「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

お手頃

2008年04月14日 | ああ!日本語
 久しぶりに贈りものの品定めにデパートをのぞきました。
 男物のスポーツ・シャツを眺めていたら、近寄ってきた店員さんに、「セールに入っていますので、お値段もお手頃ですよ。」と勧められました。

 こうした買い物をしばらくしていない私にとって、値頃かどうかは、こちらの財布の中身にかかわるもの。5700円という値段は、「お手頃」よりは高額に思えたのです。
 「お手頃」ということで、こだわってしまいました。確かに”手に余る”ほどでも、”手の届かない”値段でもなかったのですが、また出直しますと引き下がって、お手頃の頃合いを考えてみました。程々、程合い、頃合い、相応、と、すぐ浮かんでくる同類の日本語も多彩です。
 これらは数値的な量も、質も示すものではありえません。極めて曖昧なもので、それでいて、何か人を納得させる通念のような性質を携えています。ただ私の今日の買い物の場合のように、人によってその「お手頃」は異なる厄介なものです。

 契約書や取扱説明書に使われるような表現では、生活の場での会話は成り立たないのは勿論ですが、受け手にとってさまざまに解される表現というのも、生活の言語としては困りものです。にもかかわらず、この頃の朧の月同様、やわらかく、あからさまでない言い方を私たちは従来評価し、好んで使ってきました。
 その一方で、コミュニケーションの手段であるからには、相手に正確に内容が伝わる必要があります。正確に伝えるためには、曖昧な意味を出来るだけ明らかなものに置き換える努力をしなければならないという矛盾の中で生活しているわけです。
 私でも、自分の中に分相応の度合いを計る目盛りは持っているつもりですが、川面に投げるのに手頃な石は、計れても、度を過ごさぬ程度の程々は、お酒の場合と同様、その場の雰囲気でも動くもので、定めがたいものです。

 “いい加減“にしろと、うんざりした顔が浮かんできました。”程々”というのは難しいものです。ということで。「お手軽」なこの項を閉じます。