【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

小説・耶律大石=第一章_07節=

2015-03-20 16:36:10 | 浪漫紀行・漫遊之譜

 古来より、“オルドスを征する者天下を征す”と言われてきた。 鄂爾多斯(Ordos、オルドス)の豊潤な大草原は遊牧民にとっても農耕民にとっても豊潤なちいきである。 そのオルドスの外周を黄河が流れる。 逆U字型にオルドスを迂回し流れ黄河 逆U字型の頂頭部である北側はゴビ砂漠の西端部である。 陰山山脈がゴビ砂漠の奥、北側に遠望できる。 他方、オルドス地方の南部域には 東西に万里の長城が二重三重に走っている。 

 逆U字型の頂頭部の黄河は西より東にゆったりと流れている。 川床は明確ではなく、河原は広く 本流はどれか判別できぬほど 自由気ままに広がり蛇行し、冬季は氷結する。 黄河で囲まれる広大なオルドス地方は全体がおしなべて平坦な草原である。 西方に丘陵が横たわるが、東方はいつしか黄河の広い河原となり 黄河を離れて東行しれば山西雲中(大同市)に至る。  北上してきた黄河が巴彦淖尔(バヤンノール)あたりで90度右折して東に向かうのだが、包頭(パオトウ)を過ぎたあたりから再び右折して南下する。 しかし、大河としての威容な形状を示すのは、楡林東部あたりからである。 この付近は燕雲十六州の西部域であり、黄河は万里の長城に沿って南南西に流れ 洛陽=長安(西安)の潼関に至り、三門峡に流れいく。 

 三門峡のその先の右岸、中岳嵩山の中の少室山の北麓にある寺院に住まいする禅僧の慧樹大師を師と仰ぐ若者が、黄河の川筋が南下し始める包頭付近の河原に居た。 冷える早朝の黄河が河原 粗末な作務服を着込み、飛ぶように足を運ぶんでいる。 敏捷に浅瀬を渡り、石から石へと飛び 深き瀬を渡るようすは僧ではない。  しなやかな身体は動物を思わせた。 頭髪は短く、髭も短いが濃い。 長身瘦躯である。 気品を漂わせている。 

 その若者は耶律楚詞であった。 嵩山少林寺を離れ、黄河を越えて大同に至り、この地に辿り着くおに五日を要していない。 北上する内に、何時しか 足元の土は赤褐色より 黄色を増し、黄褐色に変わっている。 川床と堤の境界は定かでなく、前方には一条のまばらな林がある。 村落は見当たらないが、かなたに霞む山脈がある。 陰山山脈であろう。 嵩山少林寺を離れ、黄河を越え、太原・大同を通過してこの地に到達したのは三日前である。 嵩山の慧樹大師に別れを告げた日より、はや10日が過ぎていた。 

 東西が一望でき、視界を遮る一物は無い。 黄河北端の河原、堆積する大小の石 河原は広く、堤らしき起伏は無い。 ただ、樹木の列がその境界を示している。 樹木帯は幅狭く下草が茂るも、背丈のある草は枯れだしていた。 その樹林の先は砂漠が広がり、 その先に黒き山脈が伺える。 三日前から 耶律楚詞はこの場所にいたのである。 東に流れていた黄河が気ままに広い河原を蛇行しながら、気が付けば南に向きを変える屈点近くである。 村落は近くには見当たらず、遊牧する民もこの地には居なようである。 だだ、東方からの奇人の姿はないかと 大同あたりから情報を集めつつ、この地に至り、野営している。  

 1123年秋 10月中旬の事である。 降りそそぐ星が 連夜の孤独を慰めてくれた。 が、夜半は零度近くに下がり、楚詞は流木の焚火を絶やさなかった。 その弱々しく寒気を防ぐ炎が彼を慰めてくれた。 仮営は六日を過ぎた翌日の昼下がり 陽光は弱く四辺を照らす。 遠望する陰山の山服は灰色の影を這わせ、縦縞を刻んでいる。 何時もの場所 巨木の幹に腰を下ろして、楚詞は自問していた。

 ≪二日も この河原を西走すれば五原、 五原に入れば祖父には会える・・・・・・・≫   ≪が、このままでは、王庭の門は潜れぬ ≫    ≪耶律さまは 必ずこの地を通るはず、 未だその足跡はないが・・・必ず・・・≫  

 

 太行山脈は小五台山の北側を西に進む隊列が 山間の間道で喘いでいた。 長蛇の列である。 騎馬武者達も馬の轡を引き、日毀れのする樹林帯を行く。 農夫姿の者も多い。 その長蛇の列は一里にも及んでいた。 百名ぐらいであろうか、個々に集団を作り 農夫姿の者たちは荷を背に振り分けた馬を追っていた。 騎馬武者は凡そ800、 農夫姿は150であろう。 五十名程度の騎馬武者の集団が先頭と最後尾にいた。 その間を20集団が進む。 その集団は騎馬武者と農夫で構成されていた。

 「耶律尚将軍 あの山を回り込めば 張家口は山西平野が望めるはず。 山西には 縁者が多くいるし、金も宋もこの地までは 未だ手を伸ばしておりますまい 」   「羽殿 油断は禁物じゃ、 金は耶律大石軍事統師殿を全力で追っていよう。 しかし、西方の各地には間諜を配していよう。 間道を抜ければ、 この人数 嫌でも間諜の目に留まる。 怪しき者は縁者人とて 切り捨てよ・・・」 

 「軍事統師殿は 無事、着かれたであろうか・・・・」   「師の事だ、あえて 少人数で立たれた上は 策ありであろう。 我らは 雪降る折、黄河が凍てつく時に着けばいい。 この荷じゃ、黄河が氷り着けば、道程は楽になる。 くれぐれも、陰山が見えるまで急ぐではない 」 

 遼王朝の精鋭騎馬武者800余名は引退していた老将・耶律尚に率いられ、太行山脈を西に進んでいった。 同じ頃、宋の武将・郝仲連らが軍勢を率いて、黄河を越えて遠征を仕掛けた。 金の阿骨打に帰順した耶律余睹は金の皇族・粘没喝(ねんぼつかつ)の武将として、西京(大同)の統括に当たっていた。 彼は都元帥府・右都監としてこの宋軍を西京南方の大原で迎え撃ち、郝仲連ら数万の軍勢を壊滅させていた。 

 その西京(大同)を耶律楚詞が父・耶律敖盧斡を思いながら華厳寺に立ち寄る事無く北に向かったのは六日前の事。 耶律余睹が耶律敖盧斡を帝位に就けようと画策していると天祚帝に讒言され、身の危険を感じて金に投降したのは一昨年の事。 昨年の事であるが再び帝位を狙うと告発された父・敖盧斡が祖父の天祚帝に派遣された処刑執行人に絞め殺されたと慧樹大師から聞いていたのは、昨年の事である。 しかし、耶律楚詞は叔父・耶律余睹が金の皇帝・阿骨打の武将であることは知らない。 

・・・・・・・・・・・資料 ウイキペヂアより : オルドス地方(前節イラスト参照)

オルドス地方(オルドスちほう、鄂爾多斯)とは、中国内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方。行政区分としては伊克昭盟が2002年にオルドス市となり、オルドス地方の大半を占める。黄河対岸(北側)の河套平原なども含め、河套(かとう)ともいう。

大部分が海抜1500メートル前後の高原準平原)でオルドス高原と呼ばれ、南側は黄土高原に続く。一部はステップ、大部分が砂漠オルドス砂漠という。砂漠は大きく2つに分かれており、それぞれクブチ(庫布其)砂漠ムウス(毛烏素)砂漠という。面積はそれぞれ1万6千平方キロメートル、4万2千平方キロメートル。農業や牧畜が行われるが、砂漠化土壌流失が激しい。年平均降水量は200~500mmほどだが、半分以上が梅雨秋雨にあたる7~9月に降る。また、雨が多い年は平均の2~4倍の雨が降ることもあり、洪水や激しい土壌流失が起こる。

オルドスという地名は、代以降この地に住み着いたモンゴル人の部族「オルドス部」に由来する。それよりはるか前、旧石器時代から人が住み、特に紀元前6世紀から2世紀にかけて遊牧騎馬民族によるオルドス青銅器文化が栄えた。匈奴によって次々に征服され、南部には万里の長城が築かれた。その後も匈奴系や突厥系などの遊牧民が住み、遊牧民族王朝(西夏など)あるいは中華王朝(など)による支配を受けた。代から漢族が入植し、現在の住民は漢族が多い。 

・・・・・続く・・・・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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