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サンカの民と被差別世界

2007-11-14 20:20:52 | BOOKS
五木寛之 「サンカの民と被差別世界」 講談社 2005.10.24. 

『男はつらいよ』の公開は昭和44(1969)年。「フーテンの寅さん」と呼ばれた車寅次郎が16歳で家出して旅暮らしの香具師となり、20年ぶりに故郷の葛飾柴又に戻ってきた、という設定になっている。香具師の本拠地は浅草。江戸の頭の名前が「車善七」だった 江戸時代の制度化された身分では「士・農・工商」の下に「エタ・」という身分が存在した。江戸・東京こそが差別の原点だ。 関東八州における被差別民の支配者「エタ頭」が弾左衛門で、も支配下に置いた。4人いた頭のなかでもっとも大きな勢力を持っていたのが車善七である。 浅草のたちをすべて統括するのが頭の車善七の仕事だった。その車善七を管理するのがエタ頭の弾左衛門で、その弾左衛門を管理しているのが町奉行、ということになる。 弾左衛門の屋敷は現在の浅草寺の北側、かつて「浅草新町」と呼ばれていた一角にあり、役所兼居宅として使われ、敷地面積は1万4,784坪あったともいわれる。 弾左衛門が被差別民の支配者となり、3,000石の旗本にも匹敵する大きな力を得た理由は代々「皮革生産」の権益を独占してきたためだ。 中世の被差別民のなかには、神社や寺に隷属しながら、人の死体や動物の死骸の処理をはじめ、掃除や警備までを請け負っていた「神人」と呼ばれる人たちや、犯罪者に対する刑の執行を任されていた人たちがいた。徳川幕府が成立したのちは身分が掃除や刑の執行などの役目を担うようになって、弾左衛門の支配下に組みこまれることになる。 能役者や歌舞伎役者たちも弾左衛門の下に置かれ、彼らは町人籍とされたものの、歌舞伎役者たちが町にでるときは編み笠をかぶることを強制された。 18世紀以後まで弾左衛門の支配下に残ったのは、エタ、猿飼、およびの支配下にあった乞胸だった。猿飼は、猿引(猿曳)とも呼ばれ、猿にさまざまな芸をさせる芸人集団である。また、乞胸というのは大道芸の集団だ。乞胸の人たちは、寺社の境内や空き地で見せ物を行ってお金を得た。彼らがやった大道芸としては、綾取、辻放下、説経、物読、講釈、浄瑠璃、物まね、仕形能、江戸万歳、猿若、操り、辻講釈など12種が記録されている。 明治4(1871)年に明治新政府が「餞民制廃止令」を布告し、それまで与えられていた職務や権益や支配などのすべてが廃止された。それまでの特権をすべて奪われた上に、差別だけが残ったというのが明治の解放令の現実だった。餞民たちに貧困と被差別ということが重なってくるのは、むしろ明治以降ではないかとさえ思えるのだ。

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