雨の日はショパンでも聴こう
By The Blueswalk
今年はショパンとシューマンの生誕200年ということで、世界的に色々な催しが行われているようだ。ところがこの二人の人気には雲泥の差がある。クラシック情報誌を見ても日本でもショパン一色でスケジュール満載といったところだがシューマンのそれはショパンのオマケ程度にしか扱われていない。この差はどうしてだろうか。奥さんとブラームスの不倫に嫉妬して死んだといううわさなど、どうもシューマンには暗いイメージがあるからではないだろうか。それに対しショパンには幻想的で優雅なメロディを持った小曲が多いのであまりクラシックを聴かない現代の若い人たちにも親しみやすく、曲が耳に入る機会が多いからといえそうだ。シューマンも純粋なクラシック作曲家としてはショパンに全く劣るところはないどころか、スケールは上だと思われるのにである。損な役回りをしている。同い年に人気のライバルがいるとことさら辛いものだ。
それはともかく、僕はショパンには“雨”が似合っているといつも思っているのだが、皆さんはいかがでしょうか? ショパンの曲は短くて、スローなので弾くのは簡単なように思うが、聴かせるのは非常に難しい。中学生でも弾ける代わりに、上手下手がすぐ判ってしまうからだ。
クラシックのピアニストは、モーツアルト弾き、ベートーベン弾き、ショパン弾きなどとよく分類されることが多い。その作曲者の個性が曲に反映されているからで、それを得意としているかどうかということだ。たとえば、モーツアルトには華麗さが要求されるし、ベートーベンには力強さが求められる。ショパンはどうか? 一つ一つの音の分離の明快さだと思う。そういう意味でいうと、テクニックというより細やかな感性が必要になるといえるだろう。だから、以下に挙げる4名のショパン弾きたちも、超絶技巧派ではなく、印象派といってもいい人たちなのだ。ただ、年代が古い人が多いのは僕の好み(実際はアナログ・レコード派なので、現代の若い人たちの演奏をあまり聴いていないからなのだが)となっており、これより音の良いCDが他にたくさんあると思えるので気にいった人の演奏を気に入った曲で楽しむのが良いだろう。
さて、ショパン弾きのパイオニアといえば、このアルフレッド・コルトー(1877/9/20~1962/6/15)を於いて他には居ない。音はシンプルで殆ど装飾音がない様に響き、ショパンの楽譜どおりに弾いているような感じであるが、じつはテンポ・ルバートなどを多用しており、かなり独自性を持った奏法に感じるのだ。コルトーの演奏対象はショパン、シューマンなどのロマン派が中心であり、古典派はあまり得意としていない。その代わり、これらのレパートリーに於ける個々の演奏は我々を桃源郷へ誘ってくれるだろう。
アルトゥーロ・ル-ビンシュタイン(1887/1/28~1982/12/20)は見るからに謹厳実直で曲がったことが大嫌いといった風であるが、その演奏姿勢も映像で見る限り全くその通りであった。グレン・グールドやキース・ジャレットにこの人の爪の垢でも煎じて飲ましてあげたいものだ。背筋をきりっと伸ばし、全く破綻のない模範的なショパンを聴かせてくれる。しかし、逆に言えば、スリルがないとも云えようが、作曲家ショパンの意図するところを最も忠実に再現しているとも云えよう。
サンソン・フランソワ(1924/5/18~1970/10/22)は出来不出来の激しい演奏家であったといわれているし、自信家であり気分家でもあったらしい。しかし、その気分が乗ったときの演奏は豊かな表現力を駆使し、他の追随を許さない独特の華麗さを持っている。叙情的なショパンを聴きたいならフランソワに限る。僕は個人的にはこの人のショパンが一番気に入っている。
ショパンを語るとき、ディヌ・リパッティ(1917/3/19~1950/12/2)を忘れるわけにはいかない。その端正な顔立ちは貴公子と呼ぶに相応しい。特に死の直前に於ける、ブザンソン告知リサイタルでの最後のワルツ『華麗なる大円舞曲』は最後の力を振り絞った鬼気迫る壮絶な演奏であり、力尽きる前の激しく燃える炎の演奏を涙なくして聴くことは出来ない。音の乱れ、テンポの乱れがどうのこうのという次元を超えた感動を我々に与えてくれる。ただ、不謹慎な表現だが、リパッティをしょっちゅう聴くというのはとても重荷を負わされるようでつらい。気が滅入ったときのカンフル剤として取って置きたい。