【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

探検家・冒険家 シリーズ 12-⑥ 

2013-04-02 17:19:59 | 冒険記譜・挑戦者達

現代の探検家 = ニール・アームストロング  宇宙飛行士 = 

~月への航海  月面への第一歩~

“I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.”  そして・・・・・・

 ニールの声明は「これより着陸船から足を踏み出そうと思う(I'm going to step off the LM now.)」の後に発せられた。

 それから彼は後ろを振り返り、左足を月面に踏みおろした。 彼の言葉はVOA(ボイス・オブ・アメリカ、アメリカ合衆国政府が公式に運営する国営短波ラジオ放送局)から、BBCをはじめ数多くの放送局を通して世界中に発信された。

 当時の世界の人口36億3,100万人 のうち、およそ4億5,000万人がこの言葉を聞いたとされている 。

 「小さな一歩」のくだりについては、ニールは月面に着陸してからの数時間の間に考え、決定していたという。

 

 ニールから遅れること15分、オルドリンも月面に降り立ち、月に立った2番目の男になった。 両名は、月の表面では人間はいかに身軽に動けるかということを実感しながら、予定されていた各種の行動を始めた。

 はじめに彼らの飛行を記念したプレートを月面に置き、次に星条旗を立てた。 この旗は宇宙空間でも展開できるように中にワイヤーが織り込まれていたのだが、

 旗竿を十分に伸ばすことができず、また旗自体もきつく折りたたまれていたため、真空中であるにもかかわらず、たなびいているように見えてしまった。

 地球では国旗を立てることに関する是非を問う声もあったが、ニールはそんなことは全く気にしていなかった。 旗を立てている最中、スレイトンが緊急連絡が入っていることを知らせてきたが、彼はわざとそれがニクソン大統領からのものであることは伏せておいた。

 オルドリンは旗を立てるのに手間取り、おまけに大統領から予定外の電話が入ってきたため、写真を撮る暇がなくなってしまった。

 全計画を通じて撮影された写真のうち、月面で活動するニールをとらえたものは5枚しか残されていない。

 オルドリンは後に語っているが、この計画の主目的は月面でのニールの写真を撮ることだったのだが、大統領の電話で予定が狂い、むしろ自分が撮影された写真のほうが有名になってしまったという。

 このハプニングのために予定が5分遅れた。

 彼らの行動は分刻みでスケジュールされており、ぐずぐずしている暇はなかった。 なお11号の月面活動の写真のほとんどは、ニールが持ったハッセルブラッド社製のカメラで撮影された。

 

 科学実験装置を設置した後、ニールは着陸船から60m東にあるイースト・クレーターまで歩いて行った。 今回の計画で着陸船から最も遠くに離れる行動であった。

 彼の月面における最後の任務は、ユーリ・ガガーリン(ソビエト連邦出身の史上初の宇宙飛行士。 この前年の1968年3月27日に飛行機事故で死亡)、ウラジーミル・コマロフ(同じくソ連の宇宙飛行士。

 1967年4月24日、ソユーズ1号の墜落事故で死亡)、そしてアポロ1号の火災事故で亡くなったガス・グリソム、エド・ホワイト、ロジャー・チャフィーらの業績を称えた記念品を収めたパッケージを、月面に置いていくことであった。

 11号の月面での船外活動の時間は2時間半ほどで、全6回のアポロ月面着陸の中で最も短いものだったが、この後の5回のミッションでは徐々に延長され、最後のアポロ17号では合計21時間に達した。

 地球への帰還

 船外活動を終え着陸船に戻りハッチを閉めたとき、彼らはかさばった宇宙服で上昇用ロケットエンジンのスイッチを壊してしまっていたことに気づいた。

 エンジンが点火できなければ地球への帰還は不可能になる。 そのためオルドリンはボールペンの先でスイッチを入れ、ロケットが上昇している間もずっとそれで押し続けていた。

 司令船とのランデブーとドッキングにも成功し、3人を乗せた司令船は7月24日16:50:35(UTC)、無事太平洋上に着水し、空母ホーネット(USS Hornet)に回収された。

 

 月から病原菌やウィルスを持ってきていないかを検査するため、帰還後ただちに特殊な病棟に18日間隔離された。

 異常がないことが確認されると、3人は「偉大な飛躍(Giant Leap)ツアー」と銘打った親善旅行で、45日間にわたって全米や世界各国を訪れた。

 1969年、コメディアンのボブ・ホープとともにベトナム戦争に従軍する兵士たちの慰安に訪れた際には、「我々が戦場に縛りつけられている最中に、どうして月に行く必要があるのか」という質問を浴びせられたこともあった。

 また三流紙の中には、この時同行していた歌手で女優のコニー・スティーブンスとの関係を取りざたするものもあったが、根も葉もないことであった。

1969年10月にはマイケル・コリンズ、バズ・オルドリンと共に日本を訪問。その際には日本政府より文化勲章を授かった。 この年の11月には銀座でオ-プン・カ-でのパレ-ドが行われて12万人の観衆が押し寄せた。

 

 1970年5月、ニールはソ連で開催された第13回国際宇宙調査委員会に出席した。ポーランドからレニングラード(のちのサンクトペテルブルク)に向かう途中、モスクワでコスイギン首相(当時)とも面会した。

 彼は西側の人間として初めてツポレフTu-144の現物を見て、そのあと「自然の中に造られた、ちょっとヴィクトリア朝風の建物(ニール談)」の、ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターを訪れた。

 その日の終わりにソユーズ9号発射のスロー映像を見せられたが、そこに搭乗しているアンドリアン・ニコラエフ飛行士は、いま目の前で彼をもてなしているワレンチナ・テレシコワ(世界初の女性宇宙飛行士)の亭主であることを知らされて、少なからず驚いた。

 

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

                          森のなかえ

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