耶律楚詞が戻った1124年の晩春 久しぶりに 耶律大石は皇太子・秦王殿下に伺候した。 太陽が頭上に在り、温かい日和であった。 大石が部屋に上がると 皇太子は暗い部屋の中で鎮座していた。 窓からの陽光が 皇太子を浮かび上がらせ、蒼白の顔を物憂げに 皇太子は日が差さぬ薄暗い空間に視線を漂わせている。
大石には 嫌な予感があった。 ここ、三日 毎日 同じ夢を見ていた。 天錫皇帝が現れ、その後 天錫の姿は天祚に変わる。 その天祚皇帝は薄暗い部屋 皇后の閨で戯れている。 皇后蕭徳妃は裸体を天祚皇帝に弄ばれている。 再び 天祚が天錫に変わる。 そして 天錫皇帝が 己が剣で、皇后の胸を 蕭徳妃を突く夢である。 久しぶりに皇太子を訪れようと思い立ち拝謁するのは この夢を否定する為かもしれなかった。
「秦王殿下 いかが なされた 」 「先日 父・みかど の勅命が降り、太子として燕京に去れ と・・・・」 俯いたままの秦王殿下が 弱々しく、答える。 大石は理解した。 幼い皇太子は従事から 勅命が意味することを理解させられたのであろう。 また 摂政の蕭徳妃・皇太后が常日頃に教えている大石への信頼が唯一無二の取りうる行動であると理解し、昨夜は一人で孤独に耐え 待っていたのであろう。 下を向いたまま、視線を上げない秦王の蒼白の顔に涙が零れ落ちたのを大石は見た。 そして、声を掛けることなく踵を返した。 大石は動揺することなく 直ちに 天祚皇帝に拝謁を願った。 が 許されなかった。 さらに 皇后の仮寓に 伺候に伺うことも許されなくなった。 その夜、大石は毎夜と 同じ夢を見た。 夢の中の皇后は いつも目を閉じていた。
皇太子・秦王殿下と一言の言葉を交わした日の三日後、 皇太子の位を剝奪され、元の秦王が太子として燕京に去らねばならぬ日の前日に 再三再四の連日の拝謁要望が許可されたと連絡があり、大石は直ちに皇帝の下に登った。 砦のような宮廷内接見の間には諸将は居ず、檀上の皇帝と左右の側近が待っていた。 大石は長身の胸を張り、一礼の後 直ちに口を開いた。 「皇帝閣下、 皇太子・秦王殿下の降格 燕京への太子として帰任 これは いかなる ことでありましょうか。」
皇帝は臆するように腰を引いた。 そして、虚勢を張るがごとく 大きく胸を張り、声高に 「大石、汝たちは天錫帝を擁立し、北遼を建て あまつさえ、「湘陰王」に余をと言わしめた。 この壇上に立つは太祖が遼王朝の七世 天祚。 秦王を帝都に向かわせるは 遼王朝再興の礎、 今宵 鹿鳴の宴に参列するが良い 」
「なれば、 蕭徳妃皇后陛下に秦王との同行が勅命を 発せられましたか 」
「皇后は同行叶わぬ であろう、北遼の建国は 摂政の意志であった。 汝らは摂政皇后を助け、 幼き秦王を皇太子としての冠位を持たせた上で、 摂政を維持するため 朝議を誘導した。 辞退する耶律淳に 策を巡らし、無理やり 天錫帝として擁立した。」
虚勢を飾る生気なき声が 大石の耳に至り来るようであった。 声はなお 続く 「我が忠臣、宰相・李処温を誅殺した事、汝の北遼への忠節 遼王朝の永続の為ゆえであった事と 認め、汝は不問に致した が、・・・・・」
「さらに 申しておこう、 昨夜 皇后は 耶律淳の下に、余が送った。 余に服せず 余の怒りをかったのじゃ 」
大石の耳の中で 『耶律淳の下に、余が送った』 の低く鈍い声が幾重にも繰り返され 反響し 大石を動揺させた。 ・・・・・≪蕭徳妃が皇帝・天祚に殺害される事件が起きていた≫・・・・・・・しかし、大石は表情も変えずに、「そのこと 皇太子 いや 秦王太子はご存知か?」 と皇帝に向かって設問した。
「いずれ 都にて耳にするであろう、太子には まつりごとを知るには幼すぎる 」 天祚帝の返答は予測できたのであろうが、大石は 未だ治まらぬ動揺を隠す為であろうか 超然と言う、
「皇帝閣下の お時間を 頂き また 愚将へのお言葉 肝に銘じました。 今宵の鹿鳴の宴 参加せぬ事 お許しを賜りたい」
「太子に伝えおく、 一度 西夏に足を向けては どうか・・・・ 西夏王は喜ぶだろう、 そちの武勇は 天下に轟いているらしい。 西夏の姫君たちは西方の美形ぞろいと言うではないか・・・・・ 」
耶律大石は 重い足取りで草庵に向かった。 その耳の中では『耶律淳の下に、余が送った』が何時までも反響していた。 身に危険を感じるよう事は なかったが、・・・・・・ 内も外も安住できぬ、お互いの不審が渦巻いていると 大石は肌で感じていた。
・・・・・・資料として ; 西夏(1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。 首都は興慶(現在の銀川)。 モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされる王朝。 西夏の起源は唐初にまでさかのぼる事ができる。 この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。 その中、拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。 唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。
宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。 当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。 李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。 その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、独自の文字である西夏文字を制定した。 近隣を制圧した彼は、1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。
西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。 この軍事対立は1044年の和議成立(慶暦の和約)まで続いた。 宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。 しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。 ただ、宋との和議成立後もたびたび局地的な戦闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていた。 李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である沒蔵氏による摂政が行われた。 この時期遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、遼に臣従する立場となった。
1063年、吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属した。 皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになった。 しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしている。 李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなった。
1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。 1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命(領内オルドス北方の五原に仮寓を認める)、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。 李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。 そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなる。・・・・・・・・・
・・・・・続く・・・・・・
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森のなかえ
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