毛馬の閘門は「けまのこうもん」と呼びます。毛馬は地名で、「こうもん」は、校門でも肛門でも黄門でもなく閘門です。
地名が馬の毛でその後に続く「こうもん」ということで、大阪人でもちょっと勘違いする方もいたりして。
(そんな人おりませんやろ。はいすんません
)
辞書には、閘門=こうもん。運河などで高低の差のある水面で船を昇降させたり、水量を調節したりする装置のある水門(新明解第五版より)とありました。
毛馬の閘門は桜の名所でもありますが、大阪の大事な治水の要の場所でもあることを知りました。
【各画像は全てロールオーバーにしています。】

↑表は現在の閘門で裏はその前に使われていた閘門
【毛馬閘門について】
淀川は、度重なる氾濫を繰り返し、洪水のたび周辺地域に大きな被害をもたらしていた為、明治30年~43年にかけて淀川改修工事が行われました。新淀川の開削(現在の摂津市一津屋~大阪湾河口間)が行われ現在の姿になりました。
毛馬洗堰は、新淀川と旧淀川(大川)の水量調節や、土砂堆積防止のため明治43年1月に建設されました。昭和49年10月の新水門通路まで65年間使用され、右側3門が当時の姿で保存されています。
また、新しくなる淀川と旧淀川を行き来する船の航路確保を目的に、毛馬第一閘門が明治40年8月に建設されました。
淀川と旧淀川では水位に差があるため、船は閘門内で水位調節の間停泊し、その後それぞれの川へ出ていきました。
毛馬閘門は、昭和51年1月まで使用され、その役割は現在の毛馬閘門が引き継いでいます。(毛馬第一閘門前の説明プレートより)
昭和51年まで使われていた第一閘門はきれいに塗装されて保存されていました。現在のようにシャッター式の扉ではなく観音開きの扉だったのですね。
上記にある毛馬洗堰(あらいぜき)はその役目を終え、現在は第一閘門そばに保存されています。
一般的に淀川といえば、新淀川のことを指し、旧淀川は大川と呼ばれています。明治時代に毛馬の閘門から大きく曲がっていた旧淀川を直接大阪湾に注ぎ、川幅も広げたということも知っていました。しかし、その詳細は分からず、上に書いたプレートの説明を読んで初めてその内容が理解できたのです。
それに新淀川の開削距離は意外と長く摂津の一津屋からだったとは知りませんでした。一津屋は鳥飼大橋辺りで、近畿自動車が走っている所です。
閘門の役割も理解できました。水位の違う川どうしで、船が行き来するためにあったのですね。今でこそ船の活用は少なくなりましたが、京から大阪まで、淀川を行き来する船が絶えなかった時代の方が長かったですから、その役目は重要だったことでしょう。
で、最初からいきなり閘門を紹介しましたが、場所はここです。↓

↑電車の便はちょっと悪いですね。行くならバスか車。(駐車場は無し)
裏は新淀川から分かれる大川(旧淀川)の始まりです。
大川に掛かる毛馬橋の西詰めからすぐに北に延びる道を入ると間もなく閘門に通じる公園があります。(これは大阪の、それも北区や都島区あたりを知っている人でないと分からないですね。すんません)
裏の画像の中に淀川大堰(おおぜき)とありますが、これは何?と興味を持たれた方は下へお進みください。(強制的)

↑表は淀川大堰で、裏が毛馬排水機場です
淀川大堰=大阪湾から流れ込む海水をここで食い止め、水を浄化させ、上水道と工業用水を供給する施設。供給先は大阪府・神戸市・尼崎市・西宮市。
毛馬排水機場=淀川の水位を調節する所。大川(旧淀川)及び大川に流れ込んでいる寝屋川・第二寝屋川・平野川で氾濫の恐れがある場合、排水機場のポンプが稼働し淀川に水を排水し大阪湾へと流す。約30分で甲子園球場の広さを満杯できる能力がある。
洪水のおそれがある時に、まず淀川大堰の下の水位調節板が開き、次に閘門が開かれ、排水機場のポンプが可動し、川の水を新淀川から大阪湾に排出するということです。これは高潮なども見計らってなされるようです。

↑表は閘門や洗堰の保存場所の案内絵。裏はその上にある桜並木です
今日は入ることができませんでしたが、古い閘門や洗堰(あらいぜき)を保存しているところは公園になっており、見学できるようです。裏の桜並木は今月の末あたりに来たらおそらく満開だと思われます。申し込めば(団体に限る?)、淀川大堰も見学できるようです。
以上のことのほとんどは、今日、雨の中を毛馬の閘門を尋ねて分かったことでした。大阪に住んでいても分からないことは多いですね。今日改めて毛馬の閘門の重要さを知りました。
なお、俳人、与謝蕪村はこの毛馬の出身といわれ、都島区毛馬には蕪村碑もあるそうです。機会があれば尋ねてみたいと思っています。
地名が馬の毛でその後に続く「こうもん」ということで、大阪人でもちょっと勘違いする方もいたりして。


辞書には、閘門=こうもん。運河などで高低の差のある水面で船を昇降させたり、水量を調節したりする装置のある水門(新明解第五版より)とありました。
毛馬の閘門は桜の名所でもありますが、大阪の大事な治水の要の場所でもあることを知りました。

↑表は現在の閘門で裏はその前に使われていた閘門
淀川は、度重なる氾濫を繰り返し、洪水のたび周辺地域に大きな被害をもたらしていた為、明治30年~43年にかけて淀川改修工事が行われました。新淀川の開削(現在の摂津市一津屋~大阪湾河口間)が行われ現在の姿になりました。
毛馬洗堰は、新淀川と旧淀川(大川)の水量調節や、土砂堆積防止のため明治43年1月に建設されました。昭和49年10月の新水門通路まで65年間使用され、右側3門が当時の姿で保存されています。
また、新しくなる淀川と旧淀川を行き来する船の航路確保を目的に、毛馬第一閘門が明治40年8月に建設されました。
淀川と旧淀川では水位に差があるため、船は閘門内で水位調節の間停泊し、その後それぞれの川へ出ていきました。
毛馬閘門は、昭和51年1月まで使用され、その役割は現在の毛馬閘門が引き継いでいます。(毛馬第一閘門前の説明プレートより)
昭和51年まで使われていた第一閘門はきれいに塗装されて保存されていました。現在のようにシャッター式の扉ではなく観音開きの扉だったのですね。
上記にある毛馬洗堰(あらいぜき)はその役目を終え、現在は第一閘門そばに保存されています。
一般的に淀川といえば、新淀川のことを指し、旧淀川は大川と呼ばれています。明治時代に毛馬の閘門から大きく曲がっていた旧淀川を直接大阪湾に注ぎ、川幅も広げたということも知っていました。しかし、その詳細は分からず、上に書いたプレートの説明を読んで初めてその内容が理解できたのです。
それに新淀川の開削距離は意外と長く摂津の一津屋からだったとは知りませんでした。一津屋は鳥飼大橋辺りで、近畿自動車が走っている所です。
閘門の役割も理解できました。水位の違う川どうしで、船が行き来するためにあったのですね。今でこそ船の活用は少なくなりましたが、京から大阪まで、淀川を行き来する船が絶えなかった時代の方が長かったですから、その役目は重要だったことでしょう。

↑電車の便はちょっと悪いですね。行くならバスか車。(駐車場は無し)
裏は新淀川から分かれる大川(旧淀川)の始まりです。
裏の画像の中に淀川大堰(おおぜき)とありますが、これは何?と興味を持たれた方は下へお進みください。(強制的)

↑表は淀川大堰で、裏が毛馬排水機場です
毛馬排水機場=淀川の水位を調節する所。大川(旧淀川)及び大川に流れ込んでいる寝屋川・第二寝屋川・平野川で氾濫の恐れがある場合、排水機場のポンプが稼働し淀川に水を排水し大阪湾へと流す。約30分で甲子園球場の広さを満杯できる能力がある。
洪水のおそれがある時に、まず淀川大堰の下の水位調節板が開き、次に閘門が開かれ、排水機場のポンプが可動し、川の水を新淀川から大阪湾に排出するということです。これは高潮なども見計らってなされるようです。

↑表は閘門や洗堰の保存場所の案内絵。裏はその上にある桜並木です
以上のことのほとんどは、今日、雨の中を毛馬の閘門を尋ねて分かったことでした。大阪に住んでいても分からないことは多いですね。今日改めて毛馬の閘門の重要さを知りました。
なお、俳人、与謝蕪村はこの毛馬の出身といわれ、都島区毛馬には蕪村碑もあるそうです。機会があれば尋ねてみたいと思っています。
瀬田川の洗い堰はつい最近観てきたところですが、それよりも立派な設備だと感じました。
大阪にこんなに立派な設備があったんだ~。こういう施設にはお金をかけてもらってもいいと思います。
淀川付近は散策すれば面白いところがたくさんありそうですな。近いうちに淀川エリアのあまもりさんの縄張りに出張してみようかな?
この閘門のことについてはちょっと固くなりそうで、どう説明したらええのか迷ったんです。
でもこのシステムを知った時、これはぜひとも紹介したいとも思いました。このことは大阪人も知らない人多いでと。
パナマ運河はいい例えです。嬉しいなぁ。
私は逆に瀬田川の洗い堰については名前しか知らないのでまた教えてね。
淀川に、いらっしゃ~い、いらっしゃい。
面白いところがまだありそうと思ってもらえたら書いた甲斐があったというもの。
淀川にはまだまだ面白いところが一杯ありまっせ。
ワンドに菖蒲園、ゴルフ場に、えーっと・・・・あとはスイポテさんにまかそ(笑)
酔歩さんの淀川散策記もまた面白そう。
数年前、ベルリンでランド-ル運河とスプレー川(発音に自信なし)を廻る遊覧船に乗ったのです。これほど大きくはなかったけれど水をためて移動して行くのです。面白かったです。大阪でもそんなことができたら観光名所になるでしょうね。
なんとパソコンで閘門と言う単語が出てくるのですね。初めて読み始めて使いました。少し賢くなった気分です!
三十石船など舟運の盛んな川でしたから不思議はないですね。
都島は私の生まれたところ、蕪村もそうでしたか。その後、母の生地かと言われる丹後与謝を訪れて与謝姓を名乗るんですね。親しみを覚えます。
あまり人に知られず、黙々と安全を守って働いている、
こんな施設もあるのですね。
毛馬のこうもん とでっかく書いてあるのは「毛」が見えなかったら
ぜったい誤解されると思います
だって海外での経験を教えていただけるのですから。
海外へは九州とか四国にしか行ったことがないので
実に楽しいです。
大川には遊覧船がありますが、淀川にはないので、大川から淀川にこの閘門を通過する遊覧船があれば面白いですよね。
この閘門を管理している国交省と交渉して、大阪市も少しでも赤字を減らすように知恵を出すべきですね。
閘門はちょっと読めませんよね。でもちゃんと変換してくれるので私もびっくりしました。「毛馬のこうもん」では誤解されやすいので(笑)
都から都に移ったんですね
おーちゃんのお話で今、蕪村のことを調べましたら、
なんと、蕪村の母の生地は、丹後与謝は加悦じゃないですか。知りませんでした。
おーちゃんが親しみを覚えると言われることに納得です。しかも蕪村は画家でもあり、襖絵や屏風絵も描いたんですね。
私は恥ずかしいことに蕪村は俳人としてしか知りませんでした。
毛馬の蕪村碑は、この閘門の近くにあるようです。ぜひ尋ねてみます。
住んでいる地域のことを知るのは面白いですね。
もっともっと大阪人も知らない所を探し歩いてみます。
閘門の画像、正面から撮りたかったのですが、正面からは全体が入らず、それ以上下がると川の上・・・。で、斜めから撮ったんですが、少しでも「毛」が入ってて良かったぁ、ですね(笑)
でも「こうもん」とひらがなで書くのは誤解されますよね。ここはやはり「閘門」と書かなきゃね。私はこの「こうもん」の字を見た時、思わず笑ってしまいました。
コメントが、poloさんと同時UPに近かったので(笑)
poloさんは何でもよう知ってはります。
パナマ運河は1917年完成ですか。閘門はそれより9年も早い!
新淀川の開削はアメリカだったかヨーロッパだったか、専門家を呼んでの大工事で、その後、旧淀川との水位の差で必要になったんでしょうか。明治は急速な文明開化を目指した時代だったということがよく分かります。
調査ですか?いえいえそんなに時間をかけていません。
ただ、以前から新淀川の開削については興味があったので、たまたま毛馬の閘門に行ってだいたいのことが分かったと言うことで、かなりの手抜きです。
国交省の淀川河川事務所は宣伝こそあまりしていませんが、知りたい人には積極的にPRしてくれるようです。