた状態で、墓地の隅の草むらに放置されたままだった。

 この光景を、的確なスケッチにより見事に描き出したのが、革命派中の唯一の芸術家ルイ・ダヴィッドである。ほんの一筆の素描のうちに、彼はあり合せの紙の上に、馬車にゆられて断頭台に赴く王妃の顔を、生き生きと写しとった。 彼はカメレオンのように色を変え、権力に尻っぽをふる卑劣な人間ではあったが、画家としては当代最大の、狂いのない手をもった達人であった。 マリー・アントワネットの最後にして最良の肖像画=書き出しで引用したジャン・コクトーの表現=が、これである。

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断頭台の露と消えた王妃 =26=

2016-06-25 17:42:59 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 王妃マリー・アントワネットの裁判・・・・・・ ◇◆

 1793年10月12日18時、革命裁判所の法廷で、非公開の予審尋問が開かれた。 とは言うものの、内容は尋問というよりも告発に近いものだった。 裁判長がマリー・アントワネットに問いただしたのは以下の7つの項目。

 1.日頃の浪費だけではなく、兄である皇帝レオポルト2世と、フランスの利益にはならない関係を維持し、数百万リーヴルの送金をして、フランス財政を逼迫させた。

 2.フランス人民を騙す術を国王に指示し、国王の拒否権行使やヴァレンヌ逃亡をそそのかした。

 3. フランス国民の自由を破壊し、王政を復活させようとした。

 4. 亡命した貴族と共謀し、国家の安全を脅かす計画を企てた。

 5. 1792年8月10日の革命のとき、人民に向けて発砲させた。

 6. タンプル塔で、革命の敵となる者たちと連絡をとっていた。

 7. カーネーション事件に関与した。

 陪審員が1時間の退席をして審議をしている間、アントワネットは自分が国外追放になるものだと信じていた。 しかし、この裁判は革命に生贄奉げる儀式であったがゆえに、裁判の審議過程を問わずに、開廷前に判決は決まっており、審議するふりをして陪審員らは時間を稼いでいるだけだった。

 尋問が再開された。 そこで例の狂犬ジャック・ルネ・エベール(前節イラスト参照)により、思いがけない驚くべき汚名が彼女に蒙らされる。 彼女が久しい以前から、九歳の息子に不潔な快楽の方法を教え、息子と忌わしい近親相姦にふけっていたという罪状である。 これには息子や王妹エリザベートも証人として出廷させられ、裁判長の尋問を受けている。 息子が検事の誘導尋問の通り、母親の不利になるような供述をしたことが事実の蓄積として記録され、陪審員に印象を残して行った。

 まだやっと九歳になったばかりの子供の、こんな破廉恥な証言に、どれほどの信憑性があるか知れたものではなかろう。 が、マリー・アントワネットは心底から好色な、堕落した女だという確信が、数えきれないほどのパンフレットのおかげで、革命家の魂のなかに深く滲み入っているので、実の母親が八歳六ヶ月になる息子を性的にもてあそぶなどという、容易には信じがたい罪状でさえも、ヘーベルらの徒には何の疑念もなしに受け容れられたのである。

 牢獄・コンシェルジェリにおける七十日は、王妃アントワネットの肉体をいよいよ老いこませていた。 日光から遮断されていた彼女の眼は、赤く充血して焼けつくように痛む。 唇と下半身のひどい出血が、見違えるほど彼女を憔悴させた。 しかし法廷に立つ彼女は頭をしゃんと起し、動揺の色もなく、落着いた眼ざしを裁判官のほうに向けていた。

 再び、鬼検事フーキエ・ダンヴィルが立ちあがって、起訴状を朗読する。 王妃は、ほとんど聞いていないかのごとくである。 しかし、再度 尋問がはじまると、彼女はしっかりと確信をもって答える。 一度も取り乱したり、自信をなくしたりしない。 ともあれ、筋書通り、陪審員たちは全員一致して、マリー・アントワネットが彼女に帰せられた犯罪に対して有罪であると言明する。

 この判決を聞いても、彼女はまるで無感動で、不安も示さなければ怒りも示さない。 裁判長の質問には一言も答えず、ただ否認のしるしに頭をふるばかりである。 あたかもこの人生に一切の希望をなくし、ただ一刻も早く死に赴きたいと願ってでもいるように。

 審議が終わり、深い沈黙に閉ざされた法廷に、裁判長エルマンが『マリー・アントワネット。 これから陪審員の答申を言い渡す』 と告げた後、検事フーキエ・ダンヴィルが『被告人は死刑に処せられる』 と叫んだ。 身じろぎせずに判決を聞いたアントワネットは、法廷を後にするとき、『もう何も見えなくて歩くこともできません』と、憲兵の手を借りた。 こうして見せ掛けだけの裁判が幕を閉じた。

 しかし、10月14日の出来事 公判裁判の判決を覆すまでには至らず翌日の10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。

 処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート =後日、彼女もギロチンの犠牲になる。エーベルが王太子を暴力的な脅迫で証言させる= 宛ての遺書を書き残している。 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。 この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。 遺書は革命後に再び発見され、マリー・テレーズ(フランス国王ルイ16世の長女。アングレーム公ルイ・アントワーヌ(フランス王太子)の妻)がこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。

 

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断頭台の露と消えた王妃 =20=

2016-06-13 18:34:00 | 歴史小説・躬行之譜

その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に

○◎ ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった”  ◎○

◇◆ 8月10日事件の終局と九月虐殺・・・・・ ◆◇

 立法議会は戦況が不確実の間は態度を明らかにしないで、蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止を宣言し、ロベスピエールの案に従って国民公会の召集を決議した。 第二革命の性格のある“8月10日”事件によって政界の情勢も一変した。 ブルボン王政はついに終わりを告げたが、同時に自由主義ブルジョワジーの政治も終焉した。 王党派はもはやパリでは存在を許されず、フイヤン派は完全に失脚した。

 事件を聞いたラファイエットは、軍隊をパリに向けて進軍させようと試みた。 しかし兵士達から見限られ、身の危険を感じてアレクサンドル・ラメットら同志と共にベルギーに逃亡し、オーストリア軍の捕虜となった。 「ラ・マルセイエーズ」の産みの親の一人である、ストラスプール市長フィリップ=フレデリク・ド・ディートリヒ男爵 も同様の君主制擁護の蜂起を行ったが、失敗して亡命した。

 ジロンド派は穏健共和主義者の集まりであったが、蜂起によって彼らの希望する政体であった共和制が樹立されることになったにもかかわらず、大衆の支持を失った。  逆にジャコバン派の中から、台頭する左派勢力、後に国民公会でモンターニュ派と呼ばれる勢力が支持を集めるようになった。 新しい議会は普通選挙に基づき、民主的な共和国が誕生することになった。

 他方、事件の余韻はしばらくパリに残り、都市は興奮状態を維持した。 襲撃者たちの多くはそのまま動員登録が行われて前線に出征していったが、残された人々は熱狂的な革命熱をもてあました。  その後の戦況の悪化と外敵がパリの城門まで迫っているという誤った情報を受けて再び暴走し、“九月虐殺”を引き起こすことになる。

 1792年8月11日、立法会議がパリ市のコミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、8月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。 こうしてパリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で満員になった。  8月26日にロウウィ市がプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。 義勇兵の募集が行なわれたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇軍の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れていた。

 「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。 内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ」。 こうして8月30日、パリ市内で家宅捜索が行なわれ、約3千人の容疑者が逮捕された。  しかし、特別重罪裁判所は機能していない。

  きっかけは革命戦争において、オーストチア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃をもたらした際に行なわれた、ダントンの演説である。 彼は「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。 やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。 それは祖国の敵への攻撃なのだ。 敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。 そうすればフランスは救われるだろう!」と呼びかけた。 これがテロリズムへの公然たる誘導となった。

  9月2日の朝から反革命派狩りが始まり、パリ市のコミューンの監視委員会は全ての囚人を人民の名において裁判することを命じた。 コミューンは防衛を固め、警鐘が乱打され、市門は閉じられた。 義勇軍の編成が始まる。 数日前から、「殺し屋」が集められていた。 三色の記章をつけた赤い帽子をかぶり、緋色の上着を着た彼らは忠実に任務を果たした。 「外国軍と示し合わせるために、牢屋の中で陰謀が企まれている。 『反革命の陰謀』だ。 やられる前に、やれ。」

 こうして、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まった。 牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された 。問答無用の殺害、あるいは略式裁判のまねごとの後、虐殺。 一連の虐殺行為は監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。

 当時アベイとカルム、その他の牢獄には反革命的な聖職者が収容されていた。 宣誓を拒否して囚われていた聖職者たちもいたが、政治に関係したと考えられる者は多くなかった。 興奮した民衆の一群がまずアベイの牢獄に押しかけて収容されていた23人の聖職者を殺害し、ついでカルムの牢獄におもむき、150人の聖職者の大部分を殺害した。

 虐殺は数日間続いた。 マリー・アントワネット王妃と運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も、無残に殺された。 群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。 ある一団は、その頭を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃に見せつけるという示威行為をとった。

 この結果パリ市内の牢獄は空になった。 数日間吹き荒れた暴力で犠牲になったものは、推計1100人から1400人。 のちになって、犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者だったことが判明。 犠牲者のうち本来殺害の対象となる反革命主義の政治犯は全体の4分の1にすぎなかった。 また、似たような虐殺が、前後して各地の都市でも起こった。 その犠牲者の総計は14000とも16000ともいわれている。

 しかしながら、8月10日事件で、ダンプル塔に強制的に幽閉されたマリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家は、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

 

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