あまもりのなんやかんや

しがらみから離れてたまには身近な自然と親しみたい

大国さんは狛ねずみ

2007年05月29日 | 大阪の町/狛犬編
敷津松之宮・大国主神社(大阪市浪速区敷津西1-2-12)
↑大国神社の入り口近く
↑東側入り口は大国主神社の鳥居
↑大国主神社から入ると正面にある阿形の狛ねずみ
吽形の狛ねずみ


↑南側入り口にある敷津松之宮神社の鳥居
↑敷津松之宮神社の正面にいるのは通常の狛犬
↑境内にある木津勘助像
↑折口信夫の「幼き春」の反歌が刻まれている歌碑
折口信夫の歌碑の前にある立て札

狛犬がネズミだという神社のことを知り、早速そこへ行ってきました。
難波から少し南に下った浪速区の国道25号線沿いにある大国(だいこく)神社です。
正確には「大国主神社(おおくにぬし じんじゃ)」。
(「日出大国社」が正式名称だと書いているサイトもありましたが、鳥居に書かれている神社名は「大国主神社」でしたのでこれを採用しました)
祭神は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」。大国(だいこく)さんです。
この神社から少し南に「大国町(だいこくちょう)」がありますが、この名前の元になった神社です。通称は「木津の大国さん」。あるいは単に「大国さん」。

でも上の画像には二つの鳥居が登場しますね。
それにトップの文字は「敷津松之宮・大国主神社」。
どういうこっちゃ、ですよね。
この神社には二つの祭神があって、それぞれに鳥居があり社殿があります。
一つの境内に二つの神社が存在しているということです。
それぞれの参道はクロスしています。
読んだだけでは解りづらいと思いますので簡単に見取り図を書いてみました。


↑(緑の破線がそれぞれの参道です)


社務所は一つだったので、管理は一元化されているのだと思います。
◆最初に造られたのは「敷津松之宮(しきつ まつのみや)」。
祭神は須佐之男尊(素戔嗚尊)(すさのおのみこと)。
神功皇后が敷津浦を船で通りかかった時に、松を3本植えて、須佐之男尊を祀り航海の安全を祈願したので松之宮と付いた、との言い伝えがあるようです。(神社が建てられた当時、ここはまだ海岸線でした)
◆大国主神社は、江戸時代中期に後で造られたようです。
満面笑顔の大きな大国さんが祭神です。
(写真に撮ろうかもと思ったのですが、失礼にあたると断念しました)

この須佐之男尊と大国主命。二つの祭神には深い繋がりがありました。
そして白ねずみとも深い関わりが・・・。

撮影目的の狛ねずみの話。
…(コマネズミと言えば高麗鼠、あるいは独楽鼠。「コマネズミのように働く」との譬えもあるハツカネズミに似た白いネズミを指すようですね。繋がり?知りません。私が勝手に狛ねずみと書いているだけですので)…
真っ白のねずみで、狛犬と同じように阿吽像でした。
社殿に向かって右に位置する阿形の狛ねずみは、米俵をかかえています。
一方左に位置する吽形の狛ねずみは打ち出の小槌を持っています。
大国さんと言えば、イラスト看板にもあるように、この米俵と打ち出の小槌を持っていますね。二体の狛ねずみは、それぞれに大国さんの持ち物を大事に持っていました。
しかし・・・米俵にねずみはないやろと。食べられてしまうがな普通。
首を傾げつつ、社務所の方にその理由を尋ねました。

大国さんとねずみの繋がりは古事記にあったのです。
大国主が、因幡で白兎を助けた後のお話。
大国主は、須佐之男の娘、須勢理姫(すせりひめ)との結婚条件に3つの試練を須佐之男から課された。
一つ目は、蛇の室(むろや)で一晩過ごすこと。
二つ目は、ムカデと蜂の室で過ごすこと。
三つ目は、射ると音の出る鳴鏑(なりかぶら)の矢を取ってくること。
二つは、須勢理姫からヒントを得て無事にクリア。
最後の三つ目の課題の矢が一番楽勝のようですが・・・。
須佐之男は草原に矢を射る。大国主がその矢を取りに行ったのを確かめてから、大国主を囲むように草原に火をつけた。
逃げ場を失い、火の海でなすすべもなく立ちつくしていた時、白ねずみが出てきて、地面下のねずみの穴を教えた。そこへ逃げ込んで命拾いをした大国主。白ねずみは探していた鳴鏑(なりかぶら)の矢も持ってきてくれた。
火が収まるのを待って、穴から出た大国主は、矢を携えて須佐之男に渡し、めでたく須勢理姫と結婚した。
以降、大国主は命を助けてくれた白ねずみを配下に加え、出雲の国を治めた。
(社務所の方のお話と小林晴明・宮崎みどり共著「古事記のものがたり」を参考にしました)

これが大国神社の狛ねずみの由来です。
大国さんを護るのは、狛犬ではなく、ねずみということが解ってすっきりしました。
古事記に登場する須佐之男尊と大国主命が仲良く並んで一つの境内に収まっているユニークな神社。
たまには古事記の神話の世界で遊ぶのもなかなか面白いものです。

次に木津勘助像と折口信夫の歌碑について知ったこと。
大国神社の鳥居をくぐってすぐ右(北)に大きな銅像が立っています。
木津勘助像です。
木津勘助は豊臣秀吉に仕え治水工事や新田開発に従事し、江戸期に入ってからもその腕が買われ活躍した。
しかし、寛永16年(1639年)近畿一円が、ひどい冷害で大飢饉になった折、大阪城の備蓄米を放出するよう嘆願するも、聞き入られず、私財を投げ打って村人たちを助けたが限度があり、ついに米の「お蔵破り」を決行した。その罪で流罪になる。
村人たちは、木津勘助の恩を忘れず、後代へ語り継いだという。
(浪速区役所サイト参照)

折口信夫の歌碑
この大国神社から近い「鴎(かもめ)町公園」辺りで生まれ育った、民族学者でもあり歌人でもあった折口信夫の「幼き春」の反歌が刻まれています。
(反歌(はんか)=「返し歌」のことで、贈られた和歌に答える返事の和歌)
歌碑の文字は薄れてしまって読めなかった。
内容は、両親の愛情に恵まれなかった信夫の悲しい歌というこです。
なお、鴎町公園内には折口信夫の生誕の碑があります。

大国神社の近くには、大阪でお馴染みの「今宮のえべっさん」があります。
十日戎で有名な今宮戎神社です。
ここのえべっさんと大国さんは七福神の二神ですね。
大阪に七福神巡りってあるのかな?淡路島の七福神巡りは知ってますが。

↓ちなみに、これが大国神社辺りの地図です。


下手な長文を読んでくださった方に感謝します。
ありがとうございます。そしてお疲れ様でした。
コメント (30)
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豊崎神社の狛犬

2006年08月18日 | 大阪の町/狛犬編
◆サムネイルにマウスポインタを乗せると下に大きめの画像が出ます
阿形の狛犬吽形の狛犬阿形の後ろ姿。立派な尻尾親から離れずに振り返っている仔吽形の後ろ姿豊崎神社
豊崎神社の狛犬

久々に大阪の狛犬です。博労町(ばくろうまち)の難波(なんば)神社の狛犬以来ですから9ヵ月ぶりです。
仔どもをおんぶしていた難波神社の狛犬も変わった狛犬でしたが、ここの神社の狛犬も初めて見るものでした。
過去にUPした狛犬は境内奥の本殿の前に据えられていたのですが、豊崎神社は、鳥居をくぐってすぐ両脇に大きな狛犬が据えられています。今まで見た中で最も大きい狛犬で、まるで神社そのものを守っているかのよう見えました。
境内に向かって左に仔ども連れの阿形。右に宝珠を掲げている吽形。
奉納された日付は、「昭和12年10月足日」と刻まれていました。
1937年というと69年の歳月を経ている狛犬ということですね。
阿形の親狛犬に、ピトっと引っ付いている仔どもは後ろを振り返っています。難波神社の親の背中にしがみついていた仔どもの姿にも似ていて、親から片時も離れようとしない仔どもの愛らしさが出ています。
吽形の狛犬は宝珠を高く掲げています。狛犬の足の構造からいって、これが精一杯の高さだなぁと思うと何だか可笑しさがこみ上げてきました。

私の狛犬好きを知っている人から京都の、とある神社には招き狛犬がいると、写真を見せてもらったことがあります。
随分と古い狛犬でしたが、確かに前足の片方をあげて招き猫のように見えました。でもここ豊崎神社の吽形を見てから、京都の神社の狛犬も作られた時は宝珠を掲げていたのではないだろうか。長い年月を経て掲げている宝珠が落ちてしまったのに違いないと。
吽形の宝珠を想像で消してください。招き猫の姿に見えませんか。

狛犬の足に結び付けられている細い紐。難波神社の狛犬のコメントでこの話題が出た時、大阪天満宮の狛犬は明らかに手っ甲脚絆の手っ甲だったので、旅装束の姿と書きましたが、今回、豊崎神社に問い合わせ尋ねました。
答えは、「足留め」でした。
消息の知れない人が戻ってくるように、あるいは不幸はここで打ち止めにとの祈願をかけて狛犬の足に結ぶということです。一度結ばれた紐は、自然にほどけ朽ちるまでそのままの状態にしておくそうです。古くなったからと新しい紐に替えることはないということでした。
(カテゴリ「大阪の街狛犬編」に過去の狛犬があります。よろしければ見てください)

なお、この豊崎神社の祭神はあの前期難波宮を開いた孝徳天皇です。
大阪城近くで難波宮跡(なにわのみやあと)が発掘されるまで、ここ豊崎神社が、難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)跡とされ、大化の改新の詔はこの辺りで宣言されたと長い間思われていました。しかし1961年(昭和36年)に難波宮跡が発掘されて間違いであったことが解明。
この豊崎神社は、北区豊崎6-6-4にあり、梅田駅から東北方面に歩いて十数分、淀川の近くにあります。
梅田も難波も海の中」でUPした古代と現代の合成地図を見ても、7世紀頃の豊崎界隈は海の中です。海中に宮殿は建てられませんね。
しかし、この辺りの地名は豊崎で、近くに長柄もあります。幻の都の言い伝えがそのまま地名になったのでしょうか。
コメント (38)
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難波神社の狛犬とおまけ

2005年11月10日 | 大阪の町/狛犬編

大阪市中央区博労町(ばくろうまち)4丁目にある難波神社の狛犬です。
(浪速区大国町近くにも難波神社がありますが、あそこは正式に難波八坂神社と言い、全く別の神社です。この神社には大獅子殿という日本一の獅子舞台があるとか。一度見に行きたい所です)
この難波神社は難波駅の近くではなく、オフィス街のど真ん中、本町に近い博労町にあり御堂筋の西側に面しています。


↑本殿に向かって左側に位置する吽形と右側に位置する阿形の狛犬
(大き目の画像をリンクしていますのでクリックしてください)
この神社の阿形の狛犬は鞠を踏んでいます。
寄進されたのは比較的あたらしく昭和50年(1975)と書かれていました。
【追加一行(11.10 10:07pm)】
上の左の吽形の背中に子供がしがみついているのが見えますか。


↑う~ん やはりお尻、いえ後ろ姿が可愛いね

【追加(11.10 8:00pm)】
左の吽形の後ろ姿をじっくりと見つめていましたら、どうも阿形と尻尾の形が違う、ん?尻尾の上に居るのは子供じゃないか!
元画像をもう一度見直したら、やはり子供の狛犬でした。子供が親の背中にしがみついているのです。
左の後ろ姿の吽形像に大きい画像をリンクしました。最大にしてご覧ください。
可愛いったらありゃしない!こんな狛犬を見たのは初めてです。
パシャパシャと写真を撮っている時は気づきませんでした。この観察力の無さ、お恥ずかしい。

↓下の2枚の画像にマウスのポインタを乗せてみて。

↑これはなに?石灯籠の上になにやら怪しげなものが
境内の稲荷社の後にひっそりとありました。
ねずみの阿波踊り?それとも・・・お化けだ像?
狭いところをくぐって後ろに回ってみると・・・↓

↑逆立ちしたきつねさんでした!
参ったなぁ、神社に入って来る人には後ろ姿だけを見せているとは。
まわって見ようという人は少ないのでは?私がいたか(笑)
石灯籠もかなり古い物で一部が欠けていました。
戦災時に倒れたんやろか?それとも阪神大震災の折に倒れたのか。
そう言えば、大阪天満宮の鳥居も震災でヒビが入ったので
新しく建て替えられてたなぁ。
この逆立ちきつねは、江戸時代の文楽を見続けてきたのかもしれない、
耳の間に挟んでいる五円玉は随分古いなぁ、誰が置いたんやろ。
などと、あれやこれやと想像させてくれました。

∞∞難波神社ちょっと知っとこデータ∞∞
415年反正天皇が仁徳天皇を偲んで河内の松原に柴籬宮を造営した折に創建。
943年摂津平野(現在の平野区?)に移る。
1583年豊臣秀吉が大阪城築城の折に現在の博労町に移す。
1811年植村文楽軒が稲荷社文楽座を創建。
以降、境内の小屋で催された人形浄瑠璃が稲荷社文楽座と呼ばれ、
現在の文楽の起源となる。
境内にある稲荷神社が文楽で有名になり、博労町のお稲荷さんと親しまれる。
毎年7月21日、22日に氷室祭が行われ、
参拝者にはカチワリ(氷)が振る舞われる。

ようやくロールオーバーが成功しました。
皆さまいろいろとご助言をありがとうございました。
HTMLエディタはやめてTextエディタで無駄なタグを捨て、
強制改行、Back Spaceの繰り返しで…ああしんどぅ。
コメント (32)
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神農さんの狛犬は虎?

2005年07月29日 | 大阪の町/狛犬編

 
↑昭和59年4月吉日寄進 とそばの石碑に書かれていました。
翌年の昭和60年(1985)は阪神タイガースが日本一に輝いた年。まさに咆吼の虎。
18年後の2003年のリーグ優勝の時にも雄叫びを上げていたんだろうなぁ。今年も?

 
神農さんの守り神である張り子の虎 愛嬌もんです。(横幅7センチ×縦幅2.8センチ)

得意先に行った帰り道、薬の神さんの神農(しんのう)さんに行ってきました。
目的は狛犬を撮るためです。しかしです。出迎えてくれたのは、何と黄金の大きな虎でした
神農さんは、張り子の虎で有名な神社でもあって、神農祭が行われる時には笹にくくりつけるのですが、まさか虎の狛犬とは!と驚きました。
これは縁起がいい(トラファンにとっては)と撮ったのですが、西向きの日が頭を照らしてとび気味でした。(腕の悪さはおいとく)
でもまさに咆吼の虎です(ニコニコ)。でも一体だけです。
ヘンやな?実際の狛犬は本殿奥の暗い場所に収められ、しかも金網で囲われていて、その姿を見ることは不可能でした。
ご親切にも社務所の方にご案内までいただいたのですが、残念なことでした。
帰りに愛嬌のある張り子の虎を買って仕事場に飾りました。

神農さんは正式名を「少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)」といい、大阪市中央区(旧東区)の道修町(どしょうまち)にある薬の神様です。
道修町は薬問屋として有名で、今でも大手の製薬会社を始め、大小様々な製薬会社がひしめいています。
そこの町衆が江戸時代より守ってきたのがこの「神農さん」。
古代中国の医薬の神「神農氏(しんのうし)」と、日本の薬祖神「少彦名命(すくなひこなのみこと)」のふたつを祭神としています。中国と日本の神様を同時に祀っているのはちょっと珍しいですよね。
毎年、11月の22日・23日に神農祭が行われ、道修町全域がお祭り気分に覆われます。
大阪のお祭りは「えべっさん」で始まり、「神農祭」で終わるので「とめの祭」とも言われています。

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お初天神の狛犬

2005年07月26日 | 大阪の町/狛犬編

 
↑お初天神の狛犬は一般的な阿吽形です 左の吽形の頭には角があります
昭和3年5月吉日 北新地 菱熊 奉納とありました。

 
↑可愛い後ろ姿(笑) 色の違いは日なたと陰のためです


↑おまけ
お初天神ときたら曽根崎心中で、お初・徳兵衛の銅像です
それぞれの画像には450×600の画像をリンクしています。クリックしてください。
blankはしていませんので、ブラウザの「戻る」矢印で戻ってください。

久々に狛犬を撮ってきました。
狛犬のお尻だけをアップしようかとも思いましたが、正面もアップしなければ、あのいかつい顔が想像できませんので、入れました。(ついでかい!)
お初天神は通称で正式には露天神社(つゆのてんじんしゃ)といい、大阪北区の曽根崎(梅田の南側)にあります。
創業、ちゃう! 創建1300年もの古い歴史を持つ神社です。江戸時代に近松門左衛門の曽根崎心中で全国的に知られ、縁結びの神様としても有名です。(お賽銭は五円(ご縁)でいいらしい←ウソです)
お初天神の狛犬は従来の阿吽形で、尻尾も従来の狛犬の尻尾ですね。
以前(6/23)にアップした大阪天満宮の狛犬が変わっているようです。両方とも阿・阿形で、尻尾もデザイン化されてなくて垂れていました。やはり神社用として作られたものではなかったからでしょうか。私はどちらかといえば大阪天満宮の狛犬が好きです。

関係ないですけど、昨日は天神祭でした。
昨日は一日良い天気に恵まれ天神祭も大にぎわいでした。
私は昼に仕事の合間に行ってきましたが、表門の随身さんと呼ばれている「矢大臣・右大臣」(6/21アップ)は幕で囲まれて見ることはできませんでした。本殿前の愛嬌ある狛犬たちも御輿等で隠れて同じく見ることはできませんでした。
夕方から花火が始まりましたが、音だけを聞いて仕事をしていました(泣)

コメント (15)
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