ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

マイク・ケリー

2023-02-05 08:26:32 | drums

マイク・ケリー Michael Alexander "Mike" Kellie


【パート】
  ドラムス、パーカッション

【生没年月日】
  1947年3月24日~2018年1月18日(69歳没)

【出生地】
  イングランド バーミンガム

【経 歴】
  ザ・カンサスシティ・セヴン(1965~1966)
  V.I.P.'s(1967)
  アート(1967)
  スプーキー・トゥース(1967~1970)
  ボールズ(1970)
  スリー・マン・アーミー(1971)
  パリッシュ&ガーヴィッツ(1971~1972)
  フランプトンズ・キャメル(1972~1973)
  スプーキー・トゥース(1973~1974)
  ジ・オンリー・ワンズ(1976~1981)
  スプーキー・トゥース(1998~1999)
  スプーキー・トゥース(2004)
  ジ・オンリー・ワンズ(2007~2017)
  スプーキー・トゥース(2008~2009)
  ザ・ディストラクションズ(2012~  )
  The Granite Shore(2015~  )


 マイク・ケリーはイギリスのドラマーである。
 50年以上にわたるキャリアを誇り、主にスプーキー・トゥース、オンリー・ワンズのドラマーとして知られている。
 また多忙なセッション・ドラマーでもあり、ジョー・コッカー、トラフィック、ジョージ・ ハリスン、ピーター・フランプトン、モーリス・ギブ(ビージーズ)、ゲイリー・ライト、ジョニー・サンダース、ルーサー・グロヴナー、ジム・キャパルディ、パット・トラヴァース、アンディ・フレイザーなど数多くのミュージシャンをサポートしている。



 ケリーの生まれ育った家庭はとくに音楽好きというわけではなかったが、彼は子どもの頃からスネア・ドラムの代わりに石炭スカットルを叩いたりして、リズムを取ることに興味を持っていた。
 10代の頃、「セント・マイケルズ・ユース・クラブ・バンド」にドラマーとして参加。
 1965年にはバーミンガムの「カンサスシティ・セヴン」というバンドに加入。これがケリーのプロ・ミュージシャンとしてのキャリアのスタートである。
 その後、ソリハルの街にあったチューダー・グランジ・スポーツ・センターの「ザ・トラック」で演奏していた時に、ブライアン・”モンク"・フィンチに招かれ、バーミンガムで「パット・ウェイン & ザ・ビーチコンバース(Pat Wayne & The Beachcombers)」と演奏するようになったが、スティーヴ・ウインウッドの口添えで1967年初頭に「V.I.P's」へ参加する。
 「V.I.P's」は1967年4月にバンド名を「アート」と改めるが、1967年にゲイリー・ライト(vocals, keyboards)が加入したのをきっかけに、「スプーキー・トゥース」と名を替えた。当初のメンバーは、ゲイリー・ライト、マイク・ハリスン(vocals, keyboards)、ルーサー・グロヴナー(guitar)、グレッグ・リドリー(bass)、そしてケリーの5人である。
 スプーキー・トゥースはアメリカン・ロックへの接近を試みながら、ハード・ロックやサイケデリック・ロックの要素を吸収昇華させて活動を続ける。ケリーのタイトで重みのあるドラミングはスプーキー・トゥースのサウンドにマッチしており、バンドを支える重要な要素のひとつであった。
 しかしスプーキー・トゥースは1970年に解散。次第に高まってゆくメンバー間の大きな軋轢が解散に至る主な理由である。
 ただし解散間もない1970年の秋に、ハリソン、グロヴナー、ケリー、ジョン・ホウケン(keyboard 元ナッシュヴィル・ティーンズ~ルネッサンス)、スティーヴ・トンプソン(bass 元ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ)というラインナップで、ヨーロッパ・ツアーのためにだけいったん再結成し、ツアー後に改めて解散した。
 その後は「スリー・マン・アーミー」や「パリッシュ&ガーヴィッツ」を経て、1971年にピーター・フランプトンのソロ・アルバム『ウィンド・オブ・チェンジ』のレコーディングに参加したことがきっかけとなり、フランプトンのバンド「フランプトンズ・キャメル」の結成に加わった。



 スプーキー・トゥースは1972年に再結成したが、翌73年にドラマーのブライソン・グラハムが脱退したため、ケリーはフランプトンズ・キャメルを離れてグラハムの後任としてスプーキー・トゥースに復帰。
 同年秋には6枚目のアルバム『ウィットネス』のレコーディングに参加したが、この頃にはハリスンとライトの間でバンドの主導権を巡っての対立が生じており、それが原因となって1974年5月にスプーキー・トゥースから脱退した。
 この年ジョニー・アリディのバンドに加わり、夏のフランス・ツアーに同行。


 1976年、ピーター・ペレット、アラン・メア、ジョン・ペリーとともにパワー・ポップ系パンク・バンド「ジ・オンリー・ワンズ」を結成、1981年までニュー・ウェイヴ・シーンで活躍した。
 ケリーは1981年にオンリー・ワンズを脱退すると、音楽業界から離れてカナダのトロント北部の田園地帯に移り、そこで4年間を過ごした。この間ケリーはピアノを学び、曲を書くことに時間を費やした。
 ケリーは1985年にイギリスへ戻り、北ウェールズやスコットランドで農業を営む。


     


 1998年、ライトを除く4人のオリジナル・メンバー(ハリソン、グロヴナー、リドリー、ケリー)が結集してスプーキー・トゥースはまたも再結成し、25年ぶりにニュー・アルバム『Cross Purpose』を発表した。
 再結成ライヴは、2001年に『Live In Europe』としてリリースされている。
 2003年にグレッグ・リドリーが死去したが、2004年6月にハリソン、ライト、ケリーはジョーイ・アルブレヒト(guitar)とマイケル・ベッカー(bass)を加えて「スプーキー・トゥース」の名で活動を再開させ、ドイツでライヴを行った。このうち、ヴォルプスヴェーデとハンブルグでのライヴの模様はDVD『Nomad Poets』(2007年)に収められている。


 2007年、オンリー・ワンズ再結成に参加し、イギリス、ヨーロッパ、日本をツアーした。
 2008年2月、ハリソン、ライト、ケリーをフィーチャーしたスプーキー・トゥースが5度目の始動。Mr.ミスターのギタリストであるスティーヴ・ファリスと、シェム・フォン・シュローク(bass)を伴い、ヨーロッパでツアーを行った。
 2012年、ソロ・アルバムの制作を開始。『Music from The Hidden』というタイトルのこのアルバムは2014年にリリースされ、ケリーはドラムのほか、オルガン、ベース、アコースティック・ギター、パーカッション、リード・ヴォーカル、プロデュースを担当。レコーディングにはゴードン・ジャクソン (accoustic-guitar)、フィンリー・バーカー(guitar)、トニー・ケルシー(guitar)、スティーヴ・ウィンウッド(organ, mandolin, bass)、ビル・ハント(piano)、リーバイ・フレンチ(piano)、トニー・アリス(piano)、ロブ・ハリソン(bass)、スティーヴ・ギボンズ(backing-vocals)、グレッグ・プラット・レイク(guitar, vocals)が参加している。


 その後、病を得たケリーは、短い闘病期間を経て、2017年1月18日に69歳で死去した。




【ディスコグラフィ】
 
 <ソロ・アルバム>
  2014年 Music from The Hidden

 <スプーキー・トゥース>
  1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About
  1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two US44位
  1969年 セレモニー/Ceremony US92位 *with Pierre Henry
  1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff US84位
      *クレジットは「Spooky Tooth featuring Mike Harrisom」
  1971年 タバコ・ロード/Tabacco Road US152位
      *『イッツ・オール・アバウト』の「Too Much of Nothing」を「The Weight」に差し替えて再発
  1973年 ウィットネス/Witness US99位

 <参加アルバム>
  1971年 アンダー・オープン・スカイズ/Under Open Skies(ルーサー・グロヴナー)
  1971年 ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイヒールド・ボーイズ(トラフィック)US7位
  1972年 Oh How We Danced(ジム・キャパルディ)
  1972年 ウィンド・オブ・チェンジ/Wind of Change(ピーター・フランプトン)
                                    ほか


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グランド・ファンク・レイルロード

2023-02-04 16:06:21 | band

グランド・ファンク・レイルロード Grand Funk Railroad


活動期間
  ①1969年~1976年
  ②1980年~1983年
  ③1996年~



メンバー
 ①1969~1976
  マーク・ファーナー/Mark Farner(vocals, guitar)1948年9月29日生 ミシガン州フリント生まれ 在籍1969~1976

  メル・サッチャー/Mel Schacher(bass)1951年4月8日生 ミシガン州オワッソ生まれ 在籍1969~1976
  ドン・ブリューワー/Don Brewer(drums, vocals)1948年9月3日生 ミシガン州フリント生まれ 在籍1969~1976
  クレイグ・フロスト/Craig Frost(keyboards)1948年4月20日生 ミシガン州フリント生まれ 在籍1973~1976  

 ②1980~1983
  マーク・ファーナー/Mark Farner(vocals, guitar)
  デニス・ベリンジャー/Dennis Bellinger(bass)
  ドン・ブリューワー/Don Brewer(drums, vocals)

 ③1996~
  マーク・ファーナー/Mark Farner(vocals, guitar) 在籍1996~1999
  メル・サッチャー/Mel Schacher(bass) 在籍1996~
  ドン・ブリューワー/Don Brewer(drums, vocals) 在籍1996~
  ハワード・エディ・ジュニア/Howard Eddy Jr.(keyboards) 在籍1996~1999
  マックス・カール/Max Carl(vocals) 在籍2000~
  ブルース・キューリック/Bruce Kulick(guitars) 在籍2000~
  ティム・カーション/Tim Cashion(keyboards) 在籍2000~
  クレイグ・フロスト/Craig Frost(keyboards) 在籍2005~


     
  


 1970年代を席捲したアメリカのハード・ロック・バンド。
 デビュー当初からセンセーショナルな話題を振り撒き、大音量のハードなサウンドとパワフルな演奏でアメリカを代表するロック・バンドとして活躍した。
 1976年に解散するまで、RIAA認定プラチナ・アルバム6枚、同ゴールド・アルバム6枚を獲得。全盛期の1970年から1974年にかけては、ベスト・アルバムを除く8作(『クローサー・トゥ・ホーム』から『ハード・ロック野郎』まで)を連続して全米アルバム・チャートのトップ10に送り込んでいる。


 1965年夏、デトロイトのWJBK局のディスク・ジョッキーだったテリー・ナイトは、当時ベーシストのマーク・ファーナー、ドラマーのドン・ブリューワーらとともに、「テリー・ナイト&ザ・パック(Terry Knight and the Pack)」というバンドを結成した。ドンは、1960年代半ばに結成した「ジャズ・マスターズ」というバンドで活動しており、ジャズ・マスターズと並行しての加入であった。

 結成時のテリー・ナイト&ザ・パックのラインナップは、テリー・ナイト(vocals)、カート・ジョンソン(guitar)、マーク・ファーナー(bass, guitar)、ボビー・コールドウェル(organ)、ドン・ブリューワー(drums)である。
 当時のテリー・ナイト&ザ・パックはR&Bをベースとしたロックを演奏していた。
 彼らは1965年夏に地元デトロイトのマイナー・レーベル「ゴールデン・ワールド」からデビュー・シングル『Tears Comes Rolling』をリリース。1966年夏には「ラッキー・イレヴン」レーベルに移るが、それと前後してマーク・ファーナーがディック・ワグナー率いる「ザ・ボスメン」に参加するために脱退した。ファーナーの後任にハーマン・ジャクソン(bass)を加えたバンドは、ラッキー・イレヴンでは4枚のシングルと2枚のアルバムをリリース。このうちシングル『I(Who Have Nothing)』はベン・E・キングのヒット曲をカヴァーしたもので、1966年暮れから1967年初頭にかけて全米46位のスマッシュ・ヒットを記録している。


 1967年春、テリー・ナイトはバンドから離れ、ソロとして独立する。ドン・ブリューワーを始めとする残されたメンバーはバンド名を「ファビュラス・パック」と改め、ザ・ボスメンでは成功までに至らなかったマーク・ファーナーをギタリストとして呼び戻し、シングル『Harlem Shuffle』で再始動する。その後このバンドにはクレイグ・フロスト(keyboard)が加わる。
 しかし看板のテリー・ナイトを失ったファビュラス・パックの勢いは下降線をたどり、経済的な危機に立たされた。そこで形成を立て直すためファーナーとブリューワーはバンドを組む計画を立て、マネージャー兼プロデューサーとしてテリー・ナイトを招く。そして1968年暮れにメル・サッチャー(元クエスチョン・マーク & ミステリアンズ)をメンバーに加えた。
 このロック・トリオは「グランド・ファンク・レイルロード」と名付けられ、1969年5月1日にキャピトル・レコードと契約を交わした。
 ちなみに、バンド名はミシガンとカナダを結ぶアメリカの鉄道会社「Grand Trunk Western Railroad」をもじったものである。


 1969年7月4日、グランド・ファンク・レイルロード(以下GFR)はアトランタ・ポップ・フェスティヴァルに出演。
 まだレコード1枚すら出していない一介の無名バンドにすぎなかった彼らは、一説ではノー・ギャラで事実上のデビューであるこのステージに立ち、エネルギッシュで圧倒的なパフォーマンスを見せつけて12万5千人の大観衆の度肝を抜き、熱狂させた。
 センセーショナルなデビューを飾った彼らは、1969年7月にはシングル『タイム・マシーン』でレコード・デビューする。
 その後も、18万人を集めてダラスで行われたテキサス・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルへの出演をはじめ、各地のコンサートも軒並み成功させたGFRは、1969年10月18日に地元デトロイトのオリンピア・スタジアムで行われたレッド・ツェッペリンのアメリカ公演の前座を務める。この時GFRの大熱演を目の当たりにして興奮した聴衆はアンコールに次ぐアンコールを要求、そのあおりでメイン・アクトのレッド・ツェッペリンは大幅に予定時間を過ぎてもステージに上がることができなかった。この事件によってグランド・ファンクは「ツェッペリンを食った超大型新人バンド」として、ロック界では知らぬ者がない存在となった。


     


 GFRは、当時のロック界を覆っていたニュー・ロックの影響を受け、よりハードなサウンドを志向し、テリー・ナイトのプロデュースによって1969年8月にファースト・アルバム『グランド・ファンク・レイルロード登場』をリリースした。
 このアルバムからシングル・カットされた『ハートブレイカー』は、今ではハードロックの古典とされている。当時の日本では、グループ・サウンズの人気バンド「ザ・タイガース」がコンサートでレパートリーとして取り上げていた。また井上陽水がのちに大ヒットさせた『傘がない』は、彼が『ハートブレイカー』のコード進行を借りて書いたものである。そのほか、アニマルズの『孤独の叫び』をカヴァーしているが、ライヴにおけるヘヴィで荒々しい演奏が評判を呼び、この曲もGFRの看板のひとつとなった。
 破竹の快進撃を続けていた当時のGFRの魅力を余すところなくパッケージしたのが、1970年に発表された『ライヴ・アルバム』である。

 
 1970年代初頭のGFRの人気ぶりはアメリカのロック・バンドのなかでも群を抜いていた。以下のエピソードがそれを物語っている。
 1970年6月、サード・アルバム『クローサ-・トゥ・ホーム』のプロモーションのため、ニューヨークのタイムズ・スクエアに、2か月で100万ドル(3600万円)の掲示料を払って縦30メートル×横80メートルの巨大看板を設置して話題になる。
 1970年11月1日のロサンゼルスのアナハイム・コンベンション・ホールでのコンサートにパトカー350台が出動。
 1970年11月16日に売り出された、12月のマジソン・スクエア・ガーデンでのコンサート・チケット2万枚がわずか4時間で完売。
 GFRは1970年秋までの約1年間で4枚ものアルバムをリリースしているが、1970年のレコード・セールスは、トータルでなんと1000万枚にものぼった。
 ニューヨーク・デイリー・ニュース紙の人気投票で、GFRは1970年の「ベスト・ロック・グループ・イン・ザ・USA」に選ばれた。
 1971年7月9日、ニューヨークのシェア・スタジアムで行ったコンサートは、ワールド・シリーズ以上の熱狂を巻き起こしたと伝えられている。このコンサートの前売りは55,000人分のチケットがわずか72時間で売り切れ、興行収益は30万6000ドル(約1億2100万円)を記録したが、これは前人未踏と言われた1965年のビートルズのシェア・スタジアム・コンサートの記録(55,600人ぶんを3週間で完売、興行収益30万4000ドル)を大幅に塗り替えるものであった。


 1971年、1ヵ月にわたるヨーロッパ・ツアーのあと、7月に初来日を果たす。
 7月17日に後楽園球場で、7月18日に大阪球場でコンサートを行ったが、後楽園でのコンサートは雷を伴う激しい風雨の中で行なわれ、悪天候をものともしない彼らのパフォーマンスは4万人の大観衆を興奮の坩堝に叩き込んだ。このドラマチックな様子は半ば伝説と化しており、未だに語り継がれている。


 3人のエネルギッシュな演奏、ストレートでパワフルなロックンロールは、短期間で多くのロック・ファンの熱狂的な支持を得た。こうしてGFRはアメリカのトップ・バンドのひとつとして、あるいは全米屈指のライヴ・バンドとして、ロック・シーンに君臨することになったのである。
 ローリング・ストーン誌のデヴィッド・フリッケは「グランド・ファンク・レイルロードを語らずして1970年代のロックについて語ることはできない」という言葉を残している。


 順風満帆の活躍を続けていたGFRだが、1971年後半にはテリー・ナイトのマネジメント方針や金銭管理に対して不信感を募らせるようになる。1972年になるとついにGFR側はテリー・ナイトを解雇するとともに、正当な利益を受けていないことを理由に800万ドルの損害賠償請求を起こした。1972年3月、ジョン・L・イーストマン(リンダ・マッカートニーの兄)が代理人となる。4月には逆にテリー・ナイトがGFRのメンバーとイーストマン代理人を相手取り5500万ドルの損害賠償訴訟を起こし、結局ナイトが勝訴した。
 これを機にテリー・ナイトと決別したGFRは、1972年に自らが初めてプロデュースしたアルバム『不死鳥』を発表。なおこのアルバムからバンド名を「グランド・ファンク」と改めている。
 『不死鳥』はケイジャン・フィドルの名手ダグ・カーショウと、旧友のクレイグ・フロスト(Craig Frost Keyboard)をゲストに迎えており、以前に比べてややポップな音楽性を加味している。このアルバムからは『ロックンロール・ソウル』がシングル・カットされ、ヒットした。


 この頃GFRはバンドにキーボーディストを加えることを計画、一時はピーター・フランプトンがその候補に挙げられていたようだが、結局『不死鳥』にゲスト参加した旧知のキーボード・プレイヤー、クレイグ・フロストを1973年に正式メンバーとして迎えた。フロストの加入でバンドの音楽性の幅はさらに広がった。
 この年8月、異才トッド・ラングレンをプロデューサーに起用したアルバム『アメリカン・バンド』を発表。このアルバムはビルボード誌で全米2位、キャッシュ・ボックス誌で全米1位を記録している。また7月に先行リリースされたアルバムのタイトル曲は9月29日にビルボード誌で全米1位を獲得、ビルボード誌の年間チャートでも23位となる大ヒットを記録した。このアルバム・タイトルはそのままGFRの代名詞となったほか、のちにはアメリカのロック・バンドのライブで何度も演奏されている
 続いて1974年に発表したアルバム『輝くグランド・ファンク』では、1962年に全米1位を記録したリトル・エヴァの大ヒット曲『ロコモーション』(作詞作曲はジェリー・ゴーフィン & キャロル・キング)をカバーしてシングル・カットしたが、これがビルボード、キャッシュ・ボックスともに全米1位を獲得、1974年の年間チャートでは6位となるGFR最大のヒットとなった。


 1974年には「ラズベリーズ」「スリー・ドッグ・ナイト」「キッス」など多くのバンドを成功に導いたジミー・イエナーをプロデューサーに迎え、12月に『ハード・ロック野郎』を発表する。このアルバム・ジャケットはメンバーの顔と、以前からの友人であるふたりのボディビルダーの体を組み合わせた写真を使っているが、起用されたボディビルダーのうちひとりがのち俳優として成功するアーノルド・シュワルツェネッガーである。このアルバムはポップな感覚を打ち出し、『オー・ワンダフル』『バッド・タイム』の2曲のシングル・ヒットを生んだ。


 1975年、GFRは2枚組ライヴ・アルバム『グランド・ファンク・ツアー'75』を発表。
 キャピトル・レコードとGFRの契約は、あと2枚のアルバムをリリースするという内容であり、GFRはこのライヴ・アルバムがダブル・アルバムだったことから契約内容を満たしたと考えた。しかしキャピトル側はあくまで「新作を入れたアルバムでないと契約を果たしたことにはならない」として、両者は対立する。
 最終的には新作の入ったアルバム1枚で契約は果たされることで合意し、1976年にアルバム『驚異の暴走列車』を発表した。しかしこのアルバムはチャート最高47位と低迷、以後GFRの人気は下降線をたどることになるのである。


 『驚異の暴走列車』を最後にMCAに移籍したGFRは、フランク・ザッパのプロデュースで1976年に『熱い激突』を発表した。しかし当時のGFRはほぼ解散状態となっており、鬼才ザッパをもってしてもバンドの勢いは取り戻すことができなかった。
 アルバムのチャート最高は52位にとどまり、これをもってGFRは解散した。
 解散後、ファーナーはアトランティック・レコードと契約してソロ活動を開始、『不死身の勇者(1977年)、『No Frills(1978年)の2枚のアルバムを発表。
 ブリューワー、サッチャー、フロストの3人は「フリント(Flint)」を結成し、フランク・ザッパやトッド・ラングレンをゲストに迎えて1977年にアルバム『電撃を発表したが、セールスは振るわなかった。(ちなみにフリントはミシガン州の地名で、ブリューワーとマーク・ファーナーの出身地である)


     


 1980年になって、解散時のマネージャーであるアンディ・ガヴィリエールからの打診がきっかけとなり、1981年2月にファーナーとブリューワーがGFRを再結成。ベーシストは、当初はメル・サッチャーが参加する予定だったが、レコーディング直前に脱退したため、後任にデニス・ベリンジャーを加えてGFRを再結成。
 新たなグランド・ファンク・レイルロードは、『グランド・ファンク復活』(1981年)、『ホワッツ・ファンク?』(1983年)の2枚のアルバムを発表するが、いずれも評価は芳しくなかった。
 バンドはリック・ベイカー(keyboard)を加えて1981年と1982年にツアーを行ったが、アルバムのセールスが低迷していたこと、マネージャーのガヴィリエールが死亡したことによって、1983年に二度目の解散を余儀なくされた。
 その後ファーナーはソロに戻り、クリスチャンのレコーディング・アーティストとして活動。1995年にはリンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドの一員となった。
 ブリューワーは、フロストも在籍しているボブ・シーガーのシルヴァー・ブレット・バンドに参加。


 1995年後半からGFRの元メンバーたちは何度か集まり、リハーサルを行うようになった。そして1996年にオリジナル・メンバー(キーボーディスト/ギタリスト、バックグラウンド・ボーカリストのハワード・エディ・ジュニアがツアーに参加)で再々結成。1997年にはボスニア救済のためのコンサートに出演している。
 1998年後半、ファーナーはソロ活動のためにバンドから脱退。GFRは2年間活動を休止した後、残ったブリューワーとサッチャーはマックス・カール(lead-vocal 元38スペシャル)、ブルース・キューリック(guitar 元キッス)、ティム・カーション(keyboards 元ボブ・シーガー、元ロバート・パーマー)を加えて新しいラインナップを完成させた。
 2005年、GFRはミシガン・ロックンロール・レジェンド殿堂入り。この年クレイグ・フロストが復帰、ツイン・キーボード編成となる。
 2018年、メル・サッチャーのデナ夫人が癌のため死去したため、スタンリー・シェルドン (元ピーター・フランプトン))がサッチャーの代役を務めた。
 2019年、GFR50周年を記念して「アメリカン・バンド・ツアー2019」を行った。



【ディスコグラフィ】

 <アルバム> ☆=ライヴ・アルバム ★コンピレーション・アルバム
  1969年 グランド・ファンク・レイルロード登場/On Time (全米27位 日本44位 オーストラリア14位 カナダ34位)
  1969年 グランド・ファンク/Grand Funk(全米11位 日本26位 オーストラリア13位 カナダ9位)
  1970年 クローサー・トゥ・ホーム/Closer to Home(全米6位 日本30位 オーストラリア9位 カナダ5位)
 ☆1970年 ライヴ・アルバム/Live Album(全米5位 全英29位 日本10位 オーストラリア15位 カナダ5位)
  1971年 サバイバル/Survival(全米6位 日本7位 オーストラリア9位 カナダ5位)
  1971年 戦争をやめよう/E Pluribus Funk(全米5位 日本15位 オーストラリア11位 カナダ3位)
  1972年 不死鳥/Phoenix(全米7位 日本21位 オーストラリア13位 カナダ8位 ノルウェイ20位)
 ★1972年 ゴールデン・ディスク/Mark, Don & Mel:1969-71(全米17位)
  1973年 アメリカン・バンド/We're an American Band(全米2位 日本10位 オーストラリア27位 カナダ4位 ノルウェイ12位)
  1974年 輝くグランド・ファンク/Shinin' On(全米5位 日本24位 オーストラリア43位 カナダ2位 ノルウェイ10位)
  1974年 ハード・ロック野郎(世界の女は御用心)/All the Girls in the World Beware!!!(全米10位 日本38位 オーストラリア66位 カナダ20位)
 ☆1975年 グランド・ファンク・ツアー '75/Caught in the Act(全米21位 日本31位 カナダ33位)
  1976年 驚異の暴走列車/Born to Die(全米47位 日本35位 カナダ31位)
  1976年 熱い激突/Good Singin', Good Playin'(全米52位 カナダ48位)
  1981年 グランド・ファンク復活/Grand Funk Lives(全米149位)
  1983年 ホワッツ・ファンク?/What's Funk?
 ☆1997年 ボスニア/Bosnia
 ☆2002年 1971ライヴ/Live:The 1971 Tour

<シングル> 
  1969年 タイム・マシーン/Time Machine(全米48位 カナダ43位)
  1969年 ミスター・リムジン・ドライヴァー/Mr. Limousine Driver(全米97位 カナダ92位)
  1970年 ハートブレイカー/Heartbreaker(全米72位 カナダ58位)
  1970年 ナッシング・イズ・ザ・セイム/Nothing is the Same
  1970年 アイム・ユア・キャプテン(クローサー・トゥ・ホーム)/I'm Your Captain(Closer to Home)(全米22位 カナダ21位)
  1970年 ミーン・ミストリーター/Mean Mistreater(全米47位 カナダ30位)
  1971年 孤独の叫び/Inside Looking Out(全英40位)
  1971年 フィーリン・オールライト/Feelin' Alright(全米54位 カナダ20位)
  1971年 ギミー・シェルター/Gimme Shelter(全米61位 カナダ49位 ドイツ42位)
  1971年 戦争をやめよう/People, Let's Stop the War(全米105位)
  1972年 フットストンピン・ミュージック/Footstompin' Music(全米29位 カナダ43位 オーストラリア83位)
  1972年 アップセッター/Upsetter(全米73位 カナダ89位)
  1972年 ロックンロール・ソウル/Rock & Roll Soul(全米29位 カナダ37位)
  1973年 アメリカン・バンド/We're an American Band(全米1位 カナダ4位 オーストラリア87位)
  1973年 ウォーク・ライク・ア・マン/Walk Like a Man(全米19位 全英57位 カナダ16位 ドイツ10位 オーストラリア5位)
  1974年 ロコ・モーション/The Loco-Motion(全米1位 カナダ1位)
  1974年 シャイニン・オン/Shinin' On(全米11位 カナダ13位)
  1974年 オー・ワンダフル/Some Kind of Wonderful(全米3位 カナダ6位 オーストラリア39位)
  1975年 バッド・タイム/Bad Time(全米4位 カナダ3位)
  1975年 テイク・ミー/Take Me(全米53位 カナダ58位)
  1976年 サリー/Sally(全米69位 カナダ35位)
  1976年 Can You Do It(全米45位 カナダ75位)
  1977年 Just Could'nt Wait
  1981年 Y.O.U.(全米125位)
  1982年 Stuck in the Middle(全米108位)


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