塩素は、食塩から苛性ソーダを造る際に、副産物として必然的にできる物で、苛性ソーダその物が化学工業には欠くべからざる物質で、大量に造られるため、塩素は極めて安価な物であります
このタダ同然の物質が、農薬をはじめカビ取り剤や消臭剤その他、名前を変え姿を変えて、私たちの日常生活の必需品としてさまざまな商品となって売りだされ、メーカーに多大な利益をもたらしてくれるのです。
消費者を欺くためには、便利さ、手軽さ、清潔などをことさら誇張する必要があり、これがコマーシャル代となってテレビ局にワンサと利益が転がり込む寸法となっています。企業にとって、これほどありがたい物質はないのです。
また、水道事業にとっては、国土の狭い日本の限られた少ない面積のなかで、コストを抑えて短時間で浄水処理を行うには、塩素処理に頼らざるを得ないのが実情で、環境の悪化に比例して、塩素の投入量を増やさざるを処理方法に依存している限り、危険を承知の上で、この方法を採り続けざるを得ないのです。
つまり、環境の改善なくして、塩素の量を減らすことができない仕組みになっているのです。このような状況下で塩素批判を展開することは大企業への挑戦であり、水道行政を預かるお上にかみつくことであって、これらを敵に回して成り立つ商売など存在するわけがなく、銭にもならない大企業の批判や、お上のコキオロシなど、圧力の掛かりかねない危険を冒してまで声高に叫ぶ人間は少ないのです。
「さわらぬ神にたたりなし」で、これが情報の一方通行やアンバランスを生み出す結果となり、有害であるという認識がないままに、商品を使用したり飲んだりする結果を生んでいるのです。映像を使って、毎日、繰り返し繰り返し流されるCMは、視覚を利用した一種の洗脳であって、そこに危険性を知らせる情報は一切ありません。
即効性に富んだ薬ほど副作用が強いのは周知のとおりです。頑固なカビや汚れが、いとも簡単に落ちたり、嫌な臭いが瞬間に消え、生命力の強い虫がコロリと昇天するのを見ると、まだ自然と共存し得た私たちの世代は、急に不安になります。
直感的にこれはヤバイとばかりに、多少の不便は覚悟のうえで昔とったキネズカで、子供に馬鹿にされながらも、親直伝の処方に切り換える知恵と余裕を持ち合わせています。
しかし、もの心が付いたときから簡単や便利に慣らされて育った世代は、危険だとか怖いなどという感覚は持ち合わせていません。そうした人間の弱さにピッタリとフィットするのが塩素なのです。
消費者がある限り、企業にとって、塩素はセッセと利益を運び続けてくれる打ち出の小槌という訳です。人類を始め、地球上のすべての生命は、自然と共存することで生態系のバランスを保ってきました。
自然との共存は、不便との共存であり、それゆえ、不便に耐えてこそ、全体の調和が保たれるのではないでしょうか。
自然との共存を放棄して経済を優先し、便利さを追い求めて走り続けてきた日本人が、今、塩素という化け物によって、その後遺症に悩まされるハメになったのです。そのことにすら気付かないでいると、私たち自身を含め、次の世代にまで災禍を広げる結果となることは、間違いありません。