愚者は経験から学ぶ。智者は歴史から学ぶ。賢者は歴史とは何かを考える。
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みなさんは「何でも鑑定団」御存知ですか?
骨董品を持ち寄って、値段をつけてもらう番組。
すごい美術品だ、と持ち主が思ってたのに、とんだニセモノだったり。
あれを見てると、いかに、この世にニセモノが多いかわかりますね。
特に中国のニセモノは、年季が入ってます。
画も書も、素晴らしい作品を“模写”するのは、あたりまえ。(ここまでは西洋美術でもあります)
それに落款や署名もつけちゃう。もちろん、ニセモノ . . . 本文を読む
第2次大戦について、個々の事象を個別的に論じると、それこそ100人100様、異なった視点と認識があり、またお馴染みの善悪問題も発生してしまう。
既に書いていますが、歴史事象に善悪はないのです。
歴史学は、善悪を論じる学問ではない。大きな歴史の流れのなかで、特定の時代を解釈するのに都合の良い(良さそうな)歴史観を確立し、それに従って叙述する。
叙述されたものが“書かれた”歴史。
ゆえに書かれた結果の . . . 本文を読む
さて、当ブログの
歴史とは-海彦様へのお答え-
歴史観について(1)~(3)
をお読みの皆様に、もっと突っ込んだ問題についてお話しましょう。
それは
歴史はどのような意味をもつのか?という問題です。
もちろん、このお話は、海彦様のご質問から生まれたものです。
海彦様、本当にありがとうございます。
全ての学問、科学には“根本的な問い”があります。
存在とは何か? 物理学
人間とは何か? . . . 本文を読む
今回のお題は、海彦様に戴きました。
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こんにちは、鮎川龍人さん。
海彦と申します。
小林よしのり的BBSで貴投稿を拝見しました。
>本来、歴史観とは、個人個人が独自なものを持っていて良いのです。厳正中立な歴史観など存在しませんから、教科書問題など、学問的に . . . 本文を読む
現今、歴史観について論じられる時、最も注意されるのは、“善悪”についてである。しかし歴史に善悪はあるのだろうか?Aという国民からすれば善であっても、Bという国民からは悪であるかも知れない。Cという民族からすれば悪であっても、Dという民族から見れば善であるかも知れない。Eという個人から見て善であっても、Fという個人からは悪であるかも知れない。それは、多くの場合、善悪の評価基準が損得という基準と混在し . . . 本文を読む
現在の様々な外交的問題で論じられる“歴史観”のおかしさは、全ての議論が歴史観の多様性を無視したものであるからです。個人個人が異なった歴史観を持っていて良い、ということは、同じ一人の研究者でも、新しい資料が出現したらば、それに合わせて別の歴史観を持っても良い、ということです。つまり、マルクス史観の研究者が、日本の歴史を研究して、マルクス史観で説明し難いと思ったら、別の歴史観で説明すれば良いし、それが . . . 本文を読む
教科書問題、靖国問題、チベット問題を始め、様々な場所で議論される“歴史観”とはなんでしょう。実は多くの場合、誤用がまかり通っている言葉です。歴史学は本来は高度に個別具体的な学問ですから、歴史観というものは、個人個人で、全く異なっていて良いのです。Aという歴史観が正しくて、Bという歴史観が間違っているとかいうのは、学問的には無意味な考え方です。例えば、abcdeという歴史的事象を説明するのに、Aとい . . . 本文を読む