The Blueswalk の Blues&Jazz的日々

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女流ピアノ・トリオ

2012-03-22 21:22:54 | Jazz

女流ピアノ・トリオ 
                                                The Blueswalk

 今月のテーマは『トリオ』である。選択の幅を広げて色々な解釈で皆さんのベスト・チョイスがなされればいいなあと思っている。でも正直、通常トリオといわれるとピアノ・トリオを思い浮かべる人が殆んどであろう。僕もそのうちのひとりだ。
 ピアノ・トリオといえば、ピアノ、ベース、ドラムスの構成が主流であるが、その構成を確立させたのが バド・パウエル だといわれている。現代でこそこのフォーマットがその殆んどを占めているのであるが、その昔はピアノ、ギター、ドラムスのパターンも多かった。ナット・キング・コール・トリオや初期のオスカー・ピーターソン・トリオがその代表であろう。それから時代を経て、ビル・エバンスやキース・ジャレットなどのスタイリストを経由して現在のジャズの基本フォーマットとして定着しているのだ。そんな意味でピアノ・トリオはジャズの主流といっても良いほどの流れを形作っているので、ピアニストの数はジャズ奏者の中で比率も高いし、女性の占める割合もボーカルについで高いと思われる。現代では女流ピアニストが花盛りだが、50~60年代にはそう多くはみられない。そんな中から“野に咲く可憐なユリの花”のごとき女流ピアノ・トリオをバックに美味しい酒を楽しみたいものだ。

 ユタ・ヒップ『ヒッコリー・ハウスのユタ・ヒップ』


ドイツで活動中に評論家レナード・フェザーに知己を得ていた彼女は1955年30歳でドイツからアメリカに移住し、その口ぞえもありブルーノート・レコードからデビューを果たした。プロデューサーのアルフレッド・ライオンも同じドイツ出身ということもあるし、新人を発掘することには定評のあるブルーノート・レコードの目に留まったのはラッキーであったといえるだろう。そしてその第1弾がこのヒッコリー・ハウスでのライヴ録音である。名も知れない新人のデビューをライブでしかも2枚組み、恐るべしアルフレッド・ライオンの慧眼というべきか。しかし、このレコードが際立って人口に膾炙しているという事実は演奏の良し悪しよりも、後年のブルーノート神話に拠るところ大といっても過言ではない。つまり、ブルーノート1500番代はすべて名作だとジャズ・ファンが洗脳された結果の人気だということだ。
 さて、演奏内容なのだが、さすがに初めてのライヴ録音ということで硬くなっているようだ。元来、テクニックを鼓舞するタイプでなく、内に秘めた情熱を淡々とクールに表現するタイプなので、冷たい感じがするかもしれない。チャーリー・パーカーの“ビリーズ・バウンス”なんかもトリスターノか?と感じる部分がないわけではないが、じっくり鑑賞するには持って来いのアルバムで、何回も聴き返していくごとに味の出るといった感じだ。アメリカのショー・ビジネス界に水が合わなかったのかもしれず、このあと、ブルーノートにズート・シムズとのセッション盤(僕はどちらかというとこっちの方が好きだ)を残してシーンからひっそりと消えていったユタ・ヒップであった。


 ロレイン・ゲラー『アット・ザ・ピアノ』


 ウエスト・コースト・ジャズの高名なアルト・サックス奏者ハーブ・ゲラーの奥さんで、おしどりコンビで少なからずレコードを残したロレイン・ゲラーの唯一のリーダーアルバムである。美人薄命というが1958年30歳の若さで喘息の心臓発作により突然亡くなったのが惜しまれる超美人のピアニストである。旦那との一連のレコードを聴いてもわかるとおり、こちらはバド・パウエル系の力強い、スピード感豊かなフレーズが心地良い。もともと発売は予定していなかったデモ用の音源で、突然他界したロレインへの追悼盤としてリリースされた、ジャズ・ファンには貴重なレコードである。バックのベース、ドラムを含め、やや一本調子な面も見られるが、ピアノの躍動感はホレス・シルバーを彷彿とさせるものがあるし、B面1曲目の“マダムⅩ”はまるでバド・パウエルの“ウン・ポコ・ロコ”、こんな強烈なピアニストもそうざらには居るまい。これもユタ・ヒップと同じく、聴きこんで良さがにじみ出て来るというタイプの演奏である。なにせ、リーダー作品はこれ1作なのだから、貴重この上ない。なお、オーネット・コールマンの「トゥモロウ・イズ・ザ・クエスチョン」の中の“ロレイン”は彼女をオマージュした曲である。


 パット・モラン『ジス・イズ・パット・モラン』


 以前、「美脚」のテーマで取り上げた作品である。パット・モランは唄も歌い、ベブ・ケリーの唄伴的なアルバムも残しているが、代表作となるとこの美脚盤に限る。それはなぜかというと、なんといっても無名のベーシスト、スコット・ラファロの参加に他ならない。なるほど、1曲目からついついラファロの快適なウォーキング・ベースに耳が移ってしまう。ラファロといえば、ビル・エバンス・トリオでの丁々発止なインタープレイが有名であり、それのみがスコット・ラファロのトレードマークとして持て囃されているようだが、ここではリズム・マンとしてのベーシストに徹していて、しかもそれが最良な形で発揮されているところにこのレコードの価値があると思われる。そういう意味では、このレコードはスコット・ラファロに食われているといっても言い過ぎではないだろうが、ここでのパット・モランのピアノも、歌伴の域を脱して、強烈なラファロのベースと対峙して奮闘していることは間違いない。それが4曲のピアノ・ソロ曲に顕われている。これはピアノのレコードなのだ、ピアニストが主役なのだ、そして、この美脚も私なのよという意思の表れだ。


 『ルッキン・フォー・ア・ボーイ』


 これは、3名の女流ピアニストのトリオ演奏をあつめたコンピレーションCDである。サヴォイ・レコードはブルーノート、プレスティッジ、リバーサイドなどに較べ、やや見劣りするレコード会社だと見られている節がある。その大きな理由は“組織化されたレーベルポリシーの有無の差”と寺島氏は云っているが、それは当たっているかもしれない。これがサヴォイの音だ、ジャケットイメージだというものがない。レコーディングにしても然りで、極論すれば、小規模なセッション録音の取り溜めを繰り返し、少したまったら1枚にまとめて“ハイ一丁あがり”的な発想なのだ。だから、レーベルがB級なら、傘下のアーティストもB級に見られてしまう。決してそんなことはないはずなのだが・・・ ここでも3名を1枚のCDに押し込めて発売をせざるをえない録音量での冷遇振りであるが、中身は決して悪くない。
 マリアン・マクパートランド  現在では女流ピアニストの大御所的な扱いをされ、やっと正統な評価を得ているが、それでも知名度はかなり低いといって良いだろう。出自が英国の貴族らしく、容姿も高貴であるが、演奏もそれに負けず劣らず品が良い。音を例えて云うなら、テディ・ウイルソンをもっと優雅にした感じといえば分かりやすいだろう。
 バーバラ・キャロル  最近といっても6年ぐらい前であるが、ヴィーナス・レコードから新作が出ており、僕もまずまず気に入ったCDであった。この若き日のお洒落で軽妙なピアノタッチ、カクテルを飲みながらジャズ・ラウンジで聴くのが良く似合いそう。
 アデレード・ロビンス  ほとんどこのCDでしか知られていない幻のピアニスト。歯切れが良く小気味良い演奏で、先頭に配置されているのはCDの作りとしては正解だ。1曲目から軽快にスウィングし、2曲目のブルージーな演奏も上出来だ。出来るならまるまる1枚分の録音でも残っていればと期待感を抱かせるピアニストだ。
 さて、あなたは今月は何を持ってくる?


この春 2012 Part Ⅱ

2012-03-18 13:29:45 | 変態ベース

この春 2012 Part Ⅱ
                           変態 ベース
 真剣にテレビドラマを見るのは久しぶりだ。いや連続ものはひょっとして初めてかもしれない。NHK大河ドラマ『平清盛』。前作『江』の評判があまり芳しくなかったものだから、今回はその汚名返上とばかり滑り出したはずが、早々に兵庫県知事からクレームがついた。曰く、「画面が汚い」「瀬戸内の海の色が真っ青ではない」海の色はともかく、時代考証に基づくならば、あのような薄汚れた清盛の格好も、リアリティーがあって面白いと思うのだが。福原京をいただく地元としてはイメージアップを期待していたのかもしれないが、日頃よりくちさがない井戸知事のことなれば軽く受け流す方が賢明だろう。しかし何だかケチがついてしまったようで、視聴率も思うように稼げていないとか。このままでは『江』の二の舞かと危惧する声も囁かれているらしい。
 平清盛という人物は日本史では悪人扱いされている。「平家にあらずんば、人にあらず」驕れるものは久しからず。その傲慢な振る舞いによって世間からはねたまれ、後世まで尾を引いているわけだ。日本人はとかく判官贔屓、敵役の源義経の方に人気が集まる。しかし主人公が横暴なヒール・悪役のままではこのドラマは成立しない。松山ケンイチ扮する平清盛がどのように物語を導くか、今後の展開が楽しみである。


 さて劇中でちょっと気にかかったことは、挿入歌に『タルカス』が使われていることだ。『タルカス』という曲は英プログレシヴロックグループ エマーソン、レイク&パーマー(E,L&P)の名曲だ(写真上)。今回ドラマで使われているのは、作曲家 吉松 隆がオーケーストラ用に編曲したしたものだ(写真下)。もともとシンフォニックな音空間の広がりをイメージさせる曲なので、このようなオーケストラレイションも違和感を感じない。映像にもすっきりと溶け込んで、なかなかどうして面白い効果をあげているように感じた。

 この2月はやけに忙しかった。日曜日はほとんど仕事でふさがったし、平日もおいそれとは休みが取れない。忙しいのは有り難いことだが、こういう時に限って私用と重なるものだ。2月16日は楽しみにしていた大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会だった。演目はベートーヴェン交響曲第6番『田園』と、ストラヴィンスキーバレエ音楽『春の祭典』である。管弦楽曲は自宅のオーディオで楽しむのもよいが、やはりナマの迫力には及ばない。特にハルサイはどうしても生オケで聴きたかったので、早くからチケットを購入していた。もちろん自宅に帰る余裕などない。福島のシンフォニーホールへは、現場から直行。19:00開演なのでのんびりと晩飯を食う時間はなかったが、ホール手前に「なか卯」があったので、大急ぎで牛丼をたいらげすべりこみセーフ。会場に入ると自分だけかなり浮いている。それもその筈、由緒あるシンフォニーホールに清盛のように汚れた作業服のまま駆け込んだのだからバツも悪かろう。おおよそホールの清掃係かなにかと勘違いされていたに違いない。
 本日の公演で大植 英次氏は、大フィルの音楽監督をひとまず退く。名伯楽 朝比奈 隆氏の後を継いだのが2003年。今回のコンサートがその締め括りの演奏会となるが、引き続き大フィルの桂冠指揮者として関係を保っていくようだ。それにしてもこのふたつの作品の取り合わせは何とも奇妙な感じがする。チラシにあるように「古典」と「近代」。確かにどちらも2月・春に相応しい楽曲なのだけれども。はたして聴衆はどちらがお目当てだったのか。
 『田園』の光さざめく様な美しさもさることながら、やはりハルサイの地の底から吹き上がるようなリズムは感動ものだった。ステージから押し寄せる音の律動が、強烈なロックビートのように体を揺さぶる。特に打楽器群の迫力は生オケでしか体感できないだろう。古典派に比べて管楽器の種類も豊富で、見ているだけで面白い。聴き終わった後もしばらく肩から力が抜けない。音楽を聴くだけでこんなに体力を消耗するものなのか。
クラシックのコンサートは、時間に遅れるとホールに入れてもらえない。咳払いひとつにも気を使うし、途中小用で立席なんてあり得ない。どうも素人にはかたぐるしい。それでも興味のある演目は、また聴きに出掛けたいものだ。ストラヴィンスキーの他のバレエ音楽、『ペトルーシュカ』や『火の鳥』も、ますますナマを体験してみたくなった。それとブラームスの4つの交響曲、マーラーの第1番~第5番も是非とも聴きたいプログラムだ。

 ONさん宅の新年会に続き、ディアロードの2月例会も楽しく過ごせとことは、この上ない喜びである。昨年末にジャズ喫茶オープンの知らせは受けていた。それがまさか早晩このような展開になるとは予想だにしなかった。既成のジャズ喫茶とは異なる明るい店の雰囲気が、いつもとは違った例会風景を演出したようだ。惜しむらくは、座席の配置を少し変更して、全員が向かい合えるようにしておけばもっと和めたことと思う。MZさんの知り合いのジャズ喫茶Real Jazz Cafeも次なる会場に決定した。会場探しに四苦八苦していた頃が懐かしい。あの頃はOKさん宅やBlue Cityに厄介になったが、見つかる時は得てしてこんなものだ。今後はライヴの計画も勘案しながら、ローテイションを練る必要がある。但し、今までお世話になった会場のオーナーに、あまり非礼があってはならない。

 気掛かりなのは、KDさんが体調を崩し入院しておられることだ。早く快復されてまた元気に例会にお見えになることを心よりお祈りしたい。音楽をさかなにワイワイ騒いでいるだけで気晴らしになる。例会に勝る良薬はない。
また年末にお越しいただいたIKさんだが、入会のご意思があるにもかかわらず、サックスのレッスンがかぶって参加できないようだ。特別な理由がない限り例会の第3日曜に変更はない。池本さんには申し訳ないがレッスン日の調整をして頂くしか手立てがない。それと2月にはふたりの新規加入が予定されていたが、諸般の理由で叶わなかった。くどい様だが会員の募集はしばらく続ける必要があるだろう。
 尚、高瀬 進さんにはせっかく参加頂いたが、交流する間もなくあっさり退出された。謂わばプロの方が例会にお見えになるということで、個人的にはちょっとした緊張感があったのだが。レクチャーや逸話が伺えるのかと思いきや、さっさと帰られてしまってかなり拍子抜けしている。

 2月のテーマになった「ヴァレンタイン」というのは、ご存知のように人のお名前だ。My Funny Valentine のちょっと可笑しなヴァレンタイン君も、ヴァレンタインデイの由来となった聖ヴァレンタイン候も、ポルノ女優の大御所ステイシー ヴァレンタインも。ということはヴァレンタインという名のジャズマンもいるのではないか?そんな訳で、スイングジャーナル別冊ジャズ人名事典をひも解くと、予想通りジェリー ヴァレンタインというジャズマンに出くわした。この人はかつてアール ハインズやビリー エクスタインの楽団でトランペットをプレイしていた。作曲もよくする人だったらしいく、彼の作品に有名なSecond Balcoy Jumpという曲がある。この曲はデクスター ゴードンのお気に入りで、ブルーノートの『Go』でも取り上げられている。御記憶の方もおられると思うが、ちょっぴりユーモラスで愛嬌のあるナンバーだ。多分ヴァレンタインの特集ということで似通った曲が並ぶのではと思ったが、果たしてMy Funny Valentineのオンパレードとなった。Second Balcoy Jumpなら例会の雰囲気が変わって面白いだろうと考えていた。しかし直前になってもっと例会の空気を変えてやれという気分になって、敢えて『Bitches Brew』を選んだのだ。

 『Bitches Brew』に決めた経緯にはもうひとつ伏線があった。昨年、KWさんが個人特集でマイルスの『On The Corner』をかけたことがあったが憶えているだろうか。これが個人的にはかなり新鮮だった。「ああ、こんなのも例会ではありなんだ」あの時はそんな目からうろこみたいな印象だったのだ。いつも選曲には例会のムードを逸脱しないよう気を遣っていたがそれは思い違いだったようだ。一体何を遠慮していたのだろう。KWさんのように素直の自分の好きなものをかけなければ意味がない。それが例会本来の楽しみ方なのだ。今回『Bitches Brew』を選んだのもそのことが頭をよぎったからだ。


 マイルス デイヴィスは絶大な支配力/影響力を持ちながら、永遠のヒール・悪役として君臨している。あの傲岸不遜な振る舞いが、彼のイメージをゆがめ、その音楽をもミステリアスにしているのだ。例会の時、『Bitches Brew』の感想をNKさんに尋ねてみたが、マイルスの音楽は全般的にどこが良いのかよく解からないとのことだった。ジャズの帝王と呼ばれるマイルスだが、彼の音楽を理解できないという人間は潜在的に大勢いるのだ。
 白状すると私もマイルスのことがよく解からない時期があった。確かにマイルスのレコードはよく聴いた。しかしそれはサイドマンの演奏やグループとしてのテンションの高さに魅かれていただけかもしれない。あの頃、マイルスのトランペットに心の底から共感したかと自問すると、よく解からないというのがその答ではなかったか。かつて大阪ジャズクラブを主宰していたYにその話をしたら、「WDさん、あなた本当はマイルスのことが嫌いなんですよ」と切り返された。その言葉がショックというか、悔しい気がして、長い間小骨のように引っ掛かっていたのだ。解からない=嫌い(性にあってない)ということなのか。

 さて『Bitches Brew』が発表されてから既に40年以上がたった。歳月だけを考えると古典と言われても何ら不思議ではない。しかし未だにその斬新さは失われていない。このような秀作を聴くと時代の遠近感が霞んでくる。この作品によってもたらされた8ビートと電気楽器は、ジャズの世界にどれだけ浸透しただろうか。むしろ一部のファン層からはよけい敬遠される結果を招いたのではないか。ラテンビートの使われ方に比べて、8ビートの立ち位置は微妙だ。それは8ビート(ロックビート)がジャズに於いて、いまだ承認を得られてないように感じるからだ。3月の例会では、8ビートジャズを個人特集として考えている。前回の失敗を顧みず、自分の好きなものをお聴かせするが果たして吉と出るか凶と出るか。皆様の率直なご意見を伺えれば有り難い。


過小評価の人たち ~スタンリー・カウエル~

2012-03-02 21:01:47 | Jazz

過小評価の人たち        ~スタンリー・カウエル~
                                             By The Blueswalk


 1941年5月5日米国オハイオ州トレド生まれ。クラシックやジャズの研究をした後、67年にマリオン・ブラウンの『Why Not!』のレコーディングでデビューしている。マリオン・ブラウンのグループということから察せられるとおり、ちょっとアヴァンギャルドな危険な香りのするフツーじゃないピアニストだ。67年から69年までマックス・ローチのグループに入り、そこでローチの推進する黒人文化遺産や民族意識の継承に目覚め、以後、行動にも音楽的にもその影響が顕われていくことになる。また、69年にはダウン・ビート誌の「国際批評家投票」でピアノの新人賞を獲得もしている。その後、ローチのグループで一緒になった、チャールス・トリヴァーとの双頭リーダーの《ミュージックINC》を結成し、さらにその作品の発表およびディストリビュートを目的として「ストラタ=イースト」というレーベルを立ち上げ、70年代ジャズシーンに怒涛の殴り込みをかけていくことになる。
 フツーじゃないと書いたが、決してフリー・ジャズのような難解な音楽性を標榜しているわけではなく、至極まっとうなジャズである。トリヴァーと並んで新主流派の一方のリーダーと目されたところにも、それが見て取れるだろう。クラシック的な要素やアフリカ的な要素などを吸収した上でのオリジナルでユニークな力強い音楽であるといえる。

 『ミュージック・インク』は1970年11月11日録音で、双頭グループ《ミュージックINC》のファーストアルバムである。全6曲中それぞれ3曲ずつのオリジナル構成である。いずれもジャズオーケストラの迫力を前面に出したタイトでリズミカルな、それでいてそれぞれの個性溢れた演奏がよどみなくテンション高く続けられ、70年代に最も期待されたグループの面目躍如な演奏である。トリヴァーのトランペットソロとカウエルのピアノソロもふんだんに取り入れられており、特にカウエル作品においては、ユニークかつ理知的なピアノソロが異彩を放っている。70年代を代表し、しかも現代に繋がるビッグバンド演奏の典型例として記憶にとどめておくべき傑作だ。残念ながら、《ミュージックINC》としては、75年の『インパクト』の2作しか発表できなかったという結果となり、このような演奏が2作目、3作目と連続して商業路線に乗れないところに、ジャズ・マーケットでの成功の難しさがある。

 


 『幻想組曲』は1972年11月の録音。スタンリー・カウエル名義の第1作で、ピアノ・トリオ作品。1曲目の“マイモウン”のイントロを聴いただけで、知的で透明感のあるピアノが聴く者の心を掴んで離さないだろう。それほど、インパクトがあり、美しくも力強いピアニズムなのだ。それに続く、スタンリー・クラークのベース(アルコとフィンガーの多重録音のようだ)とのアンサンブルにはゾクゾクっとさせられる。2曲目は一転、エレピを使用し、リターン・トゥ・フォーエヴァー的フュージョンタイプの乗りの良い軽快な演奏だ。3曲目のイントロはどっかで聴いたことのあるメロディだが、思い出せない。そういうことで、1曲ずつ書いていったらキリがないし、どこが“組曲”なのか僕には理解できないが、カウエルの代表作であることに間違いない。

 


 『ムサ』は1973年12月10日録音のソロピアノ作品。“ムサ”とは、カウエルのアフリカン・ネームから採られているとのことで、いわゆる1人称ジャズといったニュアンスが強い。全9曲ともカウエルのオリジナル曲で、内8曲はすでに発表済みをソロピアノに焼きなおしてのレコーディングということでもその意図が明解だ。確かなテクニックに裏づけされた力強いピアニズムと時代の最先端に立ってジャズの再構築を目指そうとする意欲が結びついた、稀に見る美しい結晶が見事に結実した傑作だ。ダラー・ブランド(アブドゥーラ・イブラヒム)の『アフリカン・ピアノ』と並び称されるといってよい。カウエルのピアノを聴くならこの作品が最も適しているだろう。

 


 『リジェネレーション』は1975年4月27日録音。ジャケットがアフリカのイエス・キリスト?と思わせる大胆なイラストに驚いてばかりではいられない。まずはエド・ブラックウェル他3人によるアフリカン・ドラムのポリリズムの中、男女のヴォーカルに管楽器を思わせるカウエルのシンセサイザーが絡んでいく。ポップになりすぎたかと思いきや、2曲目は打楽器とも、弦楽器とも聴き分けがつかない、まさにアフリカ的リズムの素朴なエスニック・ミュージックとくる。モロッコの三弦楽器であるとの解説でなるほどと納得。次はピッコロとドラムによるマーチング・バンドが繰り広げる踊りたくなるような軽快なリズムが身体を揺さぶる。さらには、ゆったりとしたハーモニカとピアノのユニゾンでハモるスロー・ブルースとくる。まあ、息もつかせぬバラエティに富んだ演奏のオン・パレード。全体を貫くのはアフリカを起源とするアメリカ南部のブルース、カリブのレゲエ、アフリカの民俗音楽を坩堝に投げ込んでその中からエキスを搾り出した黒人のソウルだ。

 


 『恋のダンサー』は1999年6月17日録音。ヴィーナス・レコードに罹ると、人間こうも変わってしまうのか?ハイパー・マグナムという高品質音響効果に胡坐をかいたイージーな企画に誰もが堕落してしまう。スタンリー・カウエルもその犠牲者の一人だった。カウエルにスタンダードを弾く必然性は何処にもないのに売れんがために墓穴を掘った結果がこのCDに凝縮された。成熟したと取るか、堕落したと取るかは聴者の自由意志であり、勿論、『リジェネレーション』から時間的に25年も経ている訳だから変わって当然だ。80年代にはアート・ペッパーの録音にも参加しているし、90年代の「Steeple Chase」の諸作品には70年代の時代を牽引しようとする気概と情熱は失われていなかったと思えるし、これらの作品の出来も論じる必要があるとは思うが、しかし最新のスタンリー・カウエルを象徴する録音としてこの『恋のダンサー』における凋落振りには目を覆わざるを得ないというのが僕の本音である。
 70年代のスタンリー・カウエルの諸作品に対し“昔はよかったね”ではなく、これらの遺産を継承して現代に再構築する気概のあるジャズ・ミュージシャンの出現を心待ちにしている。そうでなければ「ストラタ=イースト」の掲げたジャズの再構築という音楽理念があだ花に終わってしまいかねないという危惧を抱いている今日この頃である。