【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

探検家・冒険家 シリーズ 16-③

2013-04-15 15:07:45 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ジェームズ・クック(James Cook) 海洋探検家・海図製者 =

 ~ 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・士官 に昇りつめる ~

 

  一方この頃、時の英首相ウィリアム・ピット(William Pitt)はフランスが北部新大陸(現カナダ)をあきらめるよう、様々な形で重圧をかけていた。

 1759年、ケベックをめぐる戦いには著名な英将軍ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が参加。

 クックの作成した先の海図を利用したウルフは、川対岸の岬に築いた砲台から徹底的なケベック市街砲撃を行い、フランス軍を驚愕させた。

 クックの作成した綿密な海図が、ウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦を成功に導いたのだった。

 ケベックでの勝利は翌年、英軍のモントリオール上陸をもたらし、北米に置けるフランスの支配は実質的に終わりを告げる。 その点から見ても、この勝利は英軍にとっての歴史的な出来事であった。

 今回の測量による貢献でクックは一躍、英国海軍本部と、王立協会(Royal Society)から注目を受けることとなる。

 

 引き続き1762年まで北米で任務を続け、英国帰還の機会が訪れた時、クックは33歳になっていた。

 英国へ戻った彼は、まず結婚相手を探し始める。 ハンサムで有能な航海長だけに相手探しに困った形跡がない。 彼はポーツマス港からロンドンに到着したおり、水兵の町として知られるシャドウェル(Shadwell)で、当時20歳のエリザベスと出会う。

 1年のほとんどを海上で暮らすクックに、どれ程ロマンティックな恋愛の観念があったのかは分からないが、2人は同年12月21日に出会いから約1ヵ月というスピードで結婚。

 そして東ロンドンのマイル・エンド(Mile End)に所帯を持つが、その3ヵ月後には早くもクックに測量士としての出発命令が下る。

 彼はそれからの5年をカナダ東部の島、ニューファンドランド(Newfoundland)島海域の測量に費やしたのだった。

 クックのこの測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。

 彼は従来の船乗りとは異なり、最新の科学的測量を実行したと言われている。 従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み目測していただけだったのが、クックは四分儀と経緯儀、測鎖を使って、三角測量と天体観測を行ったのだ。

 船で移動しながらボートで上陸を繰り返し、船を頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量するという根気のいる仕事を繰り返した結果、クックの作成した海図は、現代のこの地域の海図と比べても、ほとんど遜色のない見事な出来だという。

 こうした科学的業績が評価され、彼は王立協会の会員にも選ばれ、大きな名誉を手にしている。

 ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」とクックは記した。

 そしてその願いに応えるかのように、次の大きな冒険が待ち受けていたのです。

 

 ※; クックの家族 

 クックは34歳で、13歳年下のエリザベス・バッツ (1742-1835) と1762年に結婚し、6人の子供 ジェームズ (1763-1794)、ナサニエル (1764-1781)、エリザベス (1767-1771)、ジョゼフ (1768-1768)、ジョージ (1772-1772)、ヒュー (1776-1793) を儲けた。

 陸での住まいはロンドンのマイル・エンンド(貧民街)にあった。  クックの子供たちは、いずれも子孫を残さずに夭折したため、クックの直系の子孫はいない。

 ※; クックの海上健康管理法

 長期の船旅では新鮮な野菜や果物が不足することから、船員の間に壊血病が蔓延した。 これは皮膚や歯肉からの出血、骨折や骨の変形などに始まって、肺に水が溜まり、最後は高熱を伴い死に至る病とされる。

 16世紀から18世紀の大航海時代は、この病気の原因が分からなかったため、船員の間では海賊よりも恐れられたという。

 当時の壊血病予防法はガーリックやマスタード、トナカイの血や生魚など、ほとんど呪術的といってもよい様相を示していた。 

 そんな中、英海軍の傷病委員会は食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物を摂ることによってこの病気の予防が出来ることを突き止めた。

 その先例として、クックは航海中出来るだけ新鮮な柑橘類をとるよう命令を受ける。それが功を奏し、第1回南洋航海では、ただ1人の船員も壊血病で死者が出なかった。 これは当時の航海では奇跡的な成果であった。

 航海中は新鮮な柑橘類の入手が困難なことから、海軍は抗壊血病の薬にと、麦汁やポータブルのスープ、濃縮オレンジジュース、ザワークラウト(酢漬けのキャベツ)などをクックに支給した。

 クックはこれらを食べるように部下に促したが、当時の船員は新しい習慣に頑強に抵抗し、最初は誰もザワークラウトを食べなかったという。 そこでクックは、ザワークラウトは自分と士官に供させ、残りは希望者だけに分けることにした。

 そして上官らがザワークラウトを有り難そうに食する姿を見せると、1週間も経たない間に、自分たちにも食べさせろという声が船内に高まったという。

 これだけに限らず、クックは食事を残す者に対して厳しい処罰を与えた。

 しかしながら長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まず、ビタミンCと壊血病の関係がはっきり明らかになったのは、1932年のことです。

 

 

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探検家・冒険家 シリーズ 16-②

2013-04-14 13:36:48 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ジェームズ・クック(James Cook) 海洋探検家・海図製作者 =

 ~ 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・士官 に昇りつめる ~

ヨークシャーの港町でロンドンへ石炭を運ぶ船を眺めては、

彼方への憧れを膨らませていた少年時代のジェームズ・クック。

「遠くへ行ってみたい」という想いは彼を航海士にし、

やがてはキャプテン・クックとして知られる名船長へ成長させる。

ハワイの発見を始め、彼が海洋冒険家として成し遂げた、

文字通り世界の地図を塗り替えた経緯を紹介しよう。

 

  ジェームズは、漁村ステイテスの雑貨店での奉公中に 店の窓の外を眺めているうち海に魅せられたという。

 ある時、ジェームズは雑貨店で客の支払った代金の中に、サウス・シー・シリングといわれるジョージ1世のシリング硬貨を見つける。

 これは新大陸のスペイン領との貿易を目的に設立された、英国の南海会社(サウス・シー・カンパニー)の記念硬貨で、表面にSSCと記されていた。

 光り輝くその硬貨に魅せられたジェームズは、こっそりレジからサウス・シー・シリングを抜き取ると、代わりに自分のポケットから普通の1シリング硬貨を入れて 交換してしまった。

 だが彼は、店主に呼ばれ、泥棒の疑いを掛けられてしまう。

 慌ててことの経緯を説明したおかげで疑いは晴れたものの、ジェームズはこれを機会に店を辞めようと決意。 雑貨店に奉公に来て1年半が経過していた。

 「それで、これからどうするつもりだね?」と店主に聞かれたジェームズは、迷わず 「海に出たいのです」と答えていた。

 親切な雑貨店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィトビー(Whitby)のウォーカー兄弟にクックを紹介する。 ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。


海への第一歩

 18歳の時のことである。 ジェームズは晴れて「海の男」としての第一歩を踏み出したのです。

 彼は雇い主のウォーカー宅に寝起きしながら、測量法や天文学、数学や航海術などの船乗りになるために必要な事柄を教える地元の学校へ通った。

 ウォーカー家の年老いた女中は熱心なジェームズをかわいがり、彼が夜遅くまで勉強できるよう、椅子と机、キャンドルなどを率先して用意してくれたという逸話も残っている。

 

 1747年2月、ジェームズはキャット(Cat)と呼ばれる小型船の見習い(apprentice)として、初めての1ヵ月半に渡る船上暮らしを体験する。  ロンドンへ石炭を運ぶこの船には10人の見習いが乗船していたが、ジェームズは中でも最も未経験な1人だった。

 更に翌年は大型の石炭貿易船である「スリー・ブラザーズ号」で1年半海上の人となる。

 ミドルズバラ、ダブリン、リヴァプール、そしてフランダース(現在のベルギー)などを訪れたが、この体験は最初の本格的な航海として、ジェームズに深い印象を残したという。

 1750年、3年間の見習い期間を終了した彼は、晴れて「水兵」(seaman)と認められ、2本のマストを持ち、バルト海を中心に活動する貿易船「フレンドシップ号」で働き始める。

 ジェームズはこの後1752年に「航海士」(mate)となるための昇進テストを受け、優秀な成績で合格。 「フレンドシップ号」の航海士として3年を過ごす。

 ジェームズは27歳に達し、そろそろ自分がベテランの域に達しつつあると感じ始めていた。 仕事の合間に読むオランダ人やポルトガル人の書いた海洋旅行記などから、まだ見ぬ東洋や米国への憧れも芽生えていたが、彼は地中海にすら行ったことがないのだった。

 そんな時期に、雇い主のウォーカーが、ジェームズにフレンドシップ号を与えようと持ちかける。

 これは航海士にとっては独立のチャンスであり、大きな幸運だといえる。 ジェームズがいかに雇い主の信頼を受けていたの証明であり、彼の高揚がかがわかるだろう。

 ところが、ウォーカーはひどく落胆させられることになる。

 ジェームズはその申し出を断り、「海軍に入隊して、世界を見たいと思います」と答えたのである。

 もし海軍に入れば、船長どころかせっかく獲得した航海士のランクですらない、水兵からやり直しだというのに。

 だが、ジェームズにジェームズ愛情と信頼を寄せるウォーカーは驚きあきれつつも、入隊のための紹介状を書いてやったのだった。 

 ジェームズにとって、フレンドシップ号がバルト海との往復である限り、その立場が船長だろうと航海士だろうと、大きな違いはなかったのだ。

 世界を見るためなら海軍でも海賊でも構わなかったのではないかとさえ言えよう。

 ともあれ、ジェームズには幸いなことに、当時の英国海軍は7年戦争に備え軍備を強化中であり、大々的に志願兵を募集していた。

 彼は両親のもとを訪れ暇乞いをすると、ロンドンのワッピングを目指す。 そこには英国海軍のHMSイーグル号が停泊していた。

 1755年6月17日、ジェームズ(以下クック)は「熟練水兵」(able seaman)として入隊する決意を改めて、英国海軍の門を潜った

 

 海軍での活躍と新たな才能

  水兵の身分から瞬く間に准士官たる航海士に昇進し、海軍に入ってから僅か2年後の1757年には、航海長(士官待遇)の任用試験に合格している。  この時、クックは29歳であった。

 イーグル号の艦長ジョセフ・ハマー(Joseph Hamar)は憂鬱な気分だった。 前回の対フランス戦で多くの乗組員を失ったばかりで、満足に人員を集められないまま再び出動命令を受けていたのだ。

 「人数不足なだけではない。 ブリストルから来た25人は水兵ですらない。

 こんな状態で出航する船は他にないだろう」と嘆く手紙が残っている。 そんな中で経験も情熱も備えたジェームズ・クックがどんなに光って見えたことか。 彼は乗船後1ヵ月もしないうちに、一等航海士(master mate)の地位に就く。

 イーグル号の任務は英仏海峡周辺の警備だったが、クックは2度の大きな対仏戦に遭遇している。 2度目の戦いでは多くの味方を失い、「マストはボロボロ」という厳しい状態だったが、フランス船を拿捕し、チームは御賞金を受け取る活躍をみせた。

 この戦いはクックにとっては昇進のためのテストでもあったが、彼の勇気と能力が十分に発揮され、最高レベルの成績で士官待遇の航海長(master)へと昇進。

 1759年には29歳で大型船「HMSペンブローク」号(HMS Pembroke)を任されるに至る。

 ちなみに航海長とは「複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職」であった。

 正規の指揮権は有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかったという。

 

 ペンブローク号は彼がウィトビーで見習いだった頃、まさに夢見ていたような大型船でもあった。

 クックはこの船で念願だった大西洋横断を果たし、カナダへと向かう。

 この間、クックは同乗の測量家サミュエル・ホランド(Samuel Holland)から本格的な測量を学ぶチャンスを得る。 

 もともと数学を得意とした彼は、すっかり測量の魅力にはまってしまい、ホランドの助手として測量に同行するほか、艦長の許しを得て自分だけでケベックのセントローレンス(St Lawrence)川河口、ガスペ(Gaspe)湾の綿密な測量も行い、優れた海図を制作した。

 戦時中の敵地での測量である。 昼間でなく夜半にフランス軍の警備の目をぬって行う、命がけの仕事であった。

 この七年戦争(1756年~1753年)で、クックは、英国軍艦Solebay号の航海長として1759年のケベック包囲戦に加わった。 既に測量及び海図作成の技量を認められていたクックは、セントローレンス川河口の測量と海図作成を任され、包囲戦の趨勢を決したウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大いに寄与しのです。

 

・・・・・・・・続く・・・・・・・

 

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探検家・冒険家 シリーズ 16-①

2013-04-13 17:15:45 | 冒険記譜・挑戦者達

代の探検家 =ジェームズ・クック(James Cook) 海洋探検家・海図製作者= 

 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長・士官 に昇りつめる ~

 ヨークシャーの港町でロンドンへ石炭を運ぶ船を眺めては、

彼方への憧れを膨らませていた少年時代のジェームズ・クック。

「遠くへ行ってみたい」という想いは彼を航海士にし、

やがてはキャプテン・クックとして知られる名船長へ成長させる。

ハワイの発見を始め、彼が海洋冒険家として成し遂げた、

文字通り世界の地図を塗り替えた経緯を紹介しよう。

 

 欧州の人々が外洋に出るようになり、時代が進むにつれて航海技術は上がっていきました。

 特に測量の技術は1763年にジョン・ハリスンが発明したクロノメーターによって飛躍的に向上します。

 それまでの航海では緯度は正確に把握する技術があったようですが、経度の測定が出来ず大雑把な位置情報しか得られませんでしたので、以前海図に記録されていた島があったとしても、再上陸の為には周辺をくまなく探しまわるしかありませんでした。

 クロノメーターの発明は経度の測定を可能にしましたので、緯度と経度の交わる点をピンポイントで知る事が出来るようになり、正確な海洋図が作成可能になったのです。

 これによって「未知の海を探検」する航海から「科学的に調査する」航海に変わっていくことになりますが、その初期を担った代表的な探検家がジェームズ・クックです。

 

 2011年に最終飛行を終えたNASAのスペースシャトルと、月面着陸のために作られたアポロ15号は、いずれも「エンデバー(Endeavor)」号と名付けられている。

 これはクックの第1回南太平洋探検の時に使われた帆船の名前にちなんでいる。  エンデバー号が1768年にロンドンのドックランズから船出した時、南半球には「北半球にあるのと同等の、大きな大陸があるのではないか」と考えられていた。

 そんな時代にあっての海洋探検は、スペースシャトルによる宇宙探索にも等しい期待や危険を伴っていたのではないだろうか。

 新しい土地の発見とその植民地化をめぐり、欧州がしのぎを削っていた時代に生まれあわせた、ジェームズ・クックという一人の男性の波瀾万丈の生涯を辿ってみよう。

 

 クックは、英国、ノースヨークシャー州マートンに生まれた。 スコットランド人の父とマートン生まれの母の下、5人兄弟であった。

 

 キャプテン・クックことジェームズ・クック(James Cook)は、1728年10月27日、ヨークシャー北部のマートン(Marton)という小さな村に生まれた。

 当時の英国はイングランドとスコットランドが連合したばかりで、「グレートブリテン王国」が誕生してから20年。 次第に「英国」としての国力を高めつつある、上昇の機運に富んだ時期にあった。

 この時代に多くの優秀なスコットランド人がイングランドへ移住したが、父親のジェームズ・シニアもまたスコットランドの辺境出身で、よりよい暮らしを求めてイングランドにやってきた一人だった。

 彼はマートンではハンサムで性格のいい働き者の小作人として知られ、妻のグレイスとの間に5人の子供をもうける。 後のキャプテン・クックとなる次男のジェームズは、8歳から兄と共に農場仕事を手伝い始め、勤勉な親子の姿は村でも有名だったといわれる。 

 特に利発で明朗闊達なジェームズ少年に感心した領主は、彼を学校にやろうと申し出、ジェームズは農場で働きながら初等教育を修めるチャンスを得る。

 そして17歳になったところで、両親の勧めもあり町へ奉公へ出ることになる。単なる「勤勉な肉体労働者」以上の人間になるように、というのが彼らの願いであった。

 しかしジェームズが家族と別れて向かったのは、ステイテス(Staithes)というヨークシャー北部の漁村にある雑貨店だった。

 ここで商売に関してのノウハウを学ぶというのが、ジェームズの父親と店主との間で交わされた約束だったらしい。

 幼い頃から農場で働いていたジェームズは、17歳にしては非常に背が高く、父親譲りの彫りの深い顔立ちをした逞しい青年に成長していた。 

 当時を知る人々によれば、ジェームズの生涯を通して変わらない「自分を信じ、断固とした決断をする」という独立独歩の姿勢は、この頃すでに現れていたという。

 そんな彼にとって、雑貨店での丁稚奉公は何とも単調な日々だったようだ。 よく働くので雇い主にも顧客にも好かれたが、物足りない気持ちを抑えることは出来なかった。

 ジェームズは暇さえあれば港に向かい、漁船やロンドンへ石炭を運ぶ商業船などを眺めていたという。 仕事帰りにパブへ行き、そこで漁師たちの交わす様々な話に耳を傾けるうちに、次第に彼は海や見知らぬ土地に対する憧れを募らせていく。

 

 1年半の後、店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィトビーのウォーカー兄弟にクックを紹介する。 ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。

 1746年に、クックは英国沿岸の石炭運搬船団の見習い船員として雇われた。 この間、操船に必要不可欠な代数学、三角測量法、航海術、天文学の勉学に励んだ。

イギリス北西部の小さな港町ホイットビーのウォーカー社に雇われて船乗りとなり、ロンドンへの石炭運搬の仕事をしていました。

 本人が望んで船乗りとなったのか?いきさつは不明ですが、クックには元々航海士としての素養があったらしく、ウォーカー社でめきめき腕を上げていった。

 3年間の徒弟奉公を終えたクックはバルト海の貿易船のブリッグ「フレンドシップ号」で働き始めた。  1755年にはフレンドシップ号の航海士に昇進していた。 そして、間もなく ウォーカー社の持ち船だったフレンドシップ号の船長にまで昇進しています。

 しかし、ひと月も経たぬうち、クックは、英国海軍に一介の水兵として志願入隊する。 

 クックに転機が訪れたのは1755年の春のことです。

 1755年の英国海軍は、七年戦争に備えて軍備を強化していた。 クックは、海軍に入った方が出世できるだろうと考えたらしい。

 クックは、水兵の身分から瞬く間に准士官たる航海士に昇進し、海軍に入ってから僅か2年後の1757年には、航海長(士官待遇)の任用試験に合格した。  この時、クックは29歳であった。

 イギリスはフランスとの戦争(7年戦争)に突入したので海軍増強のため水兵の徴用を発令した際、クックは海軍に志願し砲術練習船イーグル号に配属されたのです。

  船乗りとして相当の修練を積んでいたクックはたちまち上官に認められマーキュリー号という戦艦の船長に就任し、

 カナダのケベックの包囲戦に従軍すると、敵の監視をかいくぐりつつ周辺水路図を作成するなど、主に測量の分野で大きく貢献している。

 クックは戦争終結後も軍に残り、測量のみならず天文学や数学など様々な分野での才能を発揮するのです。

 大航海時代より以前から欧州では「南方大陸」の存在が言い伝えられていました。

 無論 もちろん見た者は誰もいません。

 

・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・

 

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探検家・冒険家 シリーズ 15-②

2013-04-12 13:31:43 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = 河口 慧海 仏教学者・探検家 =

~ 梵語の原典を求めてヒマラヤを越え 潜伏し仏典入手 ~

 1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。

 親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の支那人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。

 通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。

 同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了・偶然出会った探検家の藤井宣正・後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。

 翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの梵語仏典を賜る。

 同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。

ダライ・ラマ13世(1876年2月12日 - 1933年12月17日)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。 1878年に、ダライラマの生まれ変わりと認定された。

当時のチベットは大清帝国と大英帝国とロシア帝国の渦中に巻き込まれていた。 後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。

しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。

井上 円了(いのうえ えんりょう 井上圓了、安政5年2月4日(1858年3月18日) - 大正8年(1919年)6月6日)は、仏教哲学者、教育家。

多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。 また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著した。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた。

16歳で長岡洋学校に入学、洋学を学ぶ。 明治10年(1877年)、京都・東本願寺の教師学校に入学。 翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれて上京し、東京大学予備門入学。 その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。

明治18年(1885年)に同大学を卒業し、著述活動を開始する。 また、哲学普及のため、哲学館(本郷区龍岡町、現在の文京区湯島にある麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)および哲学館の中等教育機関として京北中学校(第二次世界大戦後に東洋大学から独立、学校法人京北学園となり、現在は東洋大学の附属校)を設立する。

哲学館事件によって活動方針を見直すことにした明治38年(1905年)に哲学館大学学長・京北中学校校長の職を辞し、学校の運営からは一歩遠ざかる。

その後は、中野にみずからが建設した哲学堂(現・中野区立哲学堂公園)を拠点として、生涯を通じておこなわれた巡回講演活動が井上による教育の場としてあり続けた。遊説先の満州・大連において62歳で急死するまで、哲学や宗教についての知識をつたえるとともに、迷信の打破をめざして活動した。

藤井 宣正(ふじいせんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) - 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。 島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。

1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。 旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。

東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。

1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。ちなみに、この二人の仲を取り持ったのが入江寿美子(後の伊藤博文夫人)である。 また、翌年の東京白蓮社会堂での挙式が日本初の仏前結婚式とされている。

1897年に教授を解任、埼玉県第一尋常中学校長に就任した。1900年、本願寺よりヨーロッパにおける政教調査のためロンドン派遣の命を受け、大英博物館やヴィクトリア&アルバート美術館にて仏教美術研究の最新動向に触れた。1902~1904年に浄土真宗本願寺派の第22世門主大谷光瑞が組織した学術調査隊・大谷探検隊では実質的リーダーを努め、中央アジア・インド・東南アジアへ3度にわたり仏教伝播の軌跡を追う調査を行い、特にシルクロード研究に関する調査成果を残し、貴重な遺物・古文書を日本に持ち帰った。その中でも一般にもよく知られるインドのエローラ石窟群やアジャンター石窟を、日本人として初めて本格的に調査した。

大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日 - 1948年(昭和23年)10月5日)は日本の宗教家。探検家。明治時代から昭和時代までの浄土真宗本願寺派第22世法主。 伯爵。 諱は光瑞。 法名は鏡如上人。 院号は信英院。 大正天皇の従兄弟にあたる。

第21世法主大谷光尊(明如上人)の長男として誕生。 幼名は峻麿。 貞明皇后の姉九条籌子(かずこ)と結婚。

1885年9歳で得度。翌1886年、上京して学習院に入学するが退学。 その後、尺振八の開いた共立学舎(当時受験校で知られていた共立学校とは別)という英学校に入学するもやはり退学。京都に帰り前田慧雲(のち東洋大学学長・龍谷大学学長)に学んだ。

1902年8月、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。

1903年1月14日朝、ビハール州ラージギル郊外で長らく謎の地の山であった旭日に照らされた釈迦ゆかりの霊鷲山を発見している。その1903年1月に父・光尊が死去し、法主を継職するため帰国したが、探検・調査活動は1904年まで続けられた。

これがいわゆる大谷探検隊(第1次)である。 法主継職後も探検を続行させ、1914年まで計3回にわたる発掘調査等が実施された。


 その後、河口慧海は1913年(大正2年)~1915年(大正4年)にも2回目のチベット入境を果たしている。

 ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。

帰国後

 1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。

 慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。 《英訳では1909年に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている》

 現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。

 帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。  また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。

 晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。

 慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園(1種ロ 15号 5側(西1地区))に改葬されている。

 

記念碑など 

 現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。  また、晩年を過ごした世田谷の自宅跡(東京都世田谷区代田2-14の「子どもの遊び場」)には終焉の地の顕彰碑が設置されている。

 世田谷の九品仏浄真寺の境内には慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建てたという「河口慧海師碑」が設置されている。  和歌山県の高野山・奥の院には供養塔が設置されている。

 その他に日本国外においては、ネパールのカトマンズにはネパールと日本との友好を示す「河口慧海訪問の記念碑」が設置されている。  同じくネパールのマルパ(『西蔵旅行記』では「マルバ」と表記されている)では慧海が滞在した家が「河口慧海記念館」として一般公開されいる。

 さらに、チベットのセラ寺で慧海が学んだ部屋には記念碑が設置されている。

略歴

1866年(慶応2年) - 大阪府堺市に樽桶製造業、河口善吉と常(つね)の長男として生まれる。

1884年(明治17年) - 19歳の秋、徴兵令改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京。未遂に終わる。

1890年(明治23年) - 25歳で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられる。

1893年(明治26年) - 4月、チベット行きを想起。以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たる。

1897年(明治30年) - 慧海32歳。6月26日、神戸港より和泉丸に乗船し、チベット入りを目してインドへ向かう。

1897年(明治30年) - 7月17日、シンガポールに到着。7月19日、英国汽船ライトニングに乗り換えカルカッタに到着。

1897年(明治30年) - 8月3日、汽車でサラット・チャンドラ・ダースの別荘のあるダージリンに到着。当地にてチベット語を学ぶ。

1899年(明治32年) - 約1年間のチベット語就学後、1月5日にカルカッタへ戻る。

1899年(明治32年) - 1月20日頃、ブッダガヤを参拝し、ダンマパーラ居士より法王ダライ・ラマへの献上品を託される。

1899年(明治32年) - 2月、ネパールの首府・カトマンズに到着。

1899年(明治32年) - 3月初め、チベットへ密かに入れる間道があるというネパール西北のロー州を目指す。

1899年(明治32年) - 5月中頃、間道の警護が厳しくなっているという噂を聞いたため、ネパール北部のツァーラン村に留まり、チベット仏教の学習などをして過ごす。

1900年(明治33年) - 3月10日、新たな間道からチベットを目指すため、ツァーラン村を出立。

1900年(明治33年) - 3月13日、マルバ村に到着。間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。

1900年(明治33年) - 6月12日、マルバ村を出立。

1900年(明治33年) - 7月4日、ドーラギリーの北方の雪峰を踏破し、ネパール側よりチベット国境に到達。

1900年(明治33年) - 8、9月頃、マナサルワ湖やカイラス山を巡礼した後、公道を通ってラサを目指す。

1901年(明治34年) - 3月21日。チベット・ラサに到着。

1901年(明治34年) - 4月18日。セラ寺の大学の入学試験を受け合格し、修学僧侶として籍を置く。以降、チベット仏教の学習や経典の蒐集などをして過ごす。

1902年(明治35年) - 5月29日。およそ1年2ヶ月余りの滞在後、ラサを脱出。

1902年(明治35年) - 6月15日。五重の関所を3日程で抜け、国境を超えて英領インドに入る。

1902年(明治35年) - 7月3日。ダージリンのサラット・チャンドラ・ダースの別荘に到着。その後、大熱病にかかり、当地で3ヶ月程療養する。

1902年(明治35年) - 10月頃、チベットからインドに来た商隊から、ラサ滞在時に交際していた人々に嫌疑がかけられ投獄されていると聞き、その救済の方策を思案する。

1903年(明治36年) - 1月10日。ネパール国王に謁見するためにカルカッタを出立し、ネパールを目指す。

1903年(明治36年) - 2月11日。カトマンズにて、河口慧海自身がチベット法王宛てに書き認めた上書をネパール国王を通じて送ることを許される。

1903年(明治36年) - 4月24日。インド・ボンベイよりボンベイ丸に乗船し、日本を目指して出港。

1903年(明治36年) - 5月20日。香港を経由し、神戸港に到着。無事6年ぶりの帰国を果たす。

1904年(明治37年) - 『西藏旅行記』を出版後、渡印。

1913年(大正2年) - 再びチベットに入る。

1915年(大正4年) - 帰国。

1921年(大正10年) - 僧籍返還。

1926年(大正15年) - 『在家仏教』を出版

1945年(昭和20年) - 脳溢血のため80歳で死去。

2004年(平成16年) - 『西蔵旅行記』の基になった日記が姪の自宅から見つかり、「ネパールからチベットへの越境にはクン・ラ峠を利用し、その際にヤクに荷物を載せていた」らしいことが判明した。

2007年(平成19年) - ネパールの国立公文書館に慧海が寄贈したものと思われる和装の仏書275点が保管されていることが確認される。

 

 

  

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探検家・冒険家 シリーズ 15-①

2013-04-11 16:27:50 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = 河口 慧海 仏教学者・探検家 = 

~ 梵語の原典を求めてヒマラヤを越え 潜伏し仏典入手 ~

=ラサの寺院 河口慧海老高僧の写真が飾られている=

 1866年 泉州堺(現・大阪府堺市)に河口定治郎は生まれた。 後の、河口慧海である。

 

 河口 慧海(かわぐち えかい)、 慶応2年1月12日に生まれ昭和20年2月24日に他界した。

  黄檗宗の僧侶。  仏教学者にして探検家。  幼名を定治郎という。 

僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。  中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、

  仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、 梵語の原典とチベット語の仏典を求めて、

日本人として初めてチベットへの入国を果たしている。

 

 1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度を受け出家する。

 1892年(明治25年)には大阪妙徳寺に入り、禅を学ぶ。 その後、五百羅漢寺の住職を勉めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す。

 数々の苦難の末、2度のチベット入りを果す。 帰国した後、1921年(大正10年)年に還俗、 大正大学で教鞭を取る。

 

 === “言海”や百科事典を参照すれば上記の略歴はすぐに判る。 また、還俗の理由については自身の著書『在家仏教』に詳しく記されている。

 私は彼の著 『チベット旅行記』(「西域紀行探検全集」7)を繰り返しよんだ。 以下、この本を頼りに彼の偉業を 彼の探検的足跡を追おう===

 

邦人未踏のチベットへ

 1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。

 摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。

※ スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。

 民族的出自はベンガル人。 ネータージー(指導者)の敬称で呼ばれる。 なお、スバスの部分は、シュバス(Shubhas)とも発音される。

 1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学に留学した。

 しかし1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じ、1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。 以降、ドイツに亡命 その後 日本に活動拠点を移し、独立運動に挺身

・・・・・・・・・・・

 およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。

 その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。

 日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、支那人と称して行動することにした。

 1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラ居士より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託される。

 同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。 当地にてボダナートの住職であるブッダ・バッザラ(覚金剛)の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。

 同年3月、カトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。

 ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索している。

 1900年(明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村へ向かう。

 村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。

 同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。

 同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。

 白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。

 チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。 

 それまで支那人と偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、支那人として入学してしまうと他の支那人と同じ僧舎に入れられ、自分が支那人でないことが発覚する恐れがあった。

 一方、以前に支那人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然として支那人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなる。

 たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。

 次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる。

 本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる。

 ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。

 また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。

 この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。

 

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探検家・冒険家 シリーズ 14-⑤

2013-04-10 13:54:33 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ロバート・ファルコン・スコット・南極探検家 =

~ 南極点到達レースの敗者 英国海軍大佐 ~

南極点到達レースの敗因・遭難の原因の分析

スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの者が分析を行っている。

 中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、スコット達の捜索隊にも参加した、アスプレイ・チェリー=ガラードらは、スコットがアムンセンに遅れをとった事や遭難死に至ったその敗因について、以下の様な分析を残している。

 アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は当初使用した雪上車、主力とした馬による曳行が悉く失敗し、人力でソリを引かざるを得ず、いたずらに体力の消耗を招いた。

 寒冷な気候に強いとされる品種の馬を用意していたものの、馬そのものの体重が重いため雪に足をとられたり、クレバスに転落した事などに加え、馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。

 アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑え、足りなかった場合は犬ぞりの犬も食用としている。 

 一方スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。 特に馬のための干草類は現地では全く入手できるものではなかったうえに、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。 

 アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査等の学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。

 アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。

 スコット隊の最終メンバーは、43歳のスコットを筆頭として30代が中心であり、30歳未満の若い隊員はバウアーズ一人だけであった。

 夏期としては異例とも言える長期間の暴風雪に見舞われた。

 この他にも、アムンセンは北西航路の探検時に越冬した際、地元のイヌイットから犬ゾリの使い方や、毛皮を使った防寒着の作り方など、寒帯での生存術を学んでいた。 また隊員はクロスカントリースキーが盛んなノルウェー出身だったため、スキーによる長時間の滑走にも慣れていたが、スコット隊はそのような技術や知識を持つ人間がいなかったことも要因とされる。

 

何よりも、スコットとアムンセンは南極探検の動機が全く異なっていた。アムンセンは子供の頃から純粋に極地探検を人生の目標としており、南極探検はあくまでもアムンセンの個人的な動機によるもので、探検の途中で重大な危機に遭遇した場合にはアムンセン自身の判断で引き返せる余地もあった。

 これに対し、スコットは大英帝国の威信をかけた国家事業の代表者として選ばれ、国家の期待を一身に背負って南極探検に臨んでいた。

 そのため、スコット隊が初期の段階で雪上車の故障や馬の全滅といった想定外の危機に見舞われても、スコットは国家の期待に背いて引き返すことを潔しとせず、職業軍人としてのプライドもあって、そのまま死へと向かって前進を続ける以外に選択肢を見出すことができなかったとも言える。

防寒服

 アムンセン隊はアザラシの毛皮などで作られた伝統的な防寒服を用いたが、スコット隊の服は牛革を重ねた形状の防寒服であり、汗などの体から出る水蒸気を吸い込みそれが次第に逆に体温を奪う結果となり、最後は保温の役目を殆ど果たしていなかったとも考えられている。

 なお、この防寒服を製作したのはバーバリー社である。

輸送手段

南極の最深部の気候はスコットの想定を遥かに超えており、1トンの荷物を曳ける大型馬に至ってはデポ(前進基地)を設置する為の往路の段階で次々に喪失しているなど、彼の用意した装備は南極の気候に耐えられるものではなかった。

 犬ゾリはスコット隊も用いていたが、小規模(アムンセンはスコットの3倍以上の116頭)かつ極めて限定的な補助用途であった。

 前回1901年の南極探検の折、スコットは訓練不足の犬が使い物にならなかった反省として、荷物の移動手段を馬と機械に頼ったのが仇となり、両方とも途中で使い物にならなくなってしまい、最終的に人力が主体となってしまった。

 ただし、人力を主体とすることが必ず失敗につながるわけではなく、事例としてノルウェーのフリチョフ・ナンセンは、グリーンランド横断の時、二ヶ月間人力で橇を引き、5人の隊員を一人として欠くことなく探検を成功させている。

 当初、南極点到達隊は4人の予定で資材・食料などを計画していたが、スコット自身の判断で土壇場で5人にした事が影響を与えたのは否めない。

 一人の増加とはいえ、4人用テントでの十分な休息は困難となり、荷物の増加に伴い移動時間も増大する等、探検の末期にはその悪影響は甚大なものとなっていた。

 これは、一人でも多くの隊員に南極点到達の栄誉を分け与えたいというスコットの情によるものと考えられている。

移動コース

 スコット隊のルートは約1,500kmと若干長距離であるものの、大部分がシャクルトンなどこれまで数次のイギリス探検隊により踏破済みのルートで、地形やコースコンディションなどはほぼ把握されており、未知の部分は全体の約1割の155kmに過ぎず、リスクは比較的低いと見られていた。

 一方アムンセン隊が選択したルートは直線距離こそ若干短いものの、約1,150kmの全行程が未踏破であるどころかベースキャンプを設置する上陸地点からしても、誰も上陸したことが無かったという文字通り手探り状態からのスタートであった。

 結果としてアムンセン隊のコースは比較的平坦なコースとなったが、スタート時点ではその事実は判明しておらず、コースの状況如何によっては大回りもしくは探検中止を余儀なくされていた。

 あるいはスコット隊と同じく何らかのアクシデントにより遭難していた可能性すらあった。 このため単純に距離の長短をもってスコット隊が不利だったということはできないという意見もある。

学術調査

 スコット隊は、学術的に大きな価値を持つもの(南極がかつてゴンドワナ大陸の一部だったことの証拠であるグロッソプテリスの化石など)が含まれていたとはいえ、35ポンド(約16kg)におよぶ標本を最後まで手放さずに持ち帰ろうとしていた。

 その分、スコット隊の隊員達が運ばなければならない荷物の重量はより増加し、彼らの疲労を限界以上に深めていたことも否定できない。

リーダーシップ

 日本の西堀栄三郎は、両者の生い立ちや隊の運営の仕方にも原因があることを指摘している。

 まず、アムンセンが少年の頃から極地探検家(当初は北極だった)になることを夢見て必要となる準備を進めてきた。  一方のスコットは、南極探検の計画者である王立地理学協会のクレメンツ=マーカム卿によって隊長に抜擢された。

 その理由はスコットがたまたまマーカム卿の従兄弟と同じ海軍の部隊に所属していたからである。 いうなればスコットの極地探検はマーカム卿によりお膳立てされていたものであった。

 このことから、南極行きを志した時点で既に両者の間に「心構え」の差ができていたと指摘している。

 また、アムンセンは隊員の自主性を尊重するチームワークで運営したことに対し、スコットは、イギリス海軍式の階級制度を取り入れた運営だった点も指摘している。

 アムンセンの場合は、隊員に装備品の改良の提案を募集するなどし、隊員全員が参画意識を持って自主的に一つの目的に向かえるよう配慮した。 

 一方スコットの場合は、階級制度による上意下達的な隊の運営が隊員の士気にも影響し、細心の注意を払うことができなかったものと推測している。 

 西堀は、仕事というものは自らが強い「やる気」をもってやるのでなければ「細心の注意で」など決してできるものではない、と自らの南極体験から指摘している。

 さらに、アムンセンは、リーダー自らが常に平常心を持って決断し行動できるよう、「行ってみて、無理ならば引き返せばいい」というような楽観的態度を心がけた。

 一方スコットの場合は、極点到達がアムンセンに先を越されたときに帰途の不安をのぞかせているが、リーダーが少しでも不安顔をのぞかせるとそれが隊員にも伝播し、隊員の不安をもつのらせ、平常心を失わせ、重要なときに物事の判断を誤らせることになったと指摘している。

 

 

 20世紀に入っても、人類にはまだ地球上に「未知の世界」が残されていた。

 その一つが両極地方であった。

 その過酷な自然条件は人を寄せ付けず、それに挑んだ数多くの探検家の命を奪っていった。しかし、今世紀に入り、ついに極点への到達が果たされた。

 まず1909年、ピアリー(アメリカ)によって北極点が。そしてこのニュースは、ある一人の探検家にとって転機となった。

 さらにもう一人。

 アムンセン(ノルウェー)とスコット(イギリス)である。

 奇しくも「競争」となった南極点到達への道のりは、劇的な結末を迎えることになったのです。

 

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探検家・冒険家 シリーズ 14-④

2013-04-09 16:06:31 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ロバート・ファルコン・スコット・南極探検家 = 

~ 南極点到達レースの敗者 /  英国海軍大佐 ~

パーティーの遭難

  アムンゼンは、12月7日 シャクルトンの最南端到達記録を突破。 最後のデポを設置。 そして、12月14日、午後3時。 ついに南極点に到達した。 

 ノルウェーの国旗を掲げ、周辺部を踏破。 滞在は17日まで続き、入念な観測が重ねている。

 帰路。 ペース調整のためスピードを落とす余裕さえあり、往路設置したデポは確実に通過。

 明けて1912年、1月18日、スコット隊が極点を後にしたとき、アムンセン隊はすでに事前のデポ作戦で到達していた線さえも越えていた。

 1月25日、アムンゼン隊はフラムハイム基地に帰着。 99日、2976㎞の旅だった。

 翌日、フラム号が入港している。

 「…彼らはみな愛想よく、満足そうだった。 しかし誰一人極点のことを尋ねる者がいなかった。 ようやくヤーツェンの口からそれがもれて出た。

 『あそこへは行ってきたんですか?』

 わが仲間たちの顔を輝かせた感情を言うのには、喜びという言葉では足りない、何かそれ以上のものがあった。」

 到達・あと20

 些細な過ちの蓄積が、今や取り返しのつかない危機を招いていた。 しかし、一行はあくまでも科学探検隊だった。 ウィルソンはこの状況下でも岩石の標本を採集し、最後のテントまでそれは運ばれていった。

 食糧不足が深刻化し、凍傷にかかっていたエバンズが衰弱する。 5人中唯一の兵卒(他は士官)という立場をわきまえていた彼は苦痛に耐えていた。 

 E・エヴァンズの衰弱と凍傷は激しく、2月16日、最初に死亡した。

 3月に入る。 急激な寒気で、オーツの凍傷は悪化した。 行程はさらに遅れる。

 このような状況にあっても、ウィルソンを中心に標本採集を継続していた。 さらに不運な事に、2-3月としては例外的な荒天が続いた。

 また、前年にデポに貯蔵した燃油も、冬と夏の気温差により缶が損傷したため、著しく欠乏していた。

 続いてオーツが足は重度の凍傷が進行していく、自らを見捨てるよう嘆願するようになった。 

 彼が重体となった3月14日、スコットは日記に、携行していた阿片・モルヒネの使用をウィルソンに相談した事を記している。

 3月17日の朝、オーツは「I am just going outside and may be some time」(「ちょっと外へ出てくる」)と言葉を残してブリザードの中テントから出て行方不明となる。

 この日は、彼の32歳の誕生日でもあった。

 3月19日。 あの「1トンデポ」まであと20㎞。 しかしついに一歩も動けなくなる。 風と、雪と、氷と、寒さが彼らを阻んだ。

 3月21日、食料を置いたデポまであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。

 吹雪は10日間も吹き荒れテントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。

  3月29日。 ウィルソンとバワーズはすでに死んでいた。 スコットは何通もの手紙をしたため、最後の日記をつける。 

 スコットは日記に1912年3月29日付で「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。 残念だがこれ以上は書けそうにない。 どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」

 と書き残し、寝袋に入ったまま 3人ともテント内で安らかに息を引き取った姿が後日発見された。

 スコットは妻に宛てた手紙の結びに・・・・・・・・・

             「家にいて安楽すぎる暮らしを送るより、はるかにましだった」 と記していた。

 

 11月12日。 捜索隊が遺体を発見した。

 

 ≪何もかもが成功したアムンセンと不幸を全て背負ったかのごとくに対比されるスコット。

 その悲劇的な最期に隠れがちだが、科学調査という本来の目的は少なからず果たした。 単に「競争」の敗北が全てではない。

 一方、アムンセンがスコットの栄光を横取りし、あまつさえ死に追いやったという中傷も正しくはない。 スコットは探検家として、してはならない過ちを犯したのも確かなのです。

 双方が成し遂げた成果は正しく評価されるべきであり、探検の歴史にとってどちらも必要欠くべからざる存在であることに変わりはないと思います。 以下にその証明があります≫

 

 先に帰還した隊員たちは、2月末までに全員エヴァンズ岬の基地に到着した。 捜索隊により3人が発見されたのは、次の夏を迎えた6ヵ月後のことだった。 スコットは親友でもあったウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていた。

 テント内では、遺品の他、死の直前まで書かれた日記・地質標本等も遺されていた。

 特筆すべきは、南極点でアムンセン隊から委託されていた手紙である。 アムンセン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者に自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものであった。

 スコット隊が所持していた事によりアムンセン隊の南極点先達は証明され、また「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声を高めた。

 スコット本人の遺書(スコットの遺族・隊員の遺族らに計12通)はイギリスの名誉に対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴え、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという内容のものであった。

 探検隊は翌1913年1月22日に南極を離れ、帰国の途についた。

 

 

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探検家・冒険家 シリーズ 14-③

2013-04-08 14:36:16 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ロバート・ファルコン・スコット・南極探検家 =

~ 南極点到達レースの敗者 英国海軍大佐 ~

 出発・敗北を知らず…

  越冬を終え、1911年9月、アムンセンは総勢8人で出発した。 しかし、未だ寒さは厳しく、一度基地へ引き返す。

 隊を二分し、3人を周辺地域の探検にあてて、総勢5人で再出発した。10月19日のことだった。

 アムンセン隊は、あえてシャクルトンのたどったルートを避け、全くの新しいルートで極点を目指した。 先のデポ設置で到達したS82°以南は全くの未知の世界となる。

 犬にソリを曳かせ、人間はスキーでついていくという方法は思いのほか成功で、ロス氷床を抜けるまでの約550㎞の間、楽々と進むことができた。

 

 1911年10月、マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は、エヴァンス岬(ロス棚氷)から南極点に向け出発する。 雪上車2台による先発隊が10月24日、そしてロバート・スコットが率いる馬ソリの本隊が11月1日に出発した。

 しかし、これに先立つ10月19日には、より南極点に近いクジラ湾からアムンセンの犬ぞリ隊も南極点を目指し出発していた。

 出発前にアムンセンはスコット隊の隊員と会見した時、そり犬を譲ろうと申し出ているのだが、イギリス側はその申し出を断っている。

 スコット隊は投入した2台の雪上車が、スコットの期待に反し1週間足らずで両方とも故障し修復不可能になる等、南下は困難を極める。

 82°デポにたどり着いたのは11月3日、スコット本隊はようやく出発したばかり(S78°)だった。 デポ作戦の成功で、あたかもここが出発基地のような充実ぶりである。

  以後、緯度約1°ごとに帰途用のデポを新たに設置しつつ前進。荷が軽くなったことで行進速度はさらに速まる。

 11月8日、S83°着。

 11月12日、S84°着。

 11月15日、S85°着。

 主力の馬も、11月21日に1頭、寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、南下のペースが鈍ってゆく。

 ロス氷床を抜け、行く手を遮る山脈を越えて南極「大陸」へと乗り込むことになる。  

 12月2日、ついに食料節約のため最後の一頭も射殺せざるを得ない状況に追い込まれた。 そして 人力でソリを曳かざるを得なくなった。

 この時点で、4人一組で曳引するソリが3台、犬ゾリが2台となる。

 12月11日、まず犬ゾリ隊が帰還。  同月22日に、4名が帰還した。

 

山を越えて・絶望

  山を登りきると、ほぼその高度を保ったまま極点まで「大高原」が広がっている。 標高約3000m。

 アムンセン隊は山越えをわずか4日間程度で達成した後、当初の予定通りソリ犬の半数を処分した。 食糧の消費を減らすとともに、処分した犬自体も残った者達の食糧とするのだった。

 人はこれを非情とそしるかもしれないが、食習慣の相違も考慮に入れれば、十分に考えうる行為である。 

 もとより覚悟の上であるにせよ、彼らとてその日まで苦楽を共にしてきた「仲間」が処分されてゆくのに辛さを覚えずにはいられなかった。

 「…そうすることでできるだけ音を立て、やがて響いてくるはずの何発もの銃声を聞かずに済ませようとしていたのだ。 我々の有能な僚友で忠実な助力者だった犬のうち24頭が死ぬ運命になっていた。 つらいことだった。 しかしやむを得なかった。 目的を達成するためには何事からも尻込みしないことに我々の考えは一致していた」

 その肉を貯蔵したデポを設置して、氷河地帯を抜けて12月3日、ついに「大高原」へと到達した。 後は極点に向けて走るのみ。

 アムンセン隊がすでに極点に到達し、帰途に就いたとき、スコット隊は未だ氷河地帯の半ばであった。 「大高原」へと入り、12月31日、S87°に到達。 1912年1月3日、極点到達のメンバーを選考。 ここで、当初4人の予定が5人となるのです。

 それはこれまでの4人一組の行動パターンが崩れることを意味した。 

 単純に、食糧の分量も減ることになる… スコット隊は自ら破滅へと進む。 「5人目」のバワーズ隊員は、一人だけスキーがなく、徒歩であった。 一つ前のデポに置いてきてしまっていたのだ。

 

 1912年1月4日に南緯87度32分の地点でグループは分かれ、エヴァンス少佐ら3名が帰還した。

 最終的に南極点を目指すのはスコット、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・バウアーズ、ローレンス・オーツ大尉、エドガー・エヴァンスの5人に絞られた。

 スコットが直前になってバウアーズを加え、当初の予定より1名多いきなる。

 1月9日、かつてシャクルトンが到達した南緯88度23分を越える。 翌10日、最後のデポを建設。

 前進して、デポ地を設けキャンプ地に戻る。 この繰り返しで未知の地帯を安全・確実に前進する。 この方法は、後年のヒマラヤ登山で“極地法”と呼ばれることになります。

 1月15日。 「我々より先についたノルウェーの国旗を見せられるというゾッとするような可能性がある」

 1月16日。 遠方に人工物と思われる雪の塚、立てられた黒い旗を発見。

 1月17日。 そこには、ノルウェーの旗が翻っていた。

 

   「“極点…神よ、ここは恐ろしい土地だ”、 我々はまだ、1480kmの距離を、自らソリを曳いて、帰らねばならない。・・・・・」

 1月17日18時30分頃、スコット達は遂に南極点に到達した。  翌18日に英国国旗を立てる。

 しかしその時は、アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1ヶ月も経っており、極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。  極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料・防寒具・手紙が置かれていたのです。

   ≪映画などでは劇的効果を高めるために南極点到達時にアムンセン隊に先を越されたことが初めて判明したように描写されることが多い。

 しかしスコット達はそれ以前にアムンセン隊のソリの滑走痕を視認しており、遅くとも1月16日には彼等に先を越されたことはほぼ確実であると認識していたと考えるのが順当でしょう≫

 

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探検家・冒険家 シリーズ 14-②

2013-04-07 19:41:19 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ロバート・ファルコン・スコット・南極探検家 =

~ 南極点到達レースの敗者 英国海軍大佐 ~

=写真説明;光器の光を頼りにテラ・ノヴァ号の残骸に接近する、高解像度撮像装置「SHRIMP(Simple High Resolution IMaging Package)」(8月11日撮影)。教育機関用に開発された機材だが、沈没船の画像情報の収集に初めて採用され、十分な成果を上げた。 北大西洋グリーンランド沖の海底で見つかったテラ・ノヴァ号のマスト部分。 テラ・ノヴァ号は南極探検用に改造された木造捕鯨船で、1910~1912年にイギリス海軍大佐ロバート・ファルコン・スコットが率いる探検隊が使用した=

 アムンセンとスコット

 ロアルド・アムンセン(1872~1928)はノルウェーの首都クリスチャニア(現オスロ)近郊の船乗りの家に生まれた。 両親は彼を医者にさせたかったが、本人は密かに北極探検家となることを志し、鍛練を積んでいた。

 両親の他界の後、本格的に探険の道に進み、1903年から1905年にかけて、「北西航路」の通過に史上初めて成功する。

 大西洋からカナダの北を通り、ベーリング海峡を通過するこのルートは、ヨーロッパ人が300年以上にわたって探し求め、通過しようと多大な犠牲を払ってきた道のりだった。

 ついで、長年の宿願であった北極点到達を計画する。 同国人の先輩ナンセンよりフラム号をはじめとする援助を受け、いよいよ出発というときに、ピアリーによる北極点到達のニュースが入る。

 アムンセンは心中密かに目標を変え、前人未踏の南極点到達を決意した。 しかし、計画の中止を恐れ、北極の科学的調査を名目に1910年8月出発した。

 マデイラ島で隊員に真相を発表し、先発していたスコット隊へも電報でその旨を知らせると、マデイラを発って一路無寄港で南極の泊地へと到達した(1911年1月)。

 母国出港時の2ヶ月の遅れは、わずか10日まで縮まったのだった。

 

 ロバート・ファルコン・スコット(1868~1912)はイギリスはデヴォンポートの酒造工場経営者の長男として生まれた。 ひ弱で癇癪持ち、消極的だった少年も、軍隊に入って見違えるように成長した。

 指揮官としての資格を十分に備えてはいたが、それはまたある点においては後の悲劇の原因となることにもなった。

 イギリス王立地学協会会長のマーカムはスコットの才覚に注目し、南極探検隊の隊長に彼を選んだ。 1902年から1904年にかけての探検で、S82°17′という人類最南点到達記録を記録し、また科学調査でも大きな成果をあげ、スコットは国民的英雄となった。

 その後、先の探検での部下でもあったシャクルトンがS88°23′、極点までの距離残り160㎞まで到達(1909年)し、スコットも再び南極行きを望むようになった。

 しかし、彼の目的はあくまで科学調査であったが、資金集めにはどうしても「南極点到達」を掲げねばならなかった。

 1910年6月、テラ・ノヴァ号はロンドンを発ち、南極へ向かった。 メルボルンで、一通の電報を手にする。

  「われ南極へ向かわんとす、マデイラにて、アムンセン」

テラ・ノヴァ号の探検  

 1910年6月1日、スコットはテラ・ノヴァ号にて第2回南極探検に出発する。  この探検には8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。

 探検隊の編成は、隊長:ロバート・スコット海軍大佐、副隊長:エドワード・エヴァンズ海軍少佐、以下 ヴィクター・キャンベル海軍少佐、ヘンリー・バウアーズ海軍少佐、ローレンス・オーツ陸軍大尉、エドワード・アトキンソン海軍軍曹、他海軍士官7名

 科学者8名・技術者4名・エドガー・エヴァンズ(海軍)・トマス・クリーン(海軍)・他普通隊員12名

 装備としてウーズレー社製 モーター雪上車 3台、矮馬(ポニー) 19頭、犬 33頭

 = 同年ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊は、北極点到達がロバート・ピアリーの米国隊により達成された事を知り、目標を南極に変更した。=

 テラ・ノヴァ号は10月12日、オーストラリアのメルボルンに、10月27日にはニュージーランドのウェリントンに到着。

 ここで、ノルウェーのアムンセン隊も南極点到達を目指すことを知る。

 なお、スコット本人は資金調達のため別行動を取っている。

 テラ・ノヴァ号は1910年12月に氷海と化したロス海を進行していた。

 両隊とも、1911年1月には南極大陸に上陸し、翌夏の南極点到達を目指し、デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。 この冬の段階で、スコット隊の馬は すでに 10頭まで減っている。

 ウィルソンやキャンベルを中心に学術調査も行われたのです。

 

 フラムハイム(ロス棚氷の北東部にあるクジラ湾)

 アムンセン、スコット両隊ともに、南極大陸太平洋側のロス氷床にそれぞれ基地を設けた。 アムンセン隊の基地「フラムハイム」の方が極点に100㎞ほど近く、アザラシ等食糧も豊富だった。

 ここで越冬準備中、テラ・ノヴァ号とフラム号が会合した。 アムンセンはテラ・ノヴァ号を訪問し、極点到達競争が宣言された(スコットは不在)。 

 また、アムンセンはソリ曳き犬の提供を申し出たが、馬を主力とするイギリス隊はこれを断った。あるいはこれが、両隊の明暗を分けることになるかもしれない。

ハットポイント(南緯77度51分、東経166度40分のロス島の半島南端部)

 スコット隊は、イギリス伝統のマクマード湾ハットポイントに基地を置いた。 スコット自らも、前回の探検でここを基地としていた。

 スコット隊もデポ設置にかかるが、早くも暗雲が立ち込める。 アムンセン隊と違い、馬ゾリと犬ゾリの混成部隊(馬が主力)には事故があいつぎ、1トンの物資を運ぶ(1トンデポ)ものの馬3頭を失い、何よりS79°29′までしか到達できなかった。

 アムンセン隊の進出にはとうてい及ばない。

 すでに本格的な探検行が始まる以前から、アムンセン隊に対して大きな遅れを取っていたことになる。 隊員の練度についても同様で、南極に来てから初めてスキーを習った者もいるという始末では、先行きが思いやられるというものであった。

 82°デポ・馬と人と

 越冬を前に、「デポ」と呼ばれる前進基地を設置する作業が必要だった。 事前に先行して食糧、燃料等の貯蔵所を設置しておけば、本隊の持参分とあわせてより多くの物資が使用可能となるわけである。

 アムンセン隊は三度にわたるデポ設置でS82°地点にまで物資を送り込むことに成功した。 犬ゾリによる走行は順調で、S83°までの目標は達成できなかったものの、十分な量の物資は確保できたのだった。

 南半球にあたる南極大陸では、4月~8月いっぱいまで厳しい「冬」を迎える。 様々な観測や準備をしつつ、「春」を待つ。

 先発隊に引き続き、本隊は馬ゾリで11月1日に出発した。 さらに犬ゾリ隊が後発する。 事前のデポ設置が不首尾に終わっていたため、その分も物資を輸送しなければならなかったのだ。

 輸送隊を編成すればもちろん、彼ら自身が消費する物資も同時に運ばねばならない。大所帯の移動になればなるほど、雪達磨式に必要な物資は増え、また行進のスピードは鈍くなる。

 さらにこの時期、スコット隊は悪天候に悩まされていた。 先発、本隊、後発の3隊が合流し、11月25日、S81°付近で先発隊のうち2名を基地に帰した。 隊員14人、馬9頭、犬23頭となった。

 11月末にはスコット隊がむしろ好天に恵まれたが、12月に入ると雪が続き、馬の食糧が尽きてしまう。 馬は射殺され、食料にされた。

 12月9日には全ての馬を失う。 ソリの牽引を馬に頼っていたスコット隊は、人みずからの力でソリを曳かねばならなくなる。 行程は鈍り、疲労は蓄積してゆく。

 アムンセン隊も犬を処分したが、あちらは計算内であり、その肉をデポに保存したが、スコット隊は重要な牽引力を計算外に失い、その肉も保存せず食べ尽くしてしまった。 

 しかし、そもそもはこの自然条件に馬が適していないということである。 前回の探検で犬ゾリの使用に失敗した結果を、そのまま鵜呑みにしてしまった。

 スコット隊の運命の歯車は、すでに狂い始めている。 

 12月11日。 予想に反して犬ゾリは氷河地帯を進むが、補助手段でしかなかった犬ゾリ隊は基地へ帰ることになる。

 S83°35′地点にて、ついに人力のみでソリを曳くことになった。 雪盲に悩まされるようになった。

 ーーーーーー続くーーーーーーー

 

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探検家・冒険家 シリーズ 14ー①

2013-04-06 16:08:24 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ロバート・ファルコン・スコット・南極探検家 =

~ 南極点到達レースの敗者 英国海軍大佐~

  南極の発見には諸説あるが、1820年から翌1821年の1月にロシアのファビアン・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフが南極に到達したことはごく初期の事例に当たる。

 1月後にアメリカのジョン・デイビスらが南極大陸初上陸を果たした。

 当時、南極の地形は未知であったが、19世紀中ごろにアメリカの海軍士官チャールズ・ウィルクスが自ら行った1839年-1840年の探検結果を元に南極は新大陸であると主張し、後にそれは正しさが証明された。

 ジェイムズ・クラーク・ロスは1839年-1843年に航路で南極点到達を目指す探検に挑んだが、失敗した。

 南極点への行程を探す最初の試みは、1901年-1904年にディスカヴァリー号探検隊に加わったイギリスの冒険家ロバート・スコットによって行われた。

 アーネスト・シャクルトンやエドワード・ウィルソンとともに、出来るかぎり南を目指したスコットは、1902年12月31日に南緯82.16度まで到達したている。

 シャクルトンはニムロド号探検隊の隊長として再び南極に挑み、1909年1月9日に南緯88.23度、南極点まであと112マイルというところまでたどり着いたが、引き返さざるを得なくなり涙を呑んだ。

  人類初の南極点到達は、1911年12月14日にノルウェーのロアール・アムンセン一行によって成し遂げられた。

 アムンセンは南極点にポールハイムというキャンプを張り、南極点周辺の台地を国王ホーコン7世にちなみ「ホーコン7世台地」と命名している。

 ロバート・スコットもまたテラノヴァ号探検隊を組んで再び南極大陸に上陸し、南極点を目指していた。

 スコットと4人の探検隊が南極点に到達したのは1912年1月17日、アムンセンに遅れる事34日後だった。 そして、帰路 飢餓と極寒の中で彼らは全滅してしまう。

 

 南極点到達はイギリスとスェーデンの国威に関わる競争であった。 両者の争いの詳細は後に話しますが、国の名誉を背負う冒険者の話をしよう。

  ロバート・スコット; ート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott、1868年6月6日 - 1912年3月29日) は イギリス海軍の軍人。

 南極探検家としても知られ、1912年に南極点到達を果たすが、帰途遭難し、死亡する。

 

 1868年、醸造業を営むジョン・エドワード・スコットの長男として、誕生。  武人の家系であり、13歳で海軍兵学校に入学する。 15歳で士官候補生となり、1888年、海軍大学を卒業。

 1899年、少佐だったスコットは、王立地理学協会による南極探検計画を知り、隊長として参加する事を熱望する。 翌年中佐に昇進し、その任にあたったのです。

 1901年から1904年にかけて、第1回南極探検(ディスカバリー号の探検)が行われた。

 この際、アーネスト・シャクルトンらと共に南極点到達を目指し、残り733kmの地点まで迫っている。 また、ペンギン生態観察等を行い、南極に関する多くの科学的知見を得て、高い評価を得、帰国と同時に大佐に昇進する。

 1908年に、彫刻家のキャサリン・ブルースと結婚。 

 1909年9月、彼の南極探検計画が発表され、同年12月には自ら予備役に転じ資金調達に奔走する。 

 前回の南極探検は、国家的プロジェクトだったが、今回の探検はその立案からスコット個人によるところが大きかった。

 1910年から1912年にかけて、南極探検(テラ・ノヴァ号の探検)が行われた。 学術調査だけでなく、ノルウェーと人類史上初の南極点到達を競うことになる=アムンゼンとの戦い=が、2着に終わり、さらに帰路1912年3月29日、死去した。  享年43歳。

 同年10月に救援隊により遺体が確認され、遺品の一部が回収されたが、遺体は現在も回収されていない。

 ロンドンのウォータールー・プレイスには、北極探検の半ばに死亡した、ジョン・フランクリンの銅像と並び立つように、スコットの像が建てられている。

 この銅像は、キャサリン夫人が製作したものである。

 

さて、彼の足跡を追う旅に出よう

 

 

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探検家・冒険家 シリーズ 13 

2013-04-05 12:58:36 | 冒険記譜・挑戦者達

現代の探検家 = 堀江 謙一(ヨットマン) =

~海洋冒険家・太平洋ひとりぼっち(ソロセーラー)~

台風に遭遇、浸水と格闘

 堀江さんのヨット「マーメイド号」は全長5.8メートル、最大幅2メートル、重量697キロで、メーンセール(主帆)の面積は7.7平方メートル、高さは7メートル。「だれもが練習用だと信じこんでいた」という。

 西宮を出てから紀伊水道を抜け、八丈島沖を通過し、三陸沖に向かった。北緯40度付近から東に向けて一気に米西海岸を目指した。

 出航してから10日余りのとき、台風に遭い、船大工に腹をたてながら浸水と必死に格闘した。飲料水は節約して1日0.8リットル(成人は1.5リットル以上)と決めた。

 食料は缶詰を温めて食べることが多かった。 堀江さんは「戦時中、缶詰はたいへんなごちそうだった。だからか、航海中の缶詰はごちそうに感じられた」と述懐する。

 

堀江 謙一(ほりえ けんいち、1938年9月8日 - )は、海洋冒険家(ソロセーラー・ヨットマン)。 大阪市生まれ。 兵庫県芦屋市在住。 関西大学第一高等学校卒業。 アマチュア無線家でもある。コールサインはJR3JJE。

 家業は自動車部品工場。 太平洋横断そのものは秘密裏の計画だったため、太平洋横断のためのスポンサードではない。 敷島紡績(現:シキボウ)から、資金不足に悩んでいる際、当社商標の人魚マークを帆に入れてくれれば、帆を一式寄付するとの申し出を受け、そのマークが入った帆の寄付を受けた事に因んだ。

 

 パスポートを持たない密出国だった。 兵庫県西宮市を出港して94日目の1962年8月12日。 1万キロにおよぶ航海をへて、堀江謙一さんのマーメイド号はついに米サンフランシスコに着いた。

 日の出前。 金門橋が目に入った瞬間、23歳の堀江青年は世界初のヨット太平洋無寄港単独横断の成功を確信する。

 安全運航の意思を示す黄色の旗をマストに掲げ、湾内をうろうろしていると、現地のヨットマンが船で近づいてきた。 どこから来たのかと聞くので、「フロム オオサカ ジャパン」と答えた。 彼は「ウオー!」と驚き、係留場所へと誘導してくれた。

 だが、堀江さんは達成感よりも「ノー・パスポートへの恐れがあった」。 誘導された岸壁が、正直、監獄島に見えた。ところが、上陸するとサンフランシスコ市長らから大歓迎を受ける。 寛大な措置で1カ月の滞在も許された。

 

  一方、大阪海上保安監部はお冠だった。 心配して洋上の日本船舶などに消息不明船手配を打電した数日後に、米西海岸で「ヒーロー」と称賛されている。保安監部は、人命軽視の暴挙と警告した。

  1カ月後に日本へ戻った堀江さんは出入国管理令違反の容疑に問われるが、大阪地検は起訴猶予処分とした。

 堀江さんがヨットと出会ったのは高校生の時。関西大学第一高校で「おもしろそう」とヨット部に入った。が、その封建的な体質に驚く。 下働きばかりでバカバカしさすら覚えた。 きつい抑圧に対する反発がかえって、気持ちを大海原へと駆り立てた。

 外国人冒険家の大洋航海記をバイブルのように繰り返し読み、あこがれを膨らませた。 父親の自動車部品商店で働いて資金をためた。

  

 数年後、関西ヨットマンの会合でヨットデザイナーの横山晃さん(故人)と出会う。

 「スナイプ級(2人乗りの短距離レース用)ヨットで太平洋は横断できますか」。 堀江さんの常識破りの珍問に、会場から笑いがもれた。

 当時、横山さんは太平洋横断用の船を設計中だった。  図面を見た堀江さんは横浜の横山事務所を訪ね、あらためて聞いた。 「このヨットで横断は本当に可能ですか」。 すると横山さんは「可能です」。

 その場で設計図を買った。 渡航計画は西宮周辺の仲間うちで秘密の話題になった。

 パスポートは、申請した役所が「ヨットで出国なんてありえない」と信じず、交付してくれなかった。 「この季節の太平洋上の気象状況を考えれば、もう時間がない」。 堀江さんは取得をあきらめ「不法出航」を決意する。

 《当時、宮崎から密かにドラムカン・イカダで出国した金子益男は銚子沖にて、黒潮海流に乗ろうと苦戦中に海上保安庁に発見されていた。 無法出国の容疑で強制的に保護され、収監されていた。 彼は手造りイカダで太平洋を単独横断を企てていた》

 62年5月12日。 人目につかぬよう、夜8時45分、ひそかに西宮港の岸を離れた。 出航前、親しい先輩2人が西宮駅前で焼きめしをおごって、見送ってくれた。

「黙っていてください」

「言うかいな」

                    先輩は暗闇をヘッドライトで照らしてくれた。

 48年前に出航したその港にほど近い新西宮ヨットハーバーで、堀江さんはいまも頻繁にヨットを操る。

 「なぜ太平洋横断に挑んだのか?」。一番うんざりする質問だという堀江さんは、精悍(せいかん)な日焼け顔で、いつもこう答える。

 「人生、本当に好きでやりたいことに、あきらめる、という選択はありません」

 ・・・・・・・・・

 高校ヨット部の後輩で堀江さんと合同練習をしていた田中孝義さん

 ◆沈黙したまま船出 喜んだ

関西大学第一高校(関大一高)のヨット部に入部した時のキャプテンが堀江謙一先輩だ。ヨットというスポーツでは、1年生と3年生だと、その技量、海への心構えなどまさに天地ほどの開きがある。堀江先輩は、僕には親父(おやじ)のような存在だった。

ヨット部は人気が低く、部員は15人ほどだった。みんな体格がよくて、声も態度も大きく怖かった。そんな中、小柄でちょっと線が細く見えたのが堀江先輩だった。

ところが堀江先輩は、海に出ると別人だった。関大のヨット部との合同練習でも、絶対に負けない。声もだれよりも大きく、ヨットの帆よりも高い波を抑えつけた。 その情熱にひかれ、僕は大学に入っても先輩と一緒に練習した。

あの昭和37年の春、関大ヨット部のキャプテンだった僕は西宮の停泊地にいたマーメイド号を毎日見ていた。 食料や水などを積み込み、少しずつ喫水線が下がった。 4月末になると限界線まできた。 「いよいよ決行するんだ」とひそかに感じ、緊張した。

5月半ば、僕も乗船したことがあるマーメイド号が、港から消えていた。 ヨット仲間のだれもが、沈黙したまま船出を喜び、快挙を信じた。

どんな大変なこともいとも軽やかに話してしまう堀江先輩の姿は、昔も今も同じだ。

戦争で父を失った僕に、男を教えてくれた人だ。

 

 

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探検家・冒険家 シリーズ 12-⑧ 

2013-04-04 17:23:49 | 冒険記譜・挑戦者達

現代の探検家 = ニール・アームストロング  宇宙飛行士 =

~月への航海  月面への第一歩~

ニール・オールデン・アームストロング(Neil Alden Armstrong)

 1930年8月5日 - 2012年8月25日

アメリカ合衆国の海軍飛行士、テスト・パイロット、宇宙飛行士、大学教授

人類で初めて月面に降り立つ、宇宙名誉勲章を受賞


病気と死

 2012年8月8日、ニール・アームストロングは82歳の誕生日を迎えた3日後に、心臓の外科手術を受けた。

 そして、2012年8月25日 心臓血管の手術後の合併症のために死去している。 享年82歳。

 ニールの訃報に際して、各方面からコメントが寄せられた。

 ニールは最も偉大なアメリカのヒーローの一人だった。 ニールが月面に最初の一歩を踏み出したとき、決して忘れられることのない人間の偉業の瞬間をもたらした。 =オバマ大統領=

 ほぼ世界中が、我々と共に記念すべき旅をした。私を含めて何百万という人たちが、真のアメリカのヒーローであり、私の知る限り最高のパイロットの死を悼んでいるだろう。 =オルドリン元宇宙飛行士=

 歴史の本が存在する限り、ニール・アームストロングはその中に刻まれるだろう。 我々の向こうの世界に人類の最初の小さな一歩を印したことが記録されるだろう。 =NASA長官チャールズ・ボールデン=

 彼の注目すべき人生が、世界中の若い人たちに、自分の夢を実現するために努力するお手本となって欲しい。

 進んで人生を切り開き、限界に挑み、自分よりも大きな理想のために尽してください。 … ニールへの敬意を示すには何をしたらよいかをお尋ねになるかたには、ただ次のことをお願いします。

 彼のお手本となる技量、功績、そして控えめな態度に敬意を払ってください。 それから、次の晴れた夜に外を歩いているとき、月があなたに微笑んでいるのを見たら、ニール・アームストロングのことを想ってください。 そして彼にウインクを。 =ニール・アームストロングの家族=

 家族葬が行われた8月31日には政府庁舎、在外公館で半旗が掲揚され、9月13日にワシントン大聖堂で追悼式典が行われた。

遺産

 ニールは、大統領自由勲章、宇宙名誉勲章、ロバート・H・ゴダード記念トロフィー、シルヴァヌス・タイラー賞、国有飛行協会からのコリアー・トロフィーなど、数多くの栄誉や賞を授かった。

 11号の着陸地点から50km離れたところにあるクレーターや、小惑星6469などは彼にちなんでアームストロングと命名された。

 またカリフォルニア州ランカスターの「宇宙飛行通り」やフロリダ州タイタスビルの「宇宙飛行士記念館」などの設立では、名誉会長に就任している。

 アメリカ国内では、13の小・中・高校が彼の名を冠し、 世界中でも多くの通りや建物、学校などが、アームストロングやアポロの名を借りている。

 1969年にはフォークソング歌手のジョン・スチュワートが、月面に記した第1歩のために「アームストロング」という曲を作ってニールに捧げ 世界中に流れた。

 故郷ワパコネタにはニール・アームストロング航空宇宙博物館が建てられているが、ニール本人は同館の設立には特に関わっていない。 また彼が初めて飛行訓練をしたニュー・ノックスビルの空港にも彼の名がつけられている。

 2005年、自らの伝記『最初の男:ニール・A・アームストロングの生涯』を発行することを許可した。 

 伝記については、これまでもスティーヴン・アンブローズやジェームズ・A・ミシェーナーなどの作家から著作したいとの打診があったが、その都度断ってきた。 しかしジェームズ・R・ハンセンが書いた他の人物に関する伝記を読んで、彼に発行の許可を与えたと言われる。

 幾多の記者達はしばしば、ニールに宇宙飛行の将来に関する展望を尋ねている。

 それに対し2005年には「有人火星飛行は1960年代における有人月飛行よりも容易に行なえるであろう」と答えている。

 「様々な課題はあるかもしれないが、それらは我々が1961年にアポロ計画をスタートさせた時に直面したものほど困難なものではない」

 彼はまた、アポロ11号で感じていた懸念についても回想している。 最初のうち、彼は月面に着陸できる可能性は50%しかないと思っていた。

 「着陸した瞬間、我々は意気揚々とし、有頂天になり、本当に成功したのかと信じられない気分だった」 と・・・・・・・・

 

 

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探検家・冒険家 シリーズ 12-⑦  

2013-04-03 18:34:26 | 冒険記譜・挑戦者達

現代の探検家 = ニール・アームストロング  宇宙飛行士 = 

~月への航海  月面への第一歩~

アポロ計画後の人生

教育

 アポロ11号の飛行を終えてしばらく経ってから、ニールは宇宙飛行士を引退することを表明した。

 彼は、国防高等研究計画局(DARPA)航空部門管理者協会副会長への就任を要請されていた。 もっともこのポストにとどまっていたのは13か月だけで、1971年8月にはNASAからも退官し、シンシナティ大学で航空宇宙工学の教鞭を執った。

 彼はシンシナティ大学だけでなく母校のパデュー大学でも教壇に立つことを決めた。

 パデューの航空宇宙学部は規模が小さいし、博士号を持っていない自分が他の有能な人材を差し置いて教授になることで余計な波風を立たせたくなかったからである。

 彼が持っている最高の学位は、南カリフォルニア大学で得た航空宇宙工学の修士号であった。 ニールはかつてエドワーズ空軍基地に配属された時に航空宇宙工学の勉強を始め、アポロ11号の飛行を終えた時「アポロ計画に関する様々な見地」というテーマでようやく修士論文を提出することになった。

 シンシナティ大学での彼の公式な立場は「航空宇宙工学教授」であった。 そこで8年間学生たちを指導した後、他からの誘いもあり、また大学も自治大学から州立大学に改変されることにともなって、1979年に同校を退職した。

  NASA事故調査委員

 ニールは二つの宇宙船事故の事故調査委員を務めた。

 初めは1970年に起きたアポロ13号に関するもので、エドガー・コートウェイトが調査報告をする際、彼は飛行記録の詳細を提示した。彼は個人的には、事故原因となった機械船の酸素タンクの設計を根本的に見直すべきだとする報告書の勧告には反対だった。

 1986年には当時のレーガン大統領から、この年に起こったスペースシャトルチャレンジャー号の爆発事故を調査するロジャー委員会の副委員長に任命され、委員会の執行を任された。

 

 実業家としての活動

 1971年にNASAを退官した後、いくつもの企業から誘いの手があったが初めのうちはいずれも断っていた。

 最初にニールとの契約を獲得したのはクライスラーで、1979年1月から宣伝媒体となった。 彼は同社は製造部門は強いものの財政的に困難を抱えているのではないかと考えていた。

 クライスラーの他には、ゼネラル・タイム・コーポレーションや全米銀行協会などアメリカを代表する企業のCMに出演した。

 CMの他には、マラソン・オイル、リアジェット、シンシナティ・ガス&電力会社、タフト・ブロードキャスティング、ユナイテッド航空、イートン・コーポレーション、オール・システムズ、サイオコールなどの企業で経営に参加した。

 特にサイオコールに参加したのはロジャー委員会の副委員長を務めた後のことで、チャレンジャー号の事故の原因は同社が製造した固体ロケットブースタによるものであった。

 2002年、エド・コーポレーションに勤めたのを最後に企業経営からも引退した。

 個人的側面

 人類で初めて月面を歩いた男に対して民主・共和両党からアプローチがあったが、宇宙飛行士から上院議員に転身した先輩のジョン・グレンやハリソン・シュミットらとは異なり、ニールは政治的な誘いは一切断った。

 彼は個人的には、「合衆国の正義」を基にアメリカが「世界の警察官」として行動することには反対であった。

 1971年には国家への貢献を表彰され、合衆国陸軍士官学校からシルヴァヌス・サイアー賞(Sylvanus Thayer Award)を授かった。

 1972年には、アームストロング一族の出身地であるスコットランドのラングホルムに招待された。 ニールは「この地が自分の遠い故郷である」と宣言し、この自治都市の初めての自由市民として認定された。

 儀式の中で、治安判事は「この地で見つけたすべてのアームストロングを絞首刑にせよ」という、400年前に施行され現在でも廃止されていない法律の条文を読み上げた。

 1979年、オハイオ州レバノンの自宅の農場で農作業をしていた時の事である。 刈取機から飛び降りた際、結婚指輪が機械に引っかかり、指輪をはめていた指が切断されてしまった。

 しかし彼は全く慌てることなく、すぐさま切断された指を拾うと氷に詰めて、ケンタッキー州ルイスビルのジューウィッシュ病院まで持って行き縫合手術を受けている。

 1991年、コロラド州アスペンで友人とスキーをしている際、軽い心臓発作に見舞われた。 この1年後には父親が、さらに9か月後には母親が、同じ心臓発作で他界している。

 

 アームストロングは最初の妻ジャネットと38年の結婚生活の後1994年に離婚した。 2人目の妻キャロル・ヘルド・ナイトと出会ったのは1992年のとあるゴルフトーナメントであった。

 この時は朝食で短い会話をしただけであったが、2週間後に彼女が自宅にいるとニールから「いま何をしているのか」という電話があった。

 「庭の桜の木を刈っているところだ」と答えると35分後にニールが手伝いに来た。 1994年6月12日、ニールはオハイオで、この女性と2度目となる結婚式を挙げ、 披露宴はカリフォルニア州のサン・イシドロ・ランチで行なわれた。

 1994年、彼の自筆のサインが高額で売買され多数の偽物が出回っていることを知ってからは、サインの要求は一切断ることにした。

 eBayなどのオークション・サイトでは1,000ドルで取引されることもあり、乗組員のサインが書かれた11号の写真などの中には5,000ドルに達する物もあるという。

 そのため、以降ニールのところにサインをねだる手紙を送った者は「申し訳ありませんがサインはお断りしております」と丁重に書かれた定型文書を受け取ることになる。

 ニールのサイン拒否の方針はよく知られていることだが、それでも中には「誰かが(ニールが)サインをすることを妨害しているのなら、すぐにやめさせろ」などと言う者もいたため、作家のアンドリュー・スミスは2002年のリノ・エアレースで、改めて人々にニールはサインをする意図がないことを知らしめた。

 サインの他には、ボーイスカウトのイーグル賞受賞者への祝福の手紙を送ることも取りやめた。 そのような手紙は受賞者を個人的に知る者から送られるべきだとニールは考えたからである。

 ニールはあまりにも有名になりすぎたため、彼の名声を利用したトラブルもまた、何年にもわたって発生するようになった。

 1994年にはホールマーク社が、彼の名前と "one small step" の一文を無許可で使用したとして、同社を訴えている。

 ニールのパデュー大学への寄付金の金額が公表されていないとして訴えられた件は、訴訟が却下された。 

 このような問題が発生したことにより、ニールおよびNASAは宇宙飛行士の名前、写真、記録などの使用に許可を与えることに対して慎重になった。 ただし非営利団体や公共的な組織に対しては、彼は常に使用許可を与えている。

 2005年5月には、妙な法律的闘争に巻き込まれることになった。

 20年来通っているマルクス・サイズモアという床屋がニールの髪を切った後、それを彼の許可を得ることなく、収集家に3,000ドルで売ったのである。

 ニールは床屋に対し、髪の毛を取り戻すか、もしくは彼が指定する慈善活動をしなければ訴えると通告した。 サイズモアは髪の毛を取り戻すことは不可能だったので慈善活動のほうを選択したと言う。

 

 

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探検家・冒険家 シリーズ 12-⑥ 

2013-04-02 17:19:59 | 冒険記譜・挑戦者達

現代の探検家 = ニール・アームストロング  宇宙飛行士 = 

~月への航海  月面への第一歩~

“I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.”  そして・・・・・・

 ニールの声明は「これより着陸船から足を踏み出そうと思う(I'm going to step off the LM now.)」の後に発せられた。

 それから彼は後ろを振り返り、左足を月面に踏みおろした。 彼の言葉はVOA(ボイス・オブ・アメリカ、アメリカ合衆国政府が公式に運営する国営短波ラジオ放送局)から、BBCをはじめ数多くの放送局を通して世界中に発信された。

 当時の世界の人口36億3,100万人 のうち、およそ4億5,000万人がこの言葉を聞いたとされている 。

 「小さな一歩」のくだりについては、ニールは月面に着陸してからの数時間の間に考え、決定していたという。

 

 ニールから遅れること15分、オルドリンも月面に降り立ち、月に立った2番目の男になった。 両名は、月の表面では人間はいかに身軽に動けるかということを実感しながら、予定されていた各種の行動を始めた。

 はじめに彼らの飛行を記念したプレートを月面に置き、次に星条旗を立てた。 この旗は宇宙空間でも展開できるように中にワイヤーが織り込まれていたのだが、

 旗竿を十分に伸ばすことができず、また旗自体もきつく折りたたまれていたため、真空中であるにもかかわらず、たなびいているように見えてしまった。

 地球では国旗を立てることに関する是非を問う声もあったが、ニールはそんなことは全く気にしていなかった。 旗を立てている最中、スレイトンが緊急連絡が入っていることを知らせてきたが、彼はわざとそれがニクソン大統領からのものであることは伏せておいた。

 オルドリンは旗を立てるのに手間取り、おまけに大統領から予定外の電話が入ってきたため、写真を撮る暇がなくなってしまった。

 全計画を通じて撮影された写真のうち、月面で活動するニールをとらえたものは5枚しか残されていない。

 オルドリンは後に語っているが、この計画の主目的は月面でのニールの写真を撮ることだったのだが、大統領の電話で予定が狂い、むしろ自分が撮影された写真のほうが有名になってしまったという。

 このハプニングのために予定が5分遅れた。

 彼らの行動は分刻みでスケジュールされており、ぐずぐずしている暇はなかった。 なお11号の月面活動の写真のほとんどは、ニールが持ったハッセルブラッド社製のカメラで撮影された。

 

 科学実験装置を設置した後、ニールは着陸船から60m東にあるイースト・クレーターまで歩いて行った。 今回の計画で着陸船から最も遠くに離れる行動であった。

 彼の月面における最後の任務は、ユーリ・ガガーリン(ソビエト連邦出身の史上初の宇宙飛行士。 この前年の1968年3月27日に飛行機事故で死亡)、ウラジーミル・コマロフ(同じくソ連の宇宙飛行士。

 1967年4月24日、ソユーズ1号の墜落事故で死亡)、そしてアポロ1号の火災事故で亡くなったガス・グリソム、エド・ホワイト、ロジャー・チャフィーらの業績を称えた記念品を収めたパッケージを、月面に置いていくことであった。

 11号の月面での船外活動の時間は2時間半ほどで、全6回のアポロ月面着陸の中で最も短いものだったが、この後の5回のミッションでは徐々に延長され、最後のアポロ17号では合計21時間に達した。

 地球への帰還

 船外活動を終え着陸船に戻りハッチを閉めたとき、彼らはかさばった宇宙服で上昇用ロケットエンジンのスイッチを壊してしまっていたことに気づいた。

 エンジンが点火できなければ地球への帰還は不可能になる。 そのためオルドリンはボールペンの先でスイッチを入れ、ロケットが上昇している間もずっとそれで押し続けていた。

 司令船とのランデブーとドッキングにも成功し、3人を乗せた司令船は7月24日16:50:35(UTC)、無事太平洋上に着水し、空母ホーネット(USS Hornet)に回収された。

 

 月から病原菌やウィルスを持ってきていないかを検査するため、帰還後ただちに特殊な病棟に18日間隔離された。

 異常がないことが確認されると、3人は「偉大な飛躍(Giant Leap)ツアー」と銘打った親善旅行で、45日間にわたって全米や世界各国を訪れた。

 1969年、コメディアンのボブ・ホープとともにベトナム戦争に従軍する兵士たちの慰安に訪れた際には、「我々が戦場に縛りつけられている最中に、どうして月に行く必要があるのか」という質問を浴びせられたこともあった。

 また三流紙の中には、この時同行していた歌手で女優のコニー・スティーブンスとの関係を取りざたするものもあったが、根も葉もないことであった。

1969年10月にはマイケル・コリンズ、バズ・オルドリンと共に日本を訪問。その際には日本政府より文化勲章を授かった。 この年の11月には銀座でオ-プン・カ-でのパレ-ドが行われて12万人の観衆が押し寄せた。

 

 1970年5月、ニールはソ連で開催された第13回国際宇宙調査委員会に出席した。ポーランドからレニングラード(のちのサンクトペテルブルク)に向かう途中、モスクワでコスイギン首相(当時)とも面会した。

 彼は西側の人間として初めてツポレフTu-144の現物を見て、そのあと「自然の中に造られた、ちょっとヴィクトリア朝風の建物(ニール談)」の、ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターを訪れた。

 その日の終わりにソユーズ9号発射のスロー映像を見せられたが、そこに搭乗しているアンドリアン・ニコラエフ飛行士は、いま目の前で彼をもてなしているワレンチナ・テレシコワ(世界初の女性宇宙飛行士)の亭主であることを知らされて、少なからず驚いた。

 

 

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探検家・冒険家 シリーズ 12-⑤ 

2013-04-01 15:47:14 | 冒険記譜・挑戦者達

現代の探検家 = ニール・アームストロング  宇宙飛行士 =

~月への航海  月面への第一歩~

  月への航海

  アポロ11号の発射の瞬間、ニールの心拍数は109に達した。

 サターンV 型ロケット第1段のS-IC の騒音はジェミニ8号のタイタンII GLVとは全く比較にならないほど想像以上のもので、アポロ宇宙船の船内もまた、ジェミニとは比較にならないほど広々としていた。

 この広さは宇宙酔いの原因となるのではないかと予想されたが、11号の乗組員は誰もそのような症状を訴えることはなかった。

 特にニールは子供の頃から乗り物酔いになる傾向があり、長時間の曲芸飛行をした後などには吐き気を覚えることがあったため、何も不調を感じなかったことで安心した。

 

 11号の目的は単に月面に降りるだけではなく、予定された地点に正確に着陸することであった。 月着陸船イーグルがエンジンを噴射しながら降下している時、ニールはシミュレーターで見慣れていたクレーターを通過する時間が2分ほど早すぎた事に気づいた。

 これはつまり、予定着陸地点を数マイルほど行きすぎてしまうことを意味していた。

 イーグルのレーダーは正確に月面をとらえてはいたが、その時コンピューターが警報を発した。

 最初はコード1202という警報で、訓練を積んだニールやオルドリンでさえもこの意味が分からなかったが、ヒューストンの管制官は迅速に、この警報には大した意味はなく着陸を続行するよう指示した。

 次に1201という警報が出されたが、これも無視するよう伝えた。1202と1201は着陸船のコンピューターがオーバーフローを起こしたことを示すものであった。

 オルドリンの「月の影」という著書によれば、このオーバーフローは彼自身が作成したチェックリストに従って、降下中にドッキング用のレーダーをオンのままにしておいたことが原因で起こったのだという。

 彼がそうしたのは、もし着陸を中止して緊急脱出する事態になった際司令船との再ドッキング手順を容易にするためだったのだが、その瞬間には正確な理由が分かる人間など誰もいなかった。

  ニールは操縦を手動に切り替え着陸を続行した。だがその時イーグルの行く先にはフットボール場ほどもある大きなクレーターが口を開けていた。

 内部には乗用車ほどの大きさの岩がいくつも転がっていて、その中に降りれば着陸船が転倒してしまうことは明らかであった。 他によい着陸地点はないかと目を凝らしていると、ようやく民家の庭ほどの広さの平坦な場所があるのを発見した。

 操縦桿を倒して機体を水平移動させる。 燃料はどんどん残り少なくなっていく。管制官が「残り30秒」と伝えた次の瞬間、センサーが月面に接触したことを感知してエンジンが停止され、着陸船は月面に降り立った。

 時間は1969年7月20日、20:17:39(UTC)であった。

 

 アポロ11号に関する多くの記事では、この時着陸船の燃料の残量は極めて危険なレベルにまでなっていたとされている。

 計器は残り17秒と表示していた。 だがニールは月着陸練習機で残り15秒以下になるような事態も経験していたし、着陸船は15mの高さから垂直落下しても耐えられるように設計されていることを知っていたので、自信を持っていた。

 また計画終了後の分析では、月面の重力が小さく、常に撹拌されているタンク内の燃料が予想以上に擾乱されたため残量が低く表示され、実際にはまだ50秒分以上残っていたのではないかとも言われている。

 

 月面に降り立ったとき、ニールが最初に発した言葉は、

 「 ヒューストン、こちら静かの基地。イーグルは着陸した (Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.)」 であった。

 もっとも実際に月面に着陸した瞬間に乗組員が発した言葉は、オルドリンの「接触灯が点灯した(Contact Light.)」だった。

 着陸脚には長さ1.5mのセンサーが取りつけられていて、先端が月面に接触すると船内の表示灯が点灯するようになっている。

 オルドリンは手順に従ってそう言ったまでのことだった。 その3秒後には再びオルドリンが「エンジンは停止した(Okay. Engine Stop.)」と言い、ニールが「停止を確認(Shutdown.)」と応えた。

 この直後2人は握手して成功を祝っただけで、すぐさまマニュアルに従い不測の事態が発生した時に備えて月面から緊急脱出する準備を始めた。

  

  月面への第一歩

 NASAの飛行手順では、乗組員は船外活動(EVA)をする前に休息を取らなければならないことになっていたが、ニールは休息を取りやめてEVAをヒューストン時間の夜に行うよう要求した。

 とてもではないが、眠ってなどいられなかった。 管制センターは要求を受け容れ、2人はただちに宇宙服を着て船内を減圧した。

 ハッチを開き、はしごを下り、左足を月面に踏み降ろしながら、1969年7月21日02:56(UTC)[36]、アームストロングは次のように言った。

 “  これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。

I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.

 いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり…、かなりなめらかだ。ほとんど粉のように見える。

 月面ははっきりと見えている。 I'm going to step off the LM now. これより着陸船から足を踏み降ろす。 That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.

 これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。

 

 ニール自身も認めているが、このとき彼は間違えて不定冠詞の "a" を省略してしまった(one small step for man)。

 確かにこの用法だと、man は「人類」の意味になってしまう(直訳すると、『これは人類にとって小さな一歩だが、人類にとって偉大な飛躍である』になる)。

 しかし彼は、「もし仮に間違っていたとしても、歴史が私の言い間違いを許す寛容さを持ち、人類が一つになる方向に向かって進むことを希望する」と後日述べている。

 

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