世の中驚くことばかり! 記事保管倉庫

右も左もあるものか
僕らが見るのは常に上

公共圏?

2008-09-30 | 世の中のこと
「食料自給率40%」の虚構さえ見抜けぬマスメディアの不勉強【野口悠紀雄コラム】
2008年9月29日 DIAMOND ON LINE


 ジャーナリストがメディアについて語るとき、しばしば持ち出すのが「公共圏」という概念だ。これは、個人の私的な領域を超えた共通の関心事項について、言論や意見がゆきかう社会的な共通空間のことだ(ドイツの哲学者J.ハーバーマスが提唱した概念。西欧の初期市民社会において、コーヒーハウス、カフェやサロン、あるいは読書会などを介して、「文芸的公共圏」が形成された。それが、公権力批判機能を持つ新聞や雑誌、あるいは政治的結社などの「政治的公共圏」に発展した、とされる)。

 大メディアにいる人たちが言うには、新聞やテレビは公共圏として重要な責務を負っており、マスメディアの役割は「公衆の番犬」(国家を監視する機能)だ(彼らがこう言うとき、「インターネットは公共圏ではない」という暗黙の了解があるように思われる。なお、この点はもう一度取り上げる)。
 確かに、公共圏の存在と維持は、重要なことだ。そして、プロのジャーナリストの大きな役割が「公衆の番犬」であることも間違いない。
 しかし、そのことと、いまの日本の報道機関が現実にその役割を果たしているかどうかは、別問題である。
 とくに経済政策について、日本の巨大メディアが番犬機能を果たしているとは、到底思えない。むしろ、政府のプロパガンダの伝達役でしかないことが多い。政府の宣伝文句に何の疑いも持たず、受け売りで報道している。これでは、番犬とはいえない。このことこそが問題だと、私は思う。
「間違いだらけの政策報道」というようなキャッチフレーズを私は使いたくないのだが、経済政策に関して通常報道されていることが「間違いだらけ」なのは、事実だ。これは、「週刊ダイヤモンド」の連載「超整理日記」で何度も述べていることなのだが、いまいちど簡単にまとめておけば、つぎのとおりだ。

(1)食料自給率の引上げが必要?
 まず、通常使われる「カロリーベース自給率」という指標に問題がある(「自給率が40%を下回った」というのは、この指標で見た場合である)。たとえば、鶏卵の96%は国内で生産されるが、飼料を輸入しているために自給率は5%とカウントされている(食生活情報サービスセンターのウェブサイトにある「食料自給率とは何ですか」を参照のこと)。生産額ベースでの日本の自給率は、現在70%程度である。
 自給率の引上げだけが目的なら、パン食をやめて米だけを食べ、飼料を国産すればよい。しかし、そうすれば、食生活は貧しくなり、肉や牛乳のコストは著しく上がる。自給率が低いのは、日本人が豊かな食生活を実現している証拠である。
 穀物価格の高騰が続くと、「食べものが手に入らなくなる」と脅す人がいる。しかし、現在の主要な穀物輸出国では、自由主義経済体制の下で農民がコマーシャルベースで生産を行なっている。だから、仮に輸出国の政府が戦略的輸出制限を長期にわたって続ければ、困るのは輸出国の農民である。
「自給率引上げが必要」というプロパガンダは、米をはじめとする一部の農産物に対する非常識なほど高い関税率を正当化する社会的雰囲気を作るためのものなのに、日本の消費者はまんまとだまされている。

(2)出生率の引上げが必要?

「子供が多い社会が望ましい」ことは疑いないが、「出生率を高めることで高齢化社会の経済的問題を解決できる」というのは、イリュージョンに過ぎない。
 まず、出生率を政策的に引き上げるのは、難しい。仮にできても、20年間程度は、依存人口の増加という問題に悩まされる。つまり、経済的に見れば、問題はむしろ悪化する。
 人口が減少してゆく社会にあわせて経済社会制度を見直すことこそ重要だ。なかでも焦眉の急は、年金・医療制度などの社会保障制度の再設計である。また、税負担の年齢別構造を変えること(高齢者の負担を増やす方向での改革を行なうこと)も必要だ。

(3)貯蓄から投資へ?

 まず、経済学的に言えば、貯蓄は必ず投資になるのだから、そもそも奇妙なスローガンだ。
「銀行預金をやめて株式を買え」という意味なら、1960年代に言われた「銀行よさようなら、証券よこんにちわ」と同じことだ。そのときの結末は証券不況だった。今回、このスローガンに乗せられて株を買ったりFX投資をしたりした人は、株価暴落と円高によって手ひどい損失を被ったことだろう(このスローガンの本当の目的は、銀行保有株式放出の引き受け手を作ることだろうと思われる)。
 本来必要なのは、一般の投資家が安心して株式や投資信託を購入できる市場を整備することだ。それを怠って「リスクをとれ」とけしかけるくらいなら、国営カジノを開設するほうがましである。

(4)「改革路線」からの後退が日本衰退の原因?

 小泉内閣が追求したのは、「改革路線」だと、何の疑いもなく信じている人が多い。しかし、財政投融資制度の改革は小泉内閣以前になされており、郵便貯金などを資金運用部で預託する制度は廃止されることになっていた(財務省のウェブサイトにある「財政投融資制度の抜本的改革に係る議論の整理」を参照のこと)。だから、郵政民営化が何のためのものだったのかは、いまだにはっきりしない。
 日本にとって本当に必要な「構造改革」は、高度成長期の産業構造から脱却することだ。しかし、小泉内閣は、超金融緩和と為替の大規模介入で円安を実現し、古い産業構造を温存した。
 以上で述べたスローガンは、1行で表現されている。しかし、それに対する反論は1行ではできない。だから、テレビで反論するのは、不可能だ(テレビでは、1つのテーマについて、長くとも1分以内のコメントしかできない。普通は10秒程度である)。地上波テレビでは、多様な意見の共存は、もともと不可能なのである。しかし、新聞なら、原理的にはできる。それにもかかわらず紙面に多様な意見が出てこないのは(後で述べる「1940年体制的」な体質もあるが)、勉強不足のためだとしか言いようがない。

否定されている競争の思想

「公共圏にただ1つの見解しかない」状況は異常であり、さまざまな多様な意見や見方が存在することこそ正常だ。そして、発言権は、本来は、競争条件の中で獲得してゆくものだ。つまり、公共圏が公共圏になるために必要なのは、競争条件の導入である。
 そのためには、最低限、つぎの2つの条件が満たされなければならない。第1は参入障壁がないこと、第2は価格が自由に変動することである。
 では、新聞やテレビに代表される既存のマスメディアは、これらの条件を満たしているだろうか。いずれに関しても、「No」と考えざるをえない。第一に、参入規制は著しく高い。テレビについては、地上波であるためにチャネル数が技術的要因で著しく制約されており、典型的な規制産業になっている。
 新聞についてこのような技術的制約はないが、寡占状態だ。実は、新聞に関する現在の日本の体制は、戦時中の「一県一紙主義」で多数の地方紙が整理統合された上に築かれたもので、戦時体制の権化ともいえる存在である(日本の全国紙の発行部数が異常に多いのはそのためだ)。大新聞の記者や論説委員は、戦時体制の遺産の上にあぐらをかいているのである(私はこうした体制を「1940年体制」と呼んでいる)。記者クラブなどのインプット面での特権はしばしば指摘されるが、それだけでなく、アウトプット面でも特権的な立場にいるのである。
 価格競争については、再販制によって排除されている。そして、日本のマスメディアは、その自由化に強固に反対している。
 要するに、現在の日本のマスメディアでは、競争思想は否定されている。「競争する公共圏」という発想はない。
 インターネットに否定的な立場をとるのも、この延長線上だ。インターネット空間は、制御のきかないアナーキー的な競争が支配する場だと考えている人が、マスメディアには多い。だから、積極的にインターネットに対抗するものとしてのメディアの構築が必要と考えられている。
 誤解のないように付言しておくが、私は、インターネットに簡単に公共圏が構築できるとは考えていない。なぜなら、「自由な市場」とか「競争社会」とは、「何をやっても自由な社会」ではないからだ。市場経済は、強いルールの下でしか機能しない。たとえば、「インサイダー取引の禁止」というのは、大変重要なルールだ。これが守られないと市場経済は機能しない。
 ところが、インターネットにルールを確立するのは、きわめて困難だ。とりわけ問題なのは、匿名での発言が可能であるため、無責任な批判や誹謗が横行しやすいことだ。だから、インターネットに果たして公共圏を形成しうるかさえ、定かではない。この問題については、機会を改めて論じたい。
・・・・・・・・・・
まず、言論というのは経済ではないと言うこと。

言論世界と言うのは経済市場ではない。

経済市場は全てが終わった後でしか正解は理解されない。

いや、全てが終わっても「着手されなかった正解」は評価されない可能性さえある。

しかし、言論とは、全てが終わる以前に、どちらが正当であるか判断できる。少なくとも賢明な読者には。

ゆえに限りなくルールが弱い方が良いのだ。

広告費を出す企業や印刷費を出すカルトや広告代理店などに言論を左右されてはならないのだ。

できるだけあらゆる意見が閲覧でき、その中から正解を選択できる状況こそが望ましい。

まぁ、私の読者の皆様ほどのレベルになれば、それぞれご自分で正解を構築できるわけですけど、それでも他者の意見を総覧できるのは好ましいはず。

つまり、既に「公共圏」と言えるのはテレビでも新聞でも無い。

一部の雑誌とWeb世界だ。

最も、この記事もWeb世界に存在してたわけですけどね。

ん。

釣られて見ますた。


最新の画像もっと見る