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↑蕪村碑
蕪村碑は下の記事で紹介しました毛馬の閘門からわずか100メートルほど東の堤防上にあり、淀川を見下ろしていました。
花開いた白梅と緑の松を両脇に抱えた蕪村碑は堂々として、この時期が一番きれいかもしれません。
↑碑に刻まれた句は「春風や 堤長うして 家遠し」。蕪村の自筆ということです。
堤とは淀川の堤ですが、この句も今の時期にぴったりです。
安永6年(1777)、62歳の正月に出した春興帖(しゅんきょうじょう)「夜半楽」の中の「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」の第2番目の句と書かれていました。
「春風馬堤曲」は、奉公先から毛馬の堤を通って里帰りする娘たちの心境に託して、自らの望郷の思いを詠んだといわれています。
門人に宛てた手紙に、
「馬堤(ばてい)は 毛馬つつみ也 余が故園也」
「余、幼童之時、春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候」
等と書かれていたということです。
蕪村は享保元年(1716)、摂津の国、東成郡(ひがしなりごおり)毛馬村(けまむら)(現、大阪市都島区毛馬町)で生まれ、性は谷口と伝えられています。芭蕉の没後22年目、徳川吉宗が八代目の将軍についた年です。
生家があった場所は確定できず、この蕪村碑のある辺りとだか、新淀川の開削で川の底に沈んだ等々の風説があります。毛馬は旧淀川が大きく南に曲がる辺りなので、恐らく蕪村の一家も川の氾濫に苦しめられていただろう、とは私の想像です。
二十歳頃に江戸に下り、俳人早野巴人(はじん)の門に入って俳諧を学ぶ。
宝暦元年(1751)36歳の冬に京に上る。
この後、母の出身地である丹後の与謝(現京都府与謝郡加悦(かや)町)に住み、与謝性を名乗る。画家としての才能も開花させ、後に文人画の第一人者と言われた池大雅と並び称された。
4年ほどで京に戻り、讃岐にも行きつつ晩年は京で過ごす。
没年は天明三年(1783)12月25日 68歳。
ふるさと毛馬への想いを「春風馬堤曲」に託した蕪村。
淀川の三十石舟を利用して何度も京と大坂を往復していながら、一度も毛馬に立ち寄ることはなかったという。
なぜ一度も故郷の毛馬に帰らなかったのか。ひとつの謎が残りました
以上は蕪村碑に向かって右にあったレリーフ「蕪村礼賛」に書かれたいたことの受け売りです。
私の知っている蕪村の句は
春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな
菜の花や 月は東に 日は西に
ぐらいで蕪村についての知識はほとんどありませんでした。
画家としても名声を馳せたことは今回初めて知ったことです。
池大雅との合作といわれる国宝「十便十宜図」、一度拝見したいものです。
重厚感のある山水図、軽妙な人物画、俳画など分野も広いとありました。この「蕪村礼賛」レリーフはその蕪村の絵に因んで淀川の様子を描いたものと思われます。今回も勉強になりました。
【追加訂正(3/12)】
上記で「丹後の与謝(現京都府与謝郡加悦(かや)町)」と書きましたが、平成18年3月1日に加悦町・岩滝町・野田川町が合併して与謝野町となりました。蕪村が愛した「丹後の与謝」は、現在の「京都府与謝郡与謝野町」です。「加悦」の名が消えてちょっと寂しいですね。
「加悦」は、大江山と、貴重な短歌・俳句の資料を保管している「江山(こうざん)文庫」でも有名な所で、この文庫の名前は、名誉館長でもあった故・里見恭一郎氏が名付けられました。蕪村が加悦に滞在中に書いた手紙の中で、大江山のことを「江山」と言っていたことに由来するそうです。与謝野鉄幹の父親が加悦出身で、鉄幹、晶子夫妻もよく訪れていた由緒ある地名です。(情報は加悦町ホームページより)
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蕪村碑は下の記事で紹介しました毛馬の閘門からわずか100メートルほど東の堤防上にあり、淀川を見下ろしていました。
花開いた白梅と緑の松を両脇に抱えた蕪村碑は堂々として、この時期が一番きれいかもしれません。
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堤とは淀川の堤ですが、この句も今の時期にぴったりです。
安永6年(1777)、62歳の正月に出した春興帖(しゅんきょうじょう)「夜半楽」の中の「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」の第2番目の句と書かれていました。
「春風馬堤曲」は、奉公先から毛馬の堤を通って里帰りする娘たちの心境に託して、自らの望郷の思いを詠んだといわれています。
門人に宛てた手紙に、
「馬堤(ばてい)は 毛馬つつみ也 余が故園也」
「余、幼童之時、春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候」
等と書かれていたということです。
蕪村は享保元年(1716)、摂津の国、東成郡(ひがしなりごおり)毛馬村(けまむら)(現、大阪市都島区毛馬町)で生まれ、性は谷口と伝えられています。芭蕉の没後22年目、徳川吉宗が八代目の将軍についた年です。
生家があった場所は確定できず、この蕪村碑のある辺りとだか、新淀川の開削で川の底に沈んだ等々の風説があります。毛馬は旧淀川が大きく南に曲がる辺りなので、恐らく蕪村の一家も川の氾濫に苦しめられていただろう、とは私の想像です。
二十歳頃に江戸に下り、俳人早野巴人(はじん)の門に入って俳諧を学ぶ。
宝暦元年(1751)36歳の冬に京に上る。
この後、母の出身地である丹後の与謝(現京都府与謝郡加悦(かや)町)に住み、与謝性を名乗る。画家としての才能も開花させ、後に文人画の第一人者と言われた池大雅と並び称された。
4年ほどで京に戻り、讃岐にも行きつつ晩年は京で過ごす。
没年は天明三年(1783)12月25日 68歳。
ふるさと毛馬への想いを「春風馬堤曲」に託した蕪村。
淀川の三十石舟を利用して何度も京と大坂を往復していながら、一度も毛馬に立ち寄ることはなかったという。
なぜ一度も故郷の毛馬に帰らなかったのか。ひとつの謎が残りました
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私の知っている蕪村の句は
春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな
菜の花や 月は東に 日は西に
ぐらいで蕪村についての知識はほとんどありませんでした。
画家としても名声を馳せたことは今回初めて知ったことです。
池大雅との合作といわれる国宝「十便十宜図」、一度拝見したいものです。
重厚感のある山水図、軽妙な人物画、俳画など分野も広いとありました。この「蕪村礼賛」レリーフはその蕪村の絵に因んで淀川の様子を描いたものと思われます。今回も勉強になりました。
【追加訂正(3/12)】
上記で「丹後の与謝(現京都府与謝郡加悦(かや)町)」と書きましたが、平成18年3月1日に加悦町・岩滝町・野田川町が合併して与謝野町となりました。蕪村が愛した「丹後の与謝」は、現在の「京都府与謝郡与謝野町」です。「加悦」の名が消えてちょっと寂しいですね。
「加悦」は、大江山と、貴重な短歌・俳句の資料を保管している「江山(こうざん)文庫」でも有名な所で、この文庫の名前は、名誉館長でもあった故・里見恭一郎氏が名付けられました。蕪村が加悦に滞在中に書いた手紙の中で、大江山のことを「江山」と言っていたことに由来するそうです。与謝野鉄幹の父親が加悦出身で、鉄幹、晶子夫妻もよく訪れていた由緒ある地名です。(情報は加悦町ホームページより)
171号線を北上して八丁畷を右折・・・・多分枚方大橋ですね。
三十石舟の泊まり宿ですか。京から淀川を下ってここで一泊したのでしょうか。それにしては京に近いですよね、枚方は。
あそこは舟で売る「くらわんか餅」の話が面白く語り継がれている所でもありますね。
私も俳句は門外漢です。でも歴史が好きなので、こういうことを調べるのは面白いです。
蕪村は芭蕉に憧れ奥の細道の通り、芭蕉のあとを辿ったとも言われています。
これも「蕪村礼賛」からの受け売り(笑)
この記事は長い「蕪村礼賛」を短くしたものだと思ってください。
これでも短くしたんですよ。
立派な句碑ですね。またレリーフが素晴らしい。梅のきれいな今すぐは無理ですが、いつか毛馬を訪ねたくなりました。
私も蕪村の句は挙げられた2句ぐらいしか知りません。
勉強になりました。
あまもりさんの仰るとおり碑の周りには梅の花か桜の花がよく似合うと思います。ひとつのブログを発表する為に掛けていらっしゃる手間隙には感心します。私には絶対真似できん!!
文学の素養も無いので俳句もさっぱりですが、あまもりさんに刺激を受けて今から川ものネタを1本作ろうかと考えています。
私の場合は写真が主で文が少しだけ
やしきたかじんのコンサ-トみたいなモンですわ
(彼のコンサ-トは喋りが主で歌はその合間に歌う。と本人もギャグで言っているほどト-クが多い。)
ブログ本来は日記みたいなものだから写真の方が多いというのも変なのですが、私は手抜きの絵日記をこれからも続けていきます。
これまた関係ない事をだらだらと・・・えらいすんません!!
これはほとんど「蕪村礼賛」レリーフに書かれていたことをまとめたにすぎません。
長い文章で、一度読んだだけでは覚えきれませんでした。容量の少ない頭のメモリがパンクしてしまいました
そこで、5枚分割にして写真に納め、それを全てテキストにし、そこから抜粋したというわけです。自分で書くと覚えられる、これは学生時代のテストの要領ですね(笑)
そうそう、今日になって分かったのですが、「加悦」の名前が消えましたね。3月1日に合併して「与謝野町」になったそうですね。もう既にご存じでしょうが、記事に追加訂正として載せました。
お礼なら「蕪村礼賛」のレリーフへ(笑)
私は酔歩さんのように写真がうまくないので、文章でごまかしてま。
その文章もちょっとくどくどしいと反省してま。
手間暇かけると言うよりは、調べることが好きと言うたほうがええかも~。
Wevは便利やねぇ。本屋に走らんでも居ながらにして調べられるし、貴重な情報を提供してくれはる奇特な方も多いし。でも時々間違った情報もあるので取捨選択は必要ですよね。
川ものネタ?面白そう。釣り好きの酔歩さんだから魚ネタもあり?
以前、たかじんは歌手やで、と娘に言うたらウソ~とびっくりしてました。
コンサートは行ったことないけど、お喋りの間奏に歌、というのもユニーク(笑)
酔歩さんのブログは、たかじんのコンサート並みの面白さがあるで。
ブロクにかけるあまもりさんの熱意に頭が下がります。
蕪村のこと、学校で習った程度の(有名な俳人)ぐらいの認識でした。
大阪にゆかりがあることも知りませんでした。
poloさんの仰っているのは「鍵屋」さんですね。いま、「鍵屋資料館」としてオープンしているらしいです。
いつか行く機会があったら取材してきますね。
キーを打っている時間がほとんど同時やったみたい
熱意! とんでもない!
ただ調べるのが好きだという好奇心の強さは人一倍かも~。
人が興味を持とうが持つまいが、自分の好きなことを書いているだけです。
蕪村のことはもう少し調べたくなりました。仕事の合間ですから先々になると思うけど。
三十石舟の泊まり宿は「鍵屋」というのですか。
ひざが治って、もっと暖かくなったらぜひぜひ取材を!
改めて思いました。
あまもりさんの詳しいご説明に感謝です。
石碑の文字、流れるような書体で繊細ですね。
与謝野蕪村さんという方に興味が湧いてきました。