エマズ・ブログ

エマズ・マーケット(ウードやサズなどの販売・修理調整・レッスン)の店主による、音楽ネタのブログです。

モーツァルト効果???

2007年11月18日 | Weblog
音楽の生存価―survival value of the music
福井 一
音楽之友社

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 以前から抱いていた私の持論と同じことを上手に表現してくれている文章を知りました。ある会社の研究職(音響の研究)をされているという「たろ」さんのHPです。http://www.onon.jp/~taro/web/etc/think/mozartAndReseacher.html
 以下は「モーツアルトと科学者」というタイトル文からの引用です。

<「現代の日本(もしくは西欧)はモーツアルトの時代にほぼ完成された,多声調性音楽をいまだに規範としており,音楽教育,また,メディアで流れる音楽もほとんどこの規範の上につくられたものである。従ってこの規範をほとんどの日本人はもっている。そしてその規範の上での音楽表現の一つの金字塔だったのがモーツアルトである」というのがわたしの考えです。>

 私もそう考えています。さらに、次のような文章があり、これは事実だと思います。

<あまり今の人は意識してませんが,日本の音楽教育というのは明治時代に制定された指導要領を元に行っています。これは西洋の音楽教育の手法をほぼそのまま取り入れたものです。で,その当時(いまでもそうかも知れませんが)の西洋の音楽教育というのは実はキリスト教教育そのものだったのです。従って,実は日本の音楽教育も西洋の一神教の影響をうけたカリキュラムで行っていて,これはなにかというと「絶対的な美(神が作ったもの)が存在する」というものです。ただし,これだと民謡とかをすべて否定することになるため,現在の教育ではそういう部分は修正されてると聞きます。>

<現在の音楽の主流が多声調性音楽であれば,明らかに西洋クラシック音楽が原点と呼べるのですが,しかしもちろんそれ以降,新しい音楽スタイルは生まれています。ただし,やはり12半音でオクターブという音階の中での多声音楽,そして2の倍数を基準としたリズムという大きな枠は基本的に続いていて,そういう意味では,現在の新しいスタイルの音楽も基盤としてクラシックの音楽があるといえるでしょう。>

 さらには、次のような興味深い見方がありました。気がつかなかったところです。

<科学者がクラシックを好きなのは, 西洋文化に対する憧れと,学校で習ったものに対する肯定が他の人よりも強い…ということもあるのかも知れません。>

 確かにそうかもしれませんね。とにかく現在の日本は根底にはまだ伝統精神文化(崩れつつありながらも)が残っているものの、こと科学や学校教育に関しては明治以来の西洋そのものですから。
 音楽的には、機能和声のホモフォニー(最上声部が独立したリズムによる主旋律で、他の声部が和音伴奏)が現在でも一般的な「正しい音楽」スタイルとされがちな現代日本では、カラオケやギター弾き語りのような「民衆音楽」でさえもそうなってしまっています。(もはやかつての民謡のような真の民衆音楽はもはや存在しないでしょう)
 学校教育で「音楽の3要素=メロディ、リズム、ハーモニー」と強く刷り込みをされ、入学式からして「気をつけ、礼」のあのピアノの和音で始まる、そんな現在ですから、その当然の帰結が過剰なまでのモーツァルト信仰ではないか、と思うのです。
 最近、武士や先の大戦を扱った日本映画が多いですが、エンディングは唐突に(私にはそう感じられます)近代演歌的歌唱がかぶさると本当に興ざめします。しかしこれに違和感を感じない人が大多数なのでしょう。私は少数派でしかないと思います。『硫黄島からの手紙』にはそういう主題歌や挿入がなく(日本映画ではないからでしょうか)、スポイルされることがないのが珍しかったくらいです。(映画自体の描写や細部に関しては不満足ですが)

<そういうことを考えると,多声調性音楽と全く異なる基盤を元に音楽をつくり,それが一般化すると,モーツアルトを絶賛する人は減るはずです。果たしてそういう音楽が今後生まれていくのかはわかりません。1900年代は,様々な西洋以外の音楽が取り上げられ,調性音楽ではない音楽(いわゆる民族音楽やワールドミュージック)が,紹介されました。それを取り入れていく中で,ポピュラー音楽やジャズ等も従来の和声のルールと異なる,和声の方法を模索したり,またリズムもポリリズム化しています。
ただし,今のところ,一部の前衛的な現代音楽などをのぞくと,基本的には12音階楽器を用いていて,完全に従来のスタイルから解離出来てないというのがわたしの印象です。
 しかし,それから完全に脱却でき新しいルールをつくれた場合,もしくは従来の基盤が目立たないほど,大きな基盤が出来た場合,その場合は,モーツアルトを越えた,多くの人に愛される音楽家が生まれるはずだと思います。>

 同感です。ポリフォニーやモノフォニーの再評価、各種旋法の復権(ジャズではモード奏法への過程で教会旋法が取り入れられましたが)、各地域の伝統音楽の研究、和声的ではなく音響学的なまったく違う観点のハーモニー、といったものも含み、そうなることを願っています。
 
 このブログにもウィリアムさんからコメントをお寄せいただきましたが(ありがとうございます)、中世ヨーロッパ音楽以前まで造詣の深い方に対しては、私の物言いは釈迦に説法なのを重々承知しています。かなり意図的に「反近代西欧音楽」なスタンスを取っているつもりです。
 というのは、学校でのガチガチの近代西欧的音楽教育で始まる日本人の音楽観が、相当固定されているのを痛感してきたからで、微分音はおろか純正律さえも頭にはなく、ただただピアノ=平均律音楽こそが絶対的なすべての音楽基準だと思っている人。また、バッハ・モーツァルト・ベートーベン以降だけを普遍的な芸術音楽だと信じ(こまされて)いる人。とにかく聴く前から「民族音楽? ああ、低級だけど気分転換にはなるね」というようなきめつけをする人。そういう人を多く見てきたせいかもしれません。

 画像の書籍は、「日本人の脳特殊論」のいかがわしさを看破したり、興味深いのですが、有名な「モーツァルト効果」も槍玉に上がっています。なかなか説得力のある内容なので、ご興味のある方には一読をお勧めします。
 私自身は音楽療法自体は否定しないし、やり方によっては効果があるのだろうと思っていますが、巷に氾濫する「○○音楽健康法」のようなものに対しては懐疑的です。実際読んでみると「トンデモ本」のたぐいが多いですし。
 むしろ「純正律健康法」のほうがよほど説得力があります。静的でヒーリング効果があるのは実際そうでしょうし、平均律の世界は激しい緊張感を伴うというのも当たっています。
 要は人それぞれ、ある種の音楽に癒されるということは十分にあるはずです。私の場合はかつて、ストレスから調子を崩して、あらゆる音楽がまったく聴けなくなった状態のことがありました。CDもステレオも埃をかぶってしまっていました。そんな時、偶然ラジオから聴こえたウードのタクシームはまったく「(いい意味で)音楽と意識せずに」心にすっと入ってきたのです。そして、その後ウードを手にして抱え、音を鳴らしたときの振動を丸いボディから全身に感じる時、本当に癒されたのです。
だからと言って、私は「ウード健康法」を唱えるつもりはありません(苦笑)。「万人に効く」絶対はなく、人それぞれの「癒しの音楽」があるはずです。(でも逆に多くの人をいらだたせる音/音楽」というものは存在すると思っています。