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「砲火の中に」塔の瞳

2010-06-20 | Weblog

 「砲火の中に」、反共も反転でもない・・・



塔の目つきに記憶される映画、「砲火の中に」

「砲火の中に」の戦争スペクタクルは一本のアクション映画を見ることのように息忙しい。
気が抜けるくらいに派手で 甚だしく はたまには美しくまで感じられる。

何の考えもなく見ていれば その派手な映像の迫力の中に落ちこむほどだ。
しかし そのスペクタクルが何を言っているかを考えて見れば 少し息苦しくなる。
多くの人々が 映画封切りの前から はみだした東海を日本海で表記した問題や、特定集団の資本が入って行ったという話によって この映画が反共映画であることという憂慮をしかし、実はそうではない。
この映画は 反共映画ではない。


この映画が 反共映画ではない理由は当然だ。
商業映画だからだ。
70年代でもなくて・・・2010年度に 反共映画は大衆が共感しないという点で商品性がない。
それで主人公 張犯(塔)が 死んで行って 「オモニ」と叫ぶ幼い北朝鮮兵士を初め  確認射殺してからは ‘彼らも怪獣ではなかった’言う場面は 少しはとんでもなく見える。 

反共を主唱した時期は 前後の仕事であって、戦争がちょうど起った当代の仕事ではないからだ。
だからこの場面は 商業映画として 反共においを無くそうとする必死のあがきに過ぎない。


しかし 反共映画ではないということが反戦映画という話ではない。

初盤部 誰が誰だか 分からない位に 急きまくる戦闘シーンと 洛東江戦線に投入されると、浦項に 学徒兵を 置いて行ってしまう講釈台大尉(キム・スンウ)。
そして 勝つことのためなら なんでもするような人民軍 776袋を導く薄霧と(チャ・スンウォン)。
これらはどちらの便だと言うよりは 皆戦争という状況の中に投げられた ただ争わなければならないし 勝つと生き残るおっつかっつな存在たちのように描かれる。

ひとしきり戦闘の薬味の中身と言う中で 幾多の死を経験して生き残った 張犯(塔)のぼんやりした顔と、新しく来た学徒兵たちを 張犯の手に任せたまま立ち去って講釈台大尉(キム・スンス)が 「君たちは 軍人かないか」を問う初盤部の場面は それでこの映画がまるで反戦映画のような印象を投げてくれる。


しかし 国軍が立ち去って 浦項に残った学徒兵たちは不思議なことに このはかない大人たちの戦争の中で 自らを自家発展させて 祖国のために身投げをする。
映画後半部に張犯(塔)が 「私たちは 軍人なのか?」を先唱するように質問して、他の学徒兵たちが 「軍人だ!」と宣言する場面から、ほとんど超人のように 鉄砲を撃って 張犯とガブゾ(クォン・サンウ) 先後で まるでゲームのように どんどん倒れてしまう北朝鮮兵士らの姿は アクション映画の一場面を彷彿させる.それでこの映画の論調はこんなに変わる.どうして争わなければならないか知れないが,祖国という命題の前では結局その命令に従わなければならない。
戦争は悲劇的だが、それでも仕方ないという話。


この易しく現われる映画のアイデンティティにもかかわらず、感性的に映画に落ちこむようにすることは むしろ張犯を演技する塔の目つきだ。
何らの話をしなくても 彼の恐ろしさと純粋さと強靭、そして悲しみが交差するその目つきは 多くのことを話してくれる。
映画を見ている途中 もし涙が出たらそれは映画が構えておいた派手な映像のためでもなくて、粗悪だが 続続的に入れた母性愛的な観点のためでもない。
それは むしろこのすべての状況を諦めるように受け入れている 塔の悲しい目つきのためだ。


そして 皮肉としか言いようがなくもこの塔の目つきは この映画とこの映画が放映される 2010年度の私たちの青年たちの目つきに似ている。
まるでどうしてするのか 英文も分からなかったまま戦地に出てから死を迎えた学徒兵たちのように、相変らずこんな国家のメッセージの中に投げられたままそのけんかに点綴された大人たちの世の中に相変らず編入されるのを強要受けなければならない青年たちの悲しい。
それで 映画終わりに一歩遅れて帰って来た講釈台大尉が張犯(塔)を抱いて 「すまない」と言う場面は 多方面に意味深長だ。

大人たちの戦争の中に 無惨に動員された学徒兵に対するすまないこと。
あるいはそれでも相変らず変わらない大人たちの視覚に対するすまない。
塔の悲しい目つきが痛い余韻を残すのはそのためだ。


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