Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

終わりなき『エンジン・サマー』

2008年12月12日 | SF・FT
ワンス・ア・デイ、冬なんかないといってくれ。

冬なんか来ないといってくれ。

そうしたらきみを信じるから。

(本文291頁より)



扶桑社海外文庫版『エンジン・サマー』読了しました。
伝説となった青春SFの超傑作が、丸18年を経てようやく復刊。
灯心草の探求の日々を読みつつ、むかし古本屋で福武書店版の古書を探してまわった事を
懐かしく思い出したりしたものです。
そういう意味では、私にとって二重に忘れられない作品となりました。

「嵐」という名で伝えられる大破壊によって、栄華を極めた人類の文明が崩壊してから
既に数世紀が経ち、「インディアン・サマー」(小春日和)が変形した「エンジン・サマー」
という慣用句が使われる時代。
かつてアメリカと呼ばれた土地の片隅では、生き残った人々が独自の文化を作り出し、
それにすがりながら細々と生を繋いでいます。

そんな集落のひとつ、ネイティブ・アメリカンの文化を思わせる習俗を持つ
「リトルベレア」で生まれた少年「しゃべる灯心草」(Rush that Speaks)は、
古代の遺物とかつての「聖人」たちの物語に触れながら成長していくうちに、
やがてそれらの驚異を自らの手で取り戻し、リトルベレアに持ち帰りたいという
強い思いを抱くようになります。

やがて彼が出会ったのは、黒髪と青い眼が印象的な「一日一度」(Once a Day)という名の
謎めいた美少女。
幼なじみからやがて恋人となった二人ですが、ある春の日、彼女はべレアを訪問した
交易者のグループ「ドクター・ブーツのリスト」と共に旅立ってしまいます。
置き去りにされた「灯心草」は、「一日一度」と、そして今は人類が失ったものを
再び見つけるために、自らもリトルベレアを後にします。

聖人「まばたき」との出会い、ドクター・ブーツからの手紙、そして復収者としての生活。
過去を伝える者、忘れようとする者、見つけようとする者との暮らしの中で、「灯心草」は
多くの物語と出会い、それらはやがて彼を「全ての失われたものが辿りつく」といわれる
究極の地、「空の都市」へと導いていきます。
そこで彼は何を見出し、そして何を語るのでしょうか・・・。

「エンジン・サマー」、すなわち「機械の夏」。
これは人類が栄えた「偽りの夏」の比喩であり、かつての「夏」を思い出す人類と、
そしてその季節を追い求める「灯心草」自身の比喩ともなっています。
その「灯心草」が語るこの『エンジン・サマー』自体も、そのタイトルにふさわしい
ひとときの幻のような物語だといえるでしょう。
ネイティブ・アメリカンを勝手に「アメリカ・インディアン」と呼んできた人々の末裔が
いまや自ら「ネイティブ・アメリカン」と化している皮肉など、アメリカ文化や社会への
鋭い風刺も見せながら、物語全体はあくまで美しく、そして不思議な輝きを失わず、
読み手を夢のような旅へと誘います。

「灯心草」が語るひとつの物語を透かして見え隠れする、無数の物語と無数の人生の幻影。
それらは失われた過去の木霊ですが、一方では様々な物語に姿を変えて、今を生きる人類の
精神的な支柱にもなっています。
そして「灯心草」の物語もまた多彩な切子面を持つと同時に、さらに大きな物語の「切子面」の
ひとつでもあることが、全てを語り終えられたときに初めて明かされます。

「透明な存在」である語り手と、それに耳を傾けて涙する聞き手が最後に交わす会話には、
限りない喪失の痛みと共に、時を越えた癒しと労わりの心も込められているのでしょう。
悲しさだけでなく優しさも感じさせるラストの深い余韻には、言葉もなく打ちのめされました。

SFという形式を最大限に生かして、「物語」の可能性を極限まで探ったこの作品こそ、
まさしくSFでなければ書けなかった、ジャンルを超える名作だと思います。
もう絶版にされないためにも、今度こそ多くの人に読まれることを願います。

さて、旧版と同じ表紙絵は、マイケル・パークスの描く“Magician's Daughter” 。
絵のイメージもぴったりですが、他に物語の中に出てくる“薬の娘”、つまり
Medicine's Daughterにも掛けてあるのでしょう。
(パークスの他作品は彼のサイト“Swan King Editions”で見られます。)

これにちなんで、こちらは先日見てきたワイエス展のおみやげから。

タイトルはもちろん“Indian Summer”。
ただし絵ハガキのみで、本物が会場になかったのは残念でした。

ところで、「一日一度」(ワンス・ア・デイ)の気性は、この手のヒロインが好きな
私から見ても、さすがにキツすぎるなぁと思うところが。


「春になったら」とぼくはいった。「もどってくるね」

「いまが春よ」

 ワンス・ア・デイはふりかえりもせずにいい、そして彼女は行ってしまった。

(本文132頁より)


ここまで来るともはや“ツンデレ”や“ツンツン”を通り越して、むしろ“グッサリ”もしくは
“バッサリ”という致命傷レベルです(^^;。
時に優しすぎるほどの「しゃべる灯心草」には、やはり手に余るヒロインではないかと。
まあそういう娘だからこそ、何度でも追いかけたくなるんでしょうけどね。

ただいま訳者の大森望氏のサイト内には『エンジン・サマー』特設ページあり。
原書の表紙写真では、“グッサリ系ヒロイン”(笑)「一日一度」の姿も見られます。

文庫版の訳者あとがきでは、これまた幻のクロウリー作品『エヂプト』も、
ついに来年の邦訳刊行が決まったとのビッグニュースもありました。
ひょっとして、来年はいよいよクロウリーブームが来ちゃうかも!
・・・と期待を込めて書いておきます。これがホントになるといいんだけど。
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