近代の探検家 = 河口 慧海 仏教学者・探検家 =
~ 梵語の原典を求めてヒマラヤを越え 潜伏し仏典入手 ~
1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。
親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の支那人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。
通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了・偶然出会った探検家の藤井宣正・後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。
翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの梵語仏典を賜る。
同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。
ダライ・ラマ13世(1876年2月12日 - 1933年12月17日)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。 1878年に、ダライラマの生まれ変わりと認定された。
当時のチベットは大清帝国と大英帝国とロシア帝国の渦中に巻き込まれていた。 後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。
しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。
井上 円了(いのうえ えんりょう 井上圓了、安政5年2月4日(1858年3月18日) - 大正8年(1919年)6月6日)は、仏教哲学者、教育家。
多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。 また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著した。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた。
16歳で長岡洋学校に入学、洋学を学ぶ。 明治10年(1877年)、京都・東本願寺の教師学校に入学。 翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれて上京し、東京大学予備門入学。 その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
明治18年(1885年)に同大学を卒業し、著述活動を開始する。 また、哲学普及のため、哲学館(本郷区龍岡町、現在の文京区湯島にある麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)および哲学館の中等教育機関として京北中学校(第二次世界大戦後に東洋大学から独立、学校法人京北学園となり、現在は東洋大学の附属校)を設立する。
哲学館事件によって活動方針を見直すことにした明治38年(1905年)に哲学館大学学長・京北中学校校長の職を辞し、学校の運営からは一歩遠ざかる。
その後は、中野にみずからが建設した哲学堂(現・中野区立哲学堂公園)を拠点として、生涯を通じておこなわれた巡回講演活動が井上による教育の場としてあり続けた。遊説先の満州・大連において62歳で急死するまで、哲学や宗教についての知識をつたえるとともに、迷信の打破をめざして活動した。
藤井 宣正(ふじいせんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) - 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。 島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。
1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。 旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。
東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。
1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。ちなみに、この二人の仲を取り持ったのが入江寿美子(後の伊藤博文夫人)である。 また、翌年の東京白蓮社会堂での挙式が日本初の仏前結婚式とされている。
1897年に教授を解任、埼玉県第一尋常中学校長に就任した。1900年、本願寺よりヨーロッパにおける政教調査のためロンドン派遣の命を受け、大英博物館やヴィクトリア&アルバート美術館にて仏教美術研究の最新動向に触れた。1902~1904年に浄土真宗本願寺派の第22世門主大谷光瑞が組織した学術調査隊・大谷探検隊では実質的リーダーを努め、中央アジア・インド・東南アジアへ3度にわたり仏教伝播の軌跡を追う調査を行い、特にシルクロード研究に関する調査成果を残し、貴重な遺物・古文書を日本に持ち帰った。その中でも一般にもよく知られるインドのエローラ石窟群やアジャンター石窟を、日本人として初めて本格的に調査した。
大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日 - 1948年(昭和23年)10月5日)は日本の宗教家。探検家。明治時代から昭和時代までの浄土真宗本願寺派第22世法主。 伯爵。 諱は光瑞。 法名は鏡如上人。 院号は信英院。 大正天皇の従兄弟にあたる。
第21世法主大谷光尊(明如上人)の長男として誕生。 幼名は峻麿。 貞明皇后の姉九条籌子(かずこ)と結婚。
1885年9歳で得度。翌1886年、上京して学習院に入学するが退学。 その後、尺振八の開いた共立学舎(当時受験校で知られていた共立学校とは別)という英学校に入学するもやはり退学。京都に帰り前田慧雲(のち東洋大学学長・龍谷大学学長)に学んだ。
1902年8月、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。
1903年1月14日朝、ビハール州ラージギル郊外で長らく謎の地の山であった旭日に照らされた釈迦ゆかりの霊鷲山を発見している。その1903年1月に父・光尊が死去し、法主を継職するため帰国したが、探検・調査活動は1904年まで続けられた。
これがいわゆる大谷探検隊(第1次)である。 法主継職後も探検を続行させ、1914年まで計3回にわたる発掘調査等が実施された。
その後、河口慧海は1913年(大正2年)~1915年(大正4年)にも2回目のチベット入境を果たしている。
ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。
帰国後
1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。
慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。 《英訳では1909年に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている》
現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。
帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。 また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。
晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。
慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園(1種ロ 15号 5側(西1地区))に改葬されている。
記念碑など
現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。 また、晩年を過ごした世田谷の自宅跡(東京都世田谷区代田2-14の「子どもの遊び場」)には終焉の地の顕彰碑が設置されている。
世田谷の九品仏浄真寺の境内には慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建てたという「河口慧海師碑」が設置されている。 和歌山県の高野山・奥の院には供養塔が設置されている。
その他に日本国外においては、ネパールのカトマンズにはネパールと日本との友好を示す「河口慧海訪問の記念碑」が設置されている。 同じくネパールのマルパ(『西蔵旅行記』では「マルバ」と表記されている)では慧海が滞在した家が「河口慧海記念館」として一般公開されいる。
さらに、チベットのセラ寺で慧海が学んだ部屋には記念碑が設置されている。
略歴
1866年(慶応2年) - 大阪府堺市に樽桶製造業、河口善吉と常(つね)の長男として生まれる。
1884年(明治17年) - 19歳の秋、徴兵令改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京。未遂に終わる。
1890年(明治23年) - 25歳で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられる。
1893年(明治26年) - 4月、チベット行きを想起。以後スリランカ留学から戻ってきた釈興然の元でパーリ語を習うなどしてその準備に当たる。
1897年(明治30年) - 慧海32歳。6月26日、神戸港より和泉丸に乗船し、チベット入りを目してインドへ向かう。
1897年(明治30年) - 7月17日、シンガポールに到着。7月19日、英国汽船ライトニングに乗り換えカルカッタに到着。
1897年(明治30年) - 8月3日、汽車でサラット・チャンドラ・ダースの別荘のあるダージリンに到着。当地にてチベット語を学ぶ。
1899年(明治32年) - 約1年間のチベット語就学後、1月5日にカルカッタへ戻る。
1899年(明治32年) - 1月20日頃、ブッダガヤを参拝し、ダンマパーラ居士より法王ダライ・ラマへの献上品を託される。
1899年(明治32年) - 2月、ネパールの首府・カトマンズに到着。
1899年(明治32年) - 3月初め、チベットへ密かに入れる間道があるというネパール西北のロー州を目指す。
1899年(明治32年) - 5月中頃、間道の警護が厳しくなっているという噂を聞いたため、ネパール北部のツァーラン村に留まり、チベット仏教の学習などをして過ごす。
1900年(明治33年) - 3月10日、新たな間道からチベットを目指すため、ツァーラン村を出立。
1900年(明治33年) - 3月13日、マルバ村に到着。間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。
1900年(明治33年) - 6月12日、マルバ村を出立。
1900年(明治33年) - 7月4日、ドーラギリーの北方の雪峰を踏破し、ネパール側よりチベット国境に到達。
1900年(明治33年) - 8、9月頃、マナサルワ湖やカイラス山を巡礼した後、公道を通ってラサを目指す。
1901年(明治34年) - 3月21日。チベット・ラサに到着。
1901年(明治34年) - 4月18日。セラ寺の大学の入学試験を受け合格し、修学僧侶として籍を置く。以降、チベット仏教の学習や経典の蒐集などをして過ごす。
1902年(明治35年) - 5月29日。およそ1年2ヶ月余りの滞在後、ラサを脱出。
1902年(明治35年) - 6月15日。五重の関所を3日程で抜け、国境を超えて英領インドに入る。
1902年(明治35年) - 7月3日。ダージリンのサラット・チャンドラ・ダースの別荘に到着。その後、大熱病にかかり、当地で3ヶ月程療養する。
1902年(明治35年) - 10月頃、チベットからインドに来た商隊から、ラサ滞在時に交際していた人々に嫌疑がかけられ投獄されていると聞き、その救済の方策を思案する。
1903年(明治36年) - 1月10日。ネパール国王に謁見するためにカルカッタを出立し、ネパールを目指す。
1903年(明治36年) - 2月11日。カトマンズにて、河口慧海自身がチベット法王宛てに書き認めた上書をネパール国王を通じて送ることを許される。
1903年(明治36年) - 4月24日。インド・ボンベイよりボンベイ丸に乗船し、日本を目指して出港。
1903年(明治36年) - 5月20日。香港を経由し、神戸港に到着。無事6年ぶりの帰国を果たす。
1904年(明治37年) - 『西藏旅行記』を出版後、渡印。
1913年(大正2年) - 再びチベットに入る。
1915年(大正4年) - 帰国。
1921年(大正10年) - 僧籍返還。
1926年(大正15年) - 『在家仏教』を出版
1945年(昭和20年) - 脳溢血のため80歳で死去。
2004年(平成16年) - 『西蔵旅行記』の基になった日記が姪の自宅から見つかり、「ネパールからチベットへの越境にはクン・ラ峠を利用し、その際にヤクに荷物を載せていた」らしいことが判明した。
2007年(平成19年) - ネパールの国立公文書館に慧海が寄贈したものと思われる和装の仏書275点が保管されていることが確認される。
【 We are the WORLD 】
https://www.youtube.com/tv?vq=medium#/watch?v=OoDY8ce_3zk&mode=transport
※上記をクリック賜ればバック・グランド・ミュージックが楽しめます
----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------
【壺公夢想;紀行随筆】 http://thubokou.wordpress.com
【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/
【壺公栴檀;ニュース・情報】http://blogs.yahoo.co.jp/bothukemon
【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/
================================================
・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
================================================