昨日の大雨や強風も一歩間違えれば十分死が身近に迫っていた。もし、「この雷が自分に落ちて来たら・・・」とか、「もし、洪水になって流され死んでしまった」と想像するだけで、今生きている自分が不思議に思えてくる
人は百パーセント死ぬ。その死ぬ事を忘れるために日々、仮の楽しみを見つけようとする。最近の健康食を食べれば死なないかのように錯覚する。死を目前にした人の本を読むと、人生観が変わる。
小説家の高見順はガンになり死ぬことを自覚した。自宅から病院へ通う電車の中の光景をこう読んでいる。
「電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見慣れた景色が
新鮮見にえてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死なねばならぬ
だのにこの世は実にしあわせそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸がつまって涙が出そうになる」
死んでいく人間にとって、外がいくら人々が幸福そうに生きていてもそんなものは関係なく、むなしさに襲われそうになると思うが、
高見順は今の生に感動し、涙があふれるという。素晴らし詩だと思う。生が危うくなるとき、初めていのちの輝きが見えてくる。
同様に西川喜作『輝ける我が命の日々よ』にも見える。彼は医者だが、やはりガンに冒される。死ぬまで精いっぱい生きた。その彼が日常何でもない光景が、光り輝いて見えたという。
「私はいま、生きることの素晴らしさを感謝している。いままで私には何故、この素晴らしさを感じ取れなかったのか」と。なぜ、死にゆく人々の目に生がこのように輝き、光に満ちているのか。これこそ生の不思議さだ。
普通に生活していると、こういう光が見えないのではにだろうか。意識的に日々死を追い続けることが今の生を充実させる。他にも「もし、これを食べてガンになったらとか」いろいろ想像する種はあるはずだ。日々の死が目前にあるということを実感するだけで一日が充実するのではないか。そして、「明けゆく毎日を最期の日と思え。そうすれば当てにしない日はおまえの儲けとなる」というホラチウスの詩句もある。
「今ここに」おこることはすべて「すごい」ことだと感動しよう。
人は百パーセント死ぬ。その死ぬ事を忘れるために日々、仮の楽しみを見つけようとする。最近の健康食を食べれば死なないかのように錯覚する。死を目前にした人の本を読むと、人生観が変わる。
小説家の高見順はガンになり死ぬことを自覚した。自宅から病院へ通う電車の中の光景をこう読んでいる。
「電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見慣れた景色が
新鮮見にえてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死なねばならぬ
だのにこの世は実にしあわせそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸がつまって涙が出そうになる」
死んでいく人間にとって、外がいくら人々が幸福そうに生きていてもそんなものは関係なく、むなしさに襲われそうになると思うが、
高見順は今の生に感動し、涙があふれるという。素晴らし詩だと思う。生が危うくなるとき、初めていのちの輝きが見えてくる。
同様に西川喜作『輝ける我が命の日々よ』にも見える。彼は医者だが、やはりガンに冒される。死ぬまで精いっぱい生きた。その彼が日常何でもない光景が、光り輝いて見えたという。
「私はいま、生きることの素晴らしさを感謝している。いままで私には何故、この素晴らしさを感じ取れなかったのか」と。なぜ、死にゆく人々の目に生がこのように輝き、光に満ちているのか。これこそ生の不思議さだ。
普通に生活していると、こういう光が見えないのではにだろうか。意識的に日々死を追い続けることが今の生を充実させる。他にも「もし、これを食べてガンになったらとか」いろいろ想像する種はあるはずだ。日々の死が目前にあるということを実感するだけで一日が充実するのではないか。そして、「明けゆく毎日を最期の日と思え。そうすれば当てにしない日はおまえの儲けとなる」というホラチウスの詩句もある。
「今ここに」おこることはすべて「すごい」ことだと感動しよう。
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