【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

探検家・冒険家 シリーズ 13 

2013-04-05 12:58:36 | 冒険記譜・挑戦者達

現代の探検家 = 堀江 謙一(ヨットマン) =

~海洋冒険家・太平洋ひとりぼっち(ソロセーラー)~

台風に遭遇、浸水と格闘

 堀江さんのヨット「マーメイド号」は全長5.8メートル、最大幅2メートル、重量697キロで、メーンセール(主帆)の面積は7.7平方メートル、高さは7メートル。「だれもが練習用だと信じこんでいた」という。

 西宮を出てから紀伊水道を抜け、八丈島沖を通過し、三陸沖に向かった。北緯40度付近から東に向けて一気に米西海岸を目指した。

 出航してから10日余りのとき、台風に遭い、船大工に腹をたてながら浸水と必死に格闘した。飲料水は節約して1日0.8リットル(成人は1.5リットル以上)と決めた。

 食料は缶詰を温めて食べることが多かった。 堀江さんは「戦時中、缶詰はたいへんなごちそうだった。だからか、航海中の缶詰はごちそうに感じられた」と述懐する。

 

堀江 謙一(ほりえ けんいち、1938年9月8日 - )は、海洋冒険家(ソロセーラー・ヨットマン)。 大阪市生まれ。 兵庫県芦屋市在住。 関西大学第一高等学校卒業。 アマチュア無線家でもある。コールサインはJR3JJE。

 家業は自動車部品工場。 太平洋横断そのものは秘密裏の計画だったため、太平洋横断のためのスポンサードではない。 敷島紡績(現:シキボウ)から、資金不足に悩んでいる際、当社商標の人魚マークを帆に入れてくれれば、帆を一式寄付するとの申し出を受け、そのマークが入った帆の寄付を受けた事に因んだ。

 

 パスポートを持たない密出国だった。 兵庫県西宮市を出港して94日目の1962年8月12日。 1万キロにおよぶ航海をへて、堀江謙一さんのマーメイド号はついに米サンフランシスコに着いた。

 日の出前。 金門橋が目に入った瞬間、23歳の堀江青年は世界初のヨット太平洋無寄港単独横断の成功を確信する。

 安全運航の意思を示す黄色の旗をマストに掲げ、湾内をうろうろしていると、現地のヨットマンが船で近づいてきた。 どこから来たのかと聞くので、「フロム オオサカ ジャパン」と答えた。 彼は「ウオー!」と驚き、係留場所へと誘導してくれた。

 だが、堀江さんは達成感よりも「ノー・パスポートへの恐れがあった」。 誘導された岸壁が、正直、監獄島に見えた。ところが、上陸するとサンフランシスコ市長らから大歓迎を受ける。 寛大な措置で1カ月の滞在も許された。

 

  一方、大阪海上保安監部はお冠だった。 心配して洋上の日本船舶などに消息不明船手配を打電した数日後に、米西海岸で「ヒーロー」と称賛されている。保安監部は、人命軽視の暴挙と警告した。

  1カ月後に日本へ戻った堀江さんは出入国管理令違反の容疑に問われるが、大阪地検は起訴猶予処分とした。

 堀江さんがヨットと出会ったのは高校生の時。関西大学第一高校で「おもしろそう」とヨット部に入った。が、その封建的な体質に驚く。 下働きばかりでバカバカしさすら覚えた。 きつい抑圧に対する反発がかえって、気持ちを大海原へと駆り立てた。

 外国人冒険家の大洋航海記をバイブルのように繰り返し読み、あこがれを膨らませた。 父親の自動車部品商店で働いて資金をためた。

  

 数年後、関西ヨットマンの会合でヨットデザイナーの横山晃さん(故人)と出会う。

 「スナイプ級(2人乗りの短距離レース用)ヨットで太平洋は横断できますか」。 堀江さんの常識破りの珍問に、会場から笑いがもれた。

 当時、横山さんは太平洋横断用の船を設計中だった。  図面を見た堀江さんは横浜の横山事務所を訪ね、あらためて聞いた。 「このヨットで横断は本当に可能ですか」。 すると横山さんは「可能です」。

 その場で設計図を買った。 渡航計画は西宮周辺の仲間うちで秘密の話題になった。

 パスポートは、申請した役所が「ヨットで出国なんてありえない」と信じず、交付してくれなかった。 「この季節の太平洋上の気象状況を考えれば、もう時間がない」。 堀江さんは取得をあきらめ「不法出航」を決意する。

 《当時、宮崎から密かにドラムカン・イカダで出国した金子益男は銚子沖にて、黒潮海流に乗ろうと苦戦中に海上保安庁に発見されていた。 無法出国の容疑で強制的に保護され、収監されていた。 彼は手造りイカダで太平洋を単独横断を企てていた》

 62年5月12日。 人目につかぬよう、夜8時45分、ひそかに西宮港の岸を離れた。 出航前、親しい先輩2人が西宮駅前で焼きめしをおごって、見送ってくれた。

「黙っていてください」

「言うかいな」

                    先輩は暗闇をヘッドライトで照らしてくれた。

 48年前に出航したその港にほど近い新西宮ヨットハーバーで、堀江さんはいまも頻繁にヨットを操る。

 「なぜ太平洋横断に挑んだのか?」。一番うんざりする質問だという堀江さんは、精悍(せいかん)な日焼け顔で、いつもこう答える。

 「人生、本当に好きでやりたいことに、あきらめる、という選択はありません」

 ・・・・・・・・・

 高校ヨット部の後輩で堀江さんと合同練習をしていた田中孝義さん

 ◆沈黙したまま船出 喜んだ

関西大学第一高校(関大一高)のヨット部に入部した時のキャプテンが堀江謙一先輩だ。ヨットというスポーツでは、1年生と3年生だと、その技量、海への心構えなどまさに天地ほどの開きがある。堀江先輩は、僕には親父(おやじ)のような存在だった。

ヨット部は人気が低く、部員は15人ほどだった。みんな体格がよくて、声も態度も大きく怖かった。そんな中、小柄でちょっと線が細く見えたのが堀江先輩だった。

ところが堀江先輩は、海に出ると別人だった。関大のヨット部との合同練習でも、絶対に負けない。声もだれよりも大きく、ヨットの帆よりも高い波を抑えつけた。 その情熱にひかれ、僕は大学に入っても先輩と一緒に練習した。

あの昭和37年の春、関大ヨット部のキャプテンだった僕は西宮の停泊地にいたマーメイド号を毎日見ていた。 食料や水などを積み込み、少しずつ喫水線が下がった。 4月末になると限界線まできた。 「いよいよ決行するんだ」とひそかに感じ、緊張した。

5月半ば、僕も乗船したことがあるマーメイド号が、港から消えていた。 ヨット仲間のだれもが、沈黙したまま船出を喜び、快挙を信じた。

どんな大変なこともいとも軽やかに話してしまう堀江先輩の姿は、昔も今も同じだ。

戦争で父を失った僕に、男を教えてくれた人だ。

 

 

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                          森のなかえ

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