方法論

2009-04-29 | Weblog
食うために働くっていうけど、もし本当に食うためにだったら死んでもいいと思う。
だってこの場合、食うためってのは生命活動を維持するだけって意味でしょ。
もちろん何をするにもそこは通過するからその先があるなら、とりあえず食うために働くってなるのは当然。10人が10人その先がなければならないよ。その先がないなら死んでもいい。べつに死ななくてもいいけど、死んだほうがよくない?
じゃないと「なんで人間は生きるの?」とのよくある問いに「死ぬのが怖いからだよ」と8年ほど前に誰かが提示した理由が真実になってしまうもの(全くの的外れではないのだけど)。
簡単に言うと「生きるということは目的なのか手段なのか」ってことで、当然、至極当然に手段だろ。
なにかをやるために生きてるわけであって、生きるためになにかをするなんて一次元低い話で、それって人間のやることじゃないだろ。
例えば「この一冊を読むために生きていた。ほんでもう読んじゃったからもういいや、ばいなら」って自殺した人がいたとしたら、全然馬鹿らしいとも悲しいとも思わないです。
たまに話聞くけど、休日をどう過ごしていいか分からないってもう危なすぎる状況なんだよな。なんで生きてるの?ってことになるじゃん。
目的が無くて死ぬのも悪くないし目的を見つけようとして生きるのも悪くないしもちろん目的のために生きるのもありなんだけど、目的が生きることになって生きているというのだけはなによりも、本当になによりも悲惨なことだと思います。
もはや種の繁栄もしくは子孫を残すなんてことは単なる結果であって目的でも本能でもなんでもないんだよね。人間ってすでにそれより一次元高いとこにいるの。
生きることが目的か手段か。動物との線引きはまさにそこでなされるわけで、線より向こうは動物で線よりこっちは人間で。
人間の形してればみんな線のこっちにいるのかと思ってたけどそうではない。動物でこっち側にいるのは見たことないけど。
うん、だから人間で向こうにいる人は向こうにいたほうがいいの。だって向こうにいるべき物体が人間の形をしているというだけでこっち側にカウントされると歪みが生じるわけ。だって意味分からないから分類できないからおかしな扱いになるんだよ。
道にいる蛙、それを人間と同じように扱えと言っているのと同じなのよ。なにかとおかしくなるでしょ。選挙権は与えなきゃならないし税金の督促しないといけないし婚姻届出されたら認めなきゃならないし踏まれたら起訴せにゃならん。
その存在も認識もこんなにはっきり理解されないわけだから、人間とも言えない蛙とも言えない、しかしそこにたしかにいるという、それこそ妖怪というレッテルを貼られるかもしれない。
公共の安楽死施設できたらどれだけ繁盛することやら。繁盛するということは生きることを手段とできず目的にしかできないという、そしてそれを認識できているということは、こっち側、つまり人間が多いという事態だから。
問題はまったく繁盛しないとき。もちろん社会が潤いに潤ってみんな目的を有して、手段として生きているなら、それは目指す状況ではあるけれど、現実的には「人間の形をした向こう側にいる生物」が増えたとするほうが可能性は高い。
「生きていればなんかいいことあるさ」っていう本当の最低値な目的でもいいんだけど、もしそれもなければ死にましょう。
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