【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第一章_16節=

2015-03-29 17:31:13 | 浪漫紀行・漫遊之譜

  1123年初冬 耶律大石統帥が離れた燕京の北遼は、天錫帝の太子の耶律朮烈(英宗)が擁立された。 しかし、11月に金軍に包囲され、英宗は内訌によって家臣たちに殺害された。 こうして、北遼は滅亡を迎えることになった。金の阿骨打は燕京を含む燕雲十六州を北宋に割譲し、委ねた。 代わりに燕京の人民を全て連れ去る。 また、割譲の代償に、金は遼にかわって宋から歳幣に銀20万両・絹30万匹・銭100万貫・軍糧20万石を受けることにした。 入京を果たした阿骨打は、宋と約定を交わし、契丹人である遼王朝の優秀な文士公僕たちを引っ立てて金の王府・上京会寧府(じょうきょうカイネイフ、現在のハルピン)に凱旋していた。  

 翌年、夏の蒸し暑さが終わるころ 阿骨打は逃亡した遼の天祚帝を追撃する親征に向かった。 長春、通遼を経過して瀋陽へと軍団を率いて南下して行った。 瀋陽から西に向かい、朝陽に抜け赤峰へ、シュリンゴロの大草原南縁を西走すればウランチャブ(鳥欄察布)に至る。 万里の長城が北側を平行して西行する経路であり、草原の道が続く。 天祚皇帝を討ち取り、雪辱を与えた上に西夏に金の武力を誇示できうる進軍は誠に容易であった。 万里の長城が南からの敵を遮断してくれる。 そして、ウランチャブ-フフホト-パオトウ-五原は10日もあれば進軍できる距離である。 

 阿骨打の親征軍が部堵濼(ウトゥル、現在の阜新市付近)に差し掛かったころ、五原の天祚皇帝が王庭を耶律時が率いる25騎の騎馬武者が10頭の代え馬に兵糧と弓矢を載せて黄河の左岸を早がけの襲歩でパオトウ(包頭)を駆け抜けていた。 太陽が昇りくる前である。 25名の勇者の左前方に横たわっていた陰山山脈の山腹が朝日を浴びて黒き陰影を浮かび上がらせだした。 フフホト(呼和浩特)の手前であろう。 これ以上の襲歩は馬には過酷であると判断した時が手綱をひいた。 「あの小川で朝餉にしよう」 彼らが日の高いうちには、ウランチャブ(鳥欄察布)に至るのは容易であった。 彼らは、慕田峪長城(ボテンヨク)から居庸関(キョウヨカン)と古北地帯での金軍の動向を偵察に赴く途上であった。 

 

 耶律大石は”北帰”は急がねばならぬが、 過酷な冬がまじかに迫りくる今、 春まで待つべきか 自問していた。 200有余名が草原で越冬できるであろうか、草原の民は冬営地で殻に籠り、没交渉の生活を強要される。 なれば、半年間の兵糧を運び込まねばならない。 春まで勇者たちをいかにすべきか・・・・急ぐ必要があるのか・・・・

 ゴビ砂漠の北、陰山山脈の北麓にある遼王朝の北庭故城を北帰行の拠点に考えていた。 大蒙古高原中央部の南部に位置し、遊牧の民との交易を執り行う砦であった。 遼王朝が盛んなころには漠北の遊牧民を統治する基点であった。 北庭故城から草原を東に移動すれば小興安嶺山脈の故地に、容易に辿り着ける。 200名の兵団でも二十日の行軍、金軍の側腹後背面を突く進路であり、危険はない。 だが、故地にて契丹人を集握して遼の政権を鼓舞できるであろうか、その挙兵以降は・・・・・ 

 大石は四辺の状況を考え続けていた・・・・・ 南宋は阿骨打を”海上の盟”で誘って、遼に進軍させたのだが、金の騎馬軍団は我の予想以上に猛勇果敢である。 遼の国土を侵食した。 そして、気付けば 遼と宋の確執に金に漁夫の利を得た。 結果 宋は黄河の南に閉じ込められた。 今 金と西夏が盟約すれば、宋は北進して己が旧領すら奪回できかねる状態に追いやられている。  

 南宋は、未だに 50万以上の将兵を燕雲十六州攻撃に北上させているも、 金の阿骨打は南下し、燕京を陥落せしめて入京を果たし、北に凱旋した。 遼の皇帝・天祚帝を五原に追いやり、中華に権勢を維持して 余裕を持って宋に燕雲十六州を割譲している。 金の政権は遼の統治方法を真似る新政権を打ち立てている。

 天祚帝は南宋に向かうであろうが、今は 阿骨打の客将と成った耶律余睹が南宋対策の将軍として立ち振る舞っている以上は天祚帝の挙動は容易でない。 西夏は天祚帝が西夏の北の過疎地での仮寓を黙認しているが・・・・宋の北進も・・・・・黄河を挟んで金と南宋が覇権を争う・・・・ 

 我は、二年前、居庸関・八達嶺長城で阿骨打の迎撃を試みが失敗し、金軍に捕らえられた。 あの折、阿骨打は捕虜である我を厚遇した。 彼は金軍の南攻統師将軍として宋を攻めろと言った。 宰相・李処温が宋と密約を交わし、北遼と南宋で金の南下を阻止する陰謀を計っているとも言った。 それゆえの我は宰相・李処温を誅殺したのだが・・・・・ 

 阿骨打の考えていることは見える。 今、 海上の盟は破棄され、阿骨打は南宋の侵略を考えているに違いない。 されば、南宋は将兵を北東方に進軍させ、阿骨打と対峙しなければならぬはず。 なれば、当面、阿骨打は燕京の差配と南宋との戦いに 思惑を集中しなければならず、遼の討伐に親征はおろか大量の将兵を向けることはできまい。 遼の存在など眼中になく、鼠をいたぶる猫のはず 天祚帝が動く瞬時が殺される瞬間に成るはずだ。 

 それゆえの、”北帰”策なのだが・・・・・・この冬を如何にせん、故地に辿り着くまで如何にせん・・・・・・・燕京の安禄明や安禄衝殿は動けまい・・・・・・・草原が緑で覆われている時なら・・・・・耶律大石の思考は 同道巡りのようであった。 

 ・・・・・続く・・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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