【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

探検家・冒険家 シリーズ 16-⑨

2013-04-21 14:19:04 | 冒険記譜・挑戦者達

近代の探検家 = ジェームズ・クック(James Cook) 海洋探検家・海図製作者 =

 ~ クックの業績とクックの教え子たち ~

 クックの業績とクックの教え子たち

 レゾリューション号とディスカバリー号が英国へ帰国したのは1780年8月のことであった。 1776年7月クックの3度目の航海はやはり学者達によって実在が伝えられてきた北西航路(アメリカ大陸最北部の航路で、太平洋と大西洋を結ぶ航路)の探索です。

 クックは北米大陸の沿岸部を北上しアリューシャン列島からベーリング海を越え、北極海に入って航路の探索を続けました。 しかし、大きな壁のような氷が立ちはだかるばかりで、大西洋に抜ける航路などどこにもありません。 探索航海をつづけるうち、冬が近づいてきたので物資の補給と越冬のためにクックは一旦ハワイ諸島に向かった。

 しかしそこでふとしたことから原住民と戦闘となり、クックは戦死してしまった。 英国民は悲しみ 英雄の事故死は各界に波紋を広げたのです。

 大航海時代おけるクックの功績は計りしれません。 日本ではハワイの発見者として有名ですが、他にも数々の島を発見し海図を作成、以後の太平洋航海者の重要な資料となった。 航海時の健康管理・長期航海における衛生面を改善したのもクックです。

 クックは長期航海で命取りの病気「壊血病」の予防に成功しています。

 壊血病はビタミンCの不足によって起る病気で、まず歯茎が腫れ、全身がむくんでだるくなり、最後は苦悶のうちに死んでいく病気です。 これまでの航海者も新鮮なオレンジやレモンなどが良いという事は経験的に知っていましたが、いかんせん保存が利く食べ物ではありません。

 そのため壊血病で命を落とす船乗りは後を絶たず、クックと時代的にあまり変わらない1740年の世界周航でさえ、1995人いた乗組員のうち約半分の1000人近くが壊血病で死んでいます。  

 クックはこれまでの世界周航のデータを分析し、徹底的に食事に気を配りました。 そして保存の利くキャベツの酢漬けを大量に船に積み込み乗務員達に食べさせたのです。 また麦芽汁や野菜の固形スープも携行しました。

 こうした様々な工夫によってクックの艦隊は壊血病にかかる事なく長期の航海を成功させたのです。 さらに彼の未知の世界への憧憬が冒険的航海に乗り出させたのですが、クック以後は未知の世界を探索する冒険航海ではなく、既存の地を調査する科学的航海となります。  

 ポルトガルのエンリケ航海王子によって始まった大航海時代は永い時間をかけて熟成し、ジェイムズ・クックの出現によって終りを告げたのです。

 

 ジョージ・バンクーバー(George Vancouver、1757年6月22日 - 1798年5月12日)は、

 ジェームズ・クック(キャプテン・クック)の教え子です。 第2回と第3回航海の士官候補生としてクックに師事している。 後年に、イギリス海軍士官(艦長)として アメリカ合衆国ワシントン州オレゴンからカナダ・ブリティッシュコロンビア州を探検した。 

 1791年から1794年にかけて北アメリカ太平洋岸の調査航海を指揮した探検家として知られている。 カナダの西海岸に複数存在するバンクーバーを含む地名の名祖でもある。

 ジョージは、オーストラリア西南も探検している。

 

 ウィリアム・ブライ(William Bligh、1754年9月9日 – 1817年12月7日)はイギリス海軍の士官。 海軍中将、王立協会会員、植民地管理者。 有名な「バウンティ号の反乱(1789年)の際の艦長として知られている。

 軍艦「バウンティ」の反乱は彼の指揮に対して起こされた。 彼をはじめとする19名は反乱者によって「バウンティ」の搭載艇に乗せられ海上に送り出されたが、非凡な航海術によってティモール島まで辿り付いたことで記憶されている。 後年、政治家として生きるが 常に批判の的であった。

 1770年、16歳で軍艦「ハンター」に乗り組んだ。 士官候補生の空席がなかったため、最初の資格は上級水兵であったが、翌1771年の初めには士官候補生となった。 同年9月に、軍艦「クレセント」に移り、以後3年の間同艦で勤務している。

 1776年、キャプテン・クックにより軍艦「レゾリューション」の航海長に選ばれ、クックの3回目の、そして最後の太平洋への航海に同年7月から同行し、クックの死後 1780年の末にイギリスに帰還、クック最後の航海の詳細を伝えている。 一大センセェーシャナル事件の報告者として社交界に登場した。

 1781年2月4日、26歳のときに関税徴収人の娘エリザベス・ベサムと結婚した。 結婚式はマン島のオンチャンで行われたが、その数日後に、軍艦「ベル・ポール (HMS Belle Poule) 」の航海長に任命された。

 そして同年8月には、ハイド・パーカー提督の下でドッガー・バンク海戦に参加した。 それに続く18ヵ月の間、彼は海尉としていろいろな艦で勤務し、1782年にはリチャード・ハウ卿の下でジブラルタルで戦っている。

 アメリカ独立戦争が終結した1783年から1787年にかけて、商船の船長を務め、 1787年に、海尉の階級のままで海軍所属の武装船「バウンティ」の指揮官に選ばれた。

 バウンティ号は、タヒチ島からパンノキを西インド諸島に運ぶ任務のために、貨物船を買い上げて臨時の軍艦とした徴用船で、小型の船舶であった。 乗組員は唯一の士官である艦長ウィリアム・ブライと上級准士官3人 ・ 准士官11人 ・ 士官候補生6人 ・ 下士官14人 ・ 水兵11人の計46人だった。

 

軍艦「バウンティ」の反乱

 ブライは33歳で、以前にジェームズ・クック船長指揮下のレゾリューション号の航海長を務め、その後商船の乗務員として航海しており、この海域に関して経験豊かだったが、艦長になるのは初めてだった。

 1787年12月23日にイギリスのポーツマス港を出航、当初は南米ホーン岬を回って太平洋を航行する計画だったが、天候不順の為計画を変更し、喜望峰を周ってインド洋に出て、1788年10月26日にタヒチ島に到着した。

 航海中にブライは航海長のジョン・フライアを降格し、航海士(上級准士官)の1人フレッチャー・クリスチャンをNo.2に抜擢している。

 1789年4月までパンノキやその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在し、その期間中、クリスチャンはタヒチの女性と結婚し、多くの船員も現地生活を楽しんだ。 3人の船員が脱走の罪で逮捕され、ブライは鞭打ち刑を命じている。

                            バウンティ号とその乗組員の辿った航跡

 1789年4月4日にタヒチ島を出航し、喜望峰経由で西インド諸島を目指すため西に向かったが、4月28日にトンガのフレンドリー諸島で反乱が起きた。 途中の死亡者を除き、当時の乗組員44人のうち反乱者はクリスチャン以下12人だった。 ブライ艦長以下19人は救命艇に乗せられて追放され、非反乱者のうち13人は船に残された。

 ブライの指揮する救命艇は、41日かけてニューギニアとオーストラリアの間の難所トレス海峡を通り、ティモール島にたどり着いた。

  一方、反乱者を乗せたバウンティ号は トゥブアイ諸島に3ヶ月滞在したが、その後タヒチ島へ向かった。 

 16人の船員がタヒチ島に残り、クリスチャンと8人の反乱者はタヒチ島の現地人(男6人、女11人、赤子1人)を乗せて、フィジー、クック諸島を経て、1790年1月15日にイギリスの海図に載っていないピトケアン島にたどり着いた。

 クリスチャンらはバウンティ号を解体し、その資材を利用して島での生活を始めた。

  1790年3月15日にブライ達はイギリスに戻り、反乱を報告した為、1790年11月にフリゲート艦パンドラ号(エドワード・エドワーズ艦長)がバウンティ号の捜索のために出航した。

 1791年3月にパンドラ号はタヒチ島に到着し、14人の元バウンティ号乗組員(大部分は非反乱者)を逮捕した。 その後もバウンティ号の捜索を続けたが、 8月30日 パンドラ号はグレート・バリア・リーフの近くで、暗礁に乗り上げ沈没し、ピトケアン諸島に渡った反乱者達を見つける事は出来なかった。

 31人のパンドラ号船員と4人の囚人が死に、残った89人の船員と10人の囚人が、1792年にイギリスに戻り、10人のうち、4人が無罪、2人が有罪だが恩赦、1人が法的手続の問題で釈放され、3人が絞首刑になっている。

 ブライも軍法会議にかけられたが、無罪となり、職務に復帰した。 彼の経歴は傷つかず、すぐに別の船プロビデンス号の艦長として、1791年に同様の任務を行い、無事成功した。

 しかし後に、総督として赴任したオーストラリアで現地の有力者と対立し、配下の治安部隊に反乱を起こされ軟禁されてしまう事件(ラム酒の反乱)を引き起こす。 2度目の反乱勃発とあってはさすがに擁護もされず、有罪こそ免れたものの退役同然の扱いとなり、後に提督(中将)にまで昇進はするものの、事件以後は逼塞状態で余生を過ごした。

 

 =資料・その後のピトケアン諸島=

1808年1月にアメリカ船トパーズ号がピトケアン諸島にやってきた時、水夫ジョン・アダムスのみが唯一生き残っていた。トパーズ号のメイヒュー・フォルジャー船長はクリスチャンの息子サースディ・オクトバー・クリスチャンの案内で、アダムスの他に子供二十数名、ポリネシア人女性10名がピトケアン島で暮らしている事を知った。

その他の反乱者は病気、自殺、事故、喧嘩などにより既に死亡していたが、その子孫が島で生活していた。 クリスチャンも内紛で殺されたと言われている。

1825年にアダムスは恩赦となり、1838年ピトケアン諸島はイギリス領となって、現在まで続いている。 バウンティ号が解体された場所はバウンティ湾と名づけられ、現在でもその残骸が残っている。 1831年に300人近くの人口に増えるが小さな島で食料や土地問題を抱えたのでイギリス政府は一時、島民をタヒチ島に移住させた。 しかし、慣れないタヒチ島での生活にピトケアン島に戻りたいと言う者が殆どであり、島民は再び故郷のピトケアン島に戻った。

しかし、その後、島民はジョシュア・ヒルというアメリカ生まれの成り上がりのよそ者に苦しめられることになる。 ヒルはマウイ島に移住しようとした時、移住をマウイ島の知事に断られた。

その後、タヒチ島に渡り、ピトケアン島の事を知った。 彼はイギリス政府によって派遣された要人だと嘘をつき、ピトケアン島に渡って島を統治しようとしていた。 独裁的な支配者気取りであるヒルの専制政治に異を唱えていた1823年からピトケアン島で教師活動をしていたジョン・バフェットと19歳のジョン・エヴァンス、そして1828年から島で宣教活動をしていた牧師のジョージ・フン・ノブスの3人のイギリス人に対して鞭打ちの刑を科したりした。

さらに島民に対しても自身のやり方に逆らう者を鞭打ちにしたりしていた。 島民が、通りすがりのイギリス船に、自分達を暴君ヒルから解放してほしいと訴えていた。 1837年に島から追放されるまでの6年間、ヒルはピトケアン島に居続けた。

1856年に再び島民は島での人口増加の問題で、194人余りがイギリス政府により、無人島だったノーフォーク島に移住した。 ピトケアン島より大きく住みやすかったので、ノーフォーク島にとどまる者も大勢いたが、何人かはピトケアン島への帰還を求め島に戻った。

1937年にはバウンティ号の船員とタヒチ人の子孫233人が住んでいたが、その後、ニュージーランド、ノーフォーク島等に移民し、現在は47人しか残っていない。ピトケアン島の前村長、スティーブ・クリスチャンはフレッチャー・クリスチャンの子孫である。

 

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