近代の探検家 = ロバート・ファルコン・スコット・南極探検家 =
~ 南極点到達レースの敗者 / 英国海軍大佐 ~
パーティーの遭難
アムンゼンは、12月7日 シャクルトンの最南端到達記録を突破。 最後のデポを設置。 そして、12月14日、午後3時。 ついに南極点に到達した。
ノルウェーの国旗を掲げ、周辺部を踏破。 滞在は17日まで続き、入念な観測が重ねている。
帰路。 ペース調整のためスピードを落とす余裕さえあり、往路設置したデポは確実に通過。
明けて1912年、1月18日、スコット隊が極点を後にしたとき、アムンセン隊はすでに事前のデポ作戦で到達していた線さえも越えていた。
1月25日、アムンゼン隊はフラムハイム基地に帰着。 99日、2976㎞の旅だった。
翌日、フラム号が入港している。
「…彼らはみな愛想よく、満足そうだった。 しかし誰一人極点のことを尋ねる者がいなかった。 ようやくヤーツェンの口からそれがもれて出た。
『あそこへは行ってきたんですか?』
わが仲間たちの顔を輝かせた感情を言うのには、喜びという言葉では足りない、何かそれ以上のものがあった。」
到達・あと20㎞
些細な過ちの蓄積が、今や取り返しのつかない危機を招いていた。 しかし、一行はあくまでも科学探検隊だった。 ウィルソンはこの状況下でも岩石の標本を採集し、最後のテントまでそれは運ばれていった。
食糧不足が深刻化し、凍傷にかかっていたエバンズが衰弱する。 5人中唯一の兵卒(他は士官)という立場をわきまえていた彼は苦痛に耐えていた。
E・エヴァンズの衰弱と凍傷は激しく、2月16日、最初に死亡した。
3月に入る。 急激な寒気で、オーツの凍傷は悪化した。 行程はさらに遅れる。
このような状況にあっても、ウィルソンを中心に標本採集を継続していた。 さらに不運な事に、2-3月としては例外的な荒天が続いた。
また、前年にデポに貯蔵した燃油も、冬と夏の気温差により缶が損傷したため、著しく欠乏していた。
続いてオーツが足は重度の凍傷が進行していく、自らを見捨てるよう嘆願するようになった。
彼が重体となった3月14日、スコットは日記に、携行していた阿片・モルヒネの使用をウィルソンに相談した事を記している。
3月17日の朝、オーツは「I am just going outside and may be some time」(「ちょっと外へ出てくる」)と言葉を残してブリザードの中テントから出て行方不明となる。
この日は、彼の32歳の誕生日でもあった。
3月19日。 あの「1トンデポ」まであと20㎞。 しかしついに一歩も動けなくなる。 風と、雪と、氷と、寒さが彼らを阻んだ。
3月21日、食料を置いたデポまであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。
吹雪は10日間も吹き荒れテントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。
3月29日。 ウィルソンとバワーズはすでに死んでいた。 スコットは何通もの手紙をしたため、最後の日記をつける。
スコットは日記に1912年3月29日付で「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。 残念だがこれ以上は書けそうにない。 どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」
と書き残し、寝袋に入ったまま 3人ともテント内で安らかに息を引き取った姿が後日発見された。
スコットは妻に宛てた手紙の結びに・・・・・・・・・
「家にいて安楽すぎる暮らしを送るより、はるかにましだった」 と記していた。
11月12日。 捜索隊が遺体を発見した。
≪何もかもが成功したアムンセンと不幸を全て背負ったかのごとくに対比されるスコット。
その悲劇的な最期に隠れがちだが、科学調査という本来の目的は少なからず果たした。 単に「競争」の敗北が全てではない。
一方、アムンセンがスコットの栄光を横取りし、あまつさえ死に追いやったという中傷も正しくはない。 スコットは探検家として、してはならない過ちを犯したのも確かなのです。
双方が成し遂げた成果は正しく評価されるべきであり、探検の歴史にとってどちらも必要欠くべからざる存在であることに変わりはないと思います。 以下にその証明があります≫
先に帰還した隊員たちは、2月末までに全員エヴァンズ岬の基地に到着した。 捜索隊により3人が発見されたのは、次の夏を迎えた6ヵ月後のことだった。 スコットは親友でもあったウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていた。
テント内では、遺品の他、死の直前まで書かれた日記・地質標本等も遺されていた。
特筆すべきは、南極点でアムンセン隊から委託されていた手紙である。 アムンセン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者に自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものであった。
スコット隊が所持していた事によりアムンセン隊の南極点先達は証明され、また「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声を高めた。
スコット本人の遺書(スコットの遺族・隊員の遺族らに計12通)はイギリスの名誉に対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴え、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという内容のものであった。
探検隊は翌1913年1月22日に南極を離れ、帰国の途についた。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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