【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

探検家・冒険家 シリーズ 14-②

2013-04-07 19:41:19 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ロバート・ファルコン・スコット・南極探検家 =

~ 南極点到達レースの敗者 英国海軍大佐 ~

=写真説明;光器の光を頼りにテラ・ノヴァ号の残骸に接近する、高解像度撮像装置「SHRIMP(Simple High Resolution IMaging Package)」(8月11日撮影)。教育機関用に開発された機材だが、沈没船の画像情報の収集に初めて採用され、十分な成果を上げた。 北大西洋グリーンランド沖の海底で見つかったテラ・ノヴァ号のマスト部分。 テラ・ノヴァ号は南極探検用に改造された木造捕鯨船で、1910~1912年にイギリス海軍大佐ロバート・ファルコン・スコットが率いる探検隊が使用した=

 アムンセンとスコット

 ロアルド・アムンセン(1872~1928)はノルウェーの首都クリスチャニア(現オスロ)近郊の船乗りの家に生まれた。 両親は彼を医者にさせたかったが、本人は密かに北極探検家となることを志し、鍛練を積んでいた。

 両親の他界の後、本格的に探険の道に進み、1903年から1905年にかけて、「北西航路」の通過に史上初めて成功する。

 大西洋からカナダの北を通り、ベーリング海峡を通過するこのルートは、ヨーロッパ人が300年以上にわたって探し求め、通過しようと多大な犠牲を払ってきた道のりだった。

 ついで、長年の宿願であった北極点到達を計画する。 同国人の先輩ナンセンよりフラム号をはじめとする援助を受け、いよいよ出発というときに、ピアリーによる北極点到達のニュースが入る。

 アムンセンは心中密かに目標を変え、前人未踏の南極点到達を決意した。 しかし、計画の中止を恐れ、北極の科学的調査を名目に1910年8月出発した。

 マデイラ島で隊員に真相を発表し、先発していたスコット隊へも電報でその旨を知らせると、マデイラを発って一路無寄港で南極の泊地へと到達した(1911年1月)。

 母国出港時の2ヶ月の遅れは、わずか10日まで縮まったのだった。

 

 ロバート・ファルコン・スコット(1868~1912)はイギリスはデヴォンポートの酒造工場経営者の長男として生まれた。 ひ弱で癇癪持ち、消極的だった少年も、軍隊に入って見違えるように成長した。

 指揮官としての資格を十分に備えてはいたが、それはまたある点においては後の悲劇の原因となることにもなった。

 イギリス王立地学協会会長のマーカムはスコットの才覚に注目し、南極探検隊の隊長に彼を選んだ。 1902年から1904年にかけての探検で、S82°17′という人類最南点到達記録を記録し、また科学調査でも大きな成果をあげ、スコットは国民的英雄となった。

 その後、先の探検での部下でもあったシャクルトンがS88°23′、極点までの距離残り160㎞まで到達(1909年)し、スコットも再び南極行きを望むようになった。

 しかし、彼の目的はあくまで科学調査であったが、資金集めにはどうしても「南極点到達」を掲げねばならなかった。

 1910年6月、テラ・ノヴァ号はロンドンを発ち、南極へ向かった。 メルボルンで、一通の電報を手にする。

  「われ南極へ向かわんとす、マデイラにて、アムンセン」

テラ・ノヴァ号の探検  

 1910年6月1日、スコットはテラ・ノヴァ号にて第2回南極探検に出発する。  この探検には8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。

 探検隊の編成は、隊長:ロバート・スコット海軍大佐、副隊長:エドワード・エヴァンズ海軍少佐、以下 ヴィクター・キャンベル海軍少佐、ヘンリー・バウアーズ海軍少佐、ローレンス・オーツ陸軍大尉、エドワード・アトキンソン海軍軍曹、他海軍士官7名

 科学者8名・技術者4名・エドガー・エヴァンズ(海軍)・トマス・クリーン(海軍)・他普通隊員12名

 装備としてウーズレー社製 モーター雪上車 3台、矮馬(ポニー) 19頭、犬 33頭

 = 同年ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊は、北極点到達がロバート・ピアリーの米国隊により達成された事を知り、目標を南極に変更した。=

 テラ・ノヴァ号は10月12日、オーストラリアのメルボルンに、10月27日にはニュージーランドのウェリントンに到着。

 ここで、ノルウェーのアムンセン隊も南極点到達を目指すことを知る。

 なお、スコット本人は資金調達のため別行動を取っている。

 テラ・ノヴァ号は1910年12月に氷海と化したロス海を進行していた。

 両隊とも、1911年1月には南極大陸に上陸し、翌夏の南極点到達を目指し、デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。 この冬の段階で、スコット隊の馬は すでに 10頭まで減っている。

 ウィルソンやキャンベルを中心に学術調査も行われたのです。

 

 フラムハイム(ロス棚氷の北東部にあるクジラ湾)

 アムンセン、スコット両隊ともに、南極大陸太平洋側のロス氷床にそれぞれ基地を設けた。 アムンセン隊の基地「フラムハイム」の方が極点に100㎞ほど近く、アザラシ等食糧も豊富だった。

 ここで越冬準備中、テラ・ノヴァ号とフラム号が会合した。 アムンセンはテラ・ノヴァ号を訪問し、極点到達競争が宣言された(スコットは不在)。 

 また、アムンセンはソリ曳き犬の提供を申し出たが、馬を主力とするイギリス隊はこれを断った。あるいはこれが、両隊の明暗を分けることになるかもしれない。

ハットポイント(南緯77度51分、東経166度40分のロス島の半島南端部)

 スコット隊は、イギリス伝統のマクマード湾ハットポイントに基地を置いた。 スコット自らも、前回の探検でここを基地としていた。

 スコット隊もデポ設置にかかるが、早くも暗雲が立ち込める。 アムンセン隊と違い、馬ゾリと犬ゾリの混成部隊(馬が主力)には事故があいつぎ、1トンの物資を運ぶ(1トンデポ)ものの馬3頭を失い、何よりS79°29′までしか到達できなかった。

 アムンセン隊の進出にはとうてい及ばない。

 すでに本格的な探検行が始まる以前から、アムンセン隊に対して大きな遅れを取っていたことになる。 隊員の練度についても同様で、南極に来てから初めてスキーを習った者もいるという始末では、先行きが思いやられるというものであった。

 82°デポ・馬と人と

 越冬を前に、「デポ」と呼ばれる前進基地を設置する作業が必要だった。 事前に先行して食糧、燃料等の貯蔵所を設置しておけば、本隊の持参分とあわせてより多くの物資が使用可能となるわけである。

 アムンセン隊は三度にわたるデポ設置でS82°地点にまで物資を送り込むことに成功した。 犬ゾリによる走行は順調で、S83°までの目標は達成できなかったものの、十分な量の物資は確保できたのだった。

 南半球にあたる南極大陸では、4月~8月いっぱいまで厳しい「冬」を迎える。 様々な観測や準備をしつつ、「春」を待つ。

 先発隊に引き続き、本隊は馬ゾリで11月1日に出発した。 さらに犬ゾリ隊が後発する。 事前のデポ設置が不首尾に終わっていたため、その分も物資を輸送しなければならなかったのだ。

 輸送隊を編成すればもちろん、彼ら自身が消費する物資も同時に運ばねばならない。大所帯の移動になればなるほど、雪達磨式に必要な物資は増え、また行進のスピードは鈍くなる。

 さらにこの時期、スコット隊は悪天候に悩まされていた。 先発、本隊、後発の3隊が合流し、11月25日、S81°付近で先発隊のうち2名を基地に帰した。 隊員14人、馬9頭、犬23頭となった。

 11月末にはスコット隊がむしろ好天に恵まれたが、12月に入ると雪が続き、馬の食糧が尽きてしまう。 馬は射殺され、食料にされた。

 12月9日には全ての馬を失う。 ソリの牽引を馬に頼っていたスコット隊は、人みずからの力でソリを曳かねばならなくなる。 行程は鈍り、疲労は蓄積してゆく。

 アムンセン隊も犬を処分したが、あちらは計算内であり、その肉をデポに保存したが、スコット隊は重要な牽引力を計算外に失い、その肉も保存せず食べ尽くしてしまった。 

 しかし、そもそもはこの自然条件に馬が適していないということである。 前回の探検で犬ゾリの使用に失敗した結果を、そのまま鵜呑みにしてしまった。

 スコット隊の運命の歯車は、すでに狂い始めている。 

 12月11日。 予想に反して犬ゾリは氷河地帯を進むが、補助手段でしかなかった犬ゾリ隊は基地へ帰ることになる。

 S83°35′地点にて、ついに人力のみでソリを曳くことになった。 雪盲に悩まされるようになった。

 ーーーーーー続くーーーーーーー

 

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