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The Blueswalk の Blues&Jazz的日々

ブルースとジャズのレコード・CD批評
ときたまロックとクラシックも
 
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ハンク・ジョーンズを偲んで

2010-05-18 17:10:32 | Jazz

ハンク・ジョーンズを偲んで
                                                                               By The Blueswalk

 ハンク・ジョーンズさんが2010年5月16日、91歳で亡くなられた。最晩年まで精力的に活動され、天寿を全うされたといってもいいだろう。最も日本を愛し、日本人に愛され親しまれたジャズ・マンの一人ではなかったのではないだろうか。それは、特に晩年は日本を何回も訪れたことでも判るし、とくに関西・神戸を愛していたようである。温厚で、品が良いジェントルマンであった。また、明快でかつ歯に衣を着せない語り口には僕たちジャズ・ファンも溜飲を下げたことも多かった。
 ご存知の通り、ジョーンズ3兄弟の長兄として、早くからジャズ界で活動されたのだが、次兄のサド・ジョーンズはトランペッター、サド・メル・オーケストラのリーダーとして、末弟のエルヴィン・ジョーンズはジョン・コルトレーン・グループのドラマーとして脚光を浴びてきたのに対し、長兄のハンク・ジョーンズはなかなかジャズの第一戦での活躍が目立つ存在ではなかった。どちらかというと、バイ・プレイヤー、歌伴ピアニストのイメージが強い。トミー・フラナガンを名盤請負人バイ・プレイヤーとして最大評価している向きがあるが、ハンク・ジョーンズも負けてはいない。1946年には、スタン・ゲッツの『オパス・デ・バップ』に参加して以降、数多くの名盤に参加するとともに、エラ・フィッツジェラルドの歌伴奏者として、コンスタントにレコーディングを続けている。ただ、不幸にも穏やかな性格が災いしてか、なかなか自己名義のレコードでインパクトのある作品が作れていないのは事実であった。
僕らが知っている初期の代表作は1955年録音の『カルテット&クインテット』となろう。非常に趣味のいいピアノを聴かせており、なかなかの秀作である。聴けば聴くほど味の出る作品とはこういうレコードを指すのだろう。しかし、これとてもトランペットのドナルド・バードが目立っており、どうしても主役としては影が薄いのは否めない。
 ハンク・ジョーンズが脚光を浴びたのは、すでに還暦に差し掛からんとする1977年のグレート・ジャズ・トリオによる『アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』である。何と遅咲きであることか。ロン・カーターのベースにトニー・ウイリアムスのドラムスという、当時の最強のリズム陣を得て、二人に負けないくらいの圧倒的な迫力でもって聴衆を凌駕している。その、前年には同じ布陣で渡辺貞夫の『アイム・オールド・ファッションド』を録音しており、このセッションがハンク・ジョーンズのバップ魂に火を注いだのではないかと推測するのである。そして、これを機に怒涛の快進撃をはじめるのだから、人間いつどう変わるか判らないものである。大器晩成とは云えないが、それまでの不遇を補ってお釣りが来るほどの活躍なのだ。
 ハンク・ジョーンズの趣味の良さが味わえる小品が1994年にチャーリー・ヘイデン(b)と録音した『スティール・アウェイ』だ。邦題は“スピリチュアル”となっており、黒人霊歌、賛美歌などを演奏しており、静謐なピアノとベースの音が心に響いてくる。僕はキリスト教ではないので、クリスマスで何かするということはないのだが、毎年このCDの最後の賛美歌メドレーを聴いて過ごすことにしている。これは、これからもずっと続くことになるだろう。ハンク・ジョーンズさん、安らかに眠ってください。


高槻ジャズ・ストリート’2010

2010-05-13 20:59:32 | Jazz
高槻ジャズ・ストリート’2010
                                                                       By The Blueswalk
今年も、5月3日、4日の両日、五月晴れに恵まれて盛大に行われました。私も両日とも出かけて楽しませてもらったので、取り急ぎそのレポートを寄稿します。
 晴天ということで今年は特に観客が多かったような気がしています。初日はAKさんとご両親、WDさんご夫婦も参加されました。TKさんも参加されましたが、長時間の立ち見での疲労などがありまして、途中でのお帰りとなったようで残念でした。
 私の初日の目的は川嶋哲郎さんでした。まずは、大阪医科大学・資料館でのソロが予定されたので、いつもより1時間以上も早く家を出て現地に向かいました。開演1時間前には着いたのですが、さすがに人気者だけあってすでに長蛇の列でした。選曲は客がよく知っているスタンダードなどを織り交ぜながら時には激しくブローするなどで大変盛り上がった内容でした。その後は市民グラウンドで、AKさんたち、WDさんたちと合流して、その川嶋哲郎さんのグループの演奏を聴きました。観客が多いのを見越して大き目のビニールシートを用意して行ったのですが、早めに行ったので運良く丸テーブルを確保でき、ビールを飲みながらのゆったりして鑑賞できましたが、しかしまあ、天気がよすぎて暑いのなんのって大変でした。半そでシャツで行って正解でした。
 二日目は一人で最初から市民グラウンドに陣取り、安カ川大樹クインテット・フューチャリング・市原ひかり椎名豊率いるロンドン・トーキョー・コネクションの2グループの演奏を楽しみました。
市原ひかりさんはCDも発売されているおなじみの女流トランペッターです。あんな小柄で華奢な(多分身長は150cmそこそこ?)体でよくもプロのトランペッターとして活躍できるもんだと感心したことでした。ただ、非力は如何ともし難く、トランペットらしい迫力を求めるジャズ・ファンには物足りなさは残っただろう。
椎名豊グループも構成は安カ川大樹グループと同じテナーとトランペットをフロントにしたクインテットで、海外ツアーで一緒にやっているという息の合った二人とドラムスも広瀬潤次ということでテクニシャン揃いで大変盛り上がった演奏でした。とくに、後半特別ゲストとして出てきた黒人のボーカル(名前は失念してしまいました)が芸達者ぶりを発揮し、やんやの喝采を浴びて大盛況のうちに終了しました。
すでに10年を超えるイベントとして定着しており、年々観客が増えていく傾向にあるようです。また、来年には元気にこのイベントを迎えたいものです。

Jazzy not Jazz

2010-04-16 09:08:30 | Jazz

Jazzy not Jazz        
                                                                                 By The Blueswalk

 “ジャジーだけれどもジャズではないよ”といったジャズ・ファンの心理を逆手に取ったCDである。サブタイトルが『New Style of Jazz Music』となっているところを見ると、我々がジャズとみなしていないこれらの音楽がこれからのジャズであるということだ。
いまどきのジャズ・ボーカルを選りすぐって集めたオムニバスであるがこれが中々バラエティに富んでおりよろしい。僕はこの手のボーカルものは通常は買わないので出てくる歌手たちは殆ど知らないが、それが反って新鮮味のある音となって響いてきて、大変楽しいCDに仕上がっていると思われる。また、それぞれが個性的で独自の雰囲気を持っており、今風のボーカルを聴いていない僕にとっては“目から鱗”の1枚といえるだろう。このところ、日課となってる淀川河川敷の散歩のお友達はずっとこれらの歌姫達であるのだ。

 それでは、それぞれについて寸評を少し。
①メロディ・ガルドー“夜と朝のはざまで”
イントロからブルージーでスローに出てくるところなど、けだるくアンニュイな雰囲気がたまらなくいい。一瞬“サマータイム”?と思わせるピアノも秀逸だ。ノラ・ジョーンズを少し大人っぽくした感じで、バックもジャジーでかっこいい。
②ウインタープレイ(バンド)“ホット・ソース”
ベースのイントロからシンコペーションしたリズミカルな演奏だ。こっちはスウインギーでこれまたいい。メロディはポップス的であるが歌い方はジャズっぽい。スキャットも自然でいい。
③ソーニャ・キッチェル“エヴリー・ドロップ”
さらにリズミカルでミディアムファーストなテンポ。ファンキーで、昔のR&Bを今風にしたような音作りである。バックのギターが雰囲気を守り立てている。少しハスキーな声質が今風なR&Bにマッチしている。
④ダフィー“マーシー”
これも③と同様、ファンキーで、ブッカーTとMGズのバックかと思わせる。あんた本当に白人なのか?まるで黒っぽいボーカルがR&B的で、伸びのある声で歌も上手い。このCDでは僕の一番のお気に入りだ。
⑤ジェイミー・カラム“エヴァーラスティング・ラヴ”
このCDに出てくる中で唯一僕の知っている歌手だ。いまどきの男性ボーカルはこのようにさり気なく中性的なのが受けるのか?歌姫たちが皆その魅力を最大限に発揮しているのに、どことなく頼りなく聴こえるのは気のせい?
⑥エイミー・ワインハウス“リハブ”
これもR&B風であるが、ポール・アンカやニール・セダカなどの1950年代のチャールストンを思わせるリズムが出て来たりで、面白いアイデアのある演奏だ。キャンディ・ステイトンをもっとブルージーにした感じ。力強い歌もいい。
⑦ベス・ロウリー“ソー・サブライム”
これは、全体の中でもっともポップな作りで、リズミカルなところが今風なのだろう。ここまで、R&B風なのが続いたので、清純な感覚がオリビア・ニュートン・ジョン的で口直しとしてはいい曲順の配置となっている。歌も悪くない。
⑧ルーム・イレヴン(バンド)“ワン・オブ・ジーズ・デイズ”
曲調はフュージョン風で、ちょっと鼻にかかったハスキー声がジョニ・ミッチェルをもうちょっと華麗にした感じ。歌い方もジョニ・ミッチェル風で、ハイテンポな曲にもリズム感よく歌いこなしている。
⑨ヴィエナ・テン“ホワットエヴァー・ユー・ウォント”
典型的なアメリカン・ポップスな感じ。春のそよ風に乗って髪をなびかせながら爽やかに歌う。そんな爽快感が漂い、いい感じだ。⑦と同様の効果が出ている。
⑩リズ・ライト“マイ・ハート”
中性的な声、女性としては少し低い声で、リズミカルに歌う。少しワン・パターンだがエスニック風なリズムとメロディが気持ちいい。個性的な唱法が光っている。
⑪ニコラ・コンテ“ライク・リーヴス・イン・ザ・ウインド”
典型的なAOR風。ジャジーではないが、ラテン風なリズムをバックに快調に歌う。どうしてもボズ・スキャッグスを思い浮かべてしまう。
⑫ベイ・シュー“サンディ・モーニング”
弦楽奏によるクラシカルなバックだが、ピアノソロなどはアメリカ的なところがあり面白い効果が出ている。ちょっと高めの清らかな声で、メロディを素直に、丁寧に歌っており、バックと同調していて心地いい。
⑬キアラ・シヴェロ“ヒア・イズ・エヴイシング”
スローなピアノのイントロから、少しかすれ気味の語りかけるようなボーカルで始まる。バックもしっとり聴かせるようにでしゃばらないところがいい。典型的なアメリカン・ソングといったところ。
⑭マデリン・ペルー“アイム・オールライト”
オルガンをバックにした歌であるが、ブルージーでもなく、そこはかとないニュー・オルリンズの香り漂うカントリータッチのユニークな曲である。歌い方もユニークである。ドクター・ジョンの女性版か? おもしろい。
⑮メロディ・ガルドー“クワイエット・ファイアー”
1曲目と同じひと。やっぱり、声と歌い方そのものがブルージーで、バックもそれに合わせた演奏で同調している。じっくり聴くと、味があり飽きさせない個性がある。

 いやぁ、とにかく全員粒ぞろいの歌姫たちで“おじさんにんまり”といったところだ。
いずれにしても、ビヨンド・ザ・ジャズとかアラウンド・ザ・ジャズとかいうキャッチ・フレーズで色々な作品が出ているけれど、この手の音楽を敬遠しているジャズ・ファンはやっぱり時代に取り残されているのではないだろうかとつくづく思ってしまう。聴いてみれば何のことはない。昔楽しんだポップスがジャズとなって生き返っているようなものなのだ。そういう意味で、このようなオムニバス盤が出されるのは、1枚ずつ買うのに比べ手軽で手に入れやすいしのでいい企画ではある。
 一つ気になったことだが、どうせなら全員歌姫で纏めて欲しかったなあ。会社の宣伝を兼ねているので、省くのは難しかろうが、一つの作品として完成させるのなら、違和感のある2人の男性を省くほうがもっといい作品となったはずなのだが。ついついこの2曲を飛ばして聴いてしまうのだ。

※KJSの今月(2010/4/18)の例会テーマが”ノン・ジャズ”なのでその記事用に作成しました。次月会報に載せる予定。


娘に贈るジャズ

2010-04-10 22:34:25 | Jazz

娘に贈るジャズ                                            By The Blueswalk

 この四月に上の娘が家を出て自活することになり、その準備を手伝っていたところ、娘から初心者向けのジャズとクラシックのCDをそれぞれ3~4枚コピーして欲しいとのお願いがあった。ただし、どちらもピアノ中心でとの断り付きである。改めて、現実にこのような場面に遭遇するとは思いもよらなかったので、さて何にしようかなと迷ってしまったことであった。自分がジャズを聴き始めたときは、友人が持っているレコードを聴き漁ったあとのことであったから、ある程度の知識はあったように思うし、スウィング・ジャーナル誌選定の名盤などの情報もあったので、割と抵抗なくいろんなジャンルに手を出したような記憶がある。
 選定の制約から、どうしてもピアノ・トリオが対象の中心になってしまう。その中で、あまり難解でなく、しかもジャズっぽくて聴き飽きないアーティストが候補として上がってくる。そうするとまずビル・エバンスは欠かすことが出来ない。さて、「ポートレイト・イン・ジャズ」にするか「ワルツ・フォー・デビィ」にするか、悩むところである。音は前者が良いが、ジャズの臨場感はライヴ演奏である後者が断然いい。どうせ、ちっぽけなラジカセかミニ・コンポで聴くことになるだろうから、後者を選ぶことにしよう。
 次は誰にするか?僕の個人的な好みでいうとセロニアス・モンクやバド・パウエルであるが、これはあまり一般的ではないのでここはちょっと我慢。そうすると、レッド・ガーランドか、ソニー・クラークあたりになってくる。レッド・ガーランドの「グルーヴィ」などは好きなんだが、少し古めかしい音に感じそうなので、ソニー・クラークにしよう。「クール・ストラッティン」は名盤の誉れ高いがピアノ・トリオではないので「ソニー・クラーク・トリオ」のブルーノート盤を選ぶ。
 3人目は少し僕のこだわりを入れよう。オスカー・ピーターソンかフィニアス・ニューボーンJr.だ。ぼくはこの手の超絶技巧のピアノ・スタイルが大好きなのである。フィニアスの作品はほとんどトリオ作品で、「ハーレム・ブルース」や「ジス・イズ・フィニアス」などの名盤はあるが、テクニック前面に出すぎているようなので一般的ではない。従って、オスカー・ピーターソンとなる。こちらもピアノ・トリオは山ほどあるが、ゆっくり聴けて、じわぁ~と感動を呼び起こす「ナイト・トレイン」に決まり。他のレコードもいいのだけど、ちょっと初心者には疲れるかも。
 さて、最後はちょっと新しいのも入れないとまずかろうから、キース・ジャレットあたりから選ぼう。ソロ・ピアノにも食指を動かされるが、ここはぐっとがまんして、トリオに絞る。スタンダード・トリオのスタジオ盤も良いけれど、この「スティル・ライヴ」(枯葉)は音もいいし、3人のインタープレイが目に見えるぐらいの迫力を持って訴えかける怒濤の2枚組である。かといって、うるさいかというとそうでもない。うるさいのは、キース・ジャレットの犬の遠吠えみたいな唸り声だけであるが、彼女が果たしてこれに耐えられるかどうかがみものである。
 さて、あなたなら何を選ぶ?


温故知新 Part01

2010-04-09 22:59:58 | Jazz

温故知新 Part01                      By The Blueswalk

 ジャズ創生期のジャズマンたちの音を100年近く経った現代の我々が聴けるというのはレコードという録音技術の賜物であり、そして、それらを残したレコード会社や、録音スタッフの努力の結果である。しかし、あまりにも多くの音楽が氾濫している現代では、これらを聴く機会も中々無くなってきているのではないだろうか。名前は知っているが聴いたことはないし、CDも持っていないというのが大方の若いジャズ・ファンなのだろう。斯く云う僕もその中の一人ではあるのだ。自分のコレクションの整理を兼ねて、このような古いジャズを見直す機会を自分に課すため、この“古(故)きを訪(温)ね、新しきを知る”というタイトルでしばらくはおつきあいを願いたいと思うわけである。
 ジャズが生まれたのは19世紀の終わりごろのルイジアナ州のニュー・オルリンズ辺りであるというのが定説で、その起源は、南北戦争(1861~1865)が終息し、奴隷解放という政策により黒人が自由人になったということに由来する。奴隷であった時代は、人間として認められていないから、白人地主に馬や牛と同等として飼われ、餌と小屋が与えられるだけで自己というものの存在すらなかったので、個人の悩みとか不満をすら持てる環境ではなかった。しかし、奴隷解放により人間として認められ、自由人にはなったが、耕す土地は持てなくて、仕方なく小作人として白人の搾取に遭い、解放前より悲惨な状況になってしまったのである。白人と同じ人間とされてしまった副産物として”人種差別”が生まれたのだった。それまでは人として認められていなかったので人種差別もなかったのである。奴隷であった黒人たちが唯一許されていたのは、労働歌としてのワーク・ソングや教会での宗教歌を歌うことであった。それらから生まれたのが、ブルースである。自由人となった黒人やクレオール(白人と黒人の混血)たちが、ニュー・オルリンズの”コンゴ広場”でアフリカのリズムに合わせこのブルースやワーク・ソング、黒人霊歌などを歌い、踊ったのがジャズの起源である。
 『君はもうバディ・ボールディンを聴いたかい?』というのが、当時のジャズ・ファンの挨拶言葉であったという。この時代、黒人ブラス・バンドやホールやサロンでのオーケストラなどは裕福な白人のパーティやピクニックでの演奏で生計を立てており、バディ・ボールディン(1877.9.6~1931.11.4)という、ジャズを作った男といわれるこのコルネット奏者も18歳には街のバンドで演奏していた。そんな時、目立ちたがり屋の彼は、通常のメロディにフェイクをかけたりして、アドリブによる魅惑的な演奏を繰り広げ人気を博した。これが、即興を中心にした最初の“ジャズ”と言われているのである。残念ながら、1905年ごろまで演奏活動をしていたが、以降精神的な疾患により病院に入れられたため、演奏がレコードに残されていない。
ジェリー・ロール・モートン(1885.9.20~1941.7.10)は1902年17歳の頃からストーリーヴィル(公娼街)でピアノを弾き、生計を立てていた。彼はフランス人と黒人の混血(クレオール)で、コルネットのボールデンをピアノに移し替えたようなアドリブで人気を呼び、ピアニスト、バンド・リーダー、作・編曲者として多くの録音を残した。このレコードは1926年から1928年ごろの、ジャズ史上最初期のグループ・エクスプレッションを押し出した彼のレッド・ホット・ペッパーズの録音を収めている。各楽器のソロもふんだんに取り入れ、従来のニュー・オルリンズ・ジャズをさらに進化させた演奏である。当時としてはびっくりするほど録音状態もいい。晩年は、「ジャズの創始者」を自称し、多くの放言によりジャズ関係者のひんしゅくを買ってしまったけれど、ジャズ史的にはこれを補って余りある功績を残したといえるだろう。
ジェームス・P・ジョンソン(1894.2.1~1955.11.17)はハーレム・ストライド奏法を代表するピアニストである。ストライドというのは、左手がベース音とコード音を1オクターブまたいで交互に弾くことから「またぐ(ストライド)」と呼ばれている。1920年代のニューヨークはストライド・ピアノの中心地で、そのため、ハーレム・ストライドなどと呼ばれているのである。このレコードは1920年代の録音でソロ・ピアノ、デュオ、セッションの演奏が収められ、さまざまな形でのストライド・ピアノが楽しめる。ソロ・ピアノの場合にはラグタイムがほとんどを占めている。だから、このレコード(A面)を聴くとスコット・ジョップリンのラグタイムとさほど変わりはないように聞える。一方、B面はバンドの演奏で、シンコペーションのよく効いたこれらの演奏を聴くと、ニュー・オルリンズ・ジャズに比べ、華やかで、洗練されたニュー・ヨークらしい演奏となっているのが判るだろう。
アール・ハインズ(1905.12.28~1983.4.22)は1927年にルイ・アームストロングのホット・ファィヴに入って名演を残し、サッチモの力強いトランペット・スタイルをピアノに取り入れた。このため、 ハインズのピアノは「トランペット・スタイル」と呼ばれるようになった。その後、「ジャズ・ピアノの父」(アール”ファーザ”ハインズ)と称号され、人々の尊敬を集め、ジャズ・ピアノ界に君臨して来た。ジェリー・ロール・モートンと同じように、親分肌で後輩への影響も強く、特にオスカー・ピーターソンやフィニアス・ニューボーンJr.などへの影響を強く感じさせる。アート・テイタムとはスタイルが異なるが、当時の2大ピアニストといえるだろう。ビ・バップの時代になって人々から忘れられた存在となったが、1960年代に再評価され、新時代の若手との共演を通じ、時代後れを感じさせないバイタリティのある録音も残している。このレコードは63歳の時のものであるが、リチャード・デイヴィスとエルヴィン・ジョーンズという、当時の若手の最も進歩的なジャズマンを起用し、一歩も引けをとっていない。
メリー・ルー・ウイリアムス(1910.5.8~1981.5.28)は1929年から、アンディ・カーク楽団の作・編曲家兼ピアニストとして、この楽団の全盛期を担った才女である。彼女が去ってから楽団の人気も一気に落ちてしまったところは、結局楽団がリーダーでなく彼女の力量に頼っていたということがわかるエピソードである。後年はノーマン・グランツによって設立されたパブロ・レーベルにも多くの録音を残している。このレコードは1964年録音で、すべて本人作曲のピアノ・ソロ・アルバムであるが、流石に曲作りが上手い。顔に似合わずといったら失礼だが、女性らしい繊細さと多彩さが曲にも演奏にも際立っている。日本で言えば、秋吉敏子のイメージが浮かんでくる。じっくり聴くと、どことなくクラシカルな面持ちがあっていいなあ。こういったオールド・ファッションなジャズを聴くとノスタルジーを感じるのは、僕が年を歳を取った所為ではなく、いまどきのジャズにない、人為的でなく自然で生理的な調和があるからなのだろう。


コンプリートは宝の山か、掃き溜めか

2010-03-26 23:23:45 | Jazz

コンプリートは宝の山か、掃き溜めか
                                                                    By The Blueswalk

 コンプリート・レコーディングなるものを見かけるとつい手が出てしまう。何かすごいオマケがあるのではないかと期待するわけである。結果は悲喜交々であるが、大半は期待はずれのためがっかりしてしまい、買うんじゃなかったと後悔することになってしまう。グリコのオマケ以下というのも少なくない。別テイクやらが5曲も6曲も連続して再生されるのにもうんざりしてしまい、ほとんどかけることの無い棚の片隅に追いやられてしまうのが落ちとなってしまうのだ。当たり前ではあるが、そんなに安い買い物ではないし、単に寄せ集めして量を増やしただけといった代物が多いのも実際のところだから、オリジナルに対して何が如何コンプリートになったのか詳細に確認してから買ったほうがよい。しかし判ってはいてもやめられないのがこの世の常、ファン堅気というものだ。

 スタン・ゲッツの晩年(死の3ヶ月前の録音)に吹き込まれた、最後の傑作として名高い『ピープル・タイム』をご存知の方も多いことだろう。ケニー・バロン(p)とのデュエットで切々と吹くゲッツのテナーに涙した人もあろうかと思う。オリジナルはCD2枚組で、これだけでもデュエットものとしては十分すぎる量ではあった。
このとき(コペンハーゲン、カフェ・モンマルトル)のライヴのコンプリート・セットが発売された。CD7枚と大盤振る舞いである。勿論、未発表音源も多いのだ。よせば良いのについ手が出てしまった。もともと、名盤誉れ高いオリジナルなので、演奏の質が悪かろうはずはなく、迫りくる死の恐怖を吹き飛ばすかのような壮絶な演奏は感動ものである。その場に居合わせたらすごかっただろうなぁとの想像はつく。しかし、内容がデュエットでバラエティに欠くためいくら名演とはいえ、CD7枚通しで聴くのはいかにも辛い。人の許容にも限度があるというものだ。このライヴのシチュエーションが判ってるだけに、BGM的な不謹慎な聴き方も出来ないため、扱いに困ってしまうのだ。

 最近、廉価版のDVDを買った。『レニー・トリスターノ・ソロ』という、1965年、コペンハーゲン、チボリ・ガーデンズ・コンサート・ホールでのライヴ映像である。ご存知のように、盲目で孤高の鬼才ピアニストと言われ、クール・ジャズを代表する人である。レコードも多くはないがかなり出ているので僕でも少ないとは云え5枚ほどは持っている。これまでは、常に冷静沈着、感情を露にしない表現をかなり評価していたつもりであったが、このDVD内容というのが、うわさどおりというか、非常に凍りつくようなえもいわれぬ独特の空間を持ったものであった。舞台の幕が開いて、演奏が始まり、約40分で最後の演奏が終わり、幕を閉じる。そこに出てくるのはピアニスト唯一人、でも一言も発せず終わる。こんな冷たいコンサートがあっていいんだろうか?これがクール・ジャズなのか?ちょっと考えさせられる映像であった。
彼はトリスターノ楽派といわれる、いわば非主流派を代表する一家を総帥し、師弟も数多い。
その師弟の中で、代表的なのが、このウォーン・マーシュとリー・コニッツである。このコンビは『リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ』という大傑作を残してはいるけれど、イーストの黒人バップ系の奏者に較べるとどうも認知度が低いのは否めない。その理由は“トリスターノ派”というレッテルの所為で敬遠されたのではないかと思うのである。ぼくは両者とも好きなので、過去のそのような評価を聴くに付け残念でならない。その彼らの1975年のデンマーク・コペンハーゲン、モンマルトル・クラブでのライブのコンプリート盤がこれである。いつもながらの、二人の息の会ったご機嫌なアンサンブルが聴けるのであるが、それにも増して驚くべきは、壮絶な丁々発止としたと緊密なインタープレイである。CD全体の内容としては、3夜のライヴ音源とコニッツ抜きでのスタジオ録音がセットになっている。ここでは、その両方が楽しめるのであるが、コンプリートと銘打つのは詐欺ではないのか?半分はウォーン・マーシュだけなのだから。と、ここまで書いた後気が付いたのは、ジャケットには一言も「コンプリート」などという言葉はない。ライヴのコンプリートではCD2枚半と中途半端になるので、同時期のウォーン・マーシュのスタジオ録音を付け足して4枚にしただけのようである。店が勝手に貼り紙付けて宣伝していたのだ。買うときにもっと気をつけなければ・・・。ただし、それぞれの演奏は文句なしにすばらしいことは付け加えておきたい。

 1月の例会の後の二次会の席で、皆さんが和気藹々と歓談しているなかで、一人携帯電話でヤフオクの落札にはまり込んでしまった。どうしても欲しい一品があったからである。皆さんにはひょっとしたら不愉快な思いをさせてしまっているのではないかと思いながらも何とか落札にこぎつけた。その一品がこれである。「村八分」のコンプリート・レコーディングス。
1970年ごろの日本のロック創生期、関西のアンダーグラウンド界では知る人ぞ知る存在のロック・グループである。その昔、京大西部講堂における伝説のライヴ・レコードは我々若者ロック・ファンの垂涎の的であった。そのオリジナルは中々手にいらない。その村八分の全音源のコンプリートが出たのは既に7~8年前のことだけどこれもまた限定版で中々手にいらない。勿論、ライヴ・レコードもリマスターとなっている。なんといっても格段に音がよくなっている。そして、その他の音源満載のコンプリートである。DVDも付いており、貴重な映像もファンを満足させるものである。
とまあ、ここまではマニアックなファンとしての自己満足の感想であって、実際のその他音源については、とてもお金を取って販売するほどの価値があるのかどうかは疑問が残る。はっきり言って、ライヴの観客がラジカセで隠し撮りしたような音源や映像が多すぎて仕方がない。“あばたもえくぼ”とは言うけれど、ファン気質の弱みを逆さに取っての商売には多少の抵抗感が残るのである。“掃き溜めに鶴”とはいかなかったのだ。

※この文章は2010年3月の関西ジャズ・ソサエティの会報に載せた記事のリニューアルです。

 

 


美脚

2010-03-12 10:01:27 | Jazz

美脚
                                                                    By The Blueswalk

 アナログ・レコード蒐集の楽しみの一つに、ジャケットを愛でるというのがある。“ジャケ買い”などと言われ、変態視されることもある。しかし、CDが12cm角のぺらぺらなのに較べると、31cmの硬くて大きなジャケットは絵画的な面持ちがあり、それに絵が美しかったり、エロティックだったりすると、音に多少パチパチノイズがあってもまったく気にならないのである。CDでノイズのない綺麗であるがうすっぺらでな音を聴いているファンには理解できない世界かも知れない。女性ヴォーカリストのジャケットなどは本人の写真を色っぽく撮って中身よりはそれを売りにしているのも珍しくはない。 今日のテーマはそれらの中で“美脚”を取り上げた。ありそうでなかなか無いのが蒐集家の本能をくすぐるところである。
 ソニー・クラーク『クール・ストラッティン』はその代表的な作品である。“気取って歩く”というタイトルそのもののジャケット・デザインで多分日本で最も売れたジャズ・レコードではないだろうか。実はビジネス街のキャリア・ウーマンが歩く写真で、ひょっとしたら見せられる顔じゃなかったので足だけにしたんじゃないかとは思わないでくださいね。
 マーティ・ペイチ『ザ・ブロードウェイ・ビット』(通称“踊り子”)はアート・ペッパーを全面的にフューチャーした傑作である。顔もいい、スタイルも文句なしのいうことなし。これまでは、一人の踊り子が鏡に映っていると思っていたのが、アナログ・ジャケでみると二人だったんだとわかった。今でも、ヤフオクなどでは、オリジナルでもないのに、落札価格が5000円を下らない人気商品である。勿論、演奏内容も文句なしである。
 パット・モラン『ジス・イズ・パット・モラン』もマーティ・ペイチと同様の人気を誇っている一枚である。ピアノの鍵盤にハイヒールのかかとを乗っけるなんて不届きだなどと思ってはだめ! この美脚の女性の顔を拝んでみたくなりません? 想像させるだけで価値のあるジャケットなのです。ひょっとして、この美脚の主がパット・モラン?
 ディヴ・ブルーベック『エニシング・ゴーズ』。足が逆さに写っているので、つい、この女性のスカートがどうめくれ、その下がどう露になっているんだろうなどと(ああ、俺もとうとう変態ベースさんと同レベルの変態に堕ちてしまった)想像してしまう。でも、これもこのレコードの売りだと思えば、そんな妄想も恥ずかしいことではない。美脚的スタイルとしてはこれが一番いいなぁ。

※この文章は2010年2月の関西ジャズ・ソサエティの会報に載せた記事のリニューアルです。


ウィズ・ストリングス

2010-03-12 09:31:28 | Jazz

ウィズ・ストリングス
                                                                                 By The Blueswalk
 ジャズの演奏家が一度はやってみたいことの一つに、ウィズ・ストリングスのアルバムを作ることがあげられるようだ。それなりの地位と名声を勝ち得た証としてこれを望むらしい。まあ、その気持ちが分からないわけでもない。指揮者(アレンジャー)とオーケストラを従えて自分が主役になれるのだから、気分が悪かろうはずはない。そして、レコード会社のほうでも大変な経費が掛かる訳だから、多少とも売れる確証が得られてはじめて成り立つ企画である。一流のステータス・シンボルなのだ。そういった意味でいくと、ウィズ・ストリングスのアルバムがそうざらにある訳ではないのだ。有名なところでは、チャーリー・パーカー、クリフォード・ブラウンなどのそれが挙げられよう。今回、そういった中のトランペットのウィズ・ストリングスに焦点を当ててみた。
ディジー・ガレスピーの『Dizzy Gillespie And His Operatic String Orchestra』と題されたこのアルバムの場合、1枚のアルバムのコンセプトとしてウィズ・ストリングスをやった訳ではなく、何回かのセッションが一枚のCDにまとめられている。カルテット、クインテットの演奏も入っている。でも、同僚のチャーリー・パーカーがやって成功したのだから俺も一つそれにあやかって・・・と思ったのではないかな。
しかし、地は隠せない。1曲目の“ボディ・アンド・ソウル”、かなりクラシック・タッチのアレンジでスタートしているが、トランペットもそれに合わせて進むかと思いきや、途中から待ちきれないかのように飛び出してしまって、まるでビ・バップのソロと紛うような熱い演奏となってくる。しかし。これがまたガレスピーらしくて面白いんだな。
ただ、ストリングスのアレンジが雑というか、繊細さがないのでどうしてもトランペットの方ばかりに耳がいってしまうのが難点かな。
チェット・ベイカーほどウィズ・ストリングに相応しいトレンペッターはいないだろう。何故かというと、テクニック的には、今回取り上げる他の人たちに比べやや劣る(チェット・ベイカー・ファンの方さんすみません)かもしれないが、ウィズ・ストリングスは何もスピードを競うわけでもなく、ハイ・ノートをひけらかすわけでもないのだから、それはあまり不利とは言えない。ストリングスとトランペットをいかに同化させていくか、そこに情感をどれだけ込められるかが勝負になってくる。それにはチェット・ベイカーの中庸的な性格が最適なのだ。僕はチェット・ベイカーのヴォーカルをあまり好んで聴くファンではなく、出来るなら“歌のないチェット”の方を好むのだが、このアルバムではストリングスとヴォーカルがうまく絡み合っているので好きだ。十八番の“マイ・ファニー・ヴァレンタイン”も有名な、『シングス』のヴァージョンよりもいいと思っている。また、トランペットの音色も中音域でさり気なく吹いているのが心地いい。
クリフォード・ブラウンのウィズ・ストリングス。上述したように、チャーリー・パーカーのそれと肩を並べる有名盤だ。ただ、人によっては、クリフォード・ブラウンの駄盤と指摘する人も少なくない。あの、輝かしいアドリブ・プレイを犠牲にしているのでらしくないというのである。粟村政昭さんも、「クリフォード・ブラウンのレコードはストリングスと共演した愚盤を除いてはあまさず蒐集の価値がある」などど書いている。しかし、それでも伸びやかなトーンは随所に発揮されているし、歌心溢れたメロディを完璧に消化しているこのすごさは他の誰も真似できないところだろう。ジャズ・ファンでこのよさが理解できない感性の持ち主がかわいそうだ。特に、“煙が目にしみる”などは、いい意味でストリングスがあるのを忘れるぐらいのトランペットは感動的だと思うのだが・・・
ウィントン・マルサリスがクリフォード・ブラウンに挑戦したウィズ・ストリングスの『スターダスト』である。ブラウンと較べられたらたまったもんじゃないと思ったのか、かなり捻った音作りである。音の伸び縮み、上下音の移動を極端に利用して、どうだ、これで参ったかとでも言わんばかりの主張が目立ってしまう。悪く言えばカッコつけすぎの感がする。両者共通して演奏している“スターダスト”を聴けば一聴瞭然である。だから、ブラウンの作品とは似ても似つかない結果となっている。しかし、見方を変えれば、その弱点を補って余りある完璧な演奏は驚異的でもある。やはり、一時代を築きあげるきっかけとなった作品であることには間違いなく、これも一つの歴史的な盤としてジャズ・ファンの記憶に残っていくだろうと思う。
ファブリッツオ・ボッソのウィズ・ストリングス。これは、以前会報に記事を寄せたので、そちらも参考に読んでいただければと思う。上記4つに比べ、録音が最近で、CD録音技術の高度化に支えられている面はあるが、ストリングスが今風で、かつラテンを感じさせているところが大きな違いとなっている。また、トランペットの音はもちろん押さえ気味なのであるが、あまりバックのストリングスに束縛されず自由にアドリブを演っている。昔のウィズ・ストリングスからはかなり変貌していると感じる。アルバム・タイトルが『ヌーヴォ・シネマ・パラダイソ』となっているので分かるように、映画音楽のサントラ的に聴くのがいいのかもしれない。

 ハード・バップなどを聴いたあと、たまにこのようなストリングスを聴くと、一服の清涼剤としての効果てきめんである。

※この文章は2010年2月の関西ジャズ・ソサエティの会報に載せた記事のリニューアルです。


元気よく歳は取りたいものだ

2010-03-12 09:26:58 | Jazz
元気よく歳は取りたいものだ
                                                                                 By The Blueswalk
 2009年12月1日の朝日新聞夕刊に、渡辺貞夫さんの記事が載っていました。もう、76歳なんですね。驚いてしまいました。KJSの2人の長老さんたちもますます元気で、たよりない若者たちを叱咤激励してくださっている姿を見るにつけ、俺もああいう風に歳を取りたいものだなあと思うわけであります。
僕が20代の頃FM大阪で土曜日の深夜『渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ』という番組があってよく聞いていました。大きなFMアンテナを買い、家主に内緒でアパートの屋上にそのアンテナを立て(ちっちゃな2階建てビルで2階は3部屋で屋上は2階住人の使い放題だったのです)、壁に穴を開け丸いケーブルを通し、また当時の安月給貧乏人には分不相応の高価なオープン・リール・デッキを買い込んで毎週といっていいほどエア・チェックしたものでした。あれからもう30年以上過ぎてしまいました。時の経つのは早いものです。
話し変わって、こちらは近所の話。僕の最寄の駅は新大阪なんだけれど、2年ぐらい前から帰宅途中の、駅前のニッセイ・ビルの1階のコーヒー店“スターバックス”のカフェテラスでほとんど毎夜サックスの練習をしている人がいました。最初は音だしの練習から段々と曲の通しの練習へと日が経つにつれ音色もよくなっていったようでした。それを聴きにコーヒーを飲みにいくという人々が集りだして、さらには、類は友を呼ぶかのごとく、何人か集りだし、最近では無料コンサート的な催しにまでなっていました。その模様が、わが淀川区のコミュニティ誌に載ったわけです。記事によると元々ビッグ・バンドのリーダーを務めていたらしい人の様だが、昔取った杵柄を再び磨きなおし、地域に潤いをもたらしているのだ。団塊の世代の人たちがどんどん定年を迎え、このような光景が数多く見られることを期待したい。

今年2009年のベストはこれ

2010-03-12 09:22:27 | Jazz
今年2009年のベストはこれ
                                                                                 By The Blueswalk
 暮も押し詰まった11月末に手に入れたのが佐藤允彦の『マイ・ワンダフル・ライフ』である。これは、2年前惜しくも亡くなったパーカッショニスト富樫雅彦へトリビュートした作品である。佐藤允彦がイニシアチブを取り、富樫雅彦と縁のあった旧友たち(渡辺貞夫、日野皓正、峰厚介、山下洋輔)をフューチャーした、富樫雅彦ソング・ブックなのである。それにしても富樫のオリジナル曲がなんと優しいメロディであることか。この中の数曲は本人が演奏したレコードやCDで聴いたこともあるのだけれど、さほど意識してこなかった。今回はゲストによる入魂の演奏でさらに美しく仕上がっているのである。 僕も歳を取った所為なのか、殊に最近は涙腺が緩くなったとみえて、些細なことでやたらと涙を溢すことが多くなってきてしょうがないのだが、1曲目のタイトル曲「マイ・ワンダフル・ライフ」における渡辺貞夫のアルトの憂いを含んだ物悲しい美しさに涙が溢れて来てしまった。さらにまた、ボーナストラックに2004年の同曲の山下洋輔によるソロ・ライヴが収められているがこれも感動的である。山下洋輔と富樫雅彦といえば、一時期犬猿の仲となって、お互い音楽家としては認めるものの感情的なこだわりから共演することがなかった。1980年に『兆』において15年ぶりの邂逅を得たことが話題になったりしたそんなことを考えながら聴いていると感無量になってくる。山下洋輔もそれを思い出しながら演奏したに違いない。まるで、このCDのために取っておいたような最高のオマケである。 佐藤允彦のすばらしいサポートもこのCDの価値を高めている要因の一つであろう。基本の演奏パターンは、ホーンのソロイストとピアノのデュオなので、このさり気なくかつポイントを押さえた心憎い気配りは流石と言うしかない。今年のマイ・フェイヴァリットはこのCDで決まりだ。
今年、個人的に追っかけた人として、ファヴリッツオ・ボッソを真っ先に挙げたい。ハイ・ファイヴというグループが人気になっていることは知っていながら聴く機会も無かったのだが、今年の初めたまたまタワーレコードで『SOL』というのを見かけ気に入って買い、このファヴリッツオ・ボッソなる人がハイ・ファイヴのリーダであることを知ってから追っかけが始まったというわけだ。その後のありさまは会報にも載せたのでご承知の通りである。そのときは「当代NO.1のトランペッター」と書いたのだが、今は、さらに評価を上げて、“30年に一人のトランペッター”と呼ぶことにしたい。30年に一人とは、 1920年以降 ルイ・アームストロングの時代 1950年以降 クリフォード・ブラウンの時代 1980年以降 ウイントン・マルサリスの時代 2010年以降 ファヴリッツオ・ボッソの時代だからだ。つまり、ジャズの花形であるトランペッター史上の四天王の一人になったということだ。ちょっと買かぶりかな? でもこれからもこの人には目が放せない。 さて、2010年はどんなスターが出てくるか楽しみだ。

アヴァンギャルド PART ⅩⅡ

2010-03-11 14:49:47 | Jazz

アヴァンギャルド “コルトレーンからアイラーまで” -PART ⅩⅡ

《アルバート・アイラー》
1970年11月25日、ニューヨークのイースト・リヴァーに一人の黒人の死体が浮いていた。これからのジャズ界を牽引するであろうと嘱望されていた、サックス奏者アルバート・アイラーであった。事故か、事件か、自殺か未だに謎である。日本では三島由紀夫の自衛隊駐屯基地での割腹自殺が起こった日である。そして僕はちょうど二十歳の誕生日を迎えていた。勿論、当時はこのニュースどころか、アルバート・アイラーをも知る由もなく、後年ジャズを聴きだしてから知ったのであるが、こういった因縁的な結びつきがあるとどうしても愛着がわいてくるというものだ。
 以前、当クラブのホームページ上で菊地成孔さんの『東京大学のアルバート・アイラー』という本が話題になったことがある。これは、菊地成孔さんと大谷能生さんによる、東京大学でのジャズ講義録を本にしたものである。ジャズの歴史を実際に演奏を聴きながら解説するもので、大変面白くて、和田さんへもお貸しした記憶がある。当たり前ながらこの2冊の講義録には多くのジャズ・アーティストが登場する。マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンなどは何回も引き合いに出され演奏も紹介され、ほぼ主役的な扱いである。しかし、アルバート・アイラーはたったの1回しか登場しなかった。でも、本のタイトルには“アルバート・アイラー”が冠されている。何故だろうか?
 また話は変わるが、僕はこのレポートの副題を“コルトレーンからアイラーまで”としている。前に、ドン・チェリーの項で引用した、粟村政昭さんの『ジャズ・レコード・ブック』という本の副題が“キング・オリヴァーからアルバート・アイラーまで”となっていて、実はこの副題をパクったのである。この本は、ジャズの歴史上に出てくる偉大なミュージシャンの紹介とそのレコード評なのである。キング・オリヴァーはジャズのレコードの歴史上、最初に取り扱ってなんら問題はないと思うのであるが、最後が“アイラーまで”とした意図は何なのか?この本が出版されたのが1977年で、すでにアイラーが亡くなって7年近く経った後のことで、ことさら、紐づくものはないと思われるのにである。
 以上の2つの例で分かるように、マイルスでも、コルトレーンでもなく、コールマンでもないアルバート・アイラーという人物のみが持っているジャズを代表する何かがあるということだ。それは何か、結論を言うと「ジャズ進化の歴史はアルバート・アイラーの死で止まった」ということである。つまり、ニューオリンズ(デキシーランド)、スウィング、ビバップ、クール、ハードバップ、ウエストコースト、モード、フリーなどとジャズはどんどん進化してきたが、ある日突然停止してしまった。それが「フリー・ジャズの終わり=アルバート・アイラーの死」なのである。だからジャズの終わりの象徴として、“アルバート・アイラー”でなければならないのである。その後のフュージョンは、停止し拡散してしまったジャズを収斂することはできなかった。80年代、ウイントン・マルサリスが出現し、その期待が寄せられたが、結果は進化するどころか過去のジャズの歴史を遡ることしかできなかった。現在あるのは、化石としてのジャズの焼き直しである。ブルースと同じようにジャズも20世紀の音楽として歴史博物館に陳列され、鑑賞されることのみがその存在価値となってしまうのであろうか?
 さて、アルバート・アイラーである。こういった、歴史的評価は別にして、気が小さく、愛らしい人物ではなかったのかと思うのである。激しく凶暴なサックス音塊とは裏腹に演奏された音色の端々にそのような優しい声が聞こえてくるような気がするのである。
【マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー】1963年1月14日録音
 最初に本人のナレーションで、「私の名前はアルバート・アイラーです・・・」と、か細い声で自信無さげに自己紹介しているが、これを聞くととても過激な演奏内容と結びつかないのが面白い。当初は、デビューレコードとして発売されたが、前年にすでにスタジオ録音されたものがあり、後でそれが『ファースト・レコーディング』として発売されたので最初という名誉はもらえなかったが、そんなことはどうでもよいか。 ここで聴かれるのはジャズ・スタンダード曲で、リズムセクションはヨーロッパ勢で固められ、若干15歳のニールス・ペデルセンも抜擢されている。終始いたってノーマルで快適なバッキングをしているのだが、ひとりアイラーだけが別次元で演奏をしているという感じである。ただ、良く聴くと、そこにはニューオリンズ的なジャズのエッセンスが息づいていおり、彼のスタイルが突然変異的に出現したのではないのが分かる。選曲、リズムセクションのスタイルからして完成品とは言えず、フリー・ジャズへの過渡的作品といってよいだろう。それでも、既にアイラーらしさは十分に出ているし、何度聴いても聴き飽きることはない。
【スピリチュアル・ユニティ】1964年9月14日録音
 アルバート・アイラーのというより、フリー・ジャズの最も重要な作品の一つである。いつもの聞きなれた「ゴースツ」のメロディをテナーが何フレーズか繰り返した後、ゲーリー・ピーコック(b)、サニー・マレー(ds)ともに三者の凄まじいフリー・インプロヴィゼーションに突入していくが、他のフリー・ジャズのような騒音、雑音的要素は皆無で、スピリチュアルな神聖なものを感じるのはなぜだろうか?アルバート・アイラーのトラディショナル性は上述したとおりであるが、それに加えてここでの演奏は完全に感情の吐露、自分を曝け出していることによる親近性なのかもしれない。ジョン・コルトレーンがこのレコードを指して“このような演奏をしたい”と述べたとのことであるが、彼もここに神聖な魂をみたのだろうか?
【グリニッチ・ヴィレッジ・ライヴ】1966年12月18日録音
 寄せ集めのライヴ盤なのでレコード全体の統一性は無いが、逆にさまざまなパターンの演奏が聴けるという意味では面白い。ただ、いつも思うことであるが、アルバート・アイラーの演奏に一貫して流れているもの、それは鎮魂とマーチである。常に、悲しみと賑やかさが同居し、ある時点では悲しみに打ち拉がれたかと思うと、次の瞬間には楽しい行進曲で死者の魂を葬送する。それを完璧に表現したのがヴィレッジ・ヴァンガードでの「トゥルース・イズ・マーチング・イン」、「アワー・プレイアー」の演奏である。全く見事なニューオリンズ・ジャズ・マーチではないか。一方、ヴィレッジ・シアターでの「フォー・ジョン・コルトレーン」はアイラーのアルトとベース、チェロの組み合わせでかなり意表をついている。


アヴァンギャルド PART ⅩⅠ

2010-03-11 14:44:50 | Jazz

アヴァンギャルド “コルトレーンからアイラーまで” -PART ⅩⅠ

《ポール・ブレイ》
 1953年から1956年当時のデビュー間もないころのポール・ブレイは正統なバップピアニストの将来を嘱望される若手の一人であった。とりわけ、『イントロデューシング・ポール・ブレイ』『ポール・ブレイ(トプシー)』は現在でも名盤と知られており、その溌剌とした、小気味いいピアノは僕なども大好きな演奏である。ところが、どう血迷ったか、1962年の4作目から、フリー・ジャズにのめりこんでしまい、現在に至っている。その最大の要因として僕は、二人の女性遍歴にあると思っているのだがどうだろうか。端正な顔つきで、スタイルがよく、女性がほって置かないタイプのイケメンであったので女性から言い寄られたのではと考えるわけである。よりによって、その惚れられた二人の女性というのが、フリー・ジャズの極め付きの女傑であったところに彼の翻弄された運命の最大の悲劇があった。とはいえ、21世紀の今日、これらの女性とすでに別れたにもかかわらず、未だにフリー・ジャズの演奏を嬉々としてやっているところを見ると、この二人の女性だけを非難して事すましているわけにもいくまい。
 さて、一人目の女性は言うまでもなく“カーラ・ブレイ”である。ご存知の通り、女性闘士として、チャーリー・ヘイデンのリベレーション・ミュージック・オーケストラでの活躍や、近年ではビッグ・バンドを率いての活動には目覚しいものがある。ジャズ史における貢献度としての評価はカーラさんの方が断然上である。1957年にポール・ブレイと結婚し、言い方は悪いが、それを機に成功への道を突き進んでいった。二人目の女性は“アネット・ピーコック”。苗字から想像できると思うが、あのキース・ジャレット・トリオで活躍中の“ゲーリー・ピーコック”の奥さんである。この女性、演奏家ではないが、舞台女優といったキャリアのある人で、本当かどうか知らないが、ポール・ブレイの演奏会の舞台で全裸のパフォーマンスを繰り広げたというエピソードもある。作曲家として、2度目の妻として、ポール・ブレイの変貌に寄与している。
この3人の三角関係はうまい具合に進んだようで、60年代から70年代前半にかけてのポール・ブレイのレコードの多くがこの二人の女性の楽曲で占められているのである。いずれにせよ、二人の薫陶よろしく、ポール・ブレイも立派なフリー・ジャズの闘士として成長していったのであった。そして彼の楽歴のなかで、この時期の演奏が一番よかったという事実は、2女性の影響が絶大であったということを暗示しているのである。ただ、ポール・ブレイはビル・エバンスとキース・ジャレットを結ぶ重要な歴史的役割を担っていることは認識しておく必要がある。
【クローサー】1965年12月12日録音
 1曲目の「イダ・ルピノ」をブラインドフォールド・テストしたら、10人中8,9人はキース・ジャレットと答えるに違いない。柔らかいタッチと牧歌的でかつ繊細なメロディがそのままキース・ジャレットに影響を与えたということだろう。といっても、2曲目からは完全なフリー・ジャズであるが、小品の連続なのでホーン奏者のような煩さはない。大半がカーラ・ブレイの曲。かなり、特徴的なフレーズが満載で名刺代わりの一枚として、ナルシストとしてのポール・ブレイの面目躍如といったところだ。
【ブラッド】1966年9月21日録音
 ここでは、アネット・ピーコックの曲が6曲演奏されている。この女性は躍動的な部分と耽美的な部分をほどよく混在させて曲作りしているので、メリハリがあって楽しく聴ける。オーソドックスな作りではないけれど、相当な才女ぶりを発揮している。どうせめぐり合うならこういう女性であって欲しいものだ。ただし、裏腹に毒気もはらんでいるのだが・・・
なお、ここで聴けるベースのマーク・レヴィンソンは、知る人ぞ知る高級オーディオ・アンプ・メーカーの創始者である。次に紹介する『イン・ハーレム』を含め、ポール・プレイとの3枚のレコードにしか演奏を残さず、実業家へ転身してしまったので貴重である。なかなか安定したベースランニングをしているので、若くしての引退は惜しい気がする。僕個人的な好みとしてはこのレコードが一番性に合っているかな?
【イン・ハーレム】1966年11月4日録音
 1曲20分前後と長尺だが、インプロヴィゼーションというよりかなり計算されたような演奏だ。ピアノ、べース、ドラムスが三位一体となってリズム、メロディを駆使するのでついつい引き込まれてしまう。全2曲ともアネット・ピーコックの曲で、ここでも色調豊かでさまざまな素材をちりばめた曲想が光彩を放っている。1曲目の「ブラッド」はタイトルどおり、血沸き肉踊るがごとき、3者の丁々発止のインタープレイが聴き物である。2曲目の「ミスター・ジョイ」は一転、キース・ジャレットが惚れこんだのも頷けるような叙情的なピアノが新鮮に響いてくる。
演奏の価値とは関係ないことではあるが、先の『ブラッド』との間でアナログ盤とCD盤のジャケットが入子(正確には別のを含めて三つ巴)になって混乱を引き起こしているので要注意である。レコード会社の無神経さには相変わらず呆れるほかない。
【オープン・トゥ・ラヴ】1972年9月11日録音
 ソロ・ピアノなのでポール・ブレイの本質が一番聴けるレコードだろう。リリシズムの極致というか、全くポール・ブレイの世界観を表現した、稀に見る傑作である。なるほど、キース・ジャレットのソロ・コンサートもここからインスピレーションを得たのだなと思わざるを得ないほどの出来栄えである。内省的で理知的なメロディはまるで、龍安寺の石庭か墨絵を見るようである。マル・ウォルドロンのソロと対照的ではあるが、一脈通じる厳しさと静謐さを感じる。ただし、聴く人によっては暗くて滅入った感覚に陥ってしまう部分があるかもしれない。
 90年代に入っても精力的に演奏活動を続け、『禅パレス』、『ハンズ・オン』などコンスタントに、しかも、全く変わらぬアヴァンギャルドを貫いている貴重な存在である。


アヴァンギャルド PART Ⅹ

2010-03-11 14:36:10 | Jazz

アヴァンギャルド “コルトレーンからアイラーまで” -PART Ⅹ

《マリオン・ブラウン》
 知名度という点ではこれまで取り上げた中では最も低いのでここで取り上げるのには多少躊躇するが、キャリアでいくと1965年にアーチー・シェップらとの「ジャズの9月革命」に参加したのを皮切りに、コルトレーンの「アセンション」やシェップの「ファイアー・ミュージック」などにも参加している由緒正しい?フリー系アーティストである。
 初期のリーダ作、特に『ジュバ・リー』、『ホワイ・ノット』、『スリー・フォー・シェップ』(ともに1966年作)などでは、コルトレーン~シェップの流れを汲む伝統を引きずりながらも、彼の本質である非常にナイーヴで、哀愁感漂うセンシティヴなメロディが随所に発揮されている。この3作は当時のフリー系若手アーティストの作品中でも際立った傑作である。フリー・ジャズといえば、荒々しいサックスの咆哮が特徴的に奏されている時代で、しかも師であるアーチー・シェップはその代表格であった訳であるが、彼の特徴は、これとはまったく逆の方向性を持った稀有の存在であり、他の主流のフリー・ジャズ・アーティストとの根本的な相違である。
 もうひとつの特徴は、グラチャン・モンカーⅢ(tb)、デイヴ・バレル(p)、スタンリー・カウエル(p)といった同じく若手の共演者とのアンサンブルを強調した聞きやすいフリー・ジャズということになろう。彼らは70年後半までこの体制を軸として精力的に活動している。奏法としては、精神的にはアーチー・シェップ的、音楽的にはオーネット・コールマン的というべきであろう。主要楽器がアルト・サックスであることにも因るがオーネット・コールマンに近い。しかし、コールマンの“他次元の音楽を聴くというような違和感”はない。1966年の時点で、ポスト・コールマンから出発しながら、すでに完全に色彩豊かな自己の表現を完成させている。他のフリー・ジャズに較べて、難解なところがないのが彼の特徴であり、強みでもある。癒し系フリー・ジャズといったところか。イメージ的には、メロディの哀愁性から、ドン・プーレン(p)などへ繋がるひとつの流れがあり、その開祖ともいうべき位置づけをしてもいいだろう。
 このような強みがあってか、他のライバルたちが60年~70年代でどんどん表舞台から消え去った後でも、21世紀近くまで(実は2000年以降病床に臥しているとのことで音信がないのだ)一線で活躍していたのは記憶に新しい。
【ホワイ・ノット】1966年録音
 たしか、スタンリー・カウエルの初録音がこのレコードである。ここでの演奏は、ブラウンとカウエルとのコラボレーションが見事に結実しており、ジョン・コルトレーンとマッコイ・タイナーのコンビを髣髴とさせる。全4曲それぞれが特徴的な曲想を持っているが、中でも1曲目の「ラ・ソレラ」はこれまでのフリー・ジャズの概念を覆したとでも云える幻想的で、色彩美豊かなメロディは聴くものを桃源郷へ誘う心地である。コルトレーンの『至上の愛』に通ずるサムシングを持っている。また、リズミカルな愛嬌のあるコーダなどを聴いていると、その懐深さも感じられる。最後の「ホームカミング」はリズミカルで躍動的なピアノに乗ってイマジネイション豊かなアルトがすばらしい。
【VISTA】1975年2月15日録音
 これはもはやフリー・ジャズとは呼べない、マリオン・ブラウン独自のジャズである。
今でこそ、ヒーリング・ミュージックなどは当たり前のように数多く存在し、よく聴かれているが、この当時にはそのような音楽は、存在はしたかもしれないが、ひとつのジャンルとしてはありえなかった。その、数少ない萌芽がここにあったといってもよいだろう。そう、マリオン・ブラウンの音楽の本質は、ヒーリングなのでる。エレピなどの使用は当時のフュージョン・ミュージックへの傾倒を感じさせなくもないが、それはあくまでも音作りの手段として使用しているのであって、方向転換しているわけではない。
深海の淵へと誘うアルトの音色に乗って浮遊する。こんな心地いい音楽はないと思えるだろう。
【ノヴェンバー・コットン・フラワー】1979年6月21日録音
タイトル曲「ノヴェンバー・コットン・フラワー」は米国黒人作家ジーン・トゥーマーの『ケーン』という詩集からの同名詩にインスピレーションを得て作られた、ブルースっぽくもありながら、叙情的で心に染み込んでくるメロディがたまらない。解説で、油井正一氏がいみじくも“純文学的音の詩人”と評しているように、マリオン・ブラウンの美点が余すところなく詩的に発揮され、この1曲だけで十分にすべてが表現し尽くされている。マリオン・ブラウンの最高傑作だ。
2曲目の「ラ・プラシータ」は、同名アルバムでも演奏しているが、マリオン・ブラウンのルーツを知る上で重要な曲である。カリブ海的で「ラ・フィエスタ」を連想させるが、どこかマイナーな音が全体に違和感なく溶けこんでいる。ピアノのヒルトン・ルイーズはカリブ海のプエルトリコ出身のようだが、単に明るく楽しいだけではない、繊細な感覚も兼ね備えた才能を発揮している。今回のこのピアニストの起用はこの点で成功している。
【オファリング】【ミランテ】1992年録音
 現在では美女をモチーフにしたCDジャケットで中年男性の購買欲を煽り続けている、今をときめくヴィーナス・レコードも1993年発足当時はこのような“ダサイ”ジャケットだったのが面白いが、中身は文句なしによろしい。このレポートを書くことで、ヴィーナス・レコードがマリオン・ブラウンの作品を出していた事に気づいた訳であるが、先見の明があったことを評価したいと思う。
現在のCDジャケットは別のデザインになっているので要注意。もともと、2枚セットの販売予定で録音された、姉妹編である。
 若手のリズム隊を遊ばせながら、いつになく溌剌としたアルトを聞かせてはいるものの、いつの間にか自分の世界へ引きずり込んでいるといった風である。空気のようで存在感はないが全体を包み込んだ空間こそがマリオン・ブラウンであることを思い知らされる。


大西順子『楽興の時』

2010-03-11 14:31:17 | Jazz
 2009年7月22日、こんなに待ち詫びたのは、いつ以来のことだったろうか。小学生が遠足を待ち遠しく思うのと変わりがないくらいの気持ちであった。世間は世間で世紀の皆既日食ということで大々的に盛り上がっているこの日、僕が待ちわびたのは11年ぶりの大西順子の新アルバムであった。売り切れていないことを祈りつつ、19時ごろワルツィ堂島店へ飛び込んだ。いつもなら、タワー・レコードへ行くのだが、それはジャズだけでなくブルースも見たいから。今日の目的は唯一つ、大西順子なのでワルツィへ直行というわけだ。たかが10%の割引と言うなかれ。この気分が大切なのだ。
 不安と期待でドキドキしながらの1曲目、ベースとドラムがブンブンと押し出してくるイントロでもう決まり。やはり最初が肝心なのだ。エリック・ドルフィーの『アウト・トゥ・ランチ』でやってた“ハット・アンド・ベアード”。オリジナルに比べ、ホーンがない事もあり、多彩さはないがシンプルでメリハリのあるすっきりした好感の持てる演奏だ。以前は、オーネット・コールマンなどの曲もレパートリーに入っていたけれど、彼女はこういったフリー系の人の曲をアレンジして自分のものとするのが非常にうまい。好きなんだろうね。嬉々としてやっているのが目に見えるようだ。2曲目はがらっと変わってスローなスタンダード。ハロルド・アーレンの“アイ・ガッタ・ライト・トゥ・シング・ザ・ブルース”をソロ・ピアノでさりげなく、しかし心を込めてという感じ。うーん、こう来たか、ちょっと驚いたな。
3曲目は、さらに一転、急速調のオリジナルでぶっ飛ばす。これだ、これだ、これが大西順子だとつぶやきながら、11年のブランクが微塵も感じられないのを頼もしくもうれしく思いながら聴き入る。
 そんなこんなで、全9曲中、エリック・ドルフィ作品から3曲、スタンダードから3曲、オリジナルを3曲と、全体のバランスを考えた構成がいい。しかも、スタンダードはバラードのソロ・ピアノで全体の緩衝的な役割を担っている。用意周到に準備されて作られたのが判るし、その結果が良く出ている。もしかしたら、1回通しで聴いただけではそのよさは見えてこないかもしれない。何回も聴くことで味がジワジワ出てくるような気がする作りでもある。ここに、あらたな大西順子を代表する傑作が誕生したといっていいだろう。
 大西順子のオリジナルでもある『楽興の時』(Musical Moments)という曲名とCDのタイトルが、彼女のこの復活に賭ける意気込みを表しているとみた。『楽興の時』(Moments Musicaux)という曲名は、シューベルトとラフマニノフの両者にあるのだけれど、大西順子はラフマニノフの『楽興の時』にインスパイアーされて作曲したのではないかと僕は思う。というのは曲が似ている、似ていないということではなく、作者の曲に対する想い入れの違いであって、ラフマニノフのそれは、彼のピアノ曲への復帰作品であり、転換期を代表する作品であるからだ。その意味で、大西順子がここに復帰し、新たな大西順子の始まりであることを宣言した、彼女のジャズ経歴に燦然と輝く一歩を踏み記した記録なのだ。
 一つ苦言を呈すると、ボーナス・トラックに昨年9月のライヴ音源があるが、これは要らない。演奏そのものはいいけれど、演奏メンバーも違うし、別で出すべきだ。グリコのおまけじゃあるまいし、あれば良いってもんじゃない。せっかくこちらも新たな気分で迎えているのに興ざめしてしまう。プロデュースする方も、もう少し芸術に対する感性を磨いてもらいたいものだ。


アヴァンギャルド PART Ⅸ

2010-03-11 14:21:44 | Jazz

アヴァンギャルド “コルトレーンからアイラーまで” -PART Ⅸ

《セシル・テイラー》
 同じフリー・ジャズといっても、ホーン系アーティストの演奏とセシル・テイラーの演奏には根本的な相違がある。一言で言うと、即興音楽と現代音楽の違い(共通点は多々あるとは思うが)みたいなものである。セシル・テイラーの音楽は、抽象画を描くような感覚ではあるが構造的にフレーズを組み立てていく。まるで事前にアレンジされているかのようである。絵の具でキャンパスに色を塗りこんでいくのと同様に、音で空間を埋め尽くすというイメージなのだ。しかも、それが予め計算されているかの如き調和された安定感がある。フリー系演奏の常套手段である凶暴性とか破壊性といったものもないのである。
また、彼のピアノ演奏はよく言われるように、打楽器的奏法である。普通のピアノ演奏が水平方向に流れるようにメロディアスに進行するのに対し、垂直方向に飛び跳ねるようにリズミックに移動する。やはり、奏法上はセロニアス・モンクからの影響はみのがせない。
 話は変わるが、クラシックのピアニストにグレン・グールドという人がいた。僕の一番好きなクラシック・ピアニストである。非常に頑固で、我儘で、エキセントリックであるがピアノ演奏に関してはまさに天才であった。そのグレン・グールドが『私の最大の相手そして敵はバド・パウエル』と言ったそうであるが、どう考えてもここは、バド・パウエルでなく、セシル・テイラーであるべきだ。上述のグレン・グールドの性格も程度の差こそあれ、この二人の共通点といってよい。ピアノ奏法もユニークという意味では双璧である。
 その、セシル・テイラーも人気と言う点では、オーネット・コールマンなどに比べて「月とすっぽん」の差があるといわざるを得ない。その理由はどこにあるかというと、一つは寡作であること。これは、あまりにもユニークな打楽器的ピアノ奏法をレコード会社が敬遠したことと、そのユニークな奏法によって異端視されたと云うことに尽きる。もう一つの理由として、フリー・ジャズといえばホーン奏者というのが一般的であったのに、楽器がピアノであったことだろう。リズム・セクションの一部でもあるピアノに勝手にリズムを変えたり、コードを変えたりされたらたまったものじゃない。マイルスがバックでモンクに弾かれるのを嫌がったのが分からないでもない。しかし、フリー・ジャズ界に対する貢献度という点ではオーネット・コールマンをも凌ぐものがある。それは、若手の育成という面で特に顕著である。オーネット・コールマンが“自分が主役じゃないと舞台に上がらない”タイプであるのに対し、セシル・テイラーは多くの若手を集め、また彼らの中に入り込み様々な場面で活動し、共演し、ミュージシャン達に大きな影響力を発揮したのである。
 さて、代表作を絞るのに困ってしまうが、やはり、どうしても初期の作品に偏ってしまう。取り上げた以外に『ジャズ・アドヴァンス』、『ニューポート’57』、『ラヴ・フォー・セール』、『ザ・ワールド・オブ・セシル・テイラー』など、初期に重要作が目白押しだ。
【ルッキング・アヘッド】1958年7月9日録音
1曲目の「ルーヤー!グロリアス・ステップ」、テイラーのメロディアスで打楽器的イントロから、一転アール・グリフィスのヴァイブを交えたリズミカルなアドリヴ・プレイに入っていくあたり、MJQのジョン・ルイスとミルト・ジャクソンのコンビを思わせるが、MJQはバロックでこちらは現代音楽的な趣である。それにしても、このコンビネーションは抜群である。タイトルどおりのスキップしたくなるような躍動的で楽しい演奏である。しかも、彼独特のパーカッシブなピアノ奏法は既に満開であり、“セシル・テイラーは最初からセシル・テイラーであった”ということが判る。この最初の1曲だけで、お釣りがくるぐらいに儲けた気分になってくる。
【ネフェルティティ】1962年11月23日録音
コペンハーゲンの「カフェ・モンマルトル」でのライヴ録音である。このあと、ずっと共演していくことになるアルト・サックスのジミー・ライオンズが初登場。この人、エリック・ドルフィーとアルバート・アイラーを足して2で割ったような(最大の褒め言葉である)アブストラクトでありながら、センシティヴな一面を持った僕好みの奏者である。いい人材を得たものだ。この1週間前にはアルバート・アイラーを加えたカルテットでセッションをしたとのこと、レコードに残しておいて欲しかった。演奏は、いうことなしの大傑作だ。1曲目の「ホワッツ・ニュー」を聴いてもらえば一聴瞭然。こんな、ホワッツ・ニューが過去にあっただろうか。ピアノとサックスが対位的に絡み合いながら螺旋階段を上昇していき、仕舞いには巨大な建造物が出来上がっているという感じ。CDではコンプリートとして発売されている(ジャケットは異なる)のでさらにプラス・アルファが楽しめると思うが、なかなか手に入らないのが困ったことである。
【ユニット・ストラクチャー】【コンキスタドール】1966年5月&10月録音
唯二つのブルーノート作品。この両作品は、録音時期が近く、メンバーもほぼ同じで内容的にも似通っているので姉妹編とみるべきだ。前者が少しハードでファースト、後者がややソフトでスローといったほんの少しの違いはある。この2作でセシル・テイラーのジャズが完成したといってよい。彼を代表する2枚であることに間違いはない。セシル・テイラーの特徴である垂直にはねるピアノと空間を埋め尽さんばかりの音塊の洪水にただひたすら酔うばかりである。ただ、普通のジャズと違うのは、曲の編曲をしている訳ではないが、前述のように計算されたユニットを組み合わせて曲を構築していくといったイメージが強い。勿論、オーネット・コールマンたちのフリー・ジャズとも一線を画した、セシル・テイラー独自のフリー・ジャズである。 “トーン・クラスター(或る音名から、別の音名までの全ての音を同時に発する房状和音のこと)”を駆使しているとも云われているが、この理論(メソッド)については僕は知悉していないのでコメントできない。
【アキサキラ】【ソロ】1973年5月22日&29日録音
日本公演のライヴ録音の『アキサキラ』がトリオ、後者の『ソロ』が公演終了後スタジオ録音したもので、こちらも姉妹編と言うべきだ。モンマルトルのライヴもそうだけど、このチームにはベーシストがいない。多分、ベースによる一定のリズムをキープするという演奏を嫌い、ピアノでそれを補いつつ、独自のテンポ切り替えを狙ったのではないかと思われる。それにしても、レコード2枚組で1曲(延べ80分)の圧倒的な演奏には恐れ入る。しかも、全く飽きさせることのない怒涛のパワーと熱気はコルトレーンのライヴ・イン・ジャパンと甲乙つけがたい。こちらのほうが三位一体というか対等の絡みで上昇し続けることによる構成力が一枚上手かもしれない。ただし、通しで聴くには集中力と忍耐力が要るだろう。『ソロ』はセシル・テイラーの演奏の本質を知るには打ってつけの作品だ。多くの色彩豊かなフレーズを提示しながら音楽を創造していく過程が良くわかる。フリー・ジャズというより、現代音楽といわれる所以だろう。買うならこっちを先にしたほうが良い。
 いずれにしても、そんじょそこらのフリー・ジャズとは全く趣が異なり、BGMにもなり得ないし、好きか嫌いかの両極端に分かれるような音楽ではある。