保大元年(1121年)の事、枢密使の蕭奉先(ショウホウセン、遼の外戚)が、天祚帝の長男で太子候補の晋王耶律敖盧斡と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余睹(ヤリツヨト、晋王の叔母の夫)と対立していた。 そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王・耶律定を太子とすべく「余睹による晋王擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を信じてしまった。
そのため、危険を感じた余睹は金に降ってしまった。 間もなく 天祚帝は晋王の生母の蕭文妃を賜死させ、さらに翌年1月 擁立の疑いを持たれた晋王を絞首刑に処した。 蕭奉先の思惑通りに秦王が太子として定まった。 そして 翌年の保大2年(1122年3月7日)、天祚帝は再び親征する。 女真人の金から攻撃を受けた遼帝国の天祚帝は、金の太祖と入来山で合戦、矛を交える。 しかし 天祚帝は、再び 大敗して長春に逃れ、従軍を整えなおして 長春から西の雲中の陰山に逃亡した。
この時、耶律大石と李処温(リショオン、宰相)とともに燕京(現在の北京)において、第7代興宗の孫 天祚帝の従父の耶律涅里(淳)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝として北遼を建国するが・・・・・耶律涅里(淳)は、天祚帝が金の太祖に入來山で大敗し、長春に逃れた時、宗室の御営副都統の耶律章奴らは第8代皇帝・道宗の皇太甥だった涅里(淳)の擁立を目論んだ。 しかし、涅里(淳)は章奴の使者を斬首し、わざわざ長春に赴いて天祚帝に謁見したため、天祚帝から感謝され秦晋王に冊封され、都元帥に任じられていた。
そこで、宗族の耶律大石と宰相の李処温らは、3月にあまり乗り気ではない耶律涅里(淳)を擁立し、さらに李処温の子の李奭(リソウ)が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里(淳)は成り行きで即位させられ、北遼の初代皇帝・天錫帝と名乗る。 文学に長じて巧みな文人皇帝である。
また大石らは勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。 しかし、同年(1122年)の6月24日に天錫帝は崩御してしまう。 享年61。 在位期間は90余日であった。 天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任していた。 以降、大石は、耶律大石統帥として遼帝国を牽引して行く。
大石が目指す陰山・五原には帝都を放り出した天祚帝が逃避していた。 コビ砂漠を避け、長城北側の荒れ地を 騎馬の隊列が進む。 三十数名の騎馬武者、先頭を進む耶律大石の顔には疲労の影が浮かんでいた。 騎馬武者は牛車を囲み、蕭徳妃(ショウトクヒ)皇后と秦王殿下が幌の中で身を竦めるように 無言である。
耶律定は天祚帝の五男の太子、天錫帝が61歳で病死すると、蕭徳妃は北遼の耶律淳(涅里)の皇后である蕭徳妃が、耶律大石統帥らが推戴する秦王・耶律定を擁立し、徳妃自身は皇太后と成って摂政となっていた。 騎馬遊牧民の俗習なのだが、天錫帝と蕭徳妃の間に正嗣がなく、新興の北遼は遼帝国に流れる契丹の皇統を重んじたのである。
天錫帝の崩御による混乱に 宋が、新たに軍団を20万に増強し これに乗じて再び侵攻してきた。 宋は劉延慶将軍の指揮の下で燕京に奇襲をかけて来た。 耶律大石統帥率いる北遼軍は燕京における市街戦にまで追い込まれたが、宋軍を再び撃破した。 宋の宰相童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 金の阿骨打はこれを受理し、北方より三路から燕京を攻撃、大石は居庸関で迎撃を試みたが失敗し、金軍に捕らえられていた。
居庸関の金軍南制基地に囚われ身になった耶律大石統帥に対して、敵将の阿骨打は大石らを厚遇し、前例である金吾衛大将軍の耶律余睹の例を引いて 投降する事を幾度となく誘っている。 しかし、大石は部下の耶律時・遥兄弟の知略で脱出に成功していた。 そして、燕京の安禄明の助けを受けて、秦王、蕭妃など奉じて保大3年(1123年)、天祚帝の元へと逃亡したしたのです。 蕭徳妃と秦王殿下を守る天徳軍はもはや頼るに足らずと判断し、金軍に追われるように燕京を離れ来たのである。
耶律時がその牛車に寄り添い 駒を進めている。 時は大石の右腕を自認し、弟の耶律遥と共に大石に心酔している。 今 弟の耶律遥はこの隊列には居ないが 遥は大石の親衛隊だと自認し 吹聴している。 押しかけ家臣である。 金の阿骨打に捉われの身となった耶律大石を兄弟の知略で居庸関から脱出させた戦略は時が立て、戦術は遥が実践した。 大石としては 彼らの作戦に乗っただけだったが、阿骨打の腹の内を確かめたい事情があったのだが・・・・・・・・それはともかくとして、 阿骨打が教えってくれた北遼宰相の李処温が宋と内通している事実を蕭徳妃に告げ、李処温度子に天誅を加えたのちの燕京脱出であった。
この兄弟の父は耶律良、契丹の政治家として名をなし 詩人でもあった。 字は習撚、小字は蘇。 耶律白とも落書した人物であった。 四半世紀前の事、耶律良は耶律重元(遼の皇子、第6代皇帝・聖宗の次男)が子の耶律涅魯古(ヤリツデツロク)とともに反乱を計画していることを聞きつけると、重元が第8代皇帝・道宗の重元への親愛あついことをおもんばかって、あえて直接に奏上せず、ひそかに仁懿太后(ニジンコウゴウ)に報告した。 太后は病にかこつけて道宗を呼び寄せ、反乱のことを告げた。
道宗は「おまえは我が骨肉の間を裂きたいのか」と言って信じなかったので、耶律良は「臣のいうことがもし妄言ならば、斧で腰斬されて伏すに甘んじましょう。陛下が早く備えなければ、賊の計に落ちることを恐れます。涅魯古を召して来るかいなかで、陰謀の有無をうらなうべきでしょう」と皇帝の怒りに臆することなく直言した。 道宗はその言葉に従った。 皇帝の使者が涅魯古の門に到着すると、涅魯古は使者を殺害しようと幕下に拘束した。 使者は佩刀をふるって脱出し、行宮に駆け戻って実態を報告した。 道宗ははじめて反乱のことを信じ、良に追討軍を委ねた。 重元の400名前後の反乱軍は、行宮を襲撃した。 しかし涅魯古が騎馬で突出して射殺され、重元の仲間たちは次々と敗走していった。 重元は計画の失敗を知ると、北の砂漠に逃れて、「涅魯古がわたしをここに至らしめたのだ」と嘆いて自殺した。 耶律良は功績により漢人行宮都部署に転じ、二十年前に他界している。 彼は遼西郡王に追封され、諡は忠成といった。 耶律時と尚の兄弟が幼児の折であったと言う。
天慶5年(1115年)、耶律大石が28歳の折、科挙で状元となって翰林院へ進み 翌年より遼興軍節度使を歴任していた。 この時 平州(現在の河北省盧竜県)で大石はこの兄弟と会った。 母方の伯父が跡目人として兄弟を見守っていた。 大石の母が耶律時の聡明さと豪胆さを何時も口に登らせていたのである。 兄弟は契丹人として、有史以来 初めて科挙の状元を得た同じ家系 しかも さほど年の差が感じられない大石の素行に信服し、以来 離れようとしなかったのである。
眼光鋭く、四辺を見渡しながら牛車の歩みに合わせて駒を進める耶律時に「水場を求めよ」と大石の指示が飛ぶ。 直ちに 二騎が先駆けをした。 指物旗はない。 陰山を遠望するゴビ砂漠の南周辺地帯。 初秋とは言え、日中は暑く 日を遮るものとて無い荒野の逃避行は蝸牛の歩み。 帝都を離れ 早 20日は過ぎていた。
「時よ 一息入れよう」 「おお、緑に囲まれた水場、極楽 極楽、 秦王殿下 はようこれに 皇后様も…」
「耶律尚殿はどのあたりに居られましょうか 」 「千余の軍勢を率い、皇后様と殿下の身の回り品の運搬 容易には動けまい、燕雲十六州を通り来るゆえ、時が掛かろうが かの地には耶律尚将軍の身内も多い 」
「して、今宵は・・・・」 「この緑を追って 駒を進めれば蒙古族に出会えるかも知れぬ、 緑があれば水もあろう 」
「秦王殿下 道のりは半ばをすぎました。 今宵も夜空が美しゅうございましょう。 さぁ 出立で御座りますれば、御車に 」 「余も 馬でいきたい 」 「なりません、いまだ 日が きっう 御座います」
「時、 殿下を抱き上げ 抱いて行くがいい、 蒙古が言う“青い郷”(現在のフフホト市、中国名=帰化城)の近くであろう。 危険はあるまい」
・・・・・続く・・・・・・
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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