そのレポートはどこに

2018-03-19 | Weblog

”被害者にも非がある”


みたいな意見があります。



こーゆーときは、分けて考えないとって思うんです。


まず「被害者にも非がある」と思ったり言ったり発信したりすること。
もちろんこれは自由です。

それに対して賛成、反対、好き、嫌い 大いに結構。
両者大いに結構。
結構というか、普通。


「お前が悪い」と手紙を送りつけたりするのは法律や条例に反するのかな?
SNSに書きこんだり(これは違反ではないでしょうさすがに)

どうなんでしょう。


なにかに違反したらそれは「悪いこと」としていいでしょう。
それしか手はないとも言えます。


ちょっと逸れますが、しかし犯罪を「悪いからやめよう」っていうスタンスで啓蒙してゆくより「いまの社会では割に合わないからやめよう」のほうが真理(?)な気がします。

物事に良い悪いなんてそもそもないすからね。
そこを突かれるとアレですもん。
あなたにとって良い悪いしかないからそのほうが胸にズキュンきません?



厳罰化が犯罪の減少につながるか議論はなかなか白熱事項でありますが(ものによって効果があったりなかったりされてますかいまのところ)。


これは死刑賛否にもつながりますが、それって答えが出ない問題で”議論をしつづける”しかなくて、でもぶっちゃけ死刑なんて特殊事項でありまして、議論の時間 費用 労力の分配をもうちょい考えたほうがいいかなと

一番インパクトあるからついついですけどね”死刑””賛否”は。

分かりやすさって蜜の味。



さて、つまり、とりあえず被害者に対して、向けて何を言おうと自由です。


違反してなければ何してもいいのかとなりますが、何してもいいんです。

あとは社会的制裁、まぁ、つまり嫌われるというのがありますからそことのバランスでしょう、本人の。


で、問題にすべき、というか議論すべきは裁判官がこのことを考えたときすよ。

「前例からだと7年だけど、被害者にも非があるので本件は5年トスル」

といった場合は大いに紛糾したらいいと思います。


ちなみにまったく分からないですが、被害者、原告に非があるか、どれくらいあるかとかって実際に量刑を決める要素となり得るんすかね?

うーん、あるような、ないような。

被告人、被告が何したかのみを見て決めるのがスジな気もしますが。
どちらかというと被害者には非がない派になりますねこれだと。

平等の定義の問題にもかかってきますな。

意外と当たり前に考慮されてたり?


挑発とは?にもなります。

「おいこらダサ坊、殴れるもんなら殴ってみろよ。お? お? テメーの母ちゃんデベソ」って言われて殴ったときどうなんだというわけです。


情状酌量の余地にその辺が入ってくるのか。
(なぜデベソと知っているかは人類最大の謎として残るでしょう。いや、それが殴った本当の理由になるかもしれません。壮大!)



あとはよくあるのがスケベな(と言われる)格好してたり、なんか二人きりで酒飲んだり云々かんぬんのときに被害者責任問題が出ますが、これも同じです。


被害者にも非があると考えるのは自由で、裁判官がそれを考慮したときにそれが駄目なら問題にすればいいしそれを考慮すべきだと思えばその問題に対してその立場で答えていけばいいわけです。

で、ここで一番、というかそれなりに大事だなと思うことを述べると


・起きたことは無かったことにならない

・経験したことはたとえ外傷は消えても心から消えない


ということがあり得るということ。


つまりそのもので言うと”起きたら終わり”に近い部分もあるわけです。


これも”罰”とは?みたいな定義系になりますが、そこに被害者救済の意味があるのか、そもそも被害者救済になるのかということです。


お金の損失、比較的軽微な被害は例えば損失分補填+αと相手の人権制限が行われればスッキリするかもしれませんが、重めのやつが起きたとき100億円貰えてさらに好きなだけ拷問できて殺せてもスッキリしないということもあるでしょう(することもあるでしょう)


その時じゃあどうするか?


どうしようもない が答えとして近い。


そもそも別問題だからです。

時間は戻らない。
その一点。


前進するためには埋没コストの考えかたが必要ですよね。


起きてしまった。
それはもう起きたんだ。
これからベストの行動をしていくしかない。
被害に遭った状態をゼロスタートと考えられるかということです。
(当たり前のこと、普通だと思ってたことが幸せだったんだ とゆーような信仰はツラさの増幅になりますよ)



だからね起きないようにするのが大事になっていきます。

そんなことみんな分かってます。

あ、だからそこが量刑として考慮されるのかな?と疑問にもなる私はしごく自然人であります。



”この電信柱からあの電信柱までの道を女性が歩いたら3%で痴漢に遭う”というデータが取れたとして(サンプル数は納得できるものと仮定しときましょう)


そのときに



「この道を歩くな」
「いや、なぜ気を使わないといけないんだ。痴漢を取り締まれ、痴漢を出ないようにしろ」


こういうことがあるわけで。



痴漢に遭う



痴漢を取り締まる、痴漢が出ないようにする


を分けて考えないといけないんです。


取り締まりは当たり前(たぶん)として、街灯つけて交番立てちゃえば3%の確率は絶対に下がるでしょう。

ほんで5mおきにガードマン立てときゃいいんすよ。

0%になるかもね。

結局は費用の問題だったりします。
(それが意思決定のすべてだったりもします。あとは時間の有限性)








とりあえず現状そういう道があって、でも


・通りたい

・痴漢には合いたくない

・回り道すると3万円かかるとする(考えやすいようにこういう要素も入れときましょう)



さぁ、どうしましょう。



迂回時間&3万円と3%の闘い


そこに「件の通りにおいて痴漢にあった人の格好リスト」みたいなのが研究所から発表されたらきっと見るよね。

見事に全員がニーハイ履いてたらどうですか?


1人だけニーハイ履いてて痴漢に合わなかった人がいたらどうですか?
(こいつが犯人だ!って思うもしれませんね)


年齢に偏りがあったり、時間だったりその他共通傾向があったり。
なにかが読み取れるかもしれません。


ただし傾向であっても今夜はそいつの気が変わってパイスラ狙いかもしれないし熊みたいな男狙いになってるかもしれないとなりますわな。


そもそもデータの信憑性、虚偽はないが恣意的であったり、そしてそしてデータから何かしらを読み解くのって難しいですからね。


そして「確率」への考え方


有名な話ですがコイントスで同じ面が1000回続いたときも次にその面が出る確率は1/2なはず。
はずじゃなくて1/2です。
(トスり方とコインがちゃんとしてるときな)


確率に流れがあるか否か


そういう話にもなっていきます。




で、やっぱりその道を行こうと

そして残念ながら痴漢にあった。



さて、という話です。



おっぱい

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