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道徳を教科にすべきか

2013年07月14日 | 学校・教育

昨日TBS報道特集で「道徳を教科にすべきか?」というのを見た。

私は、子どもに思いやりのあるやさしい心を育てたいのなら教科にすべきではない、と思う。
今でも授業は毎週1回はされているし、行事や日々の生活の中で実践されている。
(時間的にも精神的にも余裕のない中で)指導しなければいけないその内容は多岐にわたっている。
  こちらを参照してください→  道徳内容項目
教科にしたとしても心は育たないし、かえって心は疲れていくのではないだろうか。(教師も子どもも)

道徳の研究授業の様子を取材していた。
中学年。友だちから送られてきた絵はがきの料金が不足していた。もらってうれしかったけど、相手のために料金が不足だったことを教えてあげるか、それともお礼だけにするか・・・みたいな話だったと思う。
これは「友情・信頼」の授業らしい。

くわしいことは分からないけど、答えは「相手のことを考えさえすればどっちでもいい」だと思う。
教えてあげた方が今後困らないだろうけど、もし言ったら友だちが気を悪くするかも知れない。
本当の友情は?・・・みたいなことなのだろうが、どっちでもいい。「相手による」でいい。
大事なのは「相手の身になって考えてみる」ということ。そして、「どっちでもいいんだ」と思うこと。
もし教えてあげて相手が気を悪くしたら謝ればいい。言い方によって気持ちがうまく伝わらないことはある。失敗しながら成長するもんだ。お互い様だ。

一人ひとりちがっていて当たり前だし、いろんな考えがあっていい。
「~しなければならない」「~してはいけない」と教えるのではなく、
大事なのは「~したらどうなるのか」「なぜ~したらいけないのか」「なぜ~したほうがいいのか」と考えさせること。そして、まちがっても失敗しても直していけばいい、お互い様なんだということ。

授業はこういうことを考えさせる一つの経験にはなるかもしれないが、学校の道徳だけでは不十分だ。
しかも、これを教科にすれば、子どもは「正解」を覚え、教師はそれを「評価」しなくてはいけない。
これではやさしい心は育たない。つまり、「評価」自体がやさしくない行為なのだ。
道徳に「正解」はない。道徳は「知識」ではない。
(プラス、教具づくりに指導案、こんな大変な準備が必要な授業が超多忙な中で日常的にできるのか?)

弱肉強食の競争社会であるかぎり、自己責任だと弱者を切り捨て排除する社会であるかぎり、お金お金とお金に頼り切りお金を儲けるために時間も心も余裕のない社会であるかぎり、やさしさのない社会であるかぎり、いじめはなくなることはないだろう。子どもは、大人がつくったいじめ社会の中で育っている、苦しみながら・・・。

子どものさびしさ、つらさに寄り添う時間や精神的余裕こそが、家庭や学校や社会に必要なんだと思う。
(現代の家庭や学校にそれがあるか?)

大丈夫、君はひとりぼっちなんかじゃないよ。何にも悪くないよ。ちがってていいんだよ。みんな平等なんだ。押しつけられることはない。自由なんだ。そのままでいい。みんなで助け合えばいいんだ。お互い様じゃないか。間違ってもいいさ。うまくいかなくてもいい。すべてがいい経験だよ。大丈夫。ひとりじゃないから・・・・・

「強い日本」なんかを“取り戻す”のでははなく
      「やさしい社会」「子どもたちの明るい笑顔」を“創って”いかなければ
                                          人類の未来は・・・。


こちらのサイトも共感します→ 「道徳の教科化は道徳教育の劣化を招く」
                    「そもそも道徳の授業が行われてないことが問題なのか」

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