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小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

歎異抄 親鸞

2013-09-13 00:15:12 | 古典
原竊回愚案、粗勘古今、歎異先師口伝之真信、思有後学相続之疑惑、幸不依有縁知識者、争
得入易行一門哉。全以自見之覚悟、莫乱他力之宗旨。仍、故親鸞聖人御物語之趣、所留耳
底、聊注之。偏為散同心行者之不審也云々
ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学
相続の疑惑有ることを思ふに、幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入る
ことを得んや。まつたく自見の覚悟をもって他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人
の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜ
んがためなりと云々。
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとお
もいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願
には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩
熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要に
あらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほど
の悪なきがゆえにと云々
二 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こ
ころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生の
みちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべら
んは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられ
てそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にお
きては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ず
るほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、
地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にす
かされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、
自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこ
そ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、と
ても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべか
らず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことなら
ば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもっ
て、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このう
えは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお
往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の
意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあい
だ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれ
ば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるる
ことあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他
力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪
人はと、おおせそうらいき。
四 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐく
むなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲という
は、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべ
きなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲
始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
五 親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆ
えは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に
仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を
回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきな
りと云々
六 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほか
の子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏を
もうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏
もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればとも
ない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれ
ば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わ
がものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のこと
わりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
七 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬
伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなき
ゆえに、無碍の一道なりと云々
八 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれた
るゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
九 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまい
りたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそ
う らいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれ
ば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定と
おもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。し
かるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、
かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へ
いそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそ
くおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそう
ろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へは
まいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけて
こそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、い
そぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々
十 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。そ
もそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信を
ひ とつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そ
のひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずをしらずおわしますなかに、上人のおお
せにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。い
われなき条々の子細のこと。
十一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、
また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひ
らかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわ
く べきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまい
て、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願
の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来の御は
からいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、
実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も
具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのは
からいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願
の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行
になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城
胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。こ
れすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。
十二 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義とい
いつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏にな
る。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひと
は、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教
の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらん
ひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、
聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往
生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。当時、専修念仏のひとと、聖道門のひ
と、 諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいで
きたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。たとい諸
門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわ
ずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわり
て信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法に
てまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つ
とめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば、御さま
たげあるべからずとて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。かつは、
「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」よしの証文そうろうにこそ。故聖
人のおおせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたま
いたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけ
りとしられそうろう。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。あやまって、そしる
ひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼ
えそうらいぬべけれ。かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて
信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことを
もうすなり」とこそそうらいしか。いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問
答むねとせんとかまえられそうろうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広
大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本
願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわ
め。たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといい
おどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやま
って、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわ
れむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々
十三 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生
かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきここ
ろ のおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえな
り。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずと
いうことなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、
おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがう
まじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「た
とえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おお
せに てはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、
もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにて
しるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すな
わちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わが
こころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべ
し」と、 おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしと
おもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。そ
のかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばと
て、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなること
のきこ えそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて
そうろうは、かの邪執をやめんがためなり。まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。
「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」と。かかるあさま
しき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。さればとて、身にそなえざらん
悪業は、よもつくられそうらわじものを。また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわた
るものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠を
つくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいも
すべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏も
うすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へい
る べからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだ
けるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしき
ことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。
『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがた
しとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信
心も決定しぬべきことにてそうらえ。おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんの
みぞ、願にほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のため
には、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不
浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願
ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。
十四 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪五逆の罪人、日ご
ろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫の
つみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは、十悪五逆の
軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるとこ
ろにおよばず。そのゆえは、弥陀の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起するとき、金
剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚のくらいにおさめしめたまいて、命終すれば、もろもろ
の煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき
罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことご
とく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと
信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、
一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきん
まで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のこと
にもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあい
だのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨
の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏もうさずしておわると
も、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期
のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわ
め。つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、
他力の信心なきにてそうろうなり。
十五 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそ
うろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所
説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚
は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の
法なり。おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真
言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともに
なしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものなら
ば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一
味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。この身をもってさとりをひ
らくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも
具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。『和
讃』にいわく「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死を
へだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざ
れば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしる
を、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗には、今生に本願を
信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらい
しか。
十六 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口
論をもしては、かならず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。一向専修のひと
においては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしら
ざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、
もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。一切の事
に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるい
きをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいの
ちつきなば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。くちには願力をたのみた
てまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さ
すがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみ
まいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。信心
さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべか
らず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍
辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずし
て、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば
念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち
他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとそ
うろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。
十七 辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文に
みえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさまし
くそうらえ。経論聖教をば、いかようにみなされてそうろうやらん。信心かけたる行者は、本願を
うたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこ
そ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろう
を、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうな
れ。
十八 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可
説なり、不可説なり。比興のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろ
うや。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてそうろうも、それは方便報身のかたちなり。法
性のさとりをひらいて、長短方円のかたちにもあらず、青黄赤白黒のいろをもはなれなば、な
にをもってか大小をさだむべきや。念仏もうすに化仏をみたてまつるということのそうろうなるこ
そ、「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」(大集経意)といえるが、もしこのことわりなん
どにばし、ひきかけられそうろうやらん。かつはまた檀波羅蜜の行ともいいつべし。いかにたか
らものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙半銭も、仏法
のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。
すべて仏法にことをよせて世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや。
右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人
の御とき、御弟子そのかずおおかりけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおわしけるに
こそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のことそうらいけり。そのゆえは、「善信が信心
も、聖人の御信心もひとつなり」とおおせのそうらいければ、勢観房、念仏房なんどもうす御同
朋達、もってのほかにあらそいたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつに
はあるべきぞ」とそうらいければ、「聖人の御智慧才覚ひろくおわしますに、一ならんともうさば
こそ、ひがごとならめ。往生の信心においては、まったくことなることなし、ただひとつなり」と御
返答ありけれども、なお、「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の
御まえにて、自他の是非をさだむべきにて、この子細をもうしあげければ、法然聖人のおおせ
には、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせた
まいたる信心なり。されば、ただひとつなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいら
んずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」とおおせそうらいしかば、当時の一向専修の
ひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともそうろうらんとおぼえそうろう。いず
れもいずれもくりごとにてそうらえども、かきつけそうろうなり。露命わずかに枯草の身にかかり
てそうろうほどにこそ、あいともなわしめたまうひとびとの御不審をもうけたまわり、聖人のおお
せのそうらいしおもむきをも、もうしきかせまいらせそうらえども、閉眼ののちは、さこそしどけ
なきことどもにてそうらわんずらめと、なげき存じそうらいて、かくのごとくの義ども、おおせられ
あいそうろうひとびとにも、いいまよわされなんどせらるることのそうらわんときは、故聖人の御
こころにあいかないて御もちいそうろう御聖教どもを、よくよく御らんそうろうべし。おおよそ聖教
には、真実権仮ともにあいまじわりそうろうなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもち
いるこそ、聖人の御本意にてそうらえ。かまえてかまえて聖教をみみだらせたまうまじくそうろ
う。大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせ
てそうろうなり。聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえ
に親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとお
ぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、善導
の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、
出離の縁あることなき身としれ」(散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。され
ば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来
の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。まこと
に如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。
聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御ここ
ろによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしと
おぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火
宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念
仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。まことに、われもひともそらごとを
のみもうしあいそうろうなかに、ひとついたましきことのそうろうなり。そのゆえは、念仏もうすに
ついて、信心のおもむきをも、たがいに問答し、ひとにもいいきかするとき、ひとのくちをふさ
ぎ、相論をたたかいかたんがために、まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうすこ
と、あさましく、なげき存じそうろうなり。このむねを、よくよくおもいとき、こころえらるべきことに
そうろうなり。これさらにわたくしのことばにあらずといえども、経釈のゆくじもしらず、法文の浅
深をこころえわけたることもそうらわねば、さだめておかしきことにてこそそうらわめども、 古親
鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいでまいらせて、
かきつけそうろうなり。かなしきかなや、さいわいに念仏しながら、直に報土にうまれずして、辺
地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでを
そめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。後鳥羽院御宇、法然
聖人他力本願念仏宗を興行す。于時、興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中狼藉子細あるよし、無
実風聞によりて罪科に処せらるる人数事。
一 法然聖人並御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり。聖人は土佐国番
田という所へ流罪、罪名藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。
親鸞は越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。
 円房備後国、澄西禅光房伯耆国、好覚房伊豆国、行空法本房佐渡国、幸西成覚房・善恵
房二人、同遠流にさだまる。しかるに無動寺之善題大僧正、これを申しあずかると云々遠流之
人々已上八人なりと云々
被行死罪人々。
親鸞改僧儀賜俗名、仍非僧非俗。然間以禿字為姓被経奏問畢。彼御申状、于今外記庁納
云々

現代語訳